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日本人だけど日本のここが嫌い in ダメ板 3

1 :抑圧移譲:2016/09/21(水) 18:14:28.58 ID:bLlTF67I.net
引き続き鬱陶しい人間や社会について語りましょう。

351 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/18(火) 20:33:19.84 ID:uoiqDDkS.net
それでも人種差別や直接暴行受けるより俺は日本の方がまだ治安はマシだと思う(国民は低レベル)。
決してそれを誇りに感じてはいないけど、

たとえそれが虚偽や欺瞞に満ち溢れたものだったとしても
夜に外出出来るほど安全ではある

352 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/18(火) 20:34:59.46 ID:lJZBXXUY.net
>>341
知能の個体差、自己主張の強さ、残虐性の違い、
宗教感、学歴事情、罪と恥、経済身分格差、


敗戦国と先勝国。

353 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/18(火) 21:23:12.32 ID:MoVsfLlz.net
>>346-349
どちらか一方(生まれる性別は本人の意思では選べないのに)を卑しむやり方は個人的には一寸・・・
それより国家を男女で分けた方がな。
「女性専用国家」

354 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/19(水) 01:20:11.55 ID:sOJS91rD.net
本当にこの国は民族の誇りとか尊厳とかそういうのが皆無だな
病的な個人主義で財を成して経済に貢献出来れば
売国奴にも国破壊者にでも何にでもなって良いという理屈
外国人に対してはただアレルギーだから関わらないってだけ
国民総精神病

355 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/19(水) 11:00:05.35 ID:sOJS91rD.net
世の中が完全に勝ち組媚び媚びの空気になってるからな
負け組が一念発起して這い上がって来ると
今度はそっちにも媚びる用意をしなくてはならない
だから めんどくさいから落ちたままでいろと
開き直ってるのが世の中の皆様

356 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/19(水) 11:50:22.55 ID:CMaI1wg8.net
まあ、一長一短だとしても総合的に見たら先進国基準からはもちろん人類標準の認識や発想からも悪い意味でかけ離れてて
中にいる人間が思う以上にまずい状況なのかなとは思う
しかもちょっと指摘されれば脊髄反射的にキレたり文化だ伝統だの一点張り
歴史振り返っても外から学ぼうとしてた時は色々問題抱えつつも伸びて落ちていった時はその逆だから今はまさに落ち目なんだろうな

357 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/19(水) 12:23:20.34 ID:pnYmI7ph.net
22 :名無しさんの主張:04/10/11 00:36:21
集団主義社会では自我の完成というものを求めてなどいないということ。
云うならば・・・頼りない個人の集まりが集団主義社会ということ。

99 :名無しさんの主張:04/10/11 19:57:35
場の理論は「タテ社会の人間関係」
個の在り方は「甘えの構造」とかねw

102 :名無しさんの主張:04/10/11 20:18:59
>>99
「タテ社会の人間関係」(著者:中根千枝・講談社現代新書)
「甘えの構造」(著者:土井健朗・弘文堂)

どちらも日本人学者の著した不朽の名著で日本人論の定番中の定番ですぞ。

108 :名無しさんの主張:04/10/11 20:53:09
そこの「甘えの構造」には「自分がない」と書かれているぞい。

64 :名無しさんの主張:2005/12/05(月) 00:05:56
「個人主義≠利己主義」
利己主義は集団の利益を無視する考え
個人主義は集団より個人の利益を優先するという考え

集団主義社会の教育…「自我=エゴイズム」でそれをを抑える教育
個人主義社会の教育…「自我=アイデンティティ」でそれを育てる教育

358 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/19(水) 12:24:35.89 ID:pnYmI7ph.net
日本人にとっての自我の設計図

第1のポイントは、日本人のこれまでの自我観は全く幼稚でお粗末なものであったと言わざるを得ないということです。
「自我」といえば「わがまま」のことと同一視している人すらいる有様です。
この同一視観によれば、「自我が強い」ということは「わがままだ」、「エゴイストだ」ということになってしまうのです。
また、文学批評家の福田恒存は、『日本および日本人』というエッセイの中で、
「私たちの祖先は、死や病と同様に、我を、エゴイズムをこのうえない醜いものとして退けてきた」と指摘しています。
だが、このような薄っぺらな思想は教育上も非常に良くないと思う。
というのは、文部科学省等日本の教育行政の関係当局が、例えば日本の教育方針を策定するにあたって、
「子供に生きる力を付けさせることが必要だ」というようなテーゼを唱えています。
日本の子供や若者に、自律的主体的に自分の生き方を模索し行動していく能力が
ひ弱であるように感じられるため、そのようなテーゼが唱えられているのでしょう。
しかし自我が欠如した「生きる力」というものを我々は本当に想定することができるのでありましょうか。
むしろ、「生きる力」とはある意味において「自我」そのものなのではないでしょうか。
このため、「自我」を否定するところに「生きる力」の育成はとうてい考えられないのではないでしょうか。


第2のポイントは、第1のポイントとも関連することですが、自我を否定したり
嫌悪したりすることが、欲望の否定にもつながっているということです。
欲望を否定するところに人間の成長は無く、人生におけるのびやかなエネルルギーの発揮もありません。
現在の日本の産業経済の停滞や株式市場における低迷の背後には、
現在の日本人のこういった本質が関係しているのではないでしょうか。
また、加藤典洋氏は、自身の著書『日本の無思想』の中で、
「公共性は私利私欲の上に築かれうるばかりでなく、近代にあっては公共性が私利私欲の上にしか築かれない」
ということを指摘しています。
そうだとすると、私たち日本人は真の公共性をこの日本の社会の上に樹立するためにも、
私利私欲と自我の望ましいあり方を真正面から探究しなければならないのではないでしょうか。

359 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/19(水) 12:25:37.99 ID:pnYmI7ph.net
第3のポイントは、その人間がその社会の中でどんな自我を形成しうるかは、その社会の中で個体としての
人間が、社会とどんな関わり方が可能となっているかということと深く関連しているということです。
平たく言えば、「人間は自分一人で自我を形成することはできない」ということです。
だから、人間のより良い自我のあり方を設計するということは、社会のより良い
あり方、公共性のより良いあり方を構想することも相伴う必要があるのです。


第4のポイントは、人間のより良い自我のあり方を設計するということは、
「善」をどういうものとしてとらえるかということと無関係ではありえないということです。
なぜかというと、「善」とはひとつの状態を指すのではなく、能動的な行動力によって支えられるものだからです。
実際、能動的な行動力が何も無い人間が善人であるということは考えられないことです。
確かに日本語の世界では「善人」というと、「人畜無害な穏やかな人」というような意味に
使われることもありますが、本来の「善」とは、能動的な行動力によって支えられるものです。
そして、人間がどんな形にせよ能動的な行動力を持つということは、自我なしにはあり得ないことなのです。
ということは、人間が「善」を探究するときには、自我は不可欠の要件であるということが言えるのです。


第5のポイントは、人間のより良い自我のあり方の設計と、「演技」あるいは
「表現」という概念との関係をきちんと考察しなければならないということです。
日本人にとっては、「演技」という言葉は残念ながら取って付けたような外来語の域をいくらも出ていないのですね。
日本語の「表現」という言葉も、日本語の体系の中ではしっくりとした落ち着きを持っていないような気がするのです。
私の考えでは、「演技」することも「表現」することも、人間が
人間らしく人格をもって生きるということと密接に関係しているのです。
音楽家の才能とは、自己の音楽家としての人格を自律的に育てていく力のことであるといってもよいでしょう。
従って、もし日本において「自我」が否定されるべきものであるとすると、
日本は音楽家の才能をつぶすような社会であるということになりかねないのです。

360 :名無しさん@毎日が日曜日:2016/10/19(水) 12:27:42.22 ID:pnYmI7ph.net
121 :名無しさんの主張:04/10/11 21:49:47
山岸俊男先生 (社会心理学者)テーマ:「社会の行方」と題し、信頼と社会に関する講演。

・「信頼社会」と「安心社会」について
(1).一般に、アメリカ人は個人主義でワガママ。日本人は集団主義で和を重んじるとされる。
このことから、「お人よし度」は、アメリカ人より日本人の方が高いと思うかも知れない。

(2).しかし、実験の結果、アメリカ人の方が他人を信頼する心が強い(お人よしが多い)ことがわかった。

(3).この結果が導き出されたのは、一般論が間違っているからではない。
日本では「信頼」と「安心」の区別がついておらず、「安心」のことを「信頼」だと考えているからである。
日本は、「信頼社会」ではなく「安心社会」なのだ。

(4).「安心社会」とは、「同じ価値観の者同士が共同体を作ることにより、安心を得る社会」のこと。
共同体の中の者は信頼できるが、共同体の外の人間は「渡る世間のオニ」であり、信頼できない。

(5).「安心社会」では、人間は同じ共同体の人間から信頼される行動をとらないと、共同体から追放されて酷いめにあう。
このリスクがあるため、同じ共同体の中の人間は「安全な人」となり、「安心」することができる。
これはあくまで「安心」であり、「信頼」ではない。

(6).しかし、世の中のグローバル化(アメリカ化)により、「共同体にとどまるリスク」が増大。
「安心」が崩壊しつつある(終身雇用の崩壊等)

(7).こういったアメリカ的な世の中では、共同体の外にいる人間を信頼するに
値するか見極める能力、すなわち「お人よし能力」が重要となっていく。

127 :名無しさんの主張:04/10/11 22:51:45
>>121
欧米の集団=たすけ合い→共同→共存→協調…信頼
日本の集団=もたれ合い→合同→依存→融合…安心

こうなりますか。

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