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よれた三十路の人生論(マインドコントロールされないために)

1 :仮面臓器:2016/11/14(月) 23:01:47.85
人生、担げば神輿、進めば祭。だから、担いで進んで行く
そうすれば、担いで進んでいること自体が、つまり自分の人生自体が、自分のアイデンティティとなり、その祭り自体が自分の自己実現となる。何ら特別なことはない。
他人の定義に惑わされる必要はない。こんなこと、今すぐにでも始められる。自分は、始めから自由だ。外からどう言われようとも、自分が神輿を担いで前に進んでいるのなら、それは、祭りなんだ。
目の前に広がる数々の難題や重々しい現実、その上には数多の人ごみが立ち込めており、自分の人生にとって障壁にしか見えないことも山の様にある。
でも、本当は、そこに希望がある。
確かに、それは果てしなく重く、自分一人では、到底持ち上げられそうもない。
しかし、その目の前にある一見絶望的な塊は、実は、神輿なのだ。
大勢の人たちで担ぎ合っている神輿なのだ。だから、担いで進めば、祭りなのだ。
そして、実は、自分もそんな神輿の上にいて、そのせいで重苦しくなった神輿を誰かが担いでいてくれたりする。それが、人生なのだろう。
だから、幸せになりたいのであれば、担ぐことが大切なのだろう。
だから、自分が幸せなら、気づかぬところで自分の神輿を担いでくれている人たちに感謝することも、めちゃくちゃ大切なのだろう。
だから、身の回りの人や知らぬ人への思いやりが大切なのだろう。
そして、担ぐ神輿はめちゃくちゃ重い上に、担いで行く向きは自分で決めるしかない。
でも、それが本当の責任であり、本当の自由なんだろう。
世の中、成功の道とか、幸せとかが定義され尽くして、自分にとっての幸せなどどこにあるのかわからないし、それ故に、既存の価値観に流されて幸せの幻想を見るしかなかったりもする。
でも、本当は常に、人は自分にとっての幸せを手にすることが出来るのかもしれない。
神輿を担いでいれば、行く方向は自分が決めて良い。神輿を担いで、歩き出したら、その瞬間から祭が始まる。
という、この事実が、人をそれぞれの幸せの方向に運んで行ってくれるのだろう。
だから、絶望したなら、自分が降ろしてしまった神輿を担ぎなおして、祭りを始めたらいい。その祭りの光で、明るく見えた方向に進んで行けば良い。
自分は、自由だ。自分の希望は、いつでも目の前の巨大な絶望を担いだ先に開かれているんだ。

2 :仮面臓器:2016/11/14(月) 23:04:54.81
【争いについて】
なぜ、人格否定されるのか?
それは、その否定してくる相手が、人生のどこかで、生きる上で、何かに甘えくさって生きてきたからだ。
人は、必死に生きていれば、ボロも出る。お互い、必死に生きて、出てしまったボロを需要し合うからこそ、社会、というより大きなまとまりで結束し、より大きな幸福を手にし得る存在となる。
これが、平和の原理なんだろう。

人の人格否定の押収は、
国の、文化、文明の否定の押収、即ち、戦争と同じである。

人格否定も、戦争も、両者の未熟性に起因するところがあり、両者が止めなければ終わらない。
原因は、需要や協調に至れない未熟さにある。
だから、例え人格否定を受けて心が乱れそうになっても、自己否定する必要はない。

3 :名無しを整える。:2016/11/16(水) 05:09:19.99
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