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三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレ

1 :名無し曰く、:2015/12/13(日) 11:35:40.05 ID:+yEydTvv.net
三國志シリーズで新武将を作成する際に、参考になるように人物を評価・紹介していくスレ

※「人物名」はもとより、「どんな人物なのか」という説明はなるべく書いてください
  統率などの能力値の記載は自由
  紹介する範囲は史実、創作を問いませんが、三國志関連(せめて中国史)に限定してください
  最近のシリーズで登場が干され気味の人物も可


例:

馬元義 バゲンギ (?−184年)

統率:60 武力:40 知力:70 政治:60

黄巾党の大方。洛陽に往来し、中常時の封諝、徐奉らを内応させ決起を準備するが、
張角の弟子の唐周に密告され車裂きの刑になった。


↑こんな感じで

626 :名無し曰く、:2021/09/23(木) 23:43:40.19 ID:OEbOJxmF.net
張喬 チョウキョウ (生没年不詳)

晋の城陽都尉。咸寧五年(279年)、王渾に率いられて征呉軍に従う。
王渾は参軍の陳慎と張喬を尋陽郡に送ると、呉の孔忠を破り、周興ら五将を捕らえた。
その後、張喬は七千で楊荷橋に陣を構えたが、張悌ら三万の包囲を受けて一時的に降伏する。
張悌は穴埋め案を退け、慰撫した後に周浚らの陣営に攻撃を仕掛けた。
三度攻撃して退くところを薛勝、蒋班が追撃して呉軍が崩れると、張喬はその背後から攻撃して版橋で大打撃を与えた。

※城陽郡は青州。尋陽は柴桑の対岸。312年に登場する劉琨の部下・張喬と同じか不明。

627 :名無し曰く、:2021/09/26(日) 01:28:35.80 ID:TNozitz5.net
>>617
敬意を持っている相手の名であれば改めたでしょう
何故かは知らないけど陸遜や徐庶は改名している

628 :名無し曰く、:2021/09/30(木) 21:59:45.30 ID:qeokqAqS.net
周浚 開林 シュウシュン カイリン (?〜289年)

豫州汝南郡安成県の人。父に周裴、妻に李絡秀、子に周など。
果敢で気性激しく、才知と道理に通じて名を知られ、人物眼があった。
初めは州郡の招聘に応じず、後に魏の尚書郎となり、御史中丞から折衝将軍、揚州刺史に任じられる。
咸寧五年(279年)に王渾と共に征呉軍に従う。沈瑩など呉の精鋭から三度攻められるが、
周浚や張翰の陣は動揺せず、退却するところを追撃して呉軍に大勝した。
その後は秣陵に移り、陸雲など呉人を召すなど威光と恩沢で鎮撫する。
朝廷では侍中から少府に遷り将作大匠を兼ね、外に出ては都督揚州諸軍事を務めた。

629 :名無し曰く、:2021/10/07(木) 20:22:14.65 ID:q+w+qc18.net
羅尚 敬之 ラショウ ケイシ (?〜310年)

荊州襄陽郡の人。晋の益州刺史。父に羅式、叔父に羅憲。若くして父を失い羅憲を頼る。
蜀漢滅亡後は文章が得意なことから荊州刺史・王戎の参軍となり、劉喬と刺史の事務を担当した。
咸寧五年(279年)、王戎のもと征呉軍に加わり、劉喬と先鋒となって武昌に侵攻する。
その結果、武昌督の孫述、将の楊雍、江夏太守の劉朗らを降伏させた。
289年頃は梁州刺史となり、後に仮節、平西将軍・益州刺史・西戎校尉に任じられる。
蜀での評判は非常に悪かったが、李密の子や杜軫の子を取り立て、宗岱と協力して反乱した李特を討伐した。

630 :名無し曰く、:2021/10/14(木) 23:58:58.22 ID:+eE2J20+.net
荀衍 休若 ジュンエン キュウジャク (生没年不詳)

豫州潁川郡潁陰県の人。後漢の監軍校尉。荀緄の三男で荀ケらの兄、息子に荀紹。
陳羣と孔融が汝南、潁川の人物を論じた際に、
陳羣は「荀ケ、荀攸、荀衍、荀ェ、荀悦らに並ぶ者は現代にいない」と評した。
曹操が袁尚の討伐に向かうと鄴の留守を預かり、河北の諸事を統括する。
建安十年(205年)に高幹が鄴に兵を繰り出して奇襲したが、
察知した荀衍はこれをすべで撃滅し、その功績で列侯に封じられた。

631 :名無し曰く、:2021/10/21(木) 21:53:30.88 ID:RU8Bavjm.net
陳俊 チンシュン (生没年不詳)

演義に登場する魏の武将。諸葛誕の乱に従軍した。
鍾会は「呉兵が諸葛誕を助けるのは利の為であり、利で誘えば必ず勝てる」と進言。
司馬昭はそれに従い、石苞らを伏兵とし、成倅に囮部隊を率いさせ、
陳俊には牛馬に軍の褒賞を乗せて、その陣中に散在させる。
諸葛誕が魏の動きが悪いと見て襲撃すると、成倅などは敗走し牛馬などが野に残った。
そうして部隊の呉兵が物資の奪い合いを始めた頃合いで、石苞らが諸葛誕を攻撃して大破した。

632 :名無し曰く、:2021/10/28(木) 23:17:27.22 ID:6wHocE2G.net
袁隗 次陽 エンカイ ジヨウ (?〜190年)

豫州汝南郡汝陽県の人。後漢の太傅で、いわゆる袁氏の四世三公の一人。
父は袁湯、兄弟に袁逢ら、甥に袁紹、袁術など。若くして南陽太守や大鴻臚など顕官を歴任し、
兄の袁逢より先んじて172年に三公に任じられる。このころ、董卓や桓典を司徒府に招いた。
また太常、後将軍、太尉、太傅など務め、少帝が即位すると何進と共に政務を補佐する。
何進が謀殺されると、袁紹と共に宦官派の樊陵や許相を殺害した。
その後、少帝の廃立に協力的だったが、初平元年に袁紹が決起すると、
袁隗や袁基などの一族は董卓にまとめて誅殺された。

※南陽郡に赴任した際は、現地の山中に湧く霊水を取り寄せて飲んでいた。

633 :名無し曰く、:2021/11/04(木) 22:04:09.90 ID:Xp/qCx9w.net
馬倫 バリン (122年〜184年)

京兆右扶風茂陵県の人。馬融の娘、袁隗の妻で、子に袁満来、袁懿達、袁仁達。
若くして弁才があり、実家が富豪であったので、袁隗との挙式は盛大に行われた。
式が済むと袁隗は馬倫に、支度が豪勢に過ぎること、姉より先に嫁いだこと、
父が金銭で悪評が立つ理由を問うと、そのすべてに巧みに反論しやり込めた為、
袁隗は言い負かせず黙ってしまった。帳の外で聞いていた者もまた恥じいったという。
当時、袁隗は重用され位も高かったが、馬倫もまた世に名を知られ、六十二歳で亡くなった。

634 :名無し曰く、:2021/11/13(土) 17:16:14.96 ID:CX1XaqMv.net
戴昌 タイショウ (生没年不詳)

徐州広陵郡の人。呉の太尉。父は戴烈、子に戴淵、戴邈。
太尉の頃、同郷で八歳の盛彦が訪ねてきたので詩を贈って様子を見ると、彼は傍らに座ってこれに答えた。
呉の滅亡後は武陵太守となる。任地で戴昌は談論を良くしたが、同席した潘京の才に及ばないことを悟ると息子の戴淵を呼んできた。
潘京と戴淵との対話は言論を極め、「才能は貸し借りできぬものだ」と親子共々感服する。その後は会稽太守を務めた。

635 :名無し曰く、:2021/11/18(木) 22:51:40.28 ID:7hVfxz0W.net
蔡睦 子篤 サイボク シトク (生没年不詳)

兗州陳留圉県の人。魏の尚書。祖父に蔡質、子に蔡広、蔡徳。
後漢末期、親族と別れて友人の王粲と共に荊州に避難していたが、後に故郷の陳留に旅立った。
王粲の『贈蔡子篤詩』はその時の離情を述べたものとして現存する。その後は曹魏に仕え、尚書を務めた。

※父は蔡質の子(蔡ヨウの従弟)の蔡谷だろうか。荊州への避難はおそらく王粲に同行したと思われる。

636 :名無し曰く、:2021/11/26(金) 00:03:16.99 ID:Mp70jQKb.net
祖武 ソブ (生没年不詳 没年は270年代か)

幽州范陽郡遒県の人。晋の上谷太守。子に祖該、祖納、祖逖、祖約など六人(祖逖から後妻の子)。
代々太守を輩出する北方では著名な家柄であった。晋王・司馬昭の掾を務めた後に、上谷太守に遷った。
祖武の死後、祖逖らの母は洛陽で暮らしていたようだが、304年頃には死去していたようだ。
後世、祖逖の威勢を恐れた石勒は、その父祖(あるいは母)の墓を修繕して友好を求めた。

637 :名無し曰く、:2021/12/02(木) 21:56:09.66 ID:CJIXsTTf.net
何邈 カバク (?〜280年)

揚州丹陽郡句容県の人。呉の武陵監軍。祖父に何遂、伯母に何姫、父に何洪、叔父に何植。
孫皓が即位し、伯母が皇太后となるとその弟である何洪、何蒋、何植らは侯に封じられる。
父の何洪が没すると何邈は永平侯を継ぎ、武陵監軍として武林城に駐屯した。
天紀四年(280年)、征呉の戦いで杜預が江陵を落とすと荊南一帯はほとんど降伏する。
そうした中、何邈は何らかの抵抗をしたのか晋軍に殺害されている。

638 :名無し曰く、:2021/12/02(木) 22:28:10.45 ID:CJIXsTTf.net
>>637
追記:別働の李毅が武陵方面に侵入しているのでここで交戦したかも

639 :名無し曰く、:2021/12/10(金) 22:44:30.79 ID:Uma446cf.net
何都 カト (生没年不詳)

揚州丹陽郡句容県の人。伯母は何姫、父は何洪か何蒋、叔父に何植。
鳳凰三年(274年)、孫皓は張布の娘の葬儀を盛大に行い、その喪のため半年は姿を現さなかった。
そのため今回の葬儀は実は孫皓のものと民衆に勘繰られた。
また孫晧の従兄弟で顔の似ている何都が(何一族の悪評も相まって)かわりに帝位に就いたという噂もたった。
臨海太守の奚煕はこれを真に受け、挙兵して何都を討とうとしたが、叔父の何植によって撃退された。

640 :名無し曰く、:2021/12/16(木) 22:25:55.63 ID:+YrX4TQO.net
馮朝 フウチョウ (生没年不詳 264年頃には死亡か)

呉の衛尉。息子の馮純は張布の長女を娶った。
五鳳二年(255年)七月、丞相・孫峻は広陵郡への築城を企図し、
(滕胤の不可能だという諫言を無視して)馮朝に実行を命じる。
また、呉穣を広陵太守に、留略を東海太守に任じるなど徐州方面への侵攻を図った。
同十二月、馮朝は監軍使者・督徐州諸軍事に任じられたが結局、
城の工事は完成せず、旱魃も相まって軍民の間で怨嗟が広がった。

641 :名無し曰く、:2021/12/23(木) 23:36:46.04 ID:MquxAbw9.net
王化 伯遠 オウカ ハクエン (生没年不詳 72歳で没)

益州広漢郡郪県の人。蜀漢の尚書郎。祖父は王商、父は王彭、弟に王振、王岱、王崇。
若くして兄弟ともに有望視され、『毛詩』『三礼』『春秋公羊伝』を治める。
広漢郡の功曹から州の従事、光録郎中、尚書郎を経て、閬中県令の際は清廉な治政で孝廉に挙げられた。
蜀漢が滅びると涼州酒泉郡の楽涫県令を務める。
胡族の反乱が起こると、孤立無援で七年に渡り官民を率いて堅守し、また隙を見て攻撃して関内侯に封じられた。
後に朱提や梓潼太守を務め賞賛を受ける。性格は謹重で言論は雅びやか、正否は妥当で人民から敬服された。

※弟が陳寿と同年代っぽいので生没は220年〜291年あたりか、また酒泉の反乱は樹機能の余波だろうか

642 :名無し曰く、:2022/01/13(木) 19:26:46.46 ID:FSVGo9VF.net
王崇 幼遠 オウスウ ヨウエン (生没年不詳)

益州広漢郡郪県の人。蜀漢の東観郎。祖父は王商、父は王彭、兄に王化、王振、王岱。
若くして兄弟ともに有望視され、学業に広く通じ、雅びで粋な性格だった。
蜀漢では史官の東観郎を務め、滅亡後は梁州別駕に辟され秀才に挙げられる。
後に寿良、李密、陳寿、李驤、杜烈と共に都に入り、益梁二州の俊才と言われた。
彼らは次第に疎遠となったが、王崇だけは寛容な性格で付き合いを保った。
後に尚書郎や上庸、蜀郡太守を務め、劉禅の後継・劉恂が無道な振る舞いをすると何攀や張寅らと連名で諫めた。
著作に『蜀書』の他、詩賦が数十篇。

643 :名無し曰く、:2022/01/20(木) 20:21:28.88 ID:WSANtD97.net
蒋珩 ショウコウ (生没年不詳)

荊州零陵郡泉陵県の人。祖父母は蒋琬と毛氏、父母は蒋斌と費禕の娘。子に蒋恭。
263年、蜀漢滅亡の際に父や叔父が死去すると、祖母の毛氏は三男と蒋珩を連れて、
同族の蒋瑜を頼って故郷の零陵郡に移住した。その後は呉に仕えて始興太守や広州都督を務める。
意気は英爽で誤りを糾し、行いは神の如く速かった。
呉が亡ぶと晋朝に仕え、揚州で仏寺を建立する。中原の民衆がこぞって帰依したのは彼の尽力によるものだった。
死去すると零陵城東に葬られた。

※集解注で趙一Cが「蒋琬の兄弟ではないか」とコメントがあるが、出身県や時代が異なる。
『永州府志』は同県出身で特に言及なし、『梅潭蒋氏世譜』では孫とする。

644 :名無し曰く、:2022/01/27(木) 23:10:19.57 ID:6jEAx358.net
張芝 伯英 チョウシ ハクエイ (?〜190-193年 初平年間に没)

涼州敦煌郡酒泉県の人で後に弘農郡に移った。後漢の書家。張奐の長子で弟に張昶、張猛。
草書の改良者で「草聖」「書聖」と呼ばれた。若くして高い意思を持ち、名臣の子息として勉学に励み文武に秀でる。
朝廷からの辟召には応じず、草書を好んで杜度や崔瑗に書法を学び、家の白布には全て書の練習に用いた。
また、池に臨んで鍛錬して水が墨で黒くなった逸話は「臨池」の故事となる。
筆を下せば必ず手本となり、草書をする暇さえないと言われ、寸紙も残らなかった。
鍾繇や王義之と共に古今の三筆の一人。

645 :名無し曰く、:2022/02/03(木) 20:11:40.11 ID:+/V/t77H.net
韋誕 仲将 イタン チュウショウ (179年〜253年)

司隷京兆尹杜陵県の人。魏の光禄大夫、書家。父に韋端、兄に韋康、子に韋熊。
文才や墨の製法、印相に通じ、張芝や邯鄲淳の書法を学ぶ。
建安年間に郡の上計吏から郎中となり、227年頃に武都太守(能書家のため中央勤め)、
後に侍中や中書監を経て光禄大夫を務めた。
魏の宝物の銘文や洛陽、許昌、鄴の宮殿の題字は全て彼の手によるが、
明帝の時に凌雲台の題字を書くために、二十五丈(60m)の高さで作業した経験から子孫に書を戒める。
251年、司馬懿が王凌討伐から帰還すると、皇帝の使者として軍を慰労した。共著作に『魏書』『皇覧』など。

646 :名無し曰く、:2022/02/10(木) 00:10:44.08 ID:NFJUUK+T.net
左伯 子邑 サハク シユウ (生没年不詳)

青州東莱郡の人。後漢末の書家、製紙家。
書の八分体に巧みで、毛弘らと並び称され、邯鄲淳とは趣が異なるが漢末に名高かった。
また紙造りに特に優れて、蔡倫の製紙技術を受け継いで改良を施す。
彼の製造した「左伯紙」は後に”妍妙輝光”と評され、
韋誕が「良い仕事には良い道具。張芝の筆、左伯の紙、臣(韋端)の墨が必要です」と奏上したほど珍重された。

647 :名無し曰く、:2022/02/17(木) 20:36:41.45 ID:4zHwE3vd.net
崔巨業 サイキョギョウ (生没年不詳)

袁紹の武将。初平三年(192年)、界橋の戦いで公孫瓚が薊に敗走する。
その頃、袁紹は占星術に長けた崔巨業に(財貨を贈り寝食を共にするなど厚遇した上で)吉兆を占わせ、
期日を決めて涿郡故安県を包囲させた。崔巨業は数万の軍勢で向かったが落とせず、南に退却する。
しかし、公孫瓚が率いる三万の追撃部隊と巨馬水の辺りで戦闘になり、死者七千を超える大敗を喫した。
その後の詳細は不明だが、公孫瓚軍は勝ちに乗じて平原まで南下した。

※「巨業」を字とみると、崔琰の兄の崔覇と同一人物かもしれない(名+字で覇業)

648 :名無し曰く、:2022/02/24(木) 23:57:15.35 ID:KBI+eY9F.net
胡羆(熊) 季象 コヒ キショウ (生没年不詳)

揚州楚国寿春県の人。晋の征南将軍。父は胡質、兄に胡威。父や兄と同様に潔白な行為で名を知られた。
才幹を有し、荊州刺史・征南将軍を務める(襄陽の山上に碑文があったという)。
呉の平定後(280年)は益州刺史・安東将軍に転じ、王長文を辟召しようとしたが果たせなかった。
また李密の『述理論』を評価した。

649 :名無し曰く、:2022/03/03(木) 21:43:13.80 ID:y2vjOpgm.net
曹冏 元首 ソウケイ ゲンシュ (生没年不詳)

豫州沛国譙県の人。魏の弘農太守。曹騰の兄・曹叔興の子孫で、曹丕と同年代にあたる。
正始五年(244年)、魏の皇族は大きな制限と監視のもと不遇の生活を強いられており、
国家の藩屏の観点からも封建を行うよう上奏を行ったが(『魏分封論』)、曹爽には理解されなかった。
また著作の『六代論』は後世に曹植作と仮託されたため、司馬炎から曹志(曹植の子)に作者の諮問が行われた。
泰始八年(272年)、都督関中雍涼諸軍事である司馬亮の軍司を務め、
失態を犯した劉旂の助命を連名で上表したが拒絶された。

650 :名無し曰く、:2022/03/10(木) 19:33:52.35 ID:wdkKvAx3.net
谷朗 義先 コクロウ ギセン (218年〜272年)

荊州桂陽郡耒陽県の人。呉の九真太守。幼くして両親を亡くすが、温和で道義に外れず、養父や弟と暮らした。
若くして郡に仕え、陽安県長の後に中央で郎中、尚書令史、荊州に戻ると郡の中正や長沙の県令などを歴任する。
その後、中央や広州で任用され、恩恵をもって人々を教化し、汚濁を一掃し人事は公正厳格であった。
また、呉では263年から呂興の反乱で交趾付近を失陥しており、晋軍とたびたび戦闘が行われていたが、
威信恩義で知らる谷朗が九真太守に抜擢される。
その後、薛珝、陶璜らの活躍で交趾などが回復したが、翌年の272年に没した。

651 :名無し曰く、:2022/04/02(土) 20:45:54.53 ID:a6SDkNO+.net
柳伸 雅厚 リュウシン ガコウ (生没年不詳)

益州蜀郡の人。蜀漢の巴東太守。子に柳純。若くして同郡の柳隠や杜禎らと名を知られた。
また、杜禎と共に益州牧の諸葛亮の従事に辟され、杜禎が梁、益二州の都督となるとその補佐にあたる。
その後は漢嘉太守、巴東太守を務めた。蜀の滅亡後は杜禎の子・杜珍と共に秀才に挙げられた。

※梁州が設置されたのは蜀滅後なので時系列が多少前後しているかも

652 :名無し曰く、:2022/04/08(金) 19:50:41.80 ID:R4J7yjWp.net
鄒軌 スウキ (生没年不詳)

荊州南陽郡新野県の人。魏の左将軍。息子に鄒湛。
後漢末期から放置されていた雍州以西に対して、曹丕の時代に初めて涼州が設置されると、
安定太守であった鄒軌が涼州刺史に任じられる。
しかし、張掖郡で張進が郡守・杜通を殺害し、鄒軌の着任を拒むと、黄華、麹演らも太守を追い出して呼応した。
これらの反乱は張既、蘇則、郝昭、魏平、毋丘興らの活躍で鎮められるも、
盧水胡の伊健妓妾、治元多が反乱すると曹丕は「張既でなくば涼州を安んじられぬ」として刺史の位を交代させた。
後の徐州刺史の頃に桓範と屋敷を巡って小競り合いをした。

※「息子に鄒湛」までは鄒軌、それ以降は鄒岐の事績。両者を同一人物ととらえた。

653 :名無し曰く、:2022/04/17(日) 20:56:51.02 ID:e7w0Lj0M.net
鄒湛 潤甫 スウタン ジュンホ (?〜299年頃)

荊州南陽郡新野県の人。晋の少府。父に鄒軌。
若くして才能と学識で名が知られ、魏に仕えて通事郎、太学博士を務める。
泰始の初め頃(265年頃)、尚書郎や廷尉平の後に征南将軍・羊祜の従事中郎となり重んじられた。
中央に戻ると太子中庶子となり、太康年間に散騎常侍、渤海太守、楊駿の長史や侍中を務める。
291年に楊駿が誅殺されると免官となったが、後に散騎常侍や国子祭酒、少府を務め、元康の末(299年頃)に没した。
著作は詩や論など二十五首の他に『周易統略』

654 :名無し曰く、:2022/04/23(土) 19:15:42.21 ID:u3QWtJqr.net
習温 シュウオン (生没年不詳)

荊州襄陽郡の人。呉の武昌太守。習珍の子。
十数歳の頃に潘濬から「この子は必ずや我が州の主導者になるだろう」と言われ、その子弟らと親しく付き合う。
父は潘濬に攻められ自害したが、習温は呉に仕えて長沙、武昌太守、選曹尚書、広州刺史などを歴任した。
彼は見識と度量が広く、三十年の官歴で名誉を求めず権勢と結ばず、長子の習宇が奢侈であると、
これを叱り杖で撃つなど慎重な処世をする。潘濬の子・潘秘が「貴方に次ぐ州の主導者は誰か」と問うと
「君以上はいない」と答えその通りになった。

655 :名無し曰く、:2022/05/01(日) 19:44:56.36 ID:8sd6MLlY.net
李伏 リフク (生没年不詳)

張魯の臣下。213年、曹操が魏公に就任したが、漢中では詳細がわからず、みな王になったと考えた。
しかし、武都の李庶と姜合は「公であり、まだ王ではない。
天下を平定するものは魏公の子桓であり予言に付随する」と李伏に告げる。
李伏はこの件を張魯に報告し、後に亡命者から魏国の詳細を得たが姜合の言と合致した。
こうした経緯から張魯と協議して曹操への帰順を望むようになる。
魏国では左中郎将となり、新参ゆえに躊躇っていたが、220年に曹丕の即位運動が起こると姜合による予言の内容を上奏した。

656 :名無し曰く、:2022/05/07(土) 18:19:56 ID:5WB6SB7M.net
李休 子朗 リキュウ シロウ (生没年不詳)

荊州南陽郡の人。張魯の司馬。李勝の父で知略を有した。
南鄭に住んでいた頃、漢中に甘露が降ると、張魯が数万の精兵を持ち四方を抑え、
赤気(漢朝)は衰え黄家(張魯勢)が隆興するとして張魯に尊号をとなえるよう進言したが、採用されなかった。
215年の曹操との戦いでは、張魯に降伏を進言しため関内侯を賜り、散官騎従となり鄴に移る。
黄初年間(220年~226年)に上党、鉅鹿太守を務め、後に老年を理由に議郎に召し返された。

※同一勢力、名前が似ている、張魯の帰順に功績、予言系の逸話から李伏と同一人物かも

657 :名無し曰く、:2022/05/16(月) 22:07:56.83 ID:gOylasxX.net
謝承 偉平 シャショウ イヘイ (生没年不詳)

揚州会稽郡山陰県の人。呉の武陵太守。姉に謝夫人、子に謝嵩、謝勖。
博学で見識広く、一度知ったことは生涯忘れなかったという。
姉は孫権の夫人となったが、徐夫人との関係で寵愛が薄れて早くに死去した。
謝承はその十数年後に五官中郎将に任じられ、長沙東部都尉、武陵太守と昇進した。著作に『後漢書』百三十巻。

※257年に長沙東部は湘東郡に変更されたので着任はそれ以前。謝承『後漢書』は成立が最も早く、現行の『後漢書』とは別の書。

658 :名無し曰く、:2022/05/25(水) 20:17:52.32 ID:dkkyvsWs.net
劉寛 文饒 リュウカン ブンジョウ (120年~185年)

司隷弘農郡華陰県の人。後漢の太尉。父に劉崎、子に劉松。
若くして『欧陽尚書』『京氏易』を学び、星官、風隅、算歴を極めて「通儒」と称される。
また権勢や利益で他人と争ったことがなく、温和でつねに寛容であった。
桓帝の時代に侍中、尚書、東海国相、南陽太守のほか二郡を歴任する。
任地では功績を譲り、責任をかぶり、巡察の際には経書を手に講義を行って広く人々を教化した。
霊帝の時代では請われて帝に経典を講義し、黄巾党の乱を予見し上奏した功績から侯に封じられる。
酒を好んだが手洗いや湯あみを好まなかった。

※星官は中華の天文体系、風隅は風向や言葉の音による占い、算歴は算術と暦法

659 :名無し曰く、:2022/07/11(月) 21:17:25.62 ID:RRE8dssl.net
魏騰 周林 ギトウ シュウリン (生没年不詳)

揚州会稽郡上虞県の人。呉の鄱陽太守。剛直な性格で困難に遭っても行いを曲げなかった。
孫策の功曹の頃、譴責を受け処刑されそうになったが、呉夫人から「職務に尽くす魏騰どのを殺せば、
誰が付いてくるのか」という説得で助命された。
また、孫権の時代に罪を犯し、激怒した孫権から「助命を意見する者も同じく処刑する」との布告がなされる。
しかし、同郷で友人の呉範による決死の歎願によって釈放され、大いに感謝した。
職歴は、歴陽、鄱陽、山陰の三県令を務め、鄱陽太守まで昇ったという。

※陳琳の檄文に父の徳業を良く継承した者として魏周榮の名があるが同一人物か。

660 :名無し曰く、:2022/07/19(火) 21:41:44.86 ID:FHbmXFpQ.net
殷基(興) インキ (生没年不詳)

揚州呉郡雲陽県の人。呉の無難督。父に殷礼、子に殷巨、殷祐ら三人。
才能と学問によって名が知られた。晋朝では尚書左丞を務め、著作に『通語』『春秋釈滞』などがある。
『通語』は父・殷礼が作ったものを殷基が補い完成させたとする説もある。

661 :名無し曰く、:2022/07/25(月) 23:43:02.11 ID:FSTZSK1n.net
殷巨 元大 インキョ ゲンダイ (生没年不詳)

揚州呉郡雲陽県の人。呉の偏将軍。父に殷基、弟に殷祐ら二人。
才幹を有し、偏将軍として家の部曲を率いて夏口城に駐屯した。
呉平定後は晋に属し蒼梧太守に任じられた。

※征呉の時は胡奮、王戎、王濬の軍勢に降伏したと思われる

662 :名無し曰く、:2022/08/09(火) 21:02:01.03 ID:RCLK6ywH.net
陳術 申伯 チンジュツ シンハク (生没年不詳)

益州漢中郡の人。蜀漢の上庸太守。博学でもって名が知られ、
彼のほか鄭厪、趙謙、祝亀、王商らは巴蜀の事績をまとめ『巴蜀耆旧伝』を著した。
後に陳寿はこれに加筆し『益部耆旧伝』十篇として編纂した。
著作はほかに『釈問』七編や『巴蜀耆旧伝』の志などがある。
業績は失伝したが、新城、魏興、上庸の三郡の太守を歴任した。

663 :名無し曰く、:2022/09/20(火) 21:35:10.57 ID:XWGw8W1/.net
王昌 公伯 オウショウ コウハク (生没年不詳)

揚州長沙郡の人。晋の散騎常侍。父に王毖、弟に王式のほか、面識のない兄がいた。
後漢末、父の王毖は妻子がいたが、呉の反乱(孫権政権)により生き別れとなり、後妻を娶って王昌らをもうける。
王昌は曹彰の長女を娶り、東平王・司馬楙の国相を務めた。
天下統一後の太康元年(280年)、司馬楙は「王昌が義母の服喪を行うべきか否か」を朝廷に上言し議論される。
論者の大半が行う必要はないと主張し、最終的に司馬炎が不許可の詔を下した。
王昌の官位は散騎常侍まで昇ったが早世した。

※『襄陽耆舊記』に彼の事績が残るため、父か、彼の代に長沙から襄陽に本籍を移したか

664 :名無し曰く、:2022/10/18(火) 19:41:52.90 ID:9UF7RQpU.net
袁忠 正甫 エンチュウ セイホ (?~196年頃)

豫州汝南郡汝陽県の人。 .後漢の沛国相。祖父は袁彭、父は袁賀、兄に袁閎、弟に袁弘、子に袁祕。
党錮の禁で投獄された際は、病気の囚人より自分を尋問せよと同郡の范滂と先を争う。
初平年間(190年~193年)、沛国相を務めて清亮と評判だった。
李傕らが台頭すると、陶謙と共に朱儁を盟主に建てようとしたが成らず、官を棄て会稽上虞県に逃れる。
現地では太守・王朗の従者が着飾るのを見て嫌悪し、病と称して関係を断った。
196年、孫策が会稽を落とすと交趾に逃れ、同年、献帝が許に遷ると、衛尉に徴されたが到達する前に死去した。

※曹瞞傳に「曹操が士燮に命じて袁忠ら家族を殺害させた」とあるが、兄や弟は自宅で死に、
  息子の袁祕は黄巾に殺害されているなど、後漢書の記述とはなはだ一致しない。

665 :名無し曰く、:2022/10/26(水) 00:59:53.57 ID:4+/D6U3n.net
皇甫晏 コウホアン(?~272年)

晋の益州刺史。正元二年(255年)頃は雍州刺史・王経の部下であり、
260年に彼が処刑されると、家財を売って葬儀を行った。
泰始八年(272年)頃は益州刺史を務めた。この年、汶山の白馬胡が他の異民族を略奪すると、
皇甫晏は討伐に出撃し、五月に都安県に至り観阪に駐屯した。
しかし、この出征には様々な不吉な兆候があらわれ、別駕従事・王紹や典学従事の何旅らがたびたび諫めたが、
皇甫晏は聞き入れなかった。また、夏の盛りの軍務で怨嗟が広がり、
六月に牙門の張弘と督の張衡の造反により殺害され、皇甫晏は謀反人と誣告され首が洛陽に送られた。

※雍州刺史の部下だったので、安定皇甫氏の一族と思われる。

666 :名無し曰く、:2022/11/03(木) 00:03:46.83 ID:mn0dTvn7.net
陳瑞 チンズイ (?~277年)

益州犍為郡の人。益州の宗教指導者。
入信する際は酒一斗、魚一匹を捧げ、他の神々を祭祀せず、葬儀や出産に関わる者は百日間、
教区に近寄れず、父母妻子の葬儀でも入弔を禁じるなど、清潔であることを最も尊んだ。
信徒を導く者は祭酒と呼ばれ、陳瑞自身は天師を称し、
後に陳瑞が豪奢になると朱衣、素帯、赤幘、進賢冠を帯びるようになる。
彼の信徒は益州に千数百人おり、その中には太守も含まれた。
咸寧三年(277年)の春、益州刺史の王濬は、陳瑞が鬼道をもって民を惑わし、
また不孝であるとして祭酒を含め誅殺し、その伝舍を焼いた。

※清潔を除けば宗教規定が五斗米道と酷似しており、太平道の流れをくむものと思われる。

667 :名無し曰く、:2022/11/20(日) 23:40:20.85 ID:BCqyakGn.net
鮮于嬰 センウエイ (生没年不詳)

晋の平州刺史。晋の時代、巴西太守の呉静が死傷者への補償で問題を起こし民心を失うと、
軍司であった鮮于嬰は太守の更迭を求めて上表した。
朝廷は呉静を免じると、代わりに鮮于嬰を巴西太守に任じる。
泰始七年(271年)、益州南部の四郡を分けて寧州が新設されると、鮮于嬰はその刺史に任じられた。
呉が平定された翌年(281年)は遼東の平州刺史を務め、遼西に鮮卑が侵入するとこれを撃破する。
翌年に平州が廃止されたが、護東夷校尉として襄平に駐屯した。
しかし、285年に慕容廆が夫余国を侵略した際、救援を送らなかったとして罷免された。

668 :名無し曰く、:2022/12/06(火) 22:24:14.35 ID:0O7K8z3T.net
武周 伯南 ブシュウ ハクナン (生没年不詳)

豫州沛国竹邑県の人。魏の衛尉。子に武陔、武韶、武茂。
206年頃は下邳県令を務め、徐州刺史の臧覇から尊敬を受ける。
後に張遼配下の護軍を務め、しばらくして関係が悪化したが、張遼は胡質から諫められると間違いを悟り関係を修復した。
220年に曹丕の禅譲問答では、侍御史として名がみえる。
武周には男子が三人いたが、みな有望で郷里や親でも誰が最も優れているのかわからなかった。
そこで同郡の劉昶に鑑定を頼むと「長男の武陔は宰相に、残りの二人も高官に登るだろう」と言われた。
後に光禄大夫や衛尉を務めた。

669 :名無し曰く、:2023/01/16(月) 18:57:01.05 ID:rN/0y9Tg.net
李堅 リケン (生没年不詳)

後漢の鼓舞(つづみまい)の名手。霊帝の西園の鼓吹隊の一人で、小鼓の舞を得意とした。
後漢末期、天下が乱れると、李堅は関西に避難して段煨のもとに身を寄せる。
その後、曹操が伎芸者から李堅のことを聞くと手紙を送って召し寄せたが、
その時にはすでに七十歳を越え、舞も辞めてしまっていた。
また、李堅の知る古曲は誤謬が多く後世に伝えることができない為、
旧曲を下地に魏の時代に合わせた新曲を五篇作成した。

670 :名無し曰く、:2023/01/23(月) 18:29:45.39 ID:1xZh7+zQ.net
阮炳 叔文 ゲンヘイ シュクブン(生没年不詳)

兗州陳留郡尉氏県の人。後漢の河南尹。父は阮諶、兄は阮武、子は阮坦、(次男)、阮柯。阮籍と同族。
阮炳は医術に精通し、『薬方』十六巻を撰した。
後世に『阮河南薬方』と呼ばれるこの薬学書は、大医を志す者ならば必ず暗唱できる必読書の一つに数えられた。
阮炳は死の間際、三男・阮柯を名指しで後継者に任命し爵位を継承させた。
これは長男・阮坦は兄の家を継いですでに亡く、また次男より三男を寵愛していたためであったという。

671 :名無し曰く、:2023/01/30(月) 23:25:56.98 ID:4QkZv5cj.net
呂広 リョコウ (生没年不詳)

呉の太医令。名は呂博や呂博望と記されることが多いが、
避諱によるもので呂広が正しいとされる(あるいは字が博望か)。
呂広は若くして医術で名が知られ、脈診を得意として著述が多くあった。
呉の赤烏二年(239年)に太医令に任じられる。
『玉匱針経』を撰し、『難経』に注釈をつけ、大いに世に広まったという。

672 :名無し曰く、:2023/02/06(月) 21:28:55.93 ID:Bl/6E1bn.net
王熙 叔和 オウキ シュクカ (生没年不詳)

兗州山陽郡高平県の人。晋の太医令。生まれつき沈着冷静で、医書に詳しく、とくに著述を好んだ。
また摂生法に深い知識があり、常々節度ある食事の重要性を説いていた。
王熙は当時散逸していた張仲景の『傷寒論』や『金匱要略方』を収集、復元し、
また西晋期に至るまでに伝存した医書を編纂整理して『脈経』を撰する。
この『脈経』は漢方医学にとって最重要の医書の一つとして数えられた。
他の著作に『脈訣』四巻、『脈賦』一巻、『論病』六卷など。

※王粲らと同族か。

673 :名無し曰く、:2023/02/14(火) 21:00:52.53 ID:ck2QEvAx.net
牟子 ボウシ (生没年不詳)

交州蒼梧郡の人。後漢末の仏教学者。経書をはじめ凡そあらゆる書物に通じ、学識や弁舌で名が知られた。
後漢末期に母を連れて交趾郡に避難して、後に故郷の蒼梧郡に戻ると太守からは仕官を求められるが断った。
また荊州への使者を依頼されたが交州牧の招きがあり断った。
さらに州牧から零陵、桂陽への使者に求められたが母の死で取りやめとなった。
こうしたことが続いたため学問に打ち込むことを決意し、仏教や老子を深く研究して『理惑論』を著述した。

※名は未詳。牟子博や牟融とする記述もある。

674 :名無し曰く、:2023/02/20(月) 17:43:00.58 ID:2ca/R1HF.net
邢姣花 ケイコウカ (生没年不詳)

『三國志玉璽伝』の登場人物。邢彪の娘。宦官誅殺の混乱の中で新帝を探す劉備は、北邙山で玉璽を手に入れる。
その際、山賊の邢彪に宴に招かれ謀殺されそうになるが、邢姣花によって助けらた。
劉備は娘に玉璽を託して立身を薦めるが、父は捕吏に処刑され、
彼女も董卓から逃れ玉璽を持って井戸に身を投げた。
邢姣花は死後、仙女となるも罪を犯して呉懿の妹に転生する。
後に生まれ変わりを確信した劉備から婚姻を申し込まれると、貞節のため自害を試みた。
しかし、玉璽を見せられると前世の記憶がよみがえり、結婚を承諾したのだった。

※成立時期は『演義』が明代、『玉璽伝』は明末とされる。「姣」は字が出ないので、ほぼ同義の「嬌」で代用してもいいかも

675 :名無し曰く、:2023/02/28(火) 00:54:22.20 ID:ttcXHcm/.net
番苗 ハンビョウ (生没年不詳)

交州九真郡の人。兄に番歆。九真太守の儋萌は義父の周京のために、役人らを招いて宴を開いた。
酒もまわり宴もたけなわとなった頃、功曹の番歆が周京をしつこく舞いに誘ったため、
儋萌は怒って杖で撃ち、番歆は間もなく死亡した。
兄を殺された番苗は、衆を率いて治所の胥浦県に攻め寄せて、儋萌を毒矢で射殺する。
これを受けて交趾太守の士燮は軍を差し向けたが、勝つことは出来なかった。
朱符の死んだ頃(197年頃)には反乱は鎮圧されたのか、士燮が弟を九真太守としている。

※功曹は現地豪族の採用枠。また九真郡の都龐県では兄が死ぬと弟が兄嫁を娶る風習があった。

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