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ナウシカ

1 :おさかなくわえた名無しさん:2019/02/19(火) 14:09:09.82 ID:hLsub02VE
テスト

2 :おさかなくわえた名無しさん:2019/02/19(火) 14:12:30.33 ID:hLsub02VE
私は4人きょうだい、6人家族で育った。
スペックというほどでもないが、身長は165p、顔は『風の谷のナウシカ』のナウシカに似ているとよく言われる。(二次元だけど。)
ほかにも、鈴木らんらんとかタトゥーの黒髪のロシア人に似ているとか、色んな人に似ているといわれる。
ナウシカの3三次元を想像してもらえると、わかりやすいかもしれない。
私の家庭は特に裕福ではなかったが、貧乏でもなかった。
夫婦仲は良かったし、きょうだい同士も仲が良かった。ただ一つ、私は物心がつく前から父親から性的虐待を受けていた。
しかし、家族がいる場所では父親は何事もなかったかのようにすごす。私もなんかこれは言っちゃいけないものなんだな、ぐらいの意識を持っていた。
とにかく誰にも言っちゃいけないんだと思い、誰にも言わなかった。

3 :おさかなくわえた名無しさん:2019/02/19(火) 14:13:58.65 ID:hLsub02VE
小学校に上がっても、それは続いていた。
私は1歳の時に喘息を発症し、小学校にあがると発作の頻度も増え、学校に行くにも支障をきたすようになってきた。
母親は漢方医に私をかからせ、そういう自然の力で、体質から変えていって喘息を治すのが良いと思っていたようだ。
しかし、私はそんな段階ではなかった。発作が出たら気管支拡張剤を飲むんだけれど、それも親が管理していたから飲むときには手遅れの場合が多い。
当時はまだ気管支拡張剤の吸入器が普及したばかりだった。小児には心臓に負担が大きいというリスクを母親は恐れ、なるべく飲み薬で発作を収まらせるようにしていた。

4 :おさかなくわえた名無しさん:2019/02/19(火) 14:16:15.81 ID:hLsub02VE
私はただひたすら、呼吸のしやすい大勢(うずくまってあごの下に手を重ねておく)をとって、発作が収まるのを待った。
だいたい薬が効きだすのが30分ぐらいだった。発作が収まったあとに待っていたのは、酸欠による強烈な頭痛だった。
私は母を憎みそうになるのを耐えて、ひたすら痛みに耐えた。
喘息児なんてごまんといるし、今のようにネットが普及はしていなかったけれど、もっとリサーチしようがあるだろうにと思った。もちろん学校に行くどころではない。
まあ、収まってから学校に遅刻して登校することもあったけれど、だいたい発作が収まった後はへとへとに疲れていたし、肩も肩甲骨もバキバキに凝っていた。
家で発作が収まる場合もあるが、収まりきらなくて救急外来にいくこともしょっちゅう。そのまま入院することもあり、小学校は半分強ぐらいしか行っていない。

5 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:18:04.81 ID:hLsub02VE
ただ、勉強はできた。それというのも、「教育は人生を逆転できるチャンスだ」という文章をどこかの本で読んで、勉強だけはしておこうと思ったからだ。
ベッドにいる時間が長いし、本を読むのが大好きで本を読んでばっかりいたので、国語や社会はだいたいわかるし、算数もドリルやなんかでカバー。
私は勉強がこの頃から好きだったんだと思う。

6 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:19:32.00 ID:hLsub02VE
小学校低学年の頃は、かわいい女の子になりたくなくて、男の子っぽく半ズボンにシャツを着て男の子みたいな恰好をして男の子とばかり遊んでいた。
そうすれば、父親からの被害は減ると思ったが、そうはいかなかった。
母親や他のきょうだいが見ていないタイミングを見計らって、必ずやってくる。
嫌で仕方なかったが、小学校低学年には性についての自我はまだ芽生えていなかった。それでも嫌なものは嫌だ。
薬を飲んで喘息の発作が収まるのをうずくまって待っている間にも、平気で触ってきた。

7 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:21:24.34 ID:hLsub02VE
母親に気づいてほしいと思う一方で、私がされている本当のことを言ったら、母親も傷つくし、
父親大好きなきょうだいの気持ちを傷つけることになるだろうなと思い言えなかった。
腹立たしいことに、父親は家庭では非常に良いパパだった。家事はするし、掃除も料理もする。
育児にも積極的に参加するため、きょうだいみんな父親のことが好きだった。私を除いて。
私はぼーっとした子だったようだ。確かに、何かしている時にも急にぼーっとしてしまう時があった。今考えると典型的なPTSDの症状だった。

8 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:22:52.28 ID:hLsub02VE
巧妙なのは、きょうだいがぞろぞろいる中では私に手出しできないので、私の喘息を利用して、一人だけ個室のベッドで寝かされた。
布団だとほこりが舞うし、喘息に良くないからと母にかけあって、ベッドで一人寝ることになった。私の様子を見に行くといっては部屋に来て手を出した。
家族は全く気づかない。それどころか、姉と下の弟はパパっ子でべったりなついていた。私は父親に反抗的な態度をとったが、そのたびに母に諫められた。
反抗的な態度をとるのが唯一の抵抗手段だったが、理由を言うわけにもいかないし、どうしようもない。母に「どうしてそんなに態度が悪いの!」と怒られて終わりだった。

9 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:24:15.33 ID:hLsub02VE
小学校高学年になり、性被害のストレスもあったのか(確実にあったと思うが)、喘息はどんどん悪化した。1カ月に最低1回は夜中に喘息発作が止まらなくなり、救急を受診して一泊入院することになってしまった。
1年でトータル3カ月ほど入院していた。まあもっとひどい子もいたけれど、私も決して軽い喘息ではないことをご理解ください、と医師が言った。
そこで、うちの親はどうかしているのが、転地療法ということで、12歳で私は中学校は単身海外に行かせられることになった。私の意志なんてどうでもよいようだった。

10 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:27:25.75 ID:hLsub02VE
英語圏の海外に親戚がいたため、親戚のコネを伝って、海外のマイナーな島の寮のある私立の現地校に行くことになった。
ビサを申請したのが11歳だったので難航したが、12になる前にビサがおりた。私が海外の学校に行くことは確実になった。
これで父親からの性被害がなくなると思ったが甘かった。海外の私の見受け保証人、ガーディアンズの家に泊まった時まで手を出してきた。マジで狂ってると思った。まあ狂ってるからそんなことするだろうけれど。
ここで私が叫べば何か変わるのかな、と思ったけれどしなかった。というかできなかった。

11 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:28:59.68 ID:hLsub02VE
海外での中学校時代は最悪だった。日常的な父親からの被害からは解放されるが、まず私は英語を本当に1から覚えなくてはならなかった。
全然しゃべれない。中1になるのに、私は早生まれだったため、向こうは年度で学ねが決まるので6年生に入ることになった。マジで行きたくなかった。
現地に行って3カ月は地獄だったけれど、12歳までは言葉の習得が速いというが、それは本当で、3カ月もするとだいたいの日常会話はしゃべれるようになった。授業にもついていけるようになった。

12 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:30:52.67 ID:hLsub02VE
中高一貫の閉鎖的なギムナジウム空間にいたわけだけれど、その中でも中学生と高校生とでは、生徒の心構えも質もだいぶ違う。
考えてもみて欲しい。12歳やそこらで子どもを寮に入れる家庭は、なんらかの問題を抱えているケースが多いのだ。マジ深刻なケースだらけ。なんか、家庭に問題があって不幸なのが生徒のデフォルトだった。
それでも仲の良くなった友達はいて、他愛もない話をするようになった。なかでも仲良くなった子にキアラという子がいた。
キアラ「シカ(私の名前。ナウシカだと長すぎるので以下シカ。7)はなんでこの学校に来たの?年齢にしては幼すぎでしょ」
私「いや、ちょっと喘息がひどくなっちゃって、学校に通えないぐらいだったから、転地医療で治そうってことで来たんだよね」
キアラ「じゃあ、こっちにきてから喘息出てないの?」
私「うん、冬は雪が降って湿気るからそういう時は軽い発作は出るけれど、エアゾルですぐ収まるよ」
キアラ「良かったね」
私「良かったよ。キアラはどうしてこの学校に?」
キアラ「両親が離婚しちゃってさ、私行き場がないんだよね。どっちも仕事忙しいし。住んでいる所もお互い離れているし。ここの気候はこの国の中では暖かいから、学校はここになったの」
私「両親に会いたい?」
キアラ「別に。正直ここにいる方が気が楽だよ」
彼女は家庭に問題はあったけれど、メンタルがまともだった子の1人。
その頃は皮肉なことに家族と離れたことに対してストレスを感じていた。しかし父親には会いたくない。でもここにもいたくない。割と地獄だった。

13 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:32:35.52 ID:hLsub02VE
しょっちゅう1人かキアラと学校の敷地内にあるチャペルに行って、ステンドグラスの明かりの中、日本語の本を読んで現実逃避していた。
キアラもペーパーバックの本を礼拝用の長い椅子に横になって読んでいた。私たちは会話がなくても通じ合えるところがあった。
しかし、環境に適応するためには当然だけれど、努力をしなくてはならない。英語が全くわからない私は、人生で1番くらい勉強した。
わからない単語はひたすら辞書をひき、書いて覚え、図書館で資料を集めてまた辞書をひきながら読んで、とにかく勉強した。
はじめはお話しにならなかったテストの点数もだんだん60点、80点、90点と上がってきた。担任の教師は驚きつつ褒めてくれた。

14 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:34:05.32 ID:hLsub02VE
その国は人種差別が根強くあり、白人と黄色人種、ネイティブ住民との間にある差別を、人からの差別という拒絶を肌で感じた。
教師はほとんどがイギリス人の白人だったが、あんまり堂々と差別をするから、日本でそんな経験のない私は適応するまでかなり混乱した。
たとえば、学校の体裁を保つために高校生がなる生徒会にはいろんな成績優秀な人種がいるけれど、実際推薦されるのは成績の良い白人。
私がいくら頑張って勉強をして成績が良くなっても、それは「日本人」だから当たり前。なにか失敗すれば、有色人種は必ず問題を起こすとみなされる。
授業中も手を挙げて、さされるのは白人の優等生。私なんかはたまに当たる方。ネイティブの子なんて、手を挙げても無視される。ほとんど空気扱い。
また、そんな扱いを受けるからお互い差別的になるし、扱いにふさわしい行動をとるようになるという悪循環が生じる。そうやって差別は繰り返されるということを学んだ。

15 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:35:47.52 ID:hLsub02VE
教室の中で肌が刺されるくらいピリピリとした人種の境界線を感じた。多感な年ごろだし、差別を受けることも初めてだったので、困惑したし傷ついたし、悩んだ。
悩んだところで、どうにもならないものだった。
黄色人種、日本人、台湾人、韓国人は寮に数名いたが、留学生はメキシコ人やフランス人が多かった。楽しそうにみえる寮生活だし、実際楽しいこともあったけれど、中身は問題だらけ。
摂食障害の子もいたし、抜毛症の子もいた。リストカットをやったのもこの頃が初めてだった。
なんというか、寮にはいってすぐ中学生メンバーに集められて、切らされた。メンバーに入る儀式みたいなの。
そこからメンバーが増えたり、メンバーで何か学校でやらかすたびに、腕の傷は増えていった。所謂リストカットとはちょっと違ったかもしれないけれど、まあ自傷行為は自傷行為。

16 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:37:59.94 ID:hLsub02VE
そうこうしているうちに私に限界が訪れた。1年経ったくらいだと思う。
むこうは休みが多いし、そのたびに父親が来る。日本に帰らせてもらえないのも辛かった。
ある休暇に父親がきて、隣のおおきな街でカーニバルがあり、そのときに泊まろうとしたホテルはダブルだった。せめてツインだろう。
最悪だった。
部屋に入ってすぐベッドに押し倒されたので、すぐに逃げて、カーニバルの愉快な音楽の中、走ってまよくしらない街の中を逃げた。
でもお金もない私は行くところがなく、仕方なくホテルに戻り、ソファで寝た。
翌日逃げるようにバスに乗って、父親に挨拶もそこそこに学校に戻った。
父親は、
「あいつ反抗期みたいだ」
と家族に言ったらしい。
どこの国にいようと父親からは逃れることができない。
だったらこの制約の多く、おかしな人だらけの辛い空間にいたくないと思った。ここには書ききれないくらい色んなことがあった。
機会が合ったら、海外編も書きたいと思う。

17 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:39:41.12 ID:hLsub02VE
限界を感じた理由はもう一つ、高校は日本の高校に行きたいと思ったからだ。中2の終わり、中3が始まる前頃には日本に戻って受験勉強をしたいと思った。そこで私は考えた。
時期に8年生を迎える7年生の夏休みに勝手に退学手続きをして、帰国してしまおうというものだ。副校長先生の部屋に行き、
「うちの経済状態が思わしくなく、日本の学校に通わないとならなくなりました。今学期で学校は辞めます。追って親から連絡があると思いますが、退学します。今までありがとうございました。」
と言った。副校長先生は、
「シカは優秀な生徒だから、ここで辞めてしまうのは勿体ないよ。家族のことを考えるのは大切なことだね。日本でも頑張りなさい。奨学金もあるから、学校を続けることもできるから、家族とよく話し合うんだよ。」
と言ってハグしてくれた。そして家に電話して、夏休みに退学することは伏せて、帰国することになった。持ち物が少ない狭い部屋はすぐに片付いた。
そのあとで、私はキアラを体育館に呼び出した。
私「キアラに話しておきたいことがあって」
キアラ「なんとなくわかるよ」
私「私、日本に帰ろうと思う。高校は日本の高校に行きたいんだ。キアラと離れるのはすごく寂しいよ。」
キアラ「そういう話だと思ってたよ。」
しばらく沈黙が流れた。
キアラ「私もね、来年からは隣の街の全寮制の学校に移るかも知れないんだ。ここよりも学力が高いから。」
私「じゃあ、ほんとにお別れだね」
キアラ「うん。いままでありがとう。シカは面白いやつだったよ」
私「仲良くしてくれてありがとうね」
キアラ「それは違うよ、シカ。私はシカと仲良くしたかったから仲良くしていたんだよ。私たちは対等でしょ?」
キアラの真剣なまなざしとその言葉に泣けてしまった。私たちはお互いにありがとうと言い合い、ハグをしてたくさん泣いて、体育館をあとにした。寮に戻ってきた私たち2人をみた寮母さんは、
「あなたたち、仲が良いのねえ。大丈夫よ、次の学期でまた会えるわよ」
と言って笑った。

18 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:41:54.63 ID:hLsub02VE
かくして、私は日本に帰った。勝手に退学してきたことは怒られまくり、家にもいにくかった。
きょうだいも親が機嫌が悪いのをみて、私に「はやく帰れよ」ときつかった。
そこからこじれて、上の弟とそれから5年間口をきかなかった。
それでも両親への毎日ハイパー土下座タイムを経て、なんとか帰国を認めてもらうよう頼みこんだ。いつもは味方していくれている母親も、
「あなたにはがっかりだわ」
と冷たい言葉を投げかけてきた。私はこっそりリストカットをし、なんとか乗り切った。
日本に戻れるならもうなんでもいい。
無理を通して、中学3年の1学期の途中から日本の中学に行くことになった。
喘息は当然のことながら治らなかった。
転地療法は、2〜3年以上発作が全く起きない状態を続けて完成する。
私の転地療法は失敗だった。

19 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:43:41.70 ID:hLsub02VE
家族の話に戻るが、姉と上の弟とはとしごで、私は早生まれなので、姉とは学年が1つ違い、弟は2つ違う。
従って、中3に私がなる頃には、姉はすでに高校に行っていた。
14歳で帰国して、すぐに同じ中学の友達づてに仲良くなった男の子とつきあうことになり、彼氏ができた。初カレだった。
他に男ができれば父親からの被害はなくなると思ったからだ。これはなぜかあたった。
昔父親が「シカを他の男にとられるのは嫌だな」と超キモイことを言っていたので、他に男ができたから手を出さなくなったのかもしれない。
もしくは私が成長したから興味がなくなったのかもしれない。今考えるとあのカス親父は小児性愛者だったのかも知れない。
どれも憶測でしかないが、当時の私は被害がなければそれでよかった。友達もすぐにできたし、初カレとは3カ月で分かれてしまったけれど、またすぐに彼氏ができた。

20 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:46:27.88 ID:hLsub02VE
学校は受験真っ只中、ひたすら勉強する日々が続いた。
私は都立に行くには内申が足りなかった。そこで、私立に行くことを考えた。母親も、内申に合わせて学力を下げて高校に行くよりも、学力に見合った高校に行きなさいと言ってくれた。
うちはきょうだいも多く裕福ではなかったが、母方のお祖父ちゃんが裕福だったため、子どものころから大学進学までの学資ローンを組んでくれていた。
おかげで私立にも行くという選択肢ができたわけだ。
帰国して思ったことは、日本の教育はとにかく進んでいるということ。さらに日本の英語はめちゃくちゃ難しい。どうしてこんなに難しいのか、英語はしゃべれるけれど私は勉強しなおすことになった。
特に文法。覚えることが山ほどだった。
更に辛かったのは発音。英語のスピーキングではネイティブな発音がクラスメイトや先生に期待された。
日本はアメリカン・イングリッシュが主流だが、私はクインズ・イングリッシュを身に着けていたので、発音の矯正も若干した。
「なんか留学していたくせに、発音かたくない?」とアメリカの帰国子女の子との発音を比べられヒソヒソと言われ、それが嫌で発音を矯正した。

21 :ナウシカ:2019/02/19(火) 14:51:06.87 ID:hLsub02VE
高校に関しては私は、日本の学校だったらどこでもよかったので、
家から近くて制服が可愛い大学付属のところと、滑り止めの女子高と、寮のある高校の3つを受けた。
大学付属の高校にした理由は、入学偏差値が70近くあって入学するのが難しいことがネックだけれど、中に入ってから苦労することはないだろうと考えたからと、塾の講師からの協力な押しがあった。
よくあることだと思うけれど、塾も実績を作らないといけないから、難しい私立や都立を受けさせようとする。
また勉強する日々が続いた。
時々息抜きに彼氏と、実家の近くにある国立大学の構内に忍び込んでデートなどしつつ、勉強に励んだ。
私立に絞ったため、5教科じゃないのは正直有り難かった。
日本の教育ははっきりいって進んでいた。
理科、社会はとてもじゃないけれど、中1から勉強して受けるのは困難。私立の問題は難しかったけれど、幸い英語力は身についていたので、なんとかなりそうだと信じて勉強した。正直、あんなに嫌だった英語だが、得意だと入試にはかなり有利に働いた。

22 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:15:21.33 ID:hLsub02VE
合格発表で奇跡的に全部受かった。一つは特待生合格した。
寮のある高校は、受かってから親が却下した。理由は、偏差値が一番低かったためと、進学率が低かったためと、なんでわざわざ寮に行きたいのかいぶかしがられたため。
あんたの旦那といたくないんだよ、とは言えないので、そこは飲み込んだ。
特待合格したところは学費全面免除になるため、付属校とどちらに行こうか迷った。親は、きょうだいが他にもいるから特進の方に行って欲しそうだった。
でも私は、付属に行くことに決めた。校風が自由なのがなにより魅力的だった。
高校は絶対に全力で楽しもうと決めていた。
というのも、なんとなく生きる気力が尽きかけることがあって、20歳まではとりあえず生きようと漠然と思っていたので、それまでは絶対に楽しもうと思ったからだ。
死ぬまでには髪も染めたかったし、ピアスもあけたかったし、恋愛もしたかった。

23 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:17:56.11 ID:hLsub02VE
高校時代は最高に楽しかった。
クラスを超えて友達ができた。自由な校風なだけあって、みんなおしゃれだった。
髪の色や髪型もおしゃれな子が多かったし、制服を改造してタイトなブレザーにしている子もいた。
イベントに力を入れている学校だったので、文化祭は始発から終電まで準備に盛り上がった。
高1の時には学年単位の出し物の有志に入り、そこで運命的な出会いをした。
というか、好きな人ができた。中学からつきあっていた彼氏とは、自然とお別れしていた。
好きになった男の子は、目がしゅっとしていて、髪もつんつんとセットしていて、背が高く、部活で日焼けしていて爽やかな男の子だった。彼をQとする。
同じ作業担当になり、一緒に屋上で作業をしていた。たくさんおしゃべりをした。
Qはシャイだったけれど、なんとか冗談を言い合えるくらい仲良くなった。クラスは隣のクラスの子だった。
そうやって楽しく過ごすことで、家に帰るたびにモヤっとすることから逃げていた。
楽しく過ごしていても、その頃には私の精神は私が思っている以上にバッキバキに破壊されていた。
常に家族に嘘をついている気分だった。というか実際そうだった。
その薄暗い気持ちを振り切るように、青春街道を爆走した。

24 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:23:31.70 ID:hLsub02VE
体育祭も運動神経の良かった私はほぼ全部の種目に出て大活躍し、学年をこえてもりあがった。
A組、B組、C組、D組対抗といっても1−Aから3−Aまで同チームのため、先輩後輩入り混じって毎日勝つために練習し、チームカラーのクラスTシャツを染めて作り、髪も染めた。
みんなすごい気合いの入りようだった。
「シカ、勉強ができない分今日は走って輝くんだ!」
友達からハッパかけられた。
体育祭実行委員でもあった私は、入念に作戦を練り、チームで団結して棒倒しやリレーなどの順番の策を練って練習して、2年、3年と体育祭は優勝した。
運動ができない子は派手な応援に回るなど、学年を超えて、みんなで楽しんで喜んだ。
打ち上げにも行って、アルコールも入り盛りわいわい上がった。

25 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:25:22.72 ID:hLsub02VE
うちの高校は校内カップルが多く、教室で彼氏のひざに座ったり、手をつないだり、イチャイチャしている人がいるのが普通の光景だった。
私もQとつきあえるようになりたいと思うものの、どうしたものかわからなかった。2人で一緒に帰ることはあったが、つきあうまでの壁が高い。
一緒に帰るのも、部活の帰りの時間が同じで、たまたまを装ってなんとなく一緒に帰るか、という雰囲気になって帰るケースがほとんど。
そんなこんなで遅々として進まなかったQとの恋愛は、急展開を迎えることになる。
高2の夏休みにQから電話があった。八景島シーパラダイスの水族館に行こうと誘われた。これはもうドキドキがとまらなかった。
姉にどの服がいいかあれこれ聞き、デートの服も決まった。翌日、電車で途中の駅で待ち合わせし、一緒に水族館に行った。
水族館はものすごく綺麗だった。幻想的な世界で、何時間でもいられた。閉館ぎりぎりまでペンギンの水槽の前のベンチに座っておしゃべりした。デートが終わり、帰りの電車の中で告白された。
晴れて、憧れの彼、Qとつき合うことになった。
私は、Qには絶対に自分が父親からされたことは言えないと思った。
それでも、高校でフラッシュバックで急に辛くなって泣いた時も、Qは訳を聞かず抱きしめて慰めてくれた。

26 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:28:08.81 ID:hLsub02VE
高2のある日、仲の良い友達とだべっていると、一人が
「俺、大学に行こうと思う」
と言い出した。高校時代テストの勉強はしてないどころか、普段の勉強もろくにせずなにも考えていなかった私は焦った。
「え、なに!?もうそんなこと考えてるの?」
「いや、そういうこと考える時期だろ、逆に」
と言われ、目からうろこだった。そこで私は真剣に進路について考えだした。付属の大学に行くにしても、上位20%は無試験で入れるが、あとは内部試験がある。
内部試験を受けて付属の大学に行くのもいいが、私はどうしても家を出たかった。もうあの父親のいる家にいるのは限界だった。
そこで、考えた末、私は東京から離れて関西の大学に行くことに決めた。
家から通えない範囲の大学かつ、それなりに学力の必要な大学を考えると、関西圏が東京の次に数が多いと思ったからだった。
なにより、関西の文化に興味があった。
そこで、高2の終わりに国公立いくつかと、受験することになる外語大と、私立は関西の4有名私大を、Qと泊りがけで見に行った。
Qは成績上位20%に入っていたため、そのまま付属大に行けたが、なぜが一緒についてきてくれた。4つの私大をそれぞれ見て、私的に一番雰囲気が私的に良いと思った私立を受けることにした。
ほとんど勉強してこなかった私が勉強し始めたのをみて、学校の先生たちはショックを受けていた。
とにかく勉強した。Qと一緒に勉強した。河合宿の自習室で一日中勉強した。まあ、私は河合塾に通っているQにくっついて自習室に行ったんだけれど、一緒に勉強するとはかどった。

27 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:30:25.90 ID:hLsub02VE
親は「金がかかるから私大じゃなくて国公立に」と言っていたが、そこはイエスと言ってもらえるまでの再び2カ月毎晩ハイパー土下座タイム。
私「外国語は外国語しか学べないけれど、この私大のこの学部は英語で講義が半分あるの。
そこから専攻を探してもいいと思うし、学費が足りなくなったら、なんとかして途中から国公立に入る道も考えます。お願いします。受かったら行かせてください。」
ひたすらお願いした。それでも親は、
「塾代もかかるのに、私大はちょっと」
と言っていた。それはまあもっともだと思うが、先に言ってしまうと、弟たちは一浪の上私が行ったクラスの私大に言っている。
まあ、私は最初の子だったし、姉は都立の看護専門学校に行っていたから、私立というものに抵抗があったのだと思う。
「東京の家から通える大学じゃダメなの?」
とズバリ言われたが、
「どうしても関西のこの大学に入りたいんです。歴史のある大学だし、都内のマーチに入るんだったら、関西でもこのクラスの大学に入った方がいいと思うんです。
人生の見聞を広めるためにもどうしても関西に行きたいんです。お願いします!!!」
と今考えるとめちゃくちゃな論理で土下座。苦い顔をする親。
しかし、親は偏差値に弱かった。偏差値がそれなりにある大学だとわかると、そこまで嫌だとは言いたくない気持ちもあることがありありと伝わってきた。
偏差値でいえば、付属校よりはるかに高い。とにかく受かってしまえばなんとかなるだろうと思い、高3の1年間に及ぶ勉強の末受験。
センターの日は雪が降っていた。親友と震えながら、受ける教科の時間を試験会場の大学の近くのモスバーガーで待った。

28 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:32:00.89 ID:hLsub02VE
結果をいうと、外語大と本命私立に無事合格。
合格発表を聞いた時、全身から力が抜けたのを覚えている。Qも学部は違うが、同じ私大に受かった。話し合ったわけではないが、「大学もこれからもずっと一緒にいたいね」と話したことはある。正直、嬉しかった。
外語大も受かってしまったため、私大に行くことはどうなのかと再三言われたが、その私大の就職率の良いこと、奨学金とバイトで賄うから仕送りはいらないこと、
授業料はおじいちゃんが学資保険に入っていてくれて、そこから出してくれると説得済みなことを話し、なんとか了承してもらった。
親はお金についてネチネチネチネチ最後まで言っていたが、出してもらう立場である以上仕方がない。
せっかく現役で合格したのに、水を差された気分になりそうなのをなんとか振り切った。
そして、私は大学生になった。関西に引っ越し、アパートを借りるお金が高いということで、安い関西弁のきついおばあさんのいる家に下宿させてもらうことになった。
バイト代ためて、早く引っ越ししようと、引っ越してすぐに決意した。

29 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:39:18.87 ID:hLsub02VE
私の通った学部は、課題がとにかく多い学部だった。
私は勉強するために大学に行ったので、とにかく勉強した。毎日でる課題とバイトを必死にこなした。気の置けない友達もできた。
関西はとても新鮮だった。関西弁のやわらかい感じとつっこんだ感じが耳に心地よかった。ユウゴ(仮名)という親友ができた。初めて関西の大学でできた親しい男友達だった。
みーちゃん(仮名)という子とユウゴと私の3人でほぼ一緒に暮らすような生活をしながら、1回生の前学期は過ぎた。口うるさい下宿先のおばあさんに嫌味を言われたが、
下宿先にはほとんどかえらず、大学の近くにあるユウゴのアパートに入り浸っていた。
大学生の夜は長く、ユウゴと私は空が白むまで将来のことや高校のこと、今考えていることなど語り合った。
「シカはええやつや。おなじ専攻に行けたらええなあ」
というのがユウゴの口癖だった。
「せやなあ。ずっと友達でおろうな」
と私も言った。初めての夏休み、ユウゴは学部のゼミ主催のハワイでの研究会に参加すると言っていた。
私はこの私大に入ってよかったと思ったが、一つ誤算があった。この私大は関西出身者が多く、地元の比較的裕福な学生が多いという点だった。
お金の価値観が合わない。ハワイなんて私にとっては夢のまた夢。
他の友達はドイツを巡ると言ったり、イタリアに行くと言っていた。
私は日本の温泉地でお好み焼き屋の住み込みバイトをすることにした。
なんたる格差社会。まあ、自分の懐に見合った楽しみ方で楽しもうと決めた。

30 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:43:40.09 ID:hLsub02VE
夏休みに入る前に、ユウゴと一つ約束をした。5年間口をきいていなかった上の弟のことだった。
ユウゴ「シカももう大学生で大人なんやから、弟と仲直りしいや」
私「なんでそんなんせなあかんねん」
ユウゴ「そらシカがされたことは許されへんと思うけれど、弟は仲直りしたいんちゃうか?俺もじぶんの姉ちゃんと仲直りするわ」
私「ユウゴ、絶対仲直りするんやろうな?ユウゴからやで?」
ユウゴ「約束するわ」
私「わかった。ほな約束な」
ユウゴの言うことも一理あると思い、私は夏休み実家に帰ってすぐに、上の弟に「よう」と言った。弟も「お、おう」と戸惑ったように返してきた。
以来、私と弟はとても仲良くなる。
その年の夏に弟から受験の相談を受け、私の高校時代と同じく勉強をしていなかった弟の勉強をみてあげたりした。さらに大学見学まで同行した。
ユウゴの言ったように、弟は仲直りしたかったようだ。
夏休みの初日からボストンバッグ一つで群馬県の山奥の温泉地入りした。
朝から温泉に入り、出勤してホールとキッチンで皿洗いをし、
帰りにスーパーで簡単に料理できるものを買ってマンションに帰り、本を読んで1カ月強の日々をすごした。
今頃ユウゴたちは青い空と白い砂浜の広がるハワイにいるんだろうなあ、と寂しく思った。

31 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:45:45.83 ID:hLsub02VE
後学期が始まる前、私は学校の近くの格安物件に引っ越しした。
リフォーム前のマンションで、2DKで3万4千円の格安物件だった。
口うるさいばあさんともお別れした。
1回生の時は、なんだかんだで文化祭も盛り上がり、飲み会もしょっちゅうあり、楽しく過ごした。
2回生にあがる頃、Qと距離が出てきた。Qの学部は特に課題もないようで、毎日バイトして、学校の寮で楽しく過ごしているということだった。私は勉強しないQに勝手にイライラしていた。
子どものころ、病院で勉強したくてもできないことが多かったこともあり、できる環境にいるのにしないというのが嫌いだった。
今考えると青臭いけれど、まだ19歳だった私はそう思ってしまった。
2回生のゴールデンウィーク明けに、私とQは別れた。
もう彼氏なんていらない、と思っていたが、その2週間後にある男の子と付き合うことになった。その男の子をヨシヒサ(仮名)とする。
ヨシヒサはとにかくモテる男の子だった。モテるヤツと付き合うということがどういうことなのか付き合う前知っておけば付き合わなかったかも知れないが、
付き合った後に、様々な遠回しな嫌がらせやヨシヒサへの他の女からの直截的なアプローチもあり、うんざりだった。
だがヨシヒサとのつきあいは情熱そのもので、ラブラブだった。
半同棲状態で、いれる時間は一緒に過ごした。

32 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:48:28.75 ID:hLsub02VE
ヨシヒサと付き合ううちに、私は父親とのことを初めて人に打ち明けようという気になった。
私の話を聞いたヨシヒサはショックを受けていた。私のことなのに、自分のことのように傷ついてくれていた。
残念ながら、人の痛みとの距離の取り方を知るには、私たちは若すぎた。
痛みを直視してしまって、動けなくなってしまう感じ。
また、人に打ち明けたことで、私は苦しくなってしまった。フラッシュバックもするようになり、不眠症気味になった。喘息も悪化するようになった。
救急に何度もヨシヒサに連れてもらった。リストカットをまたするようになってしまい、ヨシヒサも辛いのか、リストカットをするようになってしまい、私たちは八方塞がりの状態だった。
ヨシヒサとの関係も息苦しくなってきてしまった。ヨシヒサも苦しんだろうけれど、私は孤立を味わった。
苦しみに共感してくれる人はいるけれど、苦しみはなくならない。ヨシヒサに打ち明けて私はそれを痛感した。解決する方法も思い浮かばない。
家族を自分のせいで壊すことはしたくない。精神的に孤立する状態を作ったのは、一人暮らしも影響していたと思う。
そんな中、ついに私の精神の限界がきた。
実家に帰るたびに父親がいる。家族の前で取り繕う自分も嫌で仕方がない。嘘ばかりついている自分も嫌だし、もうこれ以上頑張れないと思った。
勉強することだけが楽しみだったのに、ぼんやりとすることが多くなり、集中が途中で切れることも多くなった。
もう人生頑張れない。今まで十分頑張った。みんなには申し訳ないけれど、私にはこれ以上は無理。
私は自殺をすることにした。

33 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:50:59.82 ID:hLsub02VE
決行前の春休みに実家に帰り、家族と伊豆に旅行に行った。
私はとても明るく振舞った。最後の思い出にしようと決めていた。
自殺する日は20歳になったはじめての満月の日に決めた。2回生も終わりの頃だった。
私はヨシヒサの部屋に置いていた自分のものを自分のマンションに引き上げ、満月のよるに5階の自分のマンションのベランダから飛び降りた。そこから記憶はない。
つまり、私は生きていた。全身18か所骨折し、生死の境をさまよったが生きていた。母が飛んできて、どんどん下がっていく私の血中酸素をみて、
「シカ、息をして!息をして!」
と耳元で叫んでいたのを痛みの中で聞いていたのを覚えている。
搬送されて一週間以内に大学病院に救急車で転院することになった。
ヨシヒサは転院前に病院に来ていたようだが、面会謝絶ということで帰っていたようだ。
大学病院で、すぐにモルヒネを打たれ、痛みから解放された。とろんとして、すぐ話している途中でも寝てしまう。しかし、ある時目を覚ました時そこに父親がいて、私は絶叫してそのあと号泣した。
一人にしてくれたが、様子を見に来てくれたまだ研修医が終わったばかりの若い主治医の先生が、頭をよしよししてくれたのをなぜか覚えている。
友達が何人か来てくれたが、何を話したのか、いつ帰ったのか覚えていない。ユウゴが彼女と一番に来てくれたのを覚えている。彼女のマコ(仮名)は心配して一生懸命ベッドの近くで話してくれたが、ユウゴは何かを言いたげに私を睨みつけて一言も話さなかった。

34 :ナウシカ:2019/02/19(火) 15:54:27.57 ID:hLsub02VE
やがて私は手術をうけて、腰と右腕に創外固定のギブスをして、ベッドの上から車いすにのって、リハビリをすることになった。
精神科も受診したが、鬱ではなかった。ただ不安定ということと、睡眠障害があるということで、睡眠薬を処方された。
モルヒネが抜けてから、副作用でひどい睡眠障害になってしまったのだ。
どんなに眠気がきても自力で眠りに入れない。浅い眠りも無理。
睡眠薬が手放せなくなってしまった。20代はえぐいくらいの不眠症だった。
入院して4カ月後、2カ月半のリハビリを経て退院した。
ヨシヒサも何度もお見舞いに来てくれていた。Qもお見舞いに来てくれた。別れてもQとは何かあるとたまに連絡を取り合う仲だった。
しかし、精神的に不安定なんではないかということで、母親が心配して東京に帰ってこいとしきりに行っていた。
まだ松葉づえをついていたし、生活もままならないということで、浪人中の上の弟が来てくれていた。実は弟は入院中から来てくれていて、病室のアイドルだった。
病室はリュウマチのおばあさんやおばさんがほとんどで、
あとはスポーツで十字靭帯を傷つけてしまった高校生の女の子がいたが、明るい弟はすぐにみんなと仲良くなり、可愛がられていた。
姉思いで、「ちゅらさんみたいやね」とよく言われた。私はテレビはみないので「ちゅらさん」は知らないが、まあよく言われて感心された。

私はユウゴたち友達数名に
「うちのマンションに弟としばらく一緒にいることになるから、私がいない間弟の面倒見たってくれへん?お願いするわ。浪人中やから、勉強の面倒もみてあげてアドバイスとかしてあげて欲しいんや、お願いします」
とよくよくお願いしておいた。
弟は私の友達たちともすぐに仲良くなり、「弟くん」と可愛がられていた。
体は徐々に良くなっていくが、私の精神は不安定なままだった。
弟との共同生活を経て、弟も受験生に命の夏休みを迎えることになり、私も秋学期は休学してゆっくりしなさいということで、東京に帰ることになった。

35 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:00:03.28 ID:hLsub02VE
東京に帰る前に、しばらく会えなくなるかもしれないということもあり、ユウゴと弟と私で、六甲山やちょっとした山道にドライブにちょくちょく行った。
湖で花火をしたりした。
ある夜山奥に滝があるという山道をドライブしていた。それが東京に帰る最後のドライブだった。
「東京に遊びに来てや。案内するで」
と私はユウゴに言った。ユウゴはそれに笑顔で応じた。来てくれるものだと思っていた。滝の前で止まってフロントライトを消すと、そこら中にホタルが飛んでいた。
ものすごく幻想的で、現実にいないみたいだった。
「ホタルやんけ!綺麗やなあ!外に出よ!」
とユウゴが車の外に降りたので、みんなで降りて地面に寝そべった。
「ヤバいな」「超綺麗だわー」「夢みたいやわ」と口々に会話にもならないような感想を口にして、しばらくぼんやり見ていた。
「あっ!蚊にくわれた!蚊がおんで!」
と突然ユウゴが言って、
「もームードぶち壊しやんかー」
と笑いながらみんなでまた車に戻り、家路についた。
「シカへのご褒美やな」
とユウゴが言った。ユウゴが私の自殺未遂について口にしたのは初めてだった。

36 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:01:26.87 ID:hLsub02VE
そのあと、弟を先に返し、ユウゴとサシで飲んだ。私は親友であるユウゴにきちんと理由を話しておこうと思った。
私「ユウゴ、私が飛び降りた理由なんやけど、話したいけどええかな」
ユウゴ「おう、聞く。なんで俺に言えへんかったん?」
私「言いにくいことやってん。それでヨシヒサともぎくしゃくしてもうて、もう自分でもどうしてええかわからんくなってもうたんや」
ユウゴ「それでどうしたんや?」
私「今まで黙っててごめん。実は、物心つく前から実の父親に性的虐待を受け取ってん。今まで誰にも言われへんくて、辛くてな。」
ユウゴ「なんやそれ。ありえへんねやけど」
私「うん。引かれるのも嫌やって、もう苦しくて生きていたくなかってん」
ユウゴ「そりゃそうやんな」
しばらくユウゴはまぶたのあたりをこすって下を向いて沈黙していた。
ユウゴ「苦しんでてんやな」
私「うん、苦しかった。まだ苦しいよ。生き残っちゃった」
ユウゴ「アホなこと言うな。シカがあかんかったら、俺はどうしたらええねん。ほんまに助かってくれて良かった」
私「ありがとう。それに、この話も聞いてくれてありがとう。しんどい話でごめんな」
ユウゴ「シカが謝る話ちゃうやろ。お前の親父許せへんわ。死んだらええんや」
私「私もそう思ってる。怒ってくれてありがとう」
ユウゴに打ち明けた私は怒るユウゴに抱きしめられ、慰められてその日は家に帰った。ユウゴの目は真っ赤だった。
打ち明けた後で、なんとなく嫌な話をしてしまったんじゃないかと、罪悪感にかられた。
休学するということで、アパート代がもったいないのでアパートを引き上げることになった。
またあの父親のいる家に戻るのかと思うと発狂しそうだった。でももうちょっと鬱っぽかったのか、どうでもよくなっていた部分もあった。
憎しみだけがあった。

37 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:03:45.10 ID:hLsub02VE
父親と母親が2トントラックで来て、ユウゴもマコも引っ越しを手伝ってくれた。
「ほんまに帰るんか」
とユウゴは何度も口にしていた。
「寂しい?」
と私が茶化して言うと、
「あたり前やんけ」
と怒った声が返ってきた。
そして、私は東京に戻った。朝方、東京に着いたタイミングで大学の友達から電話があり、ユウゴが山奥に車で失踪したと言われた。
「シカ、なんか知らんか?最後にユウゴとしゃべったんシカやと思ったから電話してんねんけど」
と言われけれど、何もわからなかった。ユウゴが精神的に病んでいたことに、私は自分のことが精一杯で気づけなかった。
やきもきしながら待っていたが、昼頃見つけたという連絡が入った。1カ月後、私は大学の方に遊びに行った。まずユウゴの家に向かった。ユウゴの様子は変で、ああ鬱だなと気づいた。
「最近寝られへんねん。やる気おきひん」
と力なく笑っていた。私は自分の睡眠薬をちょっと渡し、色々しゃべったあとで、他の友達にも少し会い、一泊で東京に戻った。その時にヨシヒサを別れ話をして別れた。
また帰った日の夜中友達から連絡があり、ユウゴが山奥にまた入り、失踪する途中で車をぶつけてしゃがみこんでいたと聞いた。
私はどうしていいのかわからなくて、自分が寝ていないのもあって変な汗をかきながら考えていた。
そうこうしているうちに、ユウゴも秋学期を休学し、実家にもどることになったという話を聞いた。少しほっとした。

38 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:10:38.12 ID:hLsub02VE
私は睡眠障害がひどくて、睡眠調整のために精神科に入院することになった。入院して1週間くらいたった夜、母親から病院にいる私に電話があった。
部屋の外に出て何事かと思って話を聞くと、ユウゴが飛び降り自殺をして亡くなったという話だった。
すぐに退院させてもらって、ユウゴの彼女、マコに会いに行った。彼女は凛としていて、なぜか私の方が心配された。
ユウゴは故郷の奈良で密葬された。
落ち着いたころ、大学の仲良かったグループみんなでユウゴの家にお墓参りに行った。ユウゴのお母さんと私の母親は電話で話し込んでいたことが合って、仲が良かったようだ。
ユウゴが亡くなってすぐ、私の母親はユウゴのお母さんに電話をして気遣っていて、たくさん話をしたそうだ。
同じく子どもを失いかけた親として、ユウゴのお母さんとどこか通じ合えるところがあったのかもしれない。そんないきさつもあり、ユウゴのお母さんは、「あなたがシカちゃんね」
と、すごく感じが良かった。
なおさら胸が痛んだ。自分にそんな資格があるのかとかも考えたが、それもなんか違うと打ち消した。
私はひどく落ち込んでいた。というより、もう学校にもどる意欲がなくなっていた。ユウゴを失った喪失感と悲しさに打ちひしがれた。
ユウゴはすごく繊細なやつだったので、上昇志向の強いうちの学部は会わなかったのかも知れない。

39 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:12:30.14 ID:hLsub02VE
しかし、落ち込んではいたものの勉強をしたくないわけではないので、前からちょっと考えていた3年次編入で研究熱心なことで有名な国立大学に入ることを考えた。
編入試験で必要なのは学力試験として専門科目と英語、小論文と面接だった。思っていたより倍率は高いし、試験が難しかったので、また私は勉強した。
特に専門科目はこれまで専門的に学んできたわけではなかったので、力を入れた。浪人中の弟と共に受験することになった。
どうしても大学3年生を違う環境でやり直したかった。もくもくと勉強した。
2月の終わりに、合格通知が届いた。私はその国立大の3年生に編入した。
私はこっちの大学の方が肌に合っていた。無理に人に合わせなくてもいいし、1人で行動している人が多いので、1人でどこでも行けるし、なんでもできる。入学費も授業料も免除になり、学費の負担を親にかけることがなくなったことが嬉しかった。勉強にも集中できた。
もともとこの大学の大学院に行きたいと思っていたので、私は大学院入試に向けて勉強をした。専門科目の勉強が足りていなかったので、とにかく本を読んで詰め込んだ。
その頃、父親の海外赴任が決まった。単身赴任で、家からいなくなることになった。めちゃくちゃ嬉しかった。
あっという間に2年は過ぎ、4年生も終わる頃に大学院入学試験を迎えた。就活組はどんどん就職先が決まっていき、Qからも就職が決まったと電話があった。私に一番に報告したと言っていた。

40 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:15:28.11 ID:hLsub02VE
私は院試に無事合格した。その時もQに報告した。
私たちはまた頻繁に会うようになり、また付き合うことになった。
院での研究テーマは思い切って、自分に関することでもある、性被害に関することにした。
ここで問題が起きる。研究をするのにフィールドワークや本を読むのに、蔵書で性被害に関する本がどんどん並ぶ。
母親が「一体何の研究をしているの?」と怪しみだした。その場でははぐらかしていた。
研究しているうちに、私と同じように悲惨な実態がどんどんわかるようになった。「魂の殺人」といわれるだけあり、本当にそうだと思った。実際に私は自殺に追いやられたようなものだと思う。
自分の知りたいことが明らかになるという知的好奇心が満たされる一方で、常に自分の傷を見ている状態になり、私の不眠の状態はひどくなった。
ベロベロになるほど強い薬を飲み、なんとか眠りにつく毎日で、朝はほとんど使い物にならない。しかし、論文は昼から夜に書けるので、特にそこは問題なかった。
が、私の精神状態に限界がきた。PTSDについて知っている方はわかるだろうけれど、同じテーマをやることは、2次被害にあっているようなものだ。
ODではないが、睡眠薬に頼りすぎてベロベロで、先輩によって救出された。そこで、親にカミングアウトするように説得された。
私にとっては究極の選択だったが、カミングアウトすることに決めた。

41 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:18:03.73 ID:hLsub02VE
迎えに来た姉と母親に、
「実は小さいころから13歳になるまで父親に性的虐待をされていた。今まで言えなかったけれど、今の研究をしている以上黙っているわけにもいかないし、いずれはわかってしまうことだから」
と打ち明けた。2人とも動揺していたし、姉は父親のことがすごく好きだったので、怒っているようだった。
姉「その話本当なの?」
私「・・・ごめん」
姉はその時私が謝ったことで、ああこれは本当だと信じたらしい。
そのあと何がどうなったかよく覚えていないが、後から聞いた話によると、母親がすぐに父親に国際電話をし、確認したらしい。そこで父親は認めたということだった。
父親は長男だったので、親族会議になった。母親はうちの〇〇家にはいなくてはならない存在だったため、父親を事実上追放することになった。
下の弟も父親のことがとても好きだったので、可哀そうなことをしたと思う。上の弟はキレにキレまくっていた。
私がよく覚えていない最中、父親から私宛にメールが来た。私は読んですぐ崩れたが、弟は
「こんなものシカは見なくていい。俺がなんとかする」
といって、父親のメールに気持ちいいくらいきつく返信した。ちょっとそれを一部紹介晒そうと思う。

―――以下メール―――

弟「自分が何をしたのか、まったくわかっていないんですね。ちょっといろいろと勘違いしているみたいなので、返信します。」

父「ママが連日連絡をくれて、恐るべき事実が見えてきた。僕が幼少のシカちゃんに為した猥褻行為がもたらしたもの。」
弟「猥褻行為?ふざけるな。これは虐待行為でしかない。自分が犯罪者であることの自覚が全くない。猥褻とかいっている時点で、意識が低すぎる。」

父「生きる力を阻害し、〇〇年の自殺行為に至ったこと。しかも自殺の直接の引き金が、僕の発言にあったとのこと。」
弟「あなたの気持ちがまったく見えてこない。たぶん自分がやったということを、いまだに自覚していない。あなたは父親なのか?はっきりいってあなたは家族を家族とみていない。見れていない。」

父「しかし生き延びてくれて良かった。本当に安堵した。」
弟「だから何なんだ?あなたの気持ちがまったく入っていない。安堵した?ふざけるな。あ
んたは何なんだ?何様のつもりなんだ?」

42 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:20:51.35 ID:hLsub02VE
父「しかし、この事態を招いた原因・責任が全て僕自身にあったとは…。」
弟「たぶん自分がやったということを、いまだに自覚していない。」
「受け入れられない?受け入れる受け入れないのレベルの話ではない。まったく考えていないんだね。
かつて、「僕には教養がある」とか言っていたけれど、「教養」なんてないじゃねーか。
たくさん本を読んできて身についた「教養」が、今のそれですか?
ばかばかしい。そんなんなら、オレはあなたの言う「教養」なんていらないわ。
人の気持ちを分かる人間のほうが、「教養」がある人間だとおもうけどね。」

父「何度も考えた。どうして、今の時期に…。」
弟「考えてないだろ。どうして今の時期に?ではない。今だからこそだ。
やっと言えたんだぞ。ふざけるな。あなたがどんな環境で育ったのかは知らないけれど、結婚し子供を得た時点で、自分の育った環境なんて関係ない。」

父「サバイバーであるシカちゃんに心から謝罪したい。」
弟「テメーがシカをサバイバーなんて言うのが、どれだけ浅はかで愚かなのか分かっているのか?「死ね」って言ってるのと一緒だぞ?
それならテメーが死ねよ。「生きながら死ねよ」自分自身と本気で向き合えよ。言っておくけど今のあなたは〇〇の墓には入れない。オレが入れない。入れさせない。

43 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:21:24.27 ID:hLsub02VE
生きることが、どれだけ難しいことなのか?「自分もそう思う」とか思うだろうど、あなたが考える「生きるつらさ」とシカが考える「生きるつらさ」は質も量もまったく
違う。次元が違う。
あなたがやったことを全て考えろ。それはシカだけではない。家族全員の存在を、価値観を否定したんだ。
シカは自分との人生と向き合わないきゃ生きれないんだぞ?何が勇気だ?勇敢だ?本当はそんなことしたくないに決まってるだろ?でも、テメーがそれをやったから。そう生きなきゃならないんだよ。
シカの可能性、生きる選択肢、全てを奪ったんだぞ。全てを。
それにシカの友人の人生までも全て、奪ったんだぞ。世界の人すべての人に、土下座しても、まったく何も意味がない。それだけやったことは大きな罪なんだぞ?
加害者?加害者はみんなそうだ。母もオレも姉子も下弟もみんな加害者だ。でもそれと同時に、被害者だ。ただ、あなたは加害者でしかない。というか犯罪者だ。
これはおれもCもそう思っている。気持ちの中ではあなたは父なんかじゃない。ただの犯罪者だ。」

―――メール以上―――

44 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:22:58.48 ID:hLsub02VE
上の弟が書いたメールを読んで、私は留飲が下がる思いだった。ただただ感謝するしかなかった。あの時、私の話を信じてもらえなかったら、私は今生きている自信は全くない。
補足だけれど、メールに出てくるサバイバーという言葉は、死ぬほどの経験、命が脅かされるほどの危険を経験した人、虐待の被害者を指して称される言葉。
弟のメールを読むと、ユウゴが私の話を聞いて自殺したという風に解釈しているようだけれど、ユウゴの死の真相はもちろんのことだけれど、ユウゴにしかわからない。
でも弟はユウゴになついていたし、ユウゴと私がすごく親しかったのを知っていたのでそう思ったんだと思う。ヨシヒサがそうだったように、虐待は周囲の人も傷つけるから本当に罪が重いと私は思う。
私は弟の言葉に本当に救われた。

45 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:24:46.25 ID:hLsub02VE
その一連の出来事があり、Qにも私の過去が知れるところとなった。
Qは優しく受け止めてくれた。私の情緒がどんなに不安定でも、論文が進まなくて苦しんでいても、没頭しすぎていても傍にいてくれた。
無事に修士論文を出せたところで、Qにプロポーズされた。私は博士課程に進むので、結婚はまだこれから学会や投稿論文で忙しくなるから待って欲しいと言い、半同棲するようになった。ほぼQの家に住んでいた。
性的虐待とか性被害ってあまり語られることがないし、語る人は運動系の人だったりするので、どういうことが起こるのかあまりわからない人もいると思う。
事実、カミングアウトを流れでして、自分はどう考えるかわからないという人もいる。どう考えるべきかとか言うつもりは全くないし、それこそ人それぞれだと思うけれど、
こういうことは絶対にあってはいけないことだと私は思う。20代も終わりになり、だいぶ自分が受けた被害と距離が取れるようになった。

46 :ナウシカ:2019/02/19(火) 16:25:57.32 ID:hLsub02VE
そして、私はQと結婚した。
子どもには恵まれなかったけれど、2人で楽しく暮らして数年になる。
Qが一緒にいてくれるおかげで、自分も精神的に強くなったと思う。
私の父親は本当にとことんクズだけれど、どんなクズからも逃げられる手はある。
助けを求めることも、苦手な人は多いけれど、全然悪いことじゃない。むしろ、適切な時期に適切な相手に助けを求めるのは、自分にとっても自分に関わる他者にとっても大切なことだ。
博士課程も無事終えて、今度児童福祉の仕事に就くことになったので、人生の節目として記念に書いてみた。
今までも、調査のなりゆきで児童虐待にあった人を児童相談所につないだり、シェルターにつないだりと関わってきたことが難解もあるけれど、
これからは、いろんな境遇にある人の助けになれるように、今までの経験を活かしていきたいと思う。

読んでくれた人、ありがとう。

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