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【FM】らじおの草子【AM】

206 :陽気な名無しさん:2020/08/12(水) 02:59:14 ID:tNGPVJjd0.net
TBS 2200 セッション 8/11 (火)、
コロナで資金難の アウシュビッツ博物館:何でも、先立つものは金 よね。うちの市、給付金の振込みが 7月半ばだった。遅すぎるから

借金しちゃって、利息を どうしてくれるのよ。アウシュビッツ収容所 跡には 行ったことが無い。1992年、ベルリンから ワルシャワには 足を伸ばしたけど、

アウシュビッツは 遠い。だから その前に ミュンヘンから バスで ダッハウの 収容所 跡に 行った。バス停で、後ろの家の ドイツ人の オバサンに 道を訊いている 白人女性

が 居たが、オバサンは ドイツの恥 のような収容所への行き方を教えるのが 嫌そうな態度だった。今 思うと、毎日の事だから ウンザリしていただけ かも知れないけど。

見学者は 少なかった。人の死体が たくさん あった所には 地縛霊でも居るのか、火葬場みたいな、背筋に ひんやり 冷たい ものを感じた。木製の32人くらい用の 2段

ベッドの部屋が 生活感を残していた。丸刈りに された収容者たちの 頭髪の山も見た記憶。拷問部屋は 見た覚えが無いけど、置かれた写真の数枚から、人体実験を したん

だな と分かる のがあった。毒ガスで 殺した後、虫歯治療の歯から 金や銀を 錬金 錬銀して採っていた と知って、ドイツ人の 抜かり無い システマティックな やり方に 倒れ

そうになった。死体を焼く 8つ程の窯の前では よく こんな事を したものだ と ため息が出た。頑丈な プレハブ構造の 30mくらいの 長屋のような建物で、平行して 8棟

くらいあった。外は 学校の グラウンドのように 広かった。その周りは とても高いフェンスと、その上に ゼンマイ状に 鉄条網が 巻き付けられていた。あれに 高圧の電流

でも 流していたんだろうか、と思った。帰りは 5、6人の、アメリカ人だったか、女性たち と バス停で 一緒になったが、肝を冷やして、背筋が寒くて 早く ここから逃げ出

したい、という感じで、後ろの家のオバサンに タクシー配車の 電話番号を訊いて、タクシーで 逃げて行った。私は バスを待ち、バスで 閉塞感のある街 ミュンヘンに 帰った。

あの頃は 外国で会うドイツ人は、なに人か訊くと 小さな声に なって、ドイツ人… と言うのが多い 印象だった。他の欧州の国では 肩を すぼめて 歩いているような。戦後

47年も経っていたのに、欧州人たちと ユダヤ人には ドイツの悪業が 語り継がれているような。戦争祈念館などは 義務教育の間に 平和教育として しばしば 引率されて

訪れるが、怖さ は 記憶に残るけど、その先のことは 忘れてしまいがち。高校、大学でも 引き続き やらないと、理念に までは 到らない と感じる。

それでも尚、戦争は 先手必勝、だと考えるなら、それも その人の 思想だろう。

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