2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレ

1 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 11:35:40.05 ID:+yEydTvv.net
三國志シリーズで新武将を作成する際に、参考になるように人物を評価・紹介していくスレ

※「人物名」はもとより、「どんな人物なのか」という説明はなるべく書いてください
  統率などの能力値の記載は自由
  紹介する範囲は史実、創作を問いませんが、三國志関連(せめて中国史)に限定してください
  最近のシリーズで登場が干され気味の人物も可


例:

馬元義 バゲンギ (?−184年)

統率:60 武力:40 知力:70 政治:60

黄巾党の大方。洛陽に往来し、中常時の封諝、徐奉らを内応させ決起を準備するが、
張角の弟子の唐周に密告され車裂きの刑になった。


↑こんな感じで

2 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 11:43:57.75 ID:qZo+1SRq.net
いいスレつくったな

3 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 11:55:41.59 ID:+yEydTvv.net
劉基 敬輿 リュウキ ケイヨ (184年? - 232年?)

劉繇の長子。父と孫策は敵対関係であったが、父の死後に招かれ孫策、
孫権の二代にわたって仕える。孫権からは特に厚遇された。容姿が端麗であったという。


>>2
三國志系の新武将スレが落ちてたので13に備えて建ててみました

4 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 12:33:11.07 ID:V/7jc+yq.net
王越 (生没年不詳)

桓帝・霊帝の時代の虎賁(皇帝直属の近衛士官)。剣術の名手として名高かった。
弟子の史阿は曹丕に剣術を指南している。

統率:62 武力:89 知力:36 政治:28

5 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 15:33:40.32 ID:m8K9MT+x.net
新規も既存もどちらもありで良い気もするな
過大過小スレが腐ってるし

6 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 16:05:53.37 ID:+yEydTvv.net
夏侯蘭 カコウラン (生没年不詳)

統率:40 武力:61 知力:55 政治:68

常山郡の人。趙雲とは若い頃から親交があった。博望坡の戦いで夏侯惇の配下として戦うが、
敗れて捕えられる。夏侯蘭は法律に明るい人物だと趙雲が劉備に推薦したため、以後は軍正として劉備に仕えた。
しかしその後、趙雲は立場を考慮し自ら近づくことはなかったという。


>>5
既存のレギュラー武将に説明や紹介は不要だし、能力値の話なら過大過小スレがふさわしいと思う

7 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 17:33:09.94 ID:Md3MkGjr.net
過大過小スレは「正史の能力値査定スレ」を分離した方がいい

8 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 18:13:46.82 ID:V/7jc+yq.net
童淵 ドウエン

字は雄付。荊州襄陽出身。槍の達人で、蓬莱槍神散人の異名を取った。張繍、張任、趙雲が三大弟子とされる。
出典は元曲(元代に流行した雑劇と散曲)。貂蝉、周倉、関索らと同じく、三国志演義成立より前に
民間で語り継がれる「物語としての三国志」の中で生まれた人物だが、彼らと違って演義には採用されなかった。
中国では近年ブラウザゲームなど影響で急速に人気・知名度が高まっているらしい。

統率:53 武力:87 知力:58 政治:21

9 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 20:25:28.54 ID:+yEydTvv.net
高寿 コウジュ (生没年不詳)

統率:65 武力:79 知力:42 政治:22

孫韶配下の将。黄武四年(225年)、曹丕は先年に引き続き十万を率いて出兵し広陵に侵入したが、
河川の凍結のため船が使えず撤退を開始した。高寿は孫韶の命で決死隊五百名を率いて曹丕の帰路を奇襲し、
皇帝の副車と羽蓋を奪う戦果を上げた。

10 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2015/12/14(月) 13:13:03.57 ID:bqx6xF/M.net
俺も

11 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2015/12/14(月) 18:50:27.20 ID:7mOuVBGO.net
管承 カンショウ (生没年不詳)

長広県の人。袁譚から官位を授かり、三千余家を率いて郡を荒らしまわった。
建安四年ごろ(199年)に太守に赴任した何夔に説得され帰順する。
その後、反乱したのか、建安十一年(206年)に曹操の討伐を受け、楽進・李典に敗れ海上の島に逃れる。
翌年には東莱郡に派遣された張郃によって討伐された。

12 :名無し曰く、:2015/12/14(月) 23:09:27.72 ID:qoQTsm8m.net
チンシュ

13 :名無し曰く、:2015/12/15(火) 18:59:43.68 ID:5o7foASR.net
陳表が見いだした施明とかこのスレに向いてそう

14 :名無し曰く、:2015/12/15(火) 19:06:00.35 ID:UQQqm6/F.net
そう思うなら書けよ、野次馬かよ、と

15 :名無し曰く、:2015/12/15(火) 19:21:05.65 ID:5o7foASR.net
>>14
あるとき官物の盗難事件があり、兵士の一人であった施明に疑いがかかった。施明は強情な男で、拷問を受けても口を割ろうとしなかった。
孫権は陳表が兵士たちの心をつかんでいることから、施明を陳表に預けたところ、陳表は施明を手厚く待遇し、それに感激した施明は自分の罪を認め、共謀者たちの名を自白した。
孫権は陳表の手柄を喜び、また陳表が施明を騙したことにならぬよう、施明の罪を許しそれ以外の共謀者を処刑した。
施明はこれ以後行動を改めるようになり、後にはその勇猛さで将軍の位まで昇って活躍した。

コピペ

16 :名無し曰く、:2015/12/15(火) 20:33:05.97 ID:TmNjyNBW.net
張奕(ちょうえき)

呉末期の武将。
辺境の地である交州を守っていた身分の低い武将で、
呉の重臣であった楼玄が孫皓の怒りを買って交州に流された際、
楼玄は張奕の指揮下に入って賊討伐に従事し、一方で張奕は
楼玄暗殺の密命を受けていた。

しかし、楼玄の節度ある態度に心打たれた張奕は楼玄を殺す事が
出来ず、張奕が急死した後に楼玄は密命を知って自害した。

江表伝の記述では同じく楼玄の暗殺に躊躇するが、楼玄は張奕の生前に
密命を知り、張奕が持っていた自らを毒殺する為の薬を飲んで自害する
という結末となる。

統率:56武力:64知力:37政治:25魅力:61

17 :名無し曰く、:2015/12/15(火) 21:13:46.36 ID:AqE4aYnA.net
吉太 称平 キッタイ ショウヘイ (? - 200年?)

演義の登場人物。洛陽の人。人々から吉平と呼ばれる後漢の名医。
董承の病を治すため献帝より差し向けられる。董承の寝言から曹操への害意を察すると暗殺計画に賛同する。
翌日、曹操の頭痛のため呼び出すと毒薬を隠し持って赴く。
しかし事前に計画が露見していたため捕えられ、拷問を受ける。最後は黙秘を貫いて自害した。
正史では太医令・吉本として登場。218年に許昌で乱を起こすも鎮圧された。

18 :名無し曰く、:2015/12/15(火) 21:52:01.56 ID:XFlsI1Vm.net
盧遜 ロソン (?−263年)

統率:69 武力:54 知力:66 政治:30

三国志演義に登場する南鄭関を守備する蜀漢の将。
魏の鍾会率いる蜀征伐軍の動きを早々に察知し、
関の前の木橋の左右に兵を潜ませ、連弩で魏の先鋒の許儀を撃退する。
逃げ戻った許儀の報告で、鍾会が数百騎を率いて攻め寄せてくると、
盧遜は連弩の一斉射撃で後退させ、五百の軍勢を率いて追撃する。
鍾会は逃げようとするが、橋のくぼみに馬の蹄がはまり込んで動けなくなり、
馬を棄て徒歩で橋を駆け下りようとした所に盧遜は追いつき槍で突こうとする。
その時、魏兵の中にいた荀ガイが放った矢が盧遜に命中して落馬、死亡する。

19 :名無し曰く、:2015/12/16(水) 21:49:08.58 ID:V1UytPcI.net
張羨 チョウセン (生没年不詳)

南陽郡の人。零陵郡や桂陽郡の県長や長沙太守を務め人心を得たが、強情な性格を劉表から疎まれた。
198年、配下の桓階の進言に従い長沙、零陵、桂陽郡を率いて劉表に反旗を翻す。
劉表は連年囲むが落とせなかった。張羨が病死すると子の張懌が継いだが、建安5年(200年)に敗れた。

20 :名無し曰く、:2015/12/17(木) 15:44:35.20 ID:iR1Ig71T.net
いいね、このスレ
俺も昔、273〜280年あたりの呉と晋の人物を片っ端から登録したの思い出した

21 :名無し曰く、:2015/12/17(木) 21:20:37.20 ID:siB5jBKl.net
全緒 ゼンショ  (生年208〜213年? 没年252〜257年?)

全jの長子。若くして名を知られ鎮北将軍などに就く。
芍陂の戦いで魏軍を退け、東関の役で丁奉と謀り、魏を破るなど活躍した。享年四十四歳。


全氏 ゼンシ (生年242年頃? 没年301〜302年)

全尚の娘。従祖母の孫魯班に気に入られ、孫権への謁見時は常に伴に連れられた。
孫権の寵が潘夫人に向くと孫魯育の薦めで孫亮の夫人となる。孫亮即位後は皇后に引き上げられた。
太平3年(258年)、孫綝暗殺計画が露見したため、孫亮が廃立されると候官に住んだ。
密告者は全夫人とも全尚の妻(孫綝の姉)とも言われる。
呉が平定されると帰郷し、永寧年間(301〜302)に死去した。名は「恵解」か。

22 :名無し曰く、:2015/12/17(木) 23:58:03.93 ID:BirX0tx8.net
馬斉 承伯 バセイ ショウハク
統率:45 武力:30 知力:61 政治:65 魅力65

巴西郡ロウ中県の人。
張飛の功曹であったが、張飛によって劉備に推薦される。
郷里の人の信頼こそ姚チュウに及ばなかったが、心映えが良く、
自らの能力で出世し、諸葛亮死後に尚書に任命された。


馬勲 盛衡 バクン セイコウ
統率:44 武力:31 知力:62 政治:63 魅力66

巴西郡ロウ中県の人。
益州の書佐であったが、劉備が蜀を平定すると左将軍属に任命される。
郷里の人の信頼こそ姚チュウに及ばなかったが、心映えが良く、
自らの能力で出世し、後に州の別駕従事に転任した。

23 :名無し曰く、:2015/12/18(金) 23:00:32.50 ID:SrGgKGA3.net
祖郎 ソロウ  (生没年不詳)

丹陽郡陵陽の人。県を根拠地とした宗教指導者。
孫堅死後、呉景の元にいた孫策は祖郎討伐を準備するが、その襲撃を察知し先手を打って攻撃をかける。
その際に、孫策を単騎にまで追い詰めるも程普に阻まれ、最終的に孫策軍に敗走した。
建安二年(197年)、孫策が袁術と絶縁すると、袁術は祖郎や山越などに印綬を送り孫策を攻撃させようとする。
しかし、先に討伐に出た孫策軍と戦い、敗れて捕虜となる。
以後は許され配下となり、軍の帰還の際には太史慈とともに軍の先導役を務めた。

24 :名無し曰く、:2015/12/19(土) 18:19:14.19 ID:2H3s2bBw.net
楊宗 ヨウソウ(?〜280年)

蜀の武将
蜀滅亡時に羅憲が永安城にて呉の侵攻を防いだ際に羅憲の配下
として呉の包囲を突破して魏の陳騫の元へと援軍を求めるのに成功した。

後に晋に仕えて安蛮護軍となり、266年には巴東の南浦に侵攻した呉軍の
撃退に成功し、その功で名目ながらも武陵太守に任じられて南浦に駐屯し、
現地の蛮族を上手くまとめ上げた。

統率:71武力:67知力:70政治:62魅力:70

段灼 ダンシャク (生没年不詳)

魏・晋の臣。字は休然。
敦煌の出身で、当初はケ艾の部下であった。

後に議郎となり、267年に皇帝司馬炎に対して反逆者扱いで殺害されたケ艾の
名誉回復を嘆願し、273年にケ艾の名誉回復が叶って孫のケ朗が取り立てられた。

統率:37武力:35知力:72政治:58魅力:65

25 :名無し曰く、:2015/12/19(土) 22:28:53.11 ID:SV/BQtsz.net
>>24
たしか楊宗はアル中の人だっけ

26 :名無し曰く、:2015/12/20(日) 21:13:36.15 ID:D8WvEjmE.net
麹演 キクエン (?〜220年)

統率:65 武力:63 知力:42 政治:43

涼州西平郡の人。215年5月、金城の蒋石と共に勢力の弱った韓遂を斬り、首を曹操に送る。
当時の涼州は、西平を含む四郡が郡全体で反乱を起こし互いに争っており、麹演もその首領一人だった。
(後に降伏したか)220年に曹操が死ぬと再び反乱を起こすが、蘇則によって即座に討伐され降伏した。
後にさらに反乱を起こし張掖、酒泉郡や蛮族も呼応したが、カク昭らを率いる蘇則の素早い攻勢に怯え、軍勢を連れて出迎えた。
麹演はこの機に蘇則を陥れようとしたが逆に誅殺された。

27 :名無し曰く、:2015/12/21(月) 23:16:40.43 ID:76oBnkUh.net
柳毅 リュウキ (生没年不詳)

公孫度の吏。初平元年(190年)、公孫度は遼東に勢力を拡大すると寵臣の柳毅と陽儀に自らの野心を語った。
建安十年(205年)、袁譚を斬った曹操は、張遼を派遣し海浜を征討させた。この時、柳毅は張遼に討伐された。
張遼の討伐した地域や柳毅の所在は不明だが、公孫度の手勢が東莱郡を攻め落とした時期があるのでそのあたりだろうか。


張敞 チョウショウ (生没年不詳)

公孫康の配下。204〜220年の間、公孫康は屯有県の南の荒地に帯方郡を設置した。
張敞は公孫模と共に派遣され、その地の漢系移民を結集し韓やワイを討伐した。
その結果、他の移住民も少しずつ戻り、倭や韓は帯方郡に属するようになった。

28 :名無し曰く、:2015/12/21(月) 23:18:43.23 ID:76oBnkUh.net
宿舒 シュクジョ  (生没年不詳)

公孫淵の配下の校尉。太和六年(232年)、呉が遼東の名馬を求め周賀らを派遣すると、
宿舒や孫綜らは公孫淵の命で貂や名馬を持ち周賀に同行し呉へと向かう。
途中の田豫の待ち伏せで周賀が討たれたが、宿舒らは無事に辿り着き、孫権に謁見して呉の藩国になりたいと申し出、名馬などを献上した。
喜んだ孫権は太常の張弥らを使者に一万の兵を連れさせ、宿舒らを帰還させた。
公孫淵がこの呉兵や財宝を得ようとすると、兵士は実際には七、八千人程度だと報告した。


王建 オウケン (?〜238年)

燕の相国。景初二年(238年)、公孫淵は司馬懿の討伐を受け籠城していたが、
襄平城の西南から東北に白い彗星が落ちたことで城内は大混乱に陥った。
公孫淵も大いに懼れたため、王建と御史大夫・柳甫が降伏の使者に立った。
しかし、降伏と言いつつ「攻囲を解き軍を後退させろ」という条件を提示したため、司馬懿によって皆斬られた。
司馬懿の檄によると老齢だったという。

29 :名無し曰く、:2015/12/22(火) 17:48:51.66 ID:LVVE6Dh4.net
取りあえず劉恂は親父と同じく語呂能力値で


劉恂 リュウジュン (?〜311?)

劉禅の六男。

259年に新興王に封ぜられた。

蜀滅亡後に幽州安楽県の安楽公となった父の劉禅より他の兄らを差し置いて後継者に指名されたが、
旧臣の文立らには反対されていた。

劉禅の死後に安楽公となるが、道義を失う振る舞いが目立って旧臣らから度々諫言されていた。
後に劉禅の一族は永嘉の乱に巻き込まれて死亡した。

統率:3武力:7知力:5政治:6魅力:4

劉林 リュウリン 生没年不詳

劉封の子。

父が処刑された際に罪に連座せず、後に牙門将に任じられた。

蜀の滅亡後は河東に移住した。

統率:57武力:54知力:36政治:42魅力:51


張微 チョウビ (?〜302)

蜀の左車騎将軍・張翼の子。字は建興。

若年時より学問に打ち込み、晋に仕えて益州の広漢太守となった。

302年に益州にて李特が反乱を起こした際には鎮圧に従事して一時は李特の陣営に
切り込むも広漢を包囲された末に陥落により殺害された。

子の張存は張微の菩提を弔う名目にて助命された。

統率:64武力:71知力:67政治:55魅力:63

30 :名無し曰く、:2015/12/22(火) 17:49:19.41 ID:LVVE6Dh4.net
取りあえず劉恂は親父と同じく語呂能力値で


劉恂 リュウジュン (?〜311?)

劉禅の六男。

259年に新興王に封ぜられた。

蜀滅亡後に幽州安楽県の安楽公となった父の劉禅より他の兄らを差し置いて後継者に指名されたが、
旧臣の文立らには反対されていた。

劉禅の死後に安楽公となるが、道義を失う振る舞いが目立って旧臣らから度々諫言されていた。
後に劉禅の一族は永嘉の乱に巻き込まれて死亡した。

統率:3武力:7知力:5政治:6魅力:4

劉林 リュウリン 生没年不詳

劉封の子。

父が処刑された際に罪に連座せず、後に牙門将に任じられた。

蜀の滅亡後は河東に移住した。

統率:57武力:54知力:36政治:42魅力:51

31 :名無し曰く、:2015/12/22(火) 18:50:50.15 ID:wuDvArtN.net
三国志の年代から少しズレるかな

檀石槐(だんせっかい)
統率:90 武力:85 知力:72 政治:64
鮮卑の大人。一代で広大なモンゴル高原を統一した鮮卑の英雄。
後漢朝廷をあいてに連戦連勝。45才で亡くなるまで脅威を与え続けていた。

32 :名無し曰く、:2015/12/22(火) 18:53:56.39 ID:wuDvArtN.net
禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)
統率:85 武力:82 知力:51 政治:32
鮮卑の禿髪部の族長。三国時代末期に涼州を荒らし回り、晋の皇帝・司馬炎をして「蜀・呉よりもやっかい」と言わしめた。
270年、反旗を翻すと涼州に攻め込み、胡烈、牽弘を相次いで討ち取った。
司馬炎は衛瓘、文鴦を派遣して鮮卑を討伐し、樹機能も277年にいったんは降伏。2年後に再び反逆したが晋の馬隆によって打ち破られ、禿髪部の10年近い反乱は鎮圧された。

33 :名無し曰く、:2015/12/22(火) 20:34:46.15 ID:v0cr1HTt.net
>>31
光和年間(178年-184年)に死んだからぎりぎり黄巾に重なるな

45歳だから 生133-139年 〜 没178-184年 あたりにか

34 :名無し曰く、:2015/12/22(火) 21:16:33.75 ID:CKY56iAE.net
石徳林(せきとくりん)
現代の「素寒貧」という言葉の語源であるとも。
統率:3 武力:2 知力:45 政治:39
若い頃は学問に励んでいたが、方術に興味を持ち、そのことから隠遁することを始めた。引きこもりのニート生活の末、30才まで無職童貞を貫いて魔法使いになれたかどうかは定かではない。

35 :名無し曰く、:2015/12/22(火) 21:27:17.95 ID:CKY56iAE.net
周処(しゅうしょ)字は子隠(しいん)
統率:78 武力:80 知力:70 政治:72

呉、次いで晋に仕えた将軍。周魴の子。
京劇「周処除三害」として知られる。
若い頃は無頼漢で乱暴狼藉を働き人々に恐れられた。
あるとき、周処は長老に「今年は平和で豊作だったのになぜ村人は喜んでいないのか」と尋ねた。
すると長老は「南山の虎、長橋の蛟、そしてお前の三害が無くならない限り、喜ぶことはない」と答えた。
周処はそれを聞くと、三日三晩の格闘の末、川に流されながらも虎と蛟を殺した。村人たちは周処も死んだと思い、三害が一度に除かれたと喜んだ。
無事に帰った周処はどれだけ自分が憎まれていたか悟り、ようやく改心した。
呉滅亡後、晋でも頭角を現し、太守を歴任して多くの業績を上げた。
296年、斉万年が反乱を起こすと、周処は夏侯駿の副将として討伐を命じられた。
夏侯駿はかつて周処が弾劾した人物であり、親しい人々はこれは罠だからと辞退するよう勧めたが、周処は
「忠と孝の両方を全うすることはできない。今こそ私の死に時なのだ」と断り、出陣した。
はたして周処はわずか5千の兵で、7万の敵と戦うこととなった。
斉万年は「周処が大将なら勝ち目はないが、副将であれば生け捕るまでだ」と喜んだが、周処は奮戦の末に1万もの敵を討ち取ったうえで戦死を遂げた。

36 :名無し曰く、:2015/12/23(水) 07:34:12.20 ID:wnztchas.net
なんか有名なやつばっかになってきたな

37 :名無し曰く、:2015/12/23(水) 07:37:05.91 ID:wnztchas.net
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E3%82%AD
王道だが昌キ(覇)

38 :名無し曰く、:2015/12/23(水) 11:03:15.88 ID:24tDt0Fd.net
>>8
童淵や評話ネタありなら
神槍神騎の張繍先生が大幅能力アップするなw

張益(ちょうえき)
統率:84 武力:89 知力:30 政治:20
全相平話三国志の登場人物。劉璋配下の猛将。
演義以上に荒唐無稽な平話において、特に超人的な強さを持つ張飛を相手に一騎討ちで1000合打ち合うこと互角の豪傑。

39 :名無し曰く、:2015/12/24(木) 17:58:35.72 ID:wKL5KCaI.net
黄射 コウエキ (生没年不詳)

統率:41 武力:55 知力:35 政治:56

黄祖の長子。章陵太守。禰衡とは親しい間柄で、禰衡が劉表の元を訪れると一緒に父のいる夏口に向かった。
禰衡が黄祖の不興を買い処刑されそうになると、裸足で駆け付けたが間に合わずその死を嘆き悲しんだ。
袁術が没した建安四年(199年)、劉勲は孫策に敗れると劉表に援軍要請を出した。
そこで黄射は水軍五千を率いて救援に向かったが先に劉勳が敗走したため帰還した。
建安五年(200年)以後、柴桑を数千の兵で責めるが二百程度の手勢で守る徐盛に散々に破られ二度と侵攻することはなかった。


韓綜 カンソウ (?〜252年) 

統率:69 武力:75 知力:55 政治:22

呉、魏の武将。韓当の息子。226年の父の死後、石城侯の爵位とその領兵を継ぐ。
同年、曹丕の死に乗じて孫権が石陽を攻めた際は喪服中ということで武昌に留め置かれたが、そこで素行不良の振る舞いがあった。
孫権は父の功績に免じて許す気でいたが、韓綜は懲罰を恐れて親族や私兵数千を連れ魏に投降する。
その後は魏の将として呉の国境付近にたびたび侵攻した。
252年、東興の戦いにも魏の先鋒として参戦したが敗死。諸葛恪によって首は呉に送られた。

40 :名無し曰く、:2015/12/24(木) 20:46:08.32 ID:RR3w+3gK.net
張牛角 ちょうぎゅうかく

盗賊団の首領。黄巾の乱に呼応(便乗?)して博陵で仲間を集めて兵を上げ、将兵従事と自称した。
同じく黄巾の乱時に決起した褚燕(張燕)率いる盗賊団と合流。張燕によって頭目に推し立てられた。
エイ陶を攻撃した際に流れ矢にあたって死亡。いまわの際に「必ず褚燕を頭目にせよ」と言い残した。
褚燕は後を継ぎ、姓を張と改めた。なお、張牛角は黒山賊の初代首領、張燕と共に黒山賊を組織したとも書かれる
こともあるが、厳密に言えば、黒山賊と号したのは張牛角の死後、張燕率いる盗賊団が諸山谷の賊徒とよしみを通じ、
軍勢が百万に達した後のことである。

統率:74 武力:82 知力:41 政治:28 魅力:66

41 :名無し曰く、:2015/12/25(金) 20:33:14.63 ID:ydghZH2F.net
宗宝 ソウホウ (?〜192年?) 

統率:55 武力:68 知力:22 政治:32

演義の登場人物。孔融配下の武将。初平二年(192年)頃、
黄巾残党の管亥が数万を率いて北海城に押し寄せると孔融と共に出陣する。
孔融に罵倒された管亥が突撃してくると迎撃に向かったが、数合で斬られ落馬した。

孔融勢力強化用の人材


桓治 カンチ (?〜226年?) 

統率:65 武力:73 知力:52 政治:40

士燮、士徽の武将。交趾の人。弟の桓鄰は士燮に取り立てられ吏となる。
黄武五年(226年)に士燮が没すると、後継の士徽は交州刺史として呉から派遣された戴良の着任を阻む。
桓鄰がそれを強く諌めると士徽に殺された。桓治はその仇を討つため甥の桓発と共に士徽を攻めたが、
堅く守られたため数か月たっても降せずついに和睦した。
そのすぐ後、呂岱の騙し討ちによって士徽兄弟が謀殺されると、士徽の将であった甘醴と共に官民を率いて呂岱に攻撃をかける。
しかし、呂岱の奮戦で返り討ちに遭い撃破された。

士燮勢力強化用の人材。13ではいるといいな

42 :名無し曰く、:2015/12/27(日) 19:10:25.36 ID:m7SgEit7.net
胡母班 季皮 コボハン キヒ (?〜189年)  (姓が胡母)

後漢の執金吾。太山郡の人。若い頃は任侠の人で張バクらとともに「八厨」と呼ばれた。
反董卓連合が結成されると、連合の解散を命じた詔書と共に董卓から派遣され、河内太守の王匡の元に赴いた。
胡母班は王匡の妹を娶った親類であったが、王匡は袁紹の命に逆らえず胡母班を捕えて殺した。
後に王匡は胡母班の遺児と曹操によって殺された。
『捜神記』によると若い頃、泰山府君や河伯(水神)に招かれ会ったことがあるという。

43 :名無し曰く、:2015/12/29(火) 20:26:20.29 ID:liudEHmL.net
蜀末期〜蜀所縁の人物を挙げていく

文立 ブンリツ 生没年不詳

蜀・魏・晋の政治家。字は広休。

巴郡臨江の出身でショウ周に師事し、顔回になぞらえられた。
費イに見いだされて蜀に仕えて尚書まで登り、蜀の滅亡後は梁州別駕従事となった。
晋の成立後は済陰太守や太子中庶子となって、旧蜀の人材を始め数多くの人材を推挙し、
忠実清廉な人柄で知られた。

劉禅が安楽公の後継に六男の劉恂に決めた際には反対したが、聞き入れられなかった。
咸寧年間の末期(280年頃)に死去した。

統率:39武力:32知力:78政治80魅力:74

李密 リミツ (224〜287)

蜀・晋の政治家。字は令伯。

幼少時に父を失い、母は再婚した為に祖母の劉氏の元で育てられた。
蜀においては従事尚書郎・大将軍主簿・太子洗馬を歴任し、呉の孫権の元へ
使者として赴いた際には「人の兄となるよりも弟になった方が良い」と主張する
孫権に対し、李密は人の兄である方が親の面倒を長く見れると反論した。

蜀滅亡後は司馬炎に招かれたが、九十歳を超える祖母の面倒の為に応じることが出来ず、
その事を上奏した「陳情事表」を表し、これに感心した司馬炎は州県に李密と祖母を手
厚く保護するように命じた。

祖母の死後に晋に仕えて晋皇室所縁の温県令として治績を挙げたが、張華に疎まれて
漢中太守に左遷され、後に蜀を賛美した疑いで職を失った。

しかし、後に大中正として復帰し官吏の人選に関与した。

統率:35武力:39知力:76政治:71魅力:80

44 :名無し曰く、:2015/12/29(火) 20:35:58.63 ID:liudEHmL.net
やや改定

文立 ブンリツ 生没年不詳

蜀・魏・晋の政治家。字は広休。

巴郡臨江の出身でショウ周に師事し、顔回になぞらえられた。
費イに見いだされて蜀に仕えて尚書まで登り、蜀の滅亡後は梁州別駕従事となった。
晋の成立後は済陰太守や太子中庶子となって、旧蜀の人材を始め数多くの人材を推挙し、
忠実清廉な人柄で知られた。

劉禅が安楽公の後継に六男の劉恂に決めた際には反対したが、聞き入れられなかった。
咸寧年間の末期(280年頃)に死去した。

統率:39武力:32知力:78政治80魅力:83

李密 リミツ (224〜287)

蜀・晋の政治家。字は令伯。

蜀の牛建為郡武陽縣の出身で幼少時に父を失い、母は再婚した為に祖母の劉氏の元で育てられた。
蜀においては従事尚書郎・大将軍主簿・太子洗馬を歴任し、呉の孫権の元へ
使者として赴いた際には「人の兄となるよりも弟になった方が良い」と主張する
孫権に対し、李密は人の兄である方が親の面倒を長く見れると反論した。

蜀滅亡後は司馬炎に招かれたが、九十歳を超える祖母の面倒の為に応じることが出来ず、
その事を上奏した「陳情事表」を表し、これに感心した司馬炎は州県に李密と祖母を手
厚く保護するように命じた。

祖母の死後に晋に仕えて晋皇室所縁の温県令として治績を挙げたが、張華に疎まれて
漢中太守に左遷され、後に蜀を賛美した疑いで職を失った。

しかし、後に大中正として復帰し官吏の人選に関与した。

統率:35武力:39知力:76政治:71魅力:80

45 :名無し曰く、:2015/12/29(火) 20:58:45.06 ID:liudEHmL.net
何攀 カハン (244?〜301)

蜀・魏・晋の政治家。字は恵興。

蜀郡の出身で、蜀においては若くして郡主簿・上計吏となり州に招かれて従事になった。

蜀の滅亡後は益州刺史皇甫晏により王佐の才があるとして主簿に抜擢され、後に王濬が
益州刺史となった際には王濬の命で呉攻略の為の軍船建造に従事し、さらに洛陽に赴いて
呉攻略の作戦を献策した。その事が認められて郎中及び王濬の参軍事に任じられ、当時の
司空である裴秀の娘を妻とした。

呉討伐後は関内侯に封ぜられ、太傅楊駿の殺害に功績を挙げて東羌校尉・揚州刺史を
歴任した。

統率:64武力:56知力:89政治:84魅力:77

費立 ヒリツ 生没年不詳

蜀・晋の政治家。費詩の子。

蜀の牛建為郡南安県の出身で、蜀の滅亡後はあらぬ噂を立てられて再仕官できずに
不遇の身であったが、同じ蜀の旧臣である何攀の弁護によって晋に仕官し、散騎常
侍にまで出世した。

後に名声を得た牛建為郡の費姓の人物達は費立の子孫であると伝わる。

統率:27武力:30知力:63政治:58魅力:64

46 :名無し曰く、:2015/12/30(水) 16:00:16.85 ID:soWbDkq+.net
杜軫 トシン 生没年不詳

蜀・晋の政治家。字は超宗。

益州蜀郡成都の出身でショウ周に師事し、郡の功曹史となった。
ケ艾率いる魏軍が蜀に侵攻した際は成都太守に逃亡する事を
進言し、劉禅の降伏後に魏の牽弘が成都太守の行方を尋ねた際には
去り際を心得て自発的に官舎を去り、君子を待っていたと答えて
感心された。

その後は建寧太守として功績を挙げ、任期が満了して任地を去る際には
杜軫に心服した異民族らが追いかけて見送った。

その後は雍州池陽県令・尚書郎を務めて功績を挙げ、同じ蜀の出身で同時期に
尚書郎となった李驤と共に議論に秀でて「二郎」と称された。

最後は牛建為太守となるが、着任前に51歳で病死した。

統率:41武力:23知力:73政治:83魅力:77

47 :名無し曰く、:2015/12/30(水) 16:46:18.06 ID:soWbDkq+.net
李驤 リジョウ 生没年不詳

蜀・晋の政治家・学者。字は叔龍。
梓潼郡フ県の出身で、蜀で尚書僕射を務めた李福の子。

ショウ周に師事し、同門の陳寿と親しかった。
238年に父が死去した際に家督を継ぎ、孝廉に挙げられて尚書郎・建平太守
となり、程なくして病気で辞職するが後に広漢太守となる。

蜀滅亡後は陳寿と仲違いし、陳寿が晋への李驤の仕官を妨害したとされて
郷里に帰ったが後に尚書郎となり同じ尚書郎の杜軫と共に「二郎」と称された。

統率:27武力:15知力:68政治:60魅力:57

羅尚 ラショウ 生没年不詳

羅憲の兄・羅式の子。字は敬之。

幼少の頃に父を失って叔父の羅憲を頼った。
晋に仕えて荊州刺史・王戎の参軍を務め、太康年間の末年には梁州刺史となる。

300年の益州刺史趙キンの反乱にて平西将軍・益州刺史に任じられて鎮圧に赴いた。
その後は趙キンに属していた李特と争い、成都にて策略で李特を追いつめた末に
殺害し、その後は李特の子である李雄と争うが、急死した。

蜀の人々からは鎮圧に赴く前から貪欲で決断力の無い人物と酷評されており、
反乱を起こした趙キンの方がまともであるとまで云われた。

統率:72武力:64知力:75政治:43魅力:18

費恭 生没年不詳

蜀・晋の政治家。

費イの次男。劉禅の娘を妻とし、蜀滅亡後の268年に羅憲によって他の
蜀旧臣と共に推挙され、尚書郎となるが早世した。

統率:25武力:21知力:56政治:61魅力:60

48 :名無し曰く、:2016/01/02(土) 17:11:09.92 ID:UyejeVT2.net
羅尚とかもう五胡じゃん

49 :名無し曰く、:2016/01/04(月) 21:45:34.81 ID:8Ns236dG.net
夏侯儒 俊林 カコウジュ シュンリン (生没年不詳)

統率:75 武力:63 知力:72 政治:60

夏侯尚の従弟。初めは曹彰の司馬を務める。黄初二年(221年)涼州盧水胡の反乱に際して、
曹丕は張既の後詰めに費耀と夏侯儒を派遣した。
張既は賊の不意を衝き迅速に進軍したため、夏侯儒が武威に到着する前に決着がついていた。
酒泉の蘇衡や羌族の反乱の際には張既と共にこれを鎮圧。正始年間(240?249年)、
夏侯儒は征南将軍となり、荊・予二州を都督する。
正始二年(241年)、朱然が樊城を包囲すると救援に赴くが、手勢が少なかったため敵に六〜七里(2〜3q)まで近づいては離れるということを数度行った。
司馬懿が救援に到着すると共に攻めて朱然を破った。
この時の夏侯儒の対処について、臆病者とも巧妙な時間稼ぎとも言われたが最終的に召し帰され太僕に就いた。

50 :名無し曰く、:2016/01/05(火) 19:35:24.21 ID:1Vyj4iQX.net
李球 リキュウ ?〜263年

蜀の武将。
李恢の甥で、羽林右部督を務めた。
263年のケ艾率いる魏軍の侵攻に対して諸葛瞻や張遵、黄崇らと共に
綿竹で抵抗したが、戦死した。

※三国志\の能力値を参考にもう少し抑えめに
統率:60武力:63知力:55政治:48魅力:56

劉敏 リュウビン ?〜?

蜀の軍人・政治家。
零陵郡泉陵の出身で蒋エンの外弟。
蒋エンと共に名声を博して劉禅の即位後は侍御史となり、
諸葛亮の北伐にも行右護軍・偏将軍として参加した。

諸葛亮の死後は左護軍・揚威将軍として王平と共に漢中の重鎮となり、
244年に魏の曹爽が漢中に侵攻した際には王平に従い迎撃に出て、百里
余りに渡って多数の旗幟を立てて援軍が来るまで時間を稼いだ。

統率:67武力:45知力:80政治:65魅力:70

向充 ショウジュウ ?〜?

蜀の軍人・政治家。
向寵の弟で、射声校尉・尚書を歴任した。
蜀の滅亡後は魏・晋に仕えて梓潼太守となる。

統率:55武力:46知力:56政治:63魅力:58



向条 ショウジョウ ?〜?

蜀の軍人・政治家。字は文豹。
向朗の子で、博学多識であった。
父の死後に爵位を継ぎ、景耀年間に御史中丞になった。
晋の時代には江陽太守、南中軍司馬となる。

統率:53武力:28知力:71政治:65魅力:62

51 :名無し曰く、:2016/01/06(水) 22:33:13.47 ID:yhUu9Qv8.net
鄭玄 康成 ジョウゲン(テイゲン) コウセイ (127年〜200年)

後漢の儒学者。北海郡高密県の人。身長八尺で容姿の優れた偉丈夫。郷里の小役人を務めつつ学問に打ち込んだ。
その後、太学へ進み第五元先、張恭祖に講義を受け、盧植と共に馬融に師事した。
家に戻ると大勢の弟子を教えていたが党錮の禁が起こると門を閉ざし儒学に専念した。
何進や袁紹から招かれることもあったが長居はしなかった。192年、青州で黄巾の残党が乱を起こすと徐州に避難。
建安元年(196年)に帰還し、途中で黄巾賊に遭遇したが崇拝されて危害を受けなかった。
建安五年(200年)に死期を悟り、薄葬を遺言して六月に死去した。
当時の儒教のほとんどの書籍に注を作成しており、また自らも多くの著作を残した。
主な弟子はチ慮、王基、崔エン、孫乾などで、劉備にも学問を教えている。

ちなみに息子の鄭益は、192年に黄巾残党が孔融を包囲すると、推挙された恩に報いるために救援に向かい殺された。

52 :名無し曰く、:2016/01/07(木) 22:35:04.28 ID:DcjitwyU.net
何苗 カビョウ (? - 189年)

何進の義弟。何進の父の再婚相手の連れ子。元姓は朱氏。
異父妹の何氏が皇后となると、兄とともに取り立てられ河南尹や車騎将軍となる。
何進と宦官の対立では皇后とともに宦官派に立ったが、何進が謀殺されるとその部下の呉匡らから恨みを買い殺害された


何苗 叔達 カビョウ シュクタツ (? -?)

道教書『真誥』に登場する何進の弟。上記とは別人説あり。南徐州の鹿迩山の中の洞主。
若くして道教を好み、河東の繁山で修業したため「繁陽子」を号する。漢の越騎校尉。

53 :名無し曰く、:2016/01/08(金) 19:01:49.29 ID:yVf5vKFw.net
苟安 コウアン ?〜?

蜀・魏の武将。三国志演義の創作人物。
李厳配下の都尉で諸葛亮の北伐の際に李厳が兵糧の輸送を任された際、
実際に兵糧を送る役目を担っていたが、酒に浸って輸送が遅れて諸葛亮
の怒りを買い、処刑されそうになるが、李厳の反発を考慮した楊儀の
進言によって罰棒80回に減じられた。

しかし、その後に苟安は魏に降った上に司馬懿の命で諸葛亮が謀反を
企てていると朝廷の宦官らに吹聴する任務を行い、これを信じた劉禅は
諸葛亮に帰還命令を出してやむなく成都へ戻った。
実在の蜀将である句安とは別人。

統率:25武力:45知力:35政治:27魅力:13

謝雄 シャユウ ?〜229年

蜀の武将。三国志演義の創作人物。
北伐での陳倉城攻略の際に魏の先鋒である王双の軍を迎え撃ったが、
あっさりと王双に討たれた。

統率:54武力:66知力:30政治:27魅力:48

爨習 サンシュウ ?〜?

蜀の武将。南中の豪族。
建寧郡の有力な豪族として劉璋の時代には建伶県長を務めていたが、
不法な振る舞いが多かった事で同じ建寧郡の名士で妻の甥である李恢
も連座する危機に立たされたが、董和の取り成しによって事なきを得た。

後に劉備に属して劉備死後は孟獲らと共に反乱を起こしたが、諸葛亮の
討伐軍により降伏、蜀に仕えて行参軍・偏将軍となり最後は領軍になった。
李厳罷免の際にも名を連ねている。

統率:68武力:64知力:43政治:48魅力:45

54 :名無し曰く、:2016/01/12(火) 20:22:57.77 ID:Qovy+RUj.net
華陽国志の後賢志より(柳隠もこれが出典)

李穀 リキ ?〜306年

晋の武将。字は允剛。
広漢郡三台の出身で、蜀に仕えた李朝の孫。

王濬によって見いだされて主簿となり、274年に張弘が益州刺史皇甫晏を殺害した際は
王濬に張弘の討伐を進言し、その功積によって州の主簿・別駕となった。

呉征伐では王濬の参軍として従軍、戦後に関内侯・雲南太守となり、王濬の死後は
南夷校尉となった。

306年に牛建為で反乱が起きた際は寧州刺史として討伐にあたったが、反乱軍に拠点を
包囲され、程なくして城中にて死去した。

統率:67武力:65知力:76政治:64魅力:68

他に司馬勝之・何隨・王化・常勗・寿良・王長文ってのがいるけどよくわからない。

55 :名無し曰く、:2016/01/13(水) 21:47:01.08 ID:GNgBNLx0.net
梁鵠 孟黄 リョウコク モウコウ  (生没年不詳)

後漢、魏の書家。安定郡烏氏県の人。後漢有数の書家・師宜官(シギカン)は字を書くと
いつも簡札を削ったり焼いたりして書体を秘密にしていたが、梁鵠は彼を酒に酔わせて簡札を盗み、書法を研究した。
選部尚書の官にあるとき洛陽令を望んでいた曹操を洛陽北部尉に任命する。
乱がおこると荊州に避難していたが、曹操が荊州を得ると賞金付きで捜索令が出された。
恐れた梁鵠は自縛して出頭したが、曹操は彼を秘書に登用し、彼の書をいつも手元に置き愛玩した。
魏の宮殿の題字はすべて梁鵠の手によるものだという。

56 :名無し曰く、:2016/01/13(水) 22:00:39.17 ID:GNgBNLx0.net
ちなみに烏氏県の梁氏なので梁冀と同族と思われる

57 :名無し曰く、:2016/01/15(金) 23:18:41.58 ID:E4Q/eAbq.net
隠蕃 インハン (209年〜237年以前(呉の嘉禾年間))

統率:25 武力:13 知力:72 政治:66

青州の人。弁舌詭弁に優れた。黄龍二年(230年)、魏の明帝の命で偽って呉に亡命する。
目的は延尉に就き、呉の重臣を厳しく取り調べ、その離反を招くことだった。
孫権に謁見がかなうと、得意の弁舌で司法についてよく答えたため延尉監に就くことに成功する。
また、朱拠やカク普、全jに至るまで呉の有力者との交流を持ったため訪問者は後を絶たなかった。
後に事が発覚すると逃亡したが捕縛された。謀反の共謀者について自白を迫られたが
「烈士は死んでも他人を巻き添えにせぬのだ」と孫権に言い放って、ついに口を割らず死んだ。

58 :名無し曰く、:2016/01/19(火) 19:54:09.93 ID:Mlkyh3lV.net
孔桂 淑林 コウケイ シュクリン (?〜220年)

涼州天水郡の人。楊秋配下。建安初期(196年〜205年頃?)、楊秋の使者としてたびたび曹操のもとに派遣され騎都尉に任命される。
媚びへつらいが得意なほか、博奕や蹴鞠が上手だったため、曹操に気に入られいつもお供をしていた。
孔桂は曹操の機嫌の良い時をみはからい話のついでに提案を述べたため、その意見の多くは採用され、また金品も多く得た。
曹丕や諸侯らとも親交を得て贈り物も多く得ていたが、曹操の態度から後継は曹植であろうと推察し、曹丕との関係は疎遠にして曹植に接近した。
その後、曹丕が即位してもまだ断罪しなかったが、黄初元年(220年)、西域から賄賂を受け取り、人事問題に便宜を図ろうとしていたことが発覚したため処刑された。

59 :名無し曰く、:2016/01/20(水) 22:15:45.44 ID:6nmS8xk6.net
孟他 伯郎 モウタ ハクロウ (生没年不詳)

扶風郡の人。孟達の父。孟他は権力を握っていた中常時・張譲に取り入るために一計を案じる。
彼は張譲の家の家事を取り仕切っていた奴隷頭をはじめとする奴隷たちに家財を傾けて賄賂を贈った。
奴隷頭が「何をお望みなのか」と聞くと「ただあなた方の拝礼のみ」と答えた。
張譲の屋敷の門は常に来客で溢れていたが、孟他が到着すると奴隷たちによって丁重に屋敷に通されたため、
来客たちは彼が張譲と親しい間柄だと考え、互いに競って多くの贈り物をした。
孟他はその贈り物をすべて張譲に贈ったため張譲に喜ばれた。また一石の葡萄酒を贈ると即座に涼州刺史を拝命した。

60 :名無し曰く、:2016/01/21(木) 21:08:17.10 ID:PVZcdbG3.net
蔡方 サイホウ  (?〜225年?)

青州?利成(利城)郡の兵士。黄初六年(225年)六月、蔡方は仲間たちとともに郡を挙げて魏に反乱を起こした。
また、太守の徐箕(徐質)を殺害すると唐咨を頭目に立てた。
曹丕は校尉の任福、段昭を派遣し、青州刺史・王凌と協力させこれを平定させた。
蔡方の最期は不明だが、唐咨は呉へ逃亡した。

61 :名無し曰く、:2016/01/22(金) 23:27:31.22 ID:S4Nlnm97.net
郭脩(循) 孝先 カクシュウ コウセン (?〜253年)

統率:42 武力:63 知力:22 政治:25

魏の中郎。西平郡の人。姜維が西平郡へ侵入した際(249年か)、捕えられて蜀に連れて行かれた。
蜀では左将軍に任命されたという。郭脩は蜀に降った後、劉禅暗殺の機会を常々狙っていたが、容易に接近できずにいた。
そこで暗殺対象を大将軍の費イに変え、253年の酒宴で彼がしたたかに酔ったところを刺殺した。

62 :名無し曰く、:2016/01/25(月) 00:29:11.53 ID:9PrPT9op.net
盧氏 ロシ (?〜194年?)

張衡の妻。張魯の母。年を経ても若い頃の容姿であった。
190年頃、劉焉が益州牧として赴任すると巫術師として劉焉の屋敷に出入りした。こうした縁もあってか、
益州での独立を図る劉焉は、張魯を督義司馬に任命すると漢中を攻略させ漢との連絡を断ち切らせた。
194年、劉焉が没すると子の劉璋が後を継いだが、劉璋が惰弱であったため張魯は命令に従わなくなった。
そこで劉璋は(恐らく成都で人質になっていた)張魯の母や弟を殺した。

正史には姓の記載はなく「盧氏」は道教書が出展。
また、『歴世真仙体道通鑑』によると光和二年(179年)正月二十三日に夫とともに陽平山で道術を会得し昼間に飛翔した(昇天した?)という。

63 :名無し曰く、:2016/01/25(月) 22:25:00.53 ID:9PrPT9op.net
応余 子正 オウヨ シセイ  (?〜218年)

南陽の人。生来、剛毅で義に篤い性格であった。建安二十三年(218年)、南陽郡の功曹となる。
当時、関羽が樊城を攻め南陽郡はその後方支援を行っていたが、その賦役が重かったため宛の大将・侯音が反逆した。
応余は宛太守の東里袞とともに宛を脱出したが、侯音が追撃に出した騎馬隊に追いつかれてしまう。
東里袞めがけて矢が射かけられると応余は身を盾にして守り、敵追撃隊に向かって
「侯音はすぐに破滅する、善へ立ち戻れ!わしは死ぬが主が生き残ることができれば悔いはない!」と言い放った。
敵は応余の気迫と忠義に感嘆し東里袞らを見逃した。敵が去ったのちに応余は絶命した。
応余の死後、彼の事跡は曹仁、曹操、曹髦らによって称えられた。

64 :名無し曰く、:2016/01/26(火) 18:15:04.60 ID:1aVMw5g2.net
>>62
後半訂正
また、『歴世真仙体道通鑑』によると光和二年(179年)正月二十三日に
夫とともに陽平山で道術を会得し、羽化昇天で仙人になったという。

65 :名無し曰く、:2016/01/26(火) 20:39:59.84 ID:1aVMw5g2.net
董奉 君異 トウホウ クンイ (生没年不詳)

揚州会稽郡侯官県の人。仙人であり医師。妻は豫章郡内の県令・丁士彦の娘。
交州刺史の士燮が病死してから三日後、交趾にいた董奉は丸薬と水を士燮に飲ませ頭を揺すったところ、彼は蘇生し数日で回復した。
その後、一年ほど滞在したが死んだふりをして旅立ち、豫章郡へ帰って盧山のふもとに居を構えた。
董奉は患者から金銭は受け取らず、ただ自宅の周りに杏の苗を植えさせたため、数年で杏林が出来上がった。
医師の別称の「杏林」はこの故事に由来する。この杏林には虎が棲みつき、董奉一家を守護した。
董奉は人間界にいること三百年、容姿は三十代から変化しなかったという。

66 :名無し曰く、:2016/01/27(水) 22:25:40.84 ID:W+wMYAv2.net
朱(施)績 公緒 シュセキ(シセキ) コウショ  (?〜270年)

統率:70 武力:78 知力:69 政治:60

呉の武将。揚州丹陽郡の人。朱然の子。父が高官だったため若くから宮中で役を負ったが、
231年に叔父の朱才が亡くなると軍勢を引き継ぎ潘濬のもとで活躍した。
赤烏十三年(250年)十二月に王昶が江陵に侵攻すると、野戦では敗れたが固く籠城し、王昶が撤退を始めると追撃し損害を与えた。
諸葛恪、融兄弟とは不仲で、建興二年(253年)に諸葛恪が誅殺されると命令を受けて諸葛融を攻め殺した。
この頃、父の元々の姓である施姓に戻すことが許された。
太平二年(257年)、呉の政治は孫チンが主導していたため魏の侵攻時に備えて、密かに蜀に有事の際の援軍要請を行う。
建衡二年(270年)に亡くなり、巴丘から西陵までの守備地域は陸抗に継がれた。
呉はもとより魏からも「賊国の名臣」と言われるほど高く評価された。

67 :名無し曰く、:2016/01/28(木) 23:07:31.69 ID:01sdzChX.net
蔡邕 伯喈 サイヨウ ハクカイ (132年〜192年)

統率:70 武力:16 知力:76 政治:92

後漢の大儒。兗州陳留郡圉県の人。蔡琰の父。袁渙の従兄。経学、史学、数術、天文、書画、音律など多様な才を有した。
はじめ橋玄の招きで霊帝に仕え郎中や議郎に就く。当時の六経の乱れを憂い、楊賜、馬日磾らと上奏して
熹平四年(175年)に「熹平石経」を建て経典の是正を図った。その後、宦官の讒言によって一家そろって朔方に流刑となる。
後に許されたが宦官勢力の害を避けるため呉、会稽に十二年隠棲する。
中平六年(189年)、董卓によって無理やり召し出されたが、彼の行動を度々諌めても咎を受けないなど重用された。
反董卓連合として河内太守・王匡が河陽津に駐屯した際は、兵を率いてこれを撃破している(『蔡中郎集』より)。
初平三年(192年)、董卓が暗殺されると、王允によってほぼ連座する形で獄に入れられ刑死した。

68 :名無し曰く、:2016/01/29(金) 23:34:54.78 ID:UOUuI6QR.net
柳隠 休然 リュウイン キュウゼン (188年?〜267年?)

統率:82 武力:76 知力:76 政治:52

益州蜀郡成都の人。誠実で正直な人物であった。姜維の遠征時にたびたび従軍すると、その武勇と計略は軍の筆頭たる活躍をした。
漢中の黄金囲の督に昇進し、景耀六年(263年)の鍾会らの侵攻時も鉄壁の守りを見せた。
蜀降伏後も劉禅の命令書が届くまで抵抗を続け、司馬昭に評価された。翌年、河東郡に移住し議郎を拝命。
さらに翌年、西河太守に移り、三年間務めたのち老齢を理由に辞職。蜀に帰り、八十歳で没した。

69 :名無し曰く、:2016/01/30(土) 21:59:28.02 ID:9Yr/iHMV.net
蘇則 文師 ソソク ブンシ (?〜223年)

統率:75 武力:63 知力:77 政治:81

魏の政治家。扶風郡武功県の人。学問と品行で知られ剛直な性格だった。
良家の家柄であったが、李カクらの影響で三輔が混乱すると貧窮し、山中に隠棲した。
その後、安定や武都などの太守を歴任し名声が高かった。張魯討伐では郡の治世を曹操に評価され軍の先導役を任された。
荒廃した金城の太守に移ると、羌族を招き耕作を教えるなどしたため大豊作になり離散した住民の大多数が帰還した。
涼州で麹演が二度目の反乱を起こすと、カク昭らを説得し迅速に進軍して乱を平定した。
中央に召され侍中となるが、狩りの際に曹丕を諌めたため不興を買う。
223年に東平の相に左遷され、その任地に向かう途中で病死した。

70 :名無し曰く、:2016/01/31(日) 22:24:40.26 ID:59BIbt0Z.net
鮮于輔 センウホ  (生没年不詳)

統率:45 武力:20 知力:70 政治:78

幽州漁陽郡の人。はじめ劉虞に従事として仕える。
初平四年(193年)、劉虞が公孫サンに殺されると報復のため閻柔を擁立する。
閻柔は漢人、異民族の数万を糾合し公孫サン配下の鄒丹を破る。
鮮于輔は烏桓の蘇僕延とともに劉虞の子・劉和を迎え、麹義と合流して公孫サンを攻め、鮑丘で大勝を収めた。
公孫サン死後、国人に立てられ(おそらく漁陽)太守に就くと親交のある田豫を長史に任命した。
また、田豫の勧めで曹操に帰順すると、幽州六郡の督に任じされた。
建安五年(200年)の頃、曹操陣営に出向いていたため官渡の戦いにも従軍した。
その後、度遼将軍を拝命し幽州に戻った。徐バクが禁酒令を破った際は曹操へとりなしている。
黄初年間(220〜226年)、曹丕の命で蜀へ赴き帰順を説いたが受け入れられなかった。
黄初五年(224年)、軻比能から訴えの手紙が来るなど北方異民族への折衝として重きをなした。

71 :名無し曰く、:2016/02/01(月) 21:56:54.62 ID:CGNJkRNa.net
游楚 仲允 ユウソ チュウイン  (生没年不詳 182年〜251年ぐらい?)

統率:52 武力:36 知力:65 政治:74

馮翊郡頻陽県の人。激しい気性の持ち主で、学問をせず遊戯や音楽、博打を愛好した。父・游殷は若き日の張既に息子の後見を頼んだ
建安十六年(211年)、曹操が関中を平定すると張既の勧めで漢興太守に任じられた。後に隴西太守に移ったが恩恵による統治を行った。
太和二年(228年)、諸葛亮の第一次北伐により蜀軍が来寇すると天水・南安郡が呼応し太守は逃亡した。
一方、隴西では游楚が官民を集めて「自分は責務を果たすため死も厭わぬ。あなた方は早く自分の首を持って行け」と言ったため、
その覚悟に感涙した官民は游楚に従った。蜀軍が侵攻して来ると長史の馬ギョウを城外に布陣させ防いだ。
十日後、魏の救援が駆けつけ蜀が撤退すると、この功績により列侯となり、明帝から労をねぎらわれた。
宮中から退出後、宿衛の任務を望むと駙馬都尉に任命された。後に北地太守となり七十の時に死去した。

72 :名無し曰く、:2016/02/02(火) 22:26:56.78 ID:euw8O8lY.net
裴茂 巨光 ハイボウ キョコウ  (生年?〜没年226−239年?)

統率:74 武力:56 知力:55 政治:76

司隷河東郡聞喜県の人。裴潜の父。裴秀の祖父。名家の出で、県令、郡守、尚書、尚書令を歴任した。
初平四年(193年)、長雨が二十日余り続いたため、献帝の勅により裴茂が使者となって罪科の軽い者を赦免した。
この中には李傕によって捕えられた無実の者もおり、李傕は裴茂の逮捕を上奏したが献帝は拒絶した。
建安二年(197年)、謁者僕射・裴茂は段煨ら関中諸将を率いて李傕を討伐し三族を皆殺しにした。この功によって列侯に取り立てられた。
建安十九年(214年)、献帝は魏公・曹操の位を諸王より上位に置き、赤いひもを付けた金璽、遠遊冠を下賜し、その使者に裴茂が使わされた。明帝の時代に死去した。

73 :名無し曰く、:2016/02/03(水) 04:31:22.50 ID:WhE16r4L.net
今せっせと武将大名鑑と照らし合わせて
過去シリーズからリストラされた武将を調べているわ
今日の午後にでも名前とナンバリングをレスしようと思う
しかしリアルで都合があるから
もしかしたらレス出来ないかも

74 :名無し曰く、:2016/02/03(水) 23:14:19.81 ID:7Mn8M3tl.net
去卑 キョヒ  (生没年不詳)

統率:68 武力:66 知力:52 政治:64

匈奴の右賢王。興平二年(195年)、於夫羅の死後、呼廚泉が単于に立つと叔父である去卑は右賢王となった。
同十一月、献帝が長安から脱出し洛陽へ向かう際に、楊奉らの招きで護衛に就く。
李カクらと一進一退の攻防を繰り広げたのち、追っ手を振り切って安邑まで辿り着く。
その後は献帝を許県まで送ると河東郡平陽に帰還した。
建安二十一年(216年)7月、去卑の勧めもあって単于・呼廚泉が漢に入朝しギョウに留め置かれると、去卑が代わりに南匈奴諸部を監督した。

75 :名無し曰く、:2016/02/04(木) 23:58:49.17 ID:1JrF9xQv.net
胡綜 偉則 コソウ イソク (185年〜243年)

統率:71 武力:32 知力:75 政治:80

豫州汝南郡固始県の人。子は胡沖。父の死後、江東に移り建安三年(198年)の十四歳の時に孫策に仕える。
孫権とは学友で、孫策の死後は将軍府の書部となり、是儀や徐詳とともに国政の中枢を司った。
胡綜は文章の作成に優れ、呉の行政文書や外交文書の作成を担当していた。
また、黄祖討伐や晋宗捕縛など武功もあり、呉が建国されると侍中と同時に将軍職も兼任する。
呉質が魏で疑われているという情報が入ると、偽の降伏文を作成し流布させたがすでに中央に召し返されていた。
公孫淵への対処で孫権と張昭が激しく対立した際は仲裁に尽力する。
胡綜は酒好きで酔うと大声でわめいたり、左右の者を殴ったりするなど酒乱であったが孫権に才を惜しまれ不問とされていた。

76 :名無し曰く、:2016/02/05(金) 23:35:53.65 ID:F4AOqJH3.net
孫河(俞河) 伯海 ソンカ(ユカ) ハクカイ (?〜204年)

統率:76 武力:79 知力:55 政治:62

揚州呉郡富春県の人。孫桓の父。孫韶の伯父。孫堅の族子であったが俞氏の養子となり、後に孫策の代で孫姓を賜る。
実直な性格で、議論より行動するのを好み、職務に熱心に励んだ。若い頃から孫堅に従軍し常に先鋒を務めた。
後に近衛兵を指揮し、内事を取り仕切るなど腹心として信任された。孫堅死後、多くの者が離れる中、呂範とともに孫策と支え、呉、会稽平定に貢献する。
鳥程県長だった時の部下に吾粲がいたが、孫河が将軍となると彼を曲阿の県丞(県の副官)に推挙した。
ちなみに時期は不明だが息子の孫助は曲阿の県長を務めていた。
建安九年(204年)、孫翊が辺洪に暗殺されると、彼と親しくしていた媯覽、戴員を激しく詰問する。
しかし、媯覽らは事件の主謀者であり、身の危険を感じたため彼らに殺された。

77 :名無し曰く:2016/02/06(土) 11:24:10.05 ID:t+ogLn7X.net
素晴らしいスレですね♪
できたら、字にもふり仮名お願いします。

78 :名無し曰く、:2016/02/06(土) 22:40:59.41 ID:UbU3LqFo.net
趙儼 伯然 チョウゲン ハクゼン (171年〜245年)

統率:72 武力:51 知力:81 政治:76

豫州潁川郡陽翟県の人。戦乱を避け、荊州で杜襲、繁欽と暮らしていたが、曹操が献帝を許都に奉戴すると仕官を決意し、朗陵県長に就任。
その後は各地の太守を歴任した。李通とは親交があり、袁紹が豫州へ誘いをかけた際、
焦った李通が曹操のために徴税しようとすると、それを諌め対応を荀ケに相談した。
劉表への備えで前線に駐屯する于禁、張遼、楽進らは互いに不和であったが、趙儼が参軍として取り成したため協力するようになった。
建安十三年(208年)、荊州侵攻の際には都督護軍となり、于禁・張遼・張郃などの七軍を統括する。
建安十六年(211年)、潼関の戦いの事後処理で、降伏した元馬超らの軍を統括した。
建安二十四年(219年)の樊城の戦いでは、「曹仁との連絡を最優先にすべし」と進言し救援に貢献。
また「呉への対策に関羽の追撃は止めるべき」とも進言し容れられた。
黄初三年(222年)には曹休の軍師として孫権を撃退する。曹芳の代まで仕え、位は驃騎将軍・司空まで昇った。


>>77あざな?

79 :名無し曰く、:2016/02/07(日) 23:22:03.72 ID:1/yM5Rhn.net
趙嫗 チョウオウ (?〜248年?)

統率:74 武力:78 知力:31 政治:20

交州九真郡安県(現在のベトナム)の女。嫁に行かず、九真の山中で群盗を束ねて郡を荒らしまわった。
趙嫗は三尺ある乳房を背負い、金の靴を履いて、常に象の頭に乗って戦った。
戦いから戻るといつも帷幕を張り、少年を数十人は侍らせたという。
赤烏十一年(248年)に九真郡の城邑を複数攻め落とすと、交州全体に動揺が広がった。
これに対し孫権は陸胤を交州刺史に任命し鎮圧に向かわせる。反乱は陸胤によって平定され、趙嫗は戦死した。

80 :名無し曰く、:2016/02/08(月) 22:04:32.86 ID:ExElsQny.net
陸胤 敬宗 リクイン ケイソウ  (生没年不詳 ただし期間は199年〜275年)

統率:77 武力:63 知力:71 政治:83

揚州呉郡呉県の人。陸遜の族子。陸凱の弟。御史・尚書選曹郎であった頃、その名声を聞きつけた孫和から礼遇される。
赤烏六年(243年)頃から始まった二宮の変では、孫和派の一人として讒言に遭い投獄される。
激しい拷問を受けたが、他者を非難するような言動を一切しなかった。後に許されて衡陽の督軍都尉となる。
赤烏十一年(248年)九真郡で趙嫗らによる大規模な反乱がおこると交州刺史として派遣される。
陸胤は恩恵と信義を教え諭して、財貨を惜しまなかったため、賊の頭目や、これまで呉の支配を拒絶してきた人々まで次々に投降してきた。
また、蒼梧や建陵の賊を討伐し、それまでに得た兵士八千人を軍に編入した。
陸胤が交州刺史として赴任すること十年、農民や商人は安全に生活でき、災害は減り田が豊かに実った。また、塩害用の貯水湖を作り民衆を助けた。
永安元年(258年)、西陵督に移り、都亭侯に封じられた。華覈から高く評価され、中央に召すよう上奏があったが、その後の記録はない。

81 :名無し曰く、:2016/02/09(火) 22:26:41.77 ID:T76FCGuq.net
>>80 補足
撰に『廣州先賢傳』七巻があり、交州の優れた人物を顕彰している。


王嗣 承宗 オウシ ショウソウ (生没年不詳)

統率:53 武力:26 知力:61 政治:77

益州犍為郡資中県の人。延熙年間(238年-257年)、功徳が顕著ということで孝廉に推挙された。
次第に昇進し西安囲督・汶山太守となり、安遠将軍の位を付加される。 領内の羌族に恩愛と信義をもって接したため、みな彼に帰服した。
また、平素乱暴な諸部族もみな帰服して来たため、当時北方の国境地帯は安寧となった。
姜維が北伐をする度に、羌族は馬・牛・羊の毛織物を出し、さらに穀物を出して兵糧の助けとしたため、その資材を頼みとして戦うことができた。
鎮軍将軍に昇進し、そのまま郡太守も兼任する。王嗣は人情に厚く実意ある人柄で、人々に愛され信頼された。
後、姜維の北伐に随行した際、流れ矢に当たって負傷し、その矢傷のため数ヵ月後に死去した。
野辺送り(見送り葬)をする異民族は数千人に昇り、涙を流し、声を上げて泣いたという。
羌族は、王嗣の子及び孫たちに対し肉親のように接し、あるいは義兄弟の契りを結んだりした。

82 :名無し曰く、:2016/02/10(水) 07:23:02.77 ID:uHd2t0mE.net
三国志長く見てると使われる苗字や文字がわかってきて
名前と字付けで悩まなくなるのがすごいよな

83 :名無し曰く、:2016/02/10(水) 15:25:52.00 ID:7C+E9RHm.net
字は名と同義だったり真逆的なものだったり、対になってる感じのも多い
そこを踏まえておけばさほど悩むもんでもない

84 :名無し曰く、:2016/02/10(水) 23:59:12.18 ID:DiHJ4Ghx.net
成廉 セイレン (?〜198年?)

統率:73 武力:81 知力:23 政治:5

呂布の近衛の武将。史書には勇猛な将を意味する「驍将」または「健将」と表記される。
192年〜194年の間、流浪の呂布は袁紹を頼り客将となる。この頃、袁紹は精強を誇る黒山賊の張燕と争っていた。
呂布は成廉や魏越など数十騎のみを引き連れて、敵陣営に突撃を繰り返し、その度に敵将の首を取ってきた。そうしたことが十日余り続くと張燕軍は打ち破られた。
建安三年(198年)、曹操が呂布討伐の軍を下ヒまで進めると、呂布とともに迎撃に出陣したが大敗。成廉は捕虜となった。
演義では八健将の一人。初戦で曹操を後一歩まで追い詰めるが、典韋に撃退され、最後は濮陽において楽進に弓で射殺されてしまう。

85 :名無し曰く、:2016/02/11(木) 22:55:55.86 ID:c28HF5Iv.net
劉靖 文恭(水経注より) リュウセイ ブンキョウ (?〜254年)

統率:61 武力:35 知力:70 政治:81

魏の政治家。劉馥の子。劉弘の父。黄初年間(220年〜226年)、黄門侍郎から盧江太守に昇進した。後に河内太守、尚書、河南尹を歴任する。
統治下では盗賊や災害対策を行い、農業養蚕の道具などを補助してやり、官民を統制し貧民を救い、法律を順守させた。
彼の行政は父と同様に、初めは細かく煩わしいが、後々に人民にとって便利なものとなった。
正始年間(240年〜249年)、質の劣化した太学の改善案を上奏したがその時点では却下された。
後に鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事となり、「蛮族の対処は防御策以外になし」という信念のもと北方の要地に軍隊を置いた。
また、堤防を修復して広くし、薊の南北を灌漑して稲を植えさせたため住民は利益を得た。嘉平六年(254年)に死去した。

86 :名無し曰く、:2016/02/12(金) 23:43:34.45 ID:f9dHyoIP.net
徐胤 ジョイン (生没年不詳)

統率:72 武力:23 知力:61 政治:52

晋の武将。泰始五年(269年)、羊祜が都督荊州諸軍事として襄陽(?)に赴任するとその軍司(軍監・戦目付)となる。
軍中での羊祜はいつも軽装で鎧もつけず、護衛も十数人で狩りや釣りを好んだ。
あるとき羊祜が夜中に外出しようとすると、徐胤は割符を手に営門に立ちはだかって「万里を統括する御方が、軽装で出掛けて良いものでしょうか!
今日、私が死なない限りこの門は開きませんぞ!」と言った。すると羊祜は謝罪し外出も稀になった。
その後、羅憲の後任で巴東監軍として益州へ赴任する。
泰始八年(272年)の西陵の戦いでは、歩闡を救援するため羊祜は江陵へ、楊肇は西陵へ、徐胤は水軍を率いて永安方面から建平郡へ進軍した。
陸抗は水軍督・留慮と鎮西将軍・朱琬を派遣し徐胤を防いだ。楊肇が敗れると(おそらく)徐胤も撤退した。

87 :名無し曰く、:2016/02/13(土) 00:23:54.96 ID:c+hRnseU.net
異民族でも匈奴や南蛮関連じゃなくて卑弥呼や倭国関係の人物の能力査定が見たいな…

88 :名無し曰く、:2016/02/13(土) 23:59:38.12 ID:i2SDezpQ.net
周不疑 元直 シュウフギ ゲンチョク (194年?〜208年?)

統率:32 武力:19 知力:83 政治:60

荊州零陵郡の人。劉先の甥。幼くして異才があり、聡明で理解力に優れた。
劉先は彼の師を劉巴に依頼したが「甥御の教師として、自分は力不足である」と辞退した。
建安九年(204年)、曹操が面会すると娘を嫁がせようとしたが断ったという。
建安十二年(207年)、烏丸征伐の際の柳城攻略に手間取った曹操は、絵図を書き周不疑に計略を訪ねると十通りの策を献策した。
曹操がこれを用いると柳城はすぐに陥落した。
曹操はもともと曹沖の友として周不疑が釣り合うと考えていたが、曹沖が死ぬと「他の息子では制御できまい」と考え刺客をやって殺した。


>>87ほとんど事跡のない人は適当につけるから自分でつけた方がいいと思うよ

89 :名無し曰く、:2016/02/15(月) 22:52:49.12 ID:gk23SCO9.net
習珍 シュウチン (?〜221年?)

統率:58 武力:59 知力:34 政治:22

荊州襄陽郡の人。劉備に仕え零陵北部尉・裨将軍を務めていた。建安二十四年(220年)、関羽が呉に斬られると荊州の諸県が呉に呼応する。
習珍は抵抗しようとしたが、弟の習宏に「今は雌伏し、時期を待つべき」と説得され呉に降った。
習珍は武陵郡部従事の樊胄と密約を結び、章武元年(221年)の劉備の出征に合わせて同時に挙兵。
邵陵太守を自称し、七県を併せ異民族の地に駐屯し蜀に味方した。
しかし、呉から潘濬が討伐に来ると樊胄は敗れ、習珍も数百人で敗走し山に籠城した。
潘濬に対し「漢の鬼となろうと呉の臣下にはならない!」と頑強に抵抗したが、一月余りで兵糧や矢が尽きたため、部下を巻き込まないように自害した。
劉備は習珍の死を聞くと喪を発し、邵陵太守を追贈した。

90 :名無し曰く、:2016/02/16(火) 09:32:21.99 ID:bO8TlKKV.net
凄く役立つスレ発見した
スマホからなんで今は書けないが、前半空白地を埋める君守武将(張温、王叡、曹寅など?)が居ると嬉しい
三国志13だと開始直後に空白地取るのが強過ぎるからそれ防止にもなるし

今は出来ないけど、wikiに纏めたり新武将データをUPるとかとか新武将配置済みシナリオ配布とか…

91 :名無し曰く、:2016/02/16(火) 11:01:47.26 ID:7/mzqanV.net
はい嫁候補
http://www.youtube.com/watch?v=VmVXhPja-t4

92 :名無し曰く、:2016/02/16(火) 22:23:46.58 ID:lJqqMK9K.net
董白 トウハク  ((177〜188)?〜192年)

統率:9 武力:7 知力:48 政治:56 (11準拠)

涼州隴西郡臨洮県の人。董卓の孫娘。初平二年(191年)、長安に撤退した董卓は、董旻を始めとした内外の一族をみな高位に就けた。
董卓は郿城の東に壇を築き(縦横5m、高さ約1.3m)、金華青蓋車に董白を乗せ、郿にいる都尉、中郎将、刺史らが先導や御供となり、
侍中の董璜(董卓の兄の子・従伯父にあたる)が使者となって印綬を授けた。このとき董白は未笄(十五歳以下)であったが、渭陽君に封じられた。
初平三年(192年)董卓が暗殺されると、一族の籠る郿城に皇甫嵩が派遣され、親族は皆殺しとなった。

なお、白の親は不明であるため姓は不詳、仮に董とする。

93 :名無し曰く、:2016/02/17(水) 22:30:56.63 ID:9RLZcrrG.net
昌豨 ショウキ (?〜206年)

統率:82 武力:68 知力:55 政治:30

別名・昌覇。徐州の人。臧覇、孫桓らと同じ太山の首領の一人。初めは呂布に従っていたが、建安三年(198年)に呂布が敗れると曹操に降伏する。
建安五年、劉備が下邳で反乱を起こすと、これに呼応し東海国で挙兵。
鎮圧に派遣された夏侯淵、張遼を相手に数か月抵抗し、曹操軍を兵糧切れに追い込んだ。
しかし、敵対行動に迷いが生じ、また張遼の果敢な説得もあって再び曹操に降伏した。
冀州が平定された建安十一年(206年)、昌豨は再び反乱を起こす。
于禁が征討にあたったが降せず、夏侯淵の援軍や臧覇らと共同で十以上の陣が破られた。
敗北を悟った昌豨は旧友の于禁のもとに出頭したが、于禁が法律を順守したため斬首となった。

94 :名無し曰く、:2016/02/18(木) 20:21:42.98 ID:EgwAY9YY.net
ケ展 文穎(古今圖書集成より) トウテン ブンエイ (生没年不詳)

統率:51 武力:67 知力:63 政治:41

魏の奮威将軍。南陽の人。建安十八年(213年)、魏公就任をたびたび辞退する曹操に対して、
拝命を勧める群臣の中にケ展も名を連ねている(劉展の誤字で)。
また、ケ展は矛や戟など五種の長柄武器に精通し、無手であっても白刃の中で戦えるといわれた。
あるとき曹丕、劉勳らと酒の席で撃剣の議論をしている際に、曹丕と意見が対立して試合で武法の是非を証明することとなった。
戯れの試合であったため干蔗(砂糖キビ)の剣で戦ったが、二回とも曹丕に完敗した。
ケ展は武だけでなく、『漢書』の注釈を残しており、「ケ展曰く」の注が現在でも残っている。
また『孝子傳』に、蚊の多い季節に窓の下で眠る父母のため、床に伏せて蚊を自分に吸わせた、という逸話がある。

95 :名無し曰く、:2016/02/19(金) 22:17:32.95 ID:fnq8cMSG.net
馮氏 フウシ (?〜197-199年)

袁術の愛妾。司隷の馮方の娘。国内随一の美女で、千金に値する髪飾りを有した。
戦乱を避け揚州(寿春)に避難していた馮氏は、城壁に登った袁術の目にたまたま留まり、後宮に入れられると甚だ寵愛された。
それに嫉妬した妻妾たちから「会うたびに泣けば更に気に入られますよ」と悪意の忠告をされる。
それを真に受けた馮氏が実践したところ、袁術の目には「別な想い人のために涙する志節を持った女性」と映り、ますます寵愛された。
焦った妻妾たちは馮氏を縊り殺し、自殺に見せかけて厠の梁に掛けておいた。
袁術は想いを果たせず自害したのだろうと考え厚く葬った。
『演義』では袁術即位時に皇后に立てられた。

96 :名無し曰く、:2016/02/20(土) 22:05:03.56 ID:PAxxSQ3Z.net
宋建 ソウケン (?〜214年)

統率:65 武力:70 知力:44 政治:32 (統率以外[の宋揚に準拠)

涼州隴西郡の人。別名に宋揚? 涼州の独立勢力の主。
中平元年(184年)冬、北地郡の羌族や枹罕、河間の群盗は北宮伯玉、李文侯らを将軍に立てて反乱を起こした。
宋建も王国と共に賊軍に加わり、金城太守・陳懿を殺害。辺章・韓遂を拉致し、無理やり頭目に擁立した。
反乱軍は、張温や董卓ら討伐軍との戦いでも優勢であったが、流星を不吉に感じ金城に撤退した。
その後、宋建は隴西郡の枹罕県で河首平漢王を自称し、改元や百官を設置して国家として三十年ほど自立した。
建安十九年(214年)冬十月、曹操から派遣された夏侯淵、張コウらに包囲を受け、一ヶ月余りで陥落し、配下共々斬られた。

97 :名無し曰く、:2016/02/21(日) 23:15:32.63 ID:J593kzLN.net
成済 セイサイ (?〜260年)

統率:31 武力:68 知力:19 政治:17 (統率以外は[のステータスに準拠)

魏の太子舎人。兄に成倅。甘露五年(260年)五月七日、司馬昭の専横に対して、魏帝・曹髦は下僕など数百人を連れて決起した。
司馬昭側は王業、王沈から密告を受けていたが、東止車門で遭遇した司馬チュウ勢は一喝され敗走。
賈充も南闕門で曹髦を迎撃したが部隊が逃げ腰になり劣勢となる。
成済は賈充に「如何すべきか」と問うと、賈充は「お前たちを養ってきたのは今日のためだ!後から咎めたりしない!」と答えた。
そこで成済は前進し曹髦を刺殺した。しかし、事態が収まると成済は皇帝弑殺の大罪人として罪を押し付けられ一族諸共処刑された。

98 :名無し曰く、:2016/02/22(月) 21:14:44.48 ID:kaYBUU29.net
鄭渾 文公 テイコン ブンコウ (生没年不詳 生年は152年?以降 死亡年は226年〜239年の間)

統率:67 武力:63 知力:77 政治:89

司隷河南尹開封県の人。兄に鄭泰。揚州刺史の兄が赴任前に病死したため、(193年以降)、兄の遺児を連れて淮南に避難した。
しかし袁術の破滅を予見して、親交のあった豫章太守・華キンのもとに身を寄せた。
その後、曹操から招聘され邵陵などの県令を務める。
建安十七年(212年)頃に左馮翊(官名)に遷ると、その地で跋扈する梁興の勢力を計略で弱体化させ、夏侯淵と共に梁興らと戦い斬った。
建安二十年(215年)の漢中遠征時は京兆尹となり、兵糧輸送により功績第一となる。
その後、各地の太守を歴任し、堤防作りや植林など主に農業によって任地を富ませた。

99 :名無し曰く、:2016/02/23(火) 22:42:44.20 ID:f+vobxpI.net
>>98訂正 死亡年は226年以降


丁斐 文侯 テイヒ ブンコウ (?〜216年から数年後)

統率:51 武力:26 知力:66 政治:21

豫州沛国の人。丁謐の父。曹操と同郷人ということで特別目に掛けられ、たびたび賄賂を要求し法に触れたがその度に不問とされた。
丁斐は典軍校尉として内外を取り仕切り、その意見はよく採用された。
建安十六年(211年)、潼関の戦いで曹操は馬超に急襲されたが、
丁斐が牛馬の群れを放って敵兵士の気を逸らしたため危機を脱することができた。
建安二十一年(216年)の濡須口の戦いにも従軍したが、
自身の痩せ牛と国家の牛をこっそり交換したことが発覚し、官位を剥奪され投獄された。
曹操は「こやつを用いるのは、鼠除けに盗人犬を飼っているようなものだ」といって笑い、官位を戻して不問とした。

100 :名無し曰く、:2016/02/23(火) 22:53:33.84 ID:gGMXHThl.net
陳王の劉寵ってシリーズにでてきた事あったっけ?

489 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail (省略可) :

read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★