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鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

1 :名無しを整える。:2017/04/11(火) 11:48:39.27 ID:kMYDXZN5.net
大好評なので、続スレッドを建てたのじゃ
みな、儂のことが好きなのじゃ
よって、みな、儂の弟子じゃ
儂は、悟りを開いて、もうこれ以上、悟ることはないのが、みなは、そうではないじゃろ
儂のように悟りたければ、儂の言うことを聞くのじゃ

890 :名無しを整える。:2017/10/14(土) 11:06:56.93 ID:yOzm25TM.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、2、つとめはげむこと

425 ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

426 (悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。

428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。

429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい」・・・・

430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。
──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

431 わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

432 わたしには信念があり、努力があり、また知慧がある。このように専心しているわたしくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?

433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

434 (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心はますます安立するに至る。

435 わたしはこのように安住し、最大の苦痛をうけているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢餓であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、

438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

439 ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。

440 このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。

441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。

444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、かれは赴くであろう。」

446 (悪魔はいった)、
「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙をみつけることができなかった。

447 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか? 味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。

448 そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。岩石ら近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る。」

449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気しょう沈してそこに消え失せた。

(´・(ェ)・`)つ

891 :名無しを整える。:2017/10/14(土) 12:09:02.12 ID:yOzm25TM.net
>>890
426
悪魔は自分の領域(欲の世界)から出たいと望んでいる神や人間を妨害する。解脱を目指す修行者の修行の邪魔をする。
428
ヴェーダ学生としての清らかな行い
聖火に供物をささげる
←悪魔推奨の修行方法
430
悪魔
仏教では仏道を妨げ、悟りを妨害する欲の世界の支配者。経典では世間における常識的考えの代表者という役割を演じている。悪魔、マーラは欲界の神の一員。
悪魔の勧めは、輪廻の世界にいて、よい世界に生まれ変わること。ブッダは、輪廻は苦しみの世界であることを知って、そのようなことは望んでない。ブッダの目標は苦しみの世界からの完全なる解脱。輪廻からの解脱。
ブッダは悪魔に、お前の言葉は良い世界に生まれ変わりたいと望んでいる人々に語るのが相応しいと述べた。
432
信と精進と智慧
434
念いと智慧と統一した心=念と智慧と禅定→五根が具わり、安立した。五根の安立で涅槃への道は定っている。
437
第八の軍隊はみせかけと強情(偽装と強情、偽善と頑固)。少しばかりのすぐれた境地を経験すると、慢心や偽善、強情などが生じる。これらも出家者の修行を妨げる悪魔の軍隊。
438
(第九の軍隊)は「誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉」
(第十の軍隊)は「自己をほめたたえて他人を軽蔑すること」
疑惑、恐怖などを比丘が克服して修行をしていると、優れた境地を得ることになる。→比丘は人々から「利得、名声、尊敬」を得ることになる。→修行を完成してないのに、慢心が起こり、修行を中止してしまう。
これは大きな修行の妨げ。ましてや誤って得た利得、福徳ならば、なおのこと修行の妨げになる。
439
勇者とは身体、生命を顧みないで修行する者。悪魔の甘言に乗って、自分の身体の心配する者は、このような悪魔の軍隊には勝てない。
440
「ムンジャ草」
戦場から退却しない人々は、自分は退却しないものであることを知らせるために、頭や旗や武器にムンジャ草を結びつけた。→悪魔に絶対に降伏しない。
442
四方を象に乗った悪魔とり囲まれても、釈尊はひるむどころか、悪魔以上の闘志と決意で、それに立ち向かい、不敗の結跏趺坐の瞑想で臨むのであります。ドラマチックであります。
443
悪魔の軍隊
欲望、嫌悪、飢餓、妄執、ものうさ、睡眠、恐怖、疑惑、みせかけと強情と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉、自己をほめたたえて他人を軽蔑すること。
釈尊は智慧があるから、これらに勝つ方法を知っており、打ち勝つことができると断言した。
「智慧」
智慧のいくつかの特徴
物事の本質を理解して、その目的、構造、機能を理解すること。或は、その成り立ち、しくみ、働きを理解すること。その智慧はもの事をありのままに観察することによって得られる。
「欲望」
欲望は眼耳鼻舌身意に刺激があり、その刺激が好ましいと感じる時現れる。また、その時の感覚に対して、思考し、妄想するとそれが欲望の燃料になり、欲望はますます増大する。
その感覚に対して、妄想という燃料を供給しなければ、欲望は燃料不足によって消えてしまう。
欲望を満足させることが幸福だという誤解をなくし、欲望が苦しみの原因だということを、欲望の観察から理解した人は、欲望を満足させることではなく、欲望をなくすことに努力し、そのために、欲望の燃料、その欲望に関する思考、妄想を止める。
そうすると欲望は燃料不足のために消滅する。
「焼いてない生の土鉢を石で砕くように」焼いてない生の土鉢とは、妄想で増大していない欲望をという意味で、それならば簡単に打砕くことができるということす。
449
悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた」
この琵琶は、帝釈天(神々の王)が音楽神に与えたものと言われ、一度指で奏でると、四か月間甘美な音を発するというもの。
それほど素晴らしい琵琶を、悪魔は脇から落としてしまったというほど悪魔が意気消沈して、茫然としていたということ。
ブッダは悪魔との戦いで完全な勝利した。ブッダにとっては自分の煩悩との戦いに勝利したことであり、解脱への修行を完成させたということ。

(´・(ェ)・`)つ

892 :鬼和尚 :2017/10/14(土) 20:15:42.99 ID:HXg9krFs.net
そうじゃ、無欲と成り、智慧を具現した目覚めた者に悪魔は何も出来ないのじゃ。
それは欲に取り付かれて無知無明の者にのみ災いを起こすものであるからのう。

893 :名無しを整える。:2017/10/15(日) 05:45:32.09 ID:9lzgGzkH.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、3、みごとに説かれたこと

 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのとき師は諸々の<道の人>に呼びかけられた、「修行僧たちよ」と。
「尊き師よ」と、<道の人>たちは師に答えた。師は告げていわれた、「修行僧たちよ。
四つの特徴を具えたことばは、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。
その四つとは何であるか? 道の人たちよ、ここで修行僧が、[T]みごとに説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らず、[U]理法のみを語って理にかなわぬことを語らず、
[V]好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、[W]真理のみを語って、虚妄を語らないならば、
この四つの特徴を具えていることばは、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。
諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」尊き師はこのことを告げた。そのあとでまた、<幸せな人>である師は、次のことを説いた。

450 立派な人々は説いた──[T]最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)[U]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。
[V]好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。[W]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。

 そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。
「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。
451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。

452 好ましいことばのみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。

453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上えに、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことばは、実に諸々のことばのうちで最上のものである。

(´・(ェ)・`)つ

894 :名無しを整える。:2017/10/15(日) 16:29:23.06 ID:9lzgGzkH.net
>>892
鬼和尚ありがとうであります。
無知無明のくまであるとの自覚をもって精進するであります。

次に進むであります。
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ

 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はコーサラ国のスンダリカー河の岸に滞在しておらめれた。ちょうどその時に、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、スンダリカー河の岸辺で聖火をまつり、火の祀りを行なった。
さてバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、聖火をまつり、火の祀りを行なったあとで、座から立ち、あまねく四方を眺めていった、──「この供物のおさがりを誰にたべさせようか。」

 バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、遠からぬところで尊き師(ブッダ)が或る樹の根もとで頭まで衣をまとって坐っているのを見た。見おわってから、左手で供物のおさがりをもち、右手で水瓶をもって師のおられるところに近づいた。
そこで師はかれの足音を聞いて、頭の覆いをとり去った。そのときバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは「この方は頭を剃っておられる。
この剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。そうしてかれはこのように思った、「この世では、或るバラモンたとは、頭を剃っているということもある。さあ、わたしはかれに近づいてその生れ(素姓)を聞いてみよう」と。

 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは師のおられるところに近づいた。それから師にいった、「あなたの生まれは何ですか?」と

 そこで師は、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャに詩を以て呼びかれた。

455 「わたしはバラモンではないし、王族の者でもない。わたしはヴァイシヤ族(庶民)の者でもないし、また他の何ものでもない。

456 わたしは家なく、重衣を着け、髭髪(ひげかみ)を剃り、こころを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。
 バラモンよ。あなたがわたしに姓をたずねるのは適当でない。」

457 「バラモンはバラモンと出会ったときは、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」
「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
 (師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」

459 バラモンがいった、「わたくしはヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する(わたくしの)献供はきっと効果があるでしょう。
(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓子(のおさがり)を食べていたのです。」

460 (師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求めるところあってきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」

461 (バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかしわたくしははっきりとは知っていません。あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください。」
 (師が答えた)、「では、バラモンよ、よく聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。

462 生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば高貴のの人となる。

463 真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らか行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから慎んで、梭のよえに真直ぐな人々、──そのような人々にそこ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

465 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

(´・(ェ)・`)つ

895 :名無しを整える。:2017/10/15(日) 16:31:54.56 ID:9lzgGzkH.net
>>894
457
前半はスンダリカ・バーラドヴァージャ・バラモンの言葉で、後半が釈尊の言葉
サーヴィトリー賛歌
「リグ・ヴェーダ」第三編第六二詩篇の10にある三句二十四字よりなる詩
太陽神サヴィトリに対する賛歌。
バラモン達のあいだでは特に神聖視され、今日に至るまで毎朝この詩が唱えられている。
[仏教徒のサーヴィトリー賛歌(仏に帰依奉る)、(法に帰依奉る)、(僧に帰依奉る)]
458
「究極に達したヴェーダの達人」=輪廻の究極に達した人(解脱した人)、真理を悟った聖者に、供物をささげるならば、その祭祀の儀式は成功する。
それらの聖者に対するの布施の功徳は大きいから。
459
疑問を持つ人にはその答えは、与えられるということ。
「意志ある所に道あり。」
「求めよ。さらば与えられる。」
「修行者が師を必要とした時、師は現れる」
「弟子に聞く耳が出来た時に、師匠は教えられる。」
聞ける態度が出来なければ、何も聞けないのです。
462
供物を捧げるときは、捧げるのにふさわしい(価値のある)人間に捧げれば、効果がある、成功したと言える。価値ある人間は生まれで決まるのではなく、行いで決まる。
火は香木の火も、木屑の火も同じ性質を持っている。
どんな賤しい家柄の出身の者でも、心を浄める修行をして聖者になられた方でも、貴族出身の聖者も同じ聖者だということ。
聖者になる方法として、「恥(慚)を知って慎む」
恥(慚)とは、悪事をすることを内心に恥じること。良心の呵責によって悪いことをしないこと。
(もう一つ悪事を止めるための力になるのが「怖れ」。仏教用語では愧。
愧とは、悪事をすることを外部に怖れることです。こんなことをすれば、他の人に非難されるだろうと怖れて悪いことをしない。両者を合わせて、慚愧(ザンキ)。
これらは道徳を守る力。慚愧の力で、道徳を守り心を清らかにして、心の堅固な聖者になる。)
463
「真実もてみずから制し」=四聖諦を理解して、実践し、自己を完成してという意味。
464
「よくみずから慎んで」(自己が善く自制され)いる人、これは煩悩の起こる基である感覚器官をよく守って、煩悩が現れないようにしている人。
梭(ヒ)=機織りの梭(シャトル)
真直ぐな人の喩え
465
月がラーフの捕われから脱した
月蝕や日蝕のことを言う。
ラーフはインド神話の鬼神の名前。このラーフが月や太陽を呑み込むので月蝕や日蝕が起こると言われている。煩悩を脱した人をラーフの捕捉から脱した人と言う。
煩悩を捨てるためには、貪欲から離れることが必要であり、感覚器官を守る必要がある。煩悩は感覚の乱れによって現れる。
好ましいものを見ると欲が現れ、嫌なものを見ると怒りが現れる。音と耳、香りと鼻、味と舌、感触と身体、想いと心の関係についても同様。
見たり、聞いたりすることは避けらない。見ても、聞いても煩悩が現れないように訓練をする必要がある。
見た時は見ただけにする。聞いた時は聞いただけにする。
見たことをしっかり見たと意識すること、見たと自覚すること。
(´・(ェ)・`)つ

896 :鬼和尚 :2017/10/15(日) 22:50:03.25 ID:xst05O0l.net
そうじゃ、生れを問わず行いを問うのじゃ。
正しい修業に励む者が真の修行者なのじゃ。

897 :名無しを整える。:2017/10/16(月) 18:50:51.41 ID:oI9bbLlX.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ

466 執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのよえな人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような<全き人>(如来)は、お供えの菓子わ受けるにふさわしい。
468 全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)と等しくして、平等ならざる者どもから遙かに遠ざかっている。かれは無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることがない。<全き人>(如来)はお供えの菓子を受けるにふさわしい。

469 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

470 こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

471 こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

472 かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

473 執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者どものうちにあって慢心にとらわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知りつくしている<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

474 欲望にもとづくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異なった見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

475 あれこれ一切の事物をさとって、それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、へいう平安に帰し、執著を滅ぼしつくして解脱している<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

476 煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余すところなく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

477 自己によって自己を観じ(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

478 迷妄にもとづいて起る障りは何ら存在せず、あらゆることがらについて智見あり、最後の身体をたもち、めでたい無上のさとりを得、──これだけでも人の霊(タマシイ)は清らかとなる。──(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。」
(´・(ェ)・`)つ

898 :鬼和尚 :2017/10/16(月) 20:58:58.42 ID:wNyv3F1R.net
そうじゃ、自己によって自己を観るのじゃ。
そしてそれに囚われずにいるのじゃ。

899 :名無しを整える。:2017/10/16(月) 21:36:09.19 ID:oI9bbLlX.net
>>897
466
@「執着がない人」
十二支縁起の執着と同じ。
執着をなくした人はすべての苦をなくし、解脱した人。
A「常に気づきのある人」
不放逸。
ブッダの最後の言葉。「では君たちに告げます。すべての事柄は消え去るものです。不放逸を励みなさい」
常に気づくこと(不放逸)によって、悪をなさず、善に至り、智慧が開発される。
B我がものという思いのない人、
467
四聖諦。
人生は苦しい。その原因は渇愛(欲望)にある。その苦しみは欲望を捨てることで克服できること。また苦しみを克服する八正道という方法を示した。
八正道を実践した人は、すべての煩悩が消え、燃える火に喩えられる煩悩が消えると熱がなくなり、常に冷たい湖水のような清涼な状態になる。この境地を涅槃とも言う。
如来には無限の智慧がある。
無限を凡夫は有限の延長としか考えられない。
無限とは有限とは次元の異り、理解できない。
469
(偽り、欺瞞、幻影)がない。
凡夫には我があるという実感がある。しかし、如来には我あるというような幻影はないと正しく実感できている。幻影にだまされることはない。
(慢心)がない。
自分と他人と比較するという心。
自分と他人を比較して自分が上だと思う心は増上慢(高慢)。自分と他人と同じだと思う心を同等慢、自分は他人より下だと思う心は卑下慢と言う。
如来には慢心がないら、慢心から生まれる悩みや苦しみはない。
如来には貪欲がない。
自我がないから、自己に執着する我執はない。日々淡々と必要なことを行うだけ。
もちろん怒りはない。怒りを抑えているのではなく、怒りの心がないので、怒れない。
憂い苦しみの原因は渇愛と無明。渇愛と無明のない如来には憂い苦しみはない。
470
心にこだわりがなければ、どんなことにも抵抗がなく、すべてが受け入れられる。怒りや嫉妬などは生まれない。悩みも生まれない。
自分の外部にこだわりの対象、執着の対象が何にもない。
そのような体験のある人はこの世にもそれ以上望むことがなく、死後は良い所に生まれ変わりたい等という思いはない。
そのような人には、心に汚れのない。
471
心を統一するとは、瞑想して禅定に入ること。
激流とは煩悩を意味する。
禅定に入って、煩悩を克服するということ。
禅定に入るためには、五蓋(欲貪、瞋恚、昏沈・睡眠、掉挙・悪作、疑)いう煩悩の機能を停止する必要がある。
五蓋の機能が停止すると、自然に五支禅(尋、伺、喜、楽、一境性)が現れ、第一禅定に入る。
そうすると一時的に煩悩がない状態を経験する。しかし、禅定により煩悩がなくなったわけではないのて、禅定から出ると煩悩は現れる。
心を統一して禅定に入っただけでは、激流と言われる煩悩を克服することはできないん。
最高の見解によって真理を了解することが必要。
これは智慧を得ること。
禅定に入ることによって、ありのままの現象をありのままに観察することができるようになる。
智慧が開発され、その智慧の力にとってすべての煩悩が克服さる。
煩悩の親玉である無明も克服される。
すべての煩悩を智慧の力に克服することを解脱と言う。阿羅漢は生命を輪廻の苦しみに結びつけるすべての煩悩ないので、もう輪廻することはない。
そのような方を最後身の保持者と言う。
(´・(ェ)・`)つ
つづく

900 :名無しを整える。:2017/10/16(月) 21:39:15.73 ID:oI9bbLlX.net
>>897
472
欲界への欲は普通の生命が持っている「生きていきたい、死にたくないという欲」という煩悩。
色界への欲は色界の禅定(第一禅定から第四禅定)の状態を求め、それを失いたくないという欲。
無色界への欲は無色界の禅定(空無辺処禅定、識無辺処禅定、無所有処禅定、非想非非想禅定)の状態を求め、それを失いたくないという欲です。
この二つは阿羅漢になるまでにはなくならない煩悩。この生存の煩悩を除き去ったということは阿羅漢になったということ。
「生存の汚れ」
すべての煩悩を捨て去った阿羅漢は、普通は乱暴な言葉、粗野な言葉は使わない。
如来は聖なる智慧に通じており、「あらゆる所で解脱している」
のあらゆる所とは、五蘊(身体、感覚、概念、意思、認識)あるいは十二処(眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法)において執着がなく解放されているということ。
473
執着するのは心。
執着がないとは心が執着しないこと。
心が執着しなければ、心は完全に自由。凡夫の心は自分の心がする執着によって自由が奪われている。完全に自由な心は解脱していると言われる。執着がないとは煩悩がないこと。煩悩がないとは涅槃。執着がないとは涅槃。
慢心は他と比べる心。心は他と比べることによって、評価する。評価はその人の価値観を基準にする。人は自分の価値観に執着している。自分の価値観への執着から悩み苦しみが生まれる。慢心から悩み苦しみが生まれまる。
田畑は業と煩悩の象徴。
474
遠ざかり離れることを見、
@身の遠離A心の遠離は八禅定(色界と無色界の禅定)B生存素因の遠離、すなわちそれは涅槃。
「他者の教える見解」とは、「六十二見」。長部経典の『梵網経』ブッダがまとめた誤った六十二の見解
「何らこだわってとらわれることのない」「諸々の〔欲望や執着の〕対象(所縁)が存在しない」望むものがない、欲しいものがない、期待するものがないということ。如何なる欲望もないと言うこと。
475
一切の事物
五蘊(色受想行識)、十二処(眼耳鼻舌身意、色声香味触法)
一切の物事は無常
一切の物事はある時、ある条件のもとでのみ存在している。
条件を構成する要素もそれぞれ無常
その条件も一定ではない。
ある瞬間にのみ存在していると言えるので、次の瞬間は存在出来ない。それはすべて事柄について言えるので、何かに執着することはない。
476
煩悩の束縛
結縛、仏教用語では「結」生命を輪廻の世界に結び着ける煩悩。
これが私たちの心にあるから輪廻転生を繰り返す。煩悩は次の10種類。(十結)
1.有身見:「私」という概念が実体のあるものだと思い、肉体と心が自分のものだと誤解していること。
2.疑:仏法僧、因果法則、四正諦、八正道などを疑うこと。
3.戒禁取:無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼。
4.愛欲:五欲に対する渇愛。
5.激怒:異常な怒り。
6.色貪:色界禅定に対する渇愛。
7.無色貪:無色界禅定に対する渇愛。
8.慢:自分を基準にして他者と比べる働き。驕り高ぶり。卑下。
9.掉挙(じょうこ):心が浮つき落ち着きがない。禅定を妨げるもの。
10.無明:すべての煩悩の大本。煩悩の親玉。
1から5までは五下分結、6から10までは五上分結
悟りの段階と十結の関係。
預流果:1、2,3、の煩悩がなくなる。一来果:4から10の煩悩は残っているが、預流果より薄まっている。不還果:1から5の煩悩がなくなる。6から10の煩悩は残っている。阿羅漢果:すべての煩悩がなくなる。
これらの十結を残りなく除き去れば、輪廻再生させる要素はなくなり、二度と生は現れない。それを生存の滅尽の極限を見と表現されている。
またこれらの10の煩悩が心から残りなくなれば、心は清らかになる。愛欲の過ちも激怒の過ちも無明による過ちもなくなる。その時心は透明で明るい。
477
自己(自我)はないので、自己を観察しても、五蘊(色受想行識)は感じるが、その実体たる自己(自我)はないことが解る。
478
諸々の煩悩、すべての煩悩がない。
最後の身体を保持する人とは、輪廻を繰り返さない人、阿羅漢。
「これだけでも人の霊(タマシイ)は清らかとなる」
スンダリカ・バーラドヴァージャ・バラモンはこの時点で、「魂の清浄」に価値をおいているので、彼に理解しやすいように、このように述べたのではないか?
(´・(ェ)・`)つ

901 :名無しを整える。:2017/10/17(火) 19:00:06.05 ID:X+Ej+xsQ.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ

479 「あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。
梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。先生! ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。」

480 「詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。
詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。

481 全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。」

482 「先生! わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしは──あなたの教えを受けて──どうか知りたいのです。」

483 「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、

484 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の特性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、

485 かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」

486 「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子を受けるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたにさし上げた物は、果報が大きいです。」

 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、尊き師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。
あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方向に迷った者に道を示すように、
あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。
だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また法と修行僧のつどい帰依したてまつる。わたくしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けたいものです。」

 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。
それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極
──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──
を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。
清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。

(´・(ェ)・`)つ

902 :名無しを整える。:2017/10/17(火) 21:04:22.27 ID:X+Ej+xsQ.net
>>901
479
みそなわす【見そなはす】「見る」の尊敬語。ごらんになる。
481
仏教を教えられたから、そのお礼をするとか、感謝するとか、尊敬するとか、そのような限定された行為ではなく、
全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対して、何も期待しない、ただ奉仕する、供養する、布施をするという限定のない、純粋な行為が仏教のやり方だと教えた。

(´・(ェ)・`)つ

903 :鬼和尚 :2017/10/17(火) 22:47:02.12 ID:l9e8hrVu.net
すばらしいことじゃ。
教えを聞いて理解して実践すれば誰でも目覚めて阿羅漢になれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 

904 :名無しを整える。:2017/10/18(水) 18:30:24.42 ID:eCiv/Pch.net
>>903
くまでもあらかんになれるでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

905 :名無しを整える。:2017/10/18(水) 19:02:21.96 ID:eCiv/Pch.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ

 わたくしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ) は、王舎城の<鷲の峰>という山におられた。そのときマーガ青年は師のおられるところに赴いた。そこに赴いて師に挨拶した。
喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交したのち、かれらは傍らに坐した。そこでマーガ青年は師に言った、──
 「ゴータマ(ブッダ)さま。わたくしは実に、与える人、施主であり、寛仁にして、他人からの施しの求めに応じ、正しい法によって財を求めます。
そのあとで、正しい法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、二人にも与え、三人にも与え、四人にも与え、五人にも与え、六人にも与え、七人にも与え、八人にも与え、九人にも与え、十人にも与え、
二十人にも与え、三十人にも与え、四十人にも与え、五十人にも与え、百人にも与え、さらに多くの人にも与えます。
ゴータマさま。わたくしがこのように与え、このようにささげるならば、多くの福徳を生ずるでしょうか。」

 「青年よ。実にあなたはそのように与え、そのようにささげるならば、、多くの福徳を生ずる。
誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」

487 マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくしはお尋ねします。
この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」

488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

489 マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、
<まさに施与を受けるにふさわしい人々>のことをわたしに説いてください。先生!」
(´・(ェ)・`)つ

906 :鬼和尚 :2017/10/18(水) 21:48:37.99 ID:wyr7R9L5.net
>>904 そうじゃ、なれるじゃろう。
 くまかんじゃな。

907 :名無しを整える。:2017/10/18(水) 22:03:45.60 ID:eCiv/Pch.net
>>906
宇宙初のくまかんを目指すであります。
鬼和尚ありがとうであります。
(´・(∀)・`)つ

908 :名無しを整える。:2017/10/19(木) 20:03:38.31 ID:Sdl67uVC.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した<全き人>がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

491 一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

492 一切の結び・縛めから解き放たれ、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

(´・(ェ)・`)つ

909 :名無しを整える。:2017/10/19(木) 20:48:55.49 ID:Sdl67uVC.net
>>908
490
執着を四種類に分類。
1.欲に対する執着。
2.見解に対する執着。
3.戒禁に対する執着。
4、我語に対する執着。自分の説に固執すること。(自分がいるという実感に対する執着)
491
492
結(十結)仏教用語。輪廻の原因になる以下の煩悩。
1.有身見(うしんけん):永遠不滅の真我があると言う誤解 (自我があるという誤解)
2.疑:迷って確信がないこと
3.戒禁取(かいごんしゅ):無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼
4.貪欲:五欲に執着すること
5.瞋恚(しんに):いらいらして怒ること
6.色貪(しきどん):色界禅定に執着すること
7.無色貪(むしきどん):無色界禅定に執着すること
8.慢:自分と比較すること。自分を重要と思うこと
9.掉挙(じょうこ):落ち着きのないこと
10.無明:真実を知らないこと
十結には経蔵の分類と論蔵の分類がある。
10の煩悩が生命を束縛する拘束。
491偈では、これらの煩悩を断ち切った人について述べ、
492偈では、これらの煩悩から解放された人について述べている。
これらの煩悩を断ち切って、解放された人は涅槃を体得した阿羅漢。阿羅漢は自己を制御し、解放した(執着から離れた)、苦悩のない、何も望むことのない(何事にも満足した)方。
十結と悟りの関係は、1.2.3.の煩悩がなくなれば預流果の悟り、かつ4.5.の煩悩が少なくなれば一来果の悟り、1.2.3.4.5.の煩悩がなくなれば不還果の悟り、1.から10.までの煩悩すべてがなくなれば阿羅漢果の悟りで修行の完成。
493
始めの二行の述べられた煩悩は
貪りと怒りと迷妄。三毒あるいは貪瞋痴(トンジンチ)
(´・(ェ)・`)つ

910 :鬼和尚 :2017/10/19(木) 21:46:17.01 ID:NSnABwBw.net
>>907 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。

911 :鬼和尚 :2017/10/19(木) 21:46:48.25 ID:NSnABwBw.net
>>907 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。

912 :名無しを整える。:2017/10/20(金) 16:12:00.46 ID:2Ij21SNU.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ

494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

495 実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

(´・(ェ)・`)

913 :名無しを整える。:2017/10/20(金) 19:42:01.81 ID:2Ij21SNU.net
>>912
494
(欺瞞、偽り)は、自分の悪事を隠すこと。
(慢心)は自分と他人と比べること。増上慢、同等慢、卑下慢。この慢心は阿羅漢になるまでなくならない煩悩であり、根深い。
495
激流とは、煩悩を意味する。渇愛に耽らないのであれば、渇愛はいろいろな煩悩の根本にあるものなので、煩悩の激流を渡ることができる。
渇愛は感覚を縁にして生まれる。
自我が生まれる事情。
自我も感覚を縁にして生まれる。何かを見たり、聞いたりするたびに、私が見た、私が聞いたという私(自我)という主語(妄想)が生まれる。
渇愛と自我は二子の兄弟のようなもの。渇愛が克服される過程は、自我が克服される過程でもある。
煩悩の激流を渡った人は自我の固執すなわち我執はない。
496
渇愛を三つに分類。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触、五欲に対する渇愛
2.有愛 : 生存に対する渇愛
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)
この内の特に2.有愛があるので輪廻する。渇愛のなくなった人は輪廻しない。渇愛のなくなった人は、固執、有、生、老、死、苦蘊が次々に滅し、解脱する。
(´・(ェ)・`)つ

914 :鬼和尚 :2017/10/20(金) 21:57:39.09 ID:dQKH8eJQ.net
なにやらおかしいのじゃ。
渇愛があってもなくても輪廻するのじゃ。
無認識に至るまで輪廻はありつづけるのじゃ。

915 :名無しを整える。:2017/10/21(土) 10:19:43.95 ID:VddYMOYG.net
>>914
鬼和尚、おはようございます。
この解説では、生存に対する執着がなくなれば、輪廻は止み、解脱するとされてますが、
輪廻しなくなること=解脱=悟り、なのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

916 :名無しを整える。:2017/10/21(土) 10:27:11.95 ID:VddYMOYG.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ

496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

497 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから制して、梭のように真直ぐな人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

(´・(ェ)・`)つ

917 :名無しを整える。:2017/10/21(土) 10:36:29.44 ID:VddYMOYG.net
>>916
497
梭(ヒ)
「織機の付属用具の一。シャトル。」
織物は縦糸に梭によって横糸を「真直ぐに」くぐらせて織る。
梭は「真直ぐ」の象徴。
諸々の欲望を捨てて、家も捨て、公正に真直ぐに行く人々。
(´・(ェ)・`)つ

918 :名無しを整える。:2017/10/21(土) 14:03:42.10 ID:VddYMOYG.net
>>914
Wikipedia輪廻、抜粋
『仏教における輪廻とは、・・・認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。
輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。
この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので、意識が断絶することはない。
それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。』
認識あるままに、生存に対する執着を離れることは、そもそもできそうもないでありますね。
悟るとは、生きてるうちに死を受け入れることでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

919 :名無しを整える。:2017/10/21(土) 17:31:26.30 ID:VddYMOYG.net
>>914
無認識という、包括的な脱落の境地(?)は、まさに、死そのもののようでありますが、
生きてあると確信している自我が幻想であったと知れれば、生も死もその主体がないのでありますから、死は意味をなさず、生はそのことを知る機会という意味においてのみ意味あると言うことでありますかね。
で、その無我の境地を不可逆的なものとするために、最後に無認識の境地へ飛び込む勇気が必要なのでありましょうかね。
(´・(ェ)・`)つ

920 :鬼和尚 :2017/10/21(土) 20:32:58.61 ID:Xt0yKHmY.net
>>915 悟れば輪廻は個我の幻想から生まれると気付くのじゃ。
 悟りの成果ではあるがそれが悟りそのものではないのじゃ。
 エネルギーとかはないのじゃ。

>>919 そのような理解でよいのじゃ。
 そうじゃ、勇気が必要なのじゃ。
 

921 :名無しを整える。:2017/10/21(土) 23:22:18.77 ID:VddYMOYG.net
>>920
鬼和尚、ありがとうであります。
成果であるだけで、同義ではないのでありますね。
スッキリしたであります。
エネルギーとは、仕事をすることのできる能力の総称だそうでありますが、たとえるのであれば、そのエネルギーの影響を受けている状態にある空間のことであるところの『場』の方が適切かもでありますね。
wikiの解説を、「心とは認識の「場」の連続」と読み替えるとスッキリするような気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ

922 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 09:10:21.75 ID:ysR0V7Lm.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ

498 欲望を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。
──

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。
──

501 自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。
──

502 『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』ということを、この世で如実にしっている人々がいる。
──

503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。
──

504 (マーガがいった)、「実にわたくしの質問はむだではありませんでした。尊き師は、まさに施与を受けるにふさわしい人々のことを、わたくしに説いてくださいました。
先生! あなたはこの世ですべてのことがらを如実にしっておられます。あなたはこの理法を知っておられるからです。」

505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

506 尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。

507 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」

508 (マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか?
聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊き師は、わたくしの<あかし>です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。
真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」

 このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。
ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。
だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしを在家信者として受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」
(´・(ェ)・`)つ

923 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 10:59:37.00 ID:ysR0V7Lm.net
>>922
498
ラーフの捕捉
月蝕や日蝕のこと。
煩悩を脱した人
465参照
499
生存の諸要素
五蘊(色受想行識)のこと。
「迷いの生存」に行く道のない
輪廻転生して生きるという道がない
=輪廻転生しないということ。
500
生と死を捨てて余すところなく
渇愛による何としてでも生きていきたいという本能的な欲望がなくなっているということ。
生がなければ死もなし。輪廻から解脱していると言うこと。
渇愛がなくなり、生死を超越した人には無明の闇はない。無明がなくなれば、闇の中で光を灯したように明が現れ、あらゆる疑惑が晴れる。
501
自己を拠り所にして生きることにより、何事にも執着しないで生きること、すなわち無一物で生きることができる。
「あらゆることに関して解脱している」
五蘊(身体、感覚、概念、意思、認識)、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法などに執着がなく自由であるということ。
502
阿羅漢
503
ヴェーダに通じ
世間の知識ではない、出世間の知識に通じていること。それは心の平安についての知識に通じていることす。
禅定を楽しみ
心は刺激を求めているが、瞑想は刺激を遮断する行為。
五蓋(貪欲、瞋恚、心の沈滞、興奮・後悔、疑惑)がなくなると禅定が訪れる。
禅定には喜びや楽しみがある。
禅定に楽しむ人々に、念(気づき)があるならば、智慧が生まれる。この智慧によって正覚(悟り)が現れる。
その智慧から正覚が得た人々から、人々は幸福になる生き方を学べる。そのため多くの人々から帰依される。
506
供養する前に、供養しつつある時も、供養が終わったあとも喜びの心を持って行えば供養は成功成就するということ。
供養の成功成就は、供養する施主の心を浄められること。そのために供養がその機縁になる。
供養は心を安立する機縁になる。また過ちを(dosa)捨てる機縁になる。
ここでは、dosa、過ち、怒りという狭い意味だけでなく、貪りや迷いなどを含めた煩悩と考えた方がよい。これらを捨てることが心を浄めること。
507
供養の主催者(施主)は財物に対する貪り(愛着心)を離れ、生き物に対する怒り(憎悪心)を制して、まさにそれを捨てるこのとによって
五蓋(貪り・怒り・心の沈滞[おちこみ]と眠気・心の高揚[たかぶり]と悔恨・疑惑の思い)を断じ、近行定(禅定に近い心の状態)、禅定の別のある無量の慈心をすべての生命に満たすように修行する。
更に、その修行を拡大して、夜も昼も常に行住坐臥の姿勢で、怠らずに慈の禅定と呼ばれる無量の慈心をあらゆる方向に広げ満たす。
508
「誰が清らかとなり、解脱するのですか?」とは梵天になった人はどのような人か尋ねている。
「誰が縛せられるのですか?」とは、梵天になれない人はどのような人か尋ねている。
「何によってひとはみずから梵天界に至るのですか?」は、どのようなことをしたら梵天になれるのか尋ねている。
そして、何故このようなことを質問する理由を、自分は光り輝く梵天のような世尊に今日まのあたりにお会いしたからだと述べた。
509
「三種の条件」とは、供養の前、供養する時、供養の後の心の清らかさをいう。この三つの時に喜びがなければいけない。
また三つの条件とは、常にということ。「立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、あるいは横になっていて眠っていない限り、慈悲の念をしっかり保っていて下さい」ということ。
また、供養は機縁ということも、供養を契機に慈悲の気持ちを持ち続けて下さいということ。
注釈書では次のように説明。
比丘は慈の修行で三禅、四禅を起こし、それを基礎にして観察修行で阿羅漢になる。その修行者は清まり、解脱して、梵天界には行かない。阿羅漢は輪廻から解脱しているから。
しかし、慈の修行をした人は輪廻につかまっても、禅定は失わず、その禅定によって梵天界に行く。
そのため、「正しく供養することによって人は梵天界に行くことこの偈で述べたのであるとしている。
「注釈書」というのがあるらしいであります。
(´・(ェ)・`)つ

924 :鬼和尚 :2017/10/22(日) 20:18:23.53 ID:QDphIrq3.net
これも混乱しているようじゃ。
慈悲等の無量心を制限無く広げることがブラフマンの法なのじゃ。
それもヴェーダに書いてあることなのじゃ。
お釈迦様がヴェーダの正確な知識によってブラフマンの法を説いたのじゃ。

925 :名無しを整える。:2017/10/22(日) 21:01:21.53 ID:ysR0V7Lm.net
>>924
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。

503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ (中村元:訳)

『世間の知識ではない、出世間の知識に通じていること。それは心の平安についての知識に通じていること。』
くまが参考にしているサイトにおいては、バラモン教、ヒンズー教用語は強引に避けるようにして、ヴェーダの知識は無視して解説しいるようでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

926 :名無しを整える。:2017/10/23(月) 18:35:23.99 ID:b4AkV/sa.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。
そのとき遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、──
「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。
そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、次の[六師]のもとに至って質問を発した。
すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリ、パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーッティ族の子であるサンジャヤ、ナータ族の子であるニガタとであるが、
かれは<道の人>あるいはバラモンであり、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められていた。

[しかるに]かれらは、遍歴の行者サビヤに質問されても、満足に答えることができなかった。そうして、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえって遍歴の行者サビヤに反問した。
そこで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「これらの<道の人>またはバラモンであられる方々は衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
かれら、すなわちプーラナ・カッサパからさらについにナータ族の子であるニガンタに至るまで人々は、わたしに質問されても、満足に答えることが出来なかった。
満足に答えることができないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、わたしに反問した。さあ、わたしは低く劣った状態(在俗の状態)に戻って諸々の欲望を享楽することにしょう」と。

 そのとき遍歴の行者サビヤはまたこのように考えた、「ここにおられる<道の人>ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
さあ、わたしは<道の人>ゴータマに近づいて、これらの質問を発することにしよう」と。

 さらに遍歴の行者であるサビヤは次のように考えた、「ここにおられる<道の人>・バラモンがたは、年老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達しているが、
長老であり、経験を積み、出家してからすでに久しく、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
すなわちプーラナ・カッサパからさらにナータ族の子ニガンダに至るまでの人々であるが、かれらはねわたくしに質問それても、満足に答えることができなかった。
満足に答えられないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえってそこでわたくしに反問した。
<道の人>ゴータマはわたくしの発したこれらの質問に明確に答え得るであろうか。<道の人>ゴータマは生年も若いし、出家したのも新しいことだからである」と。

 次いで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「<道の人>は若いからといって侮ってはならない。軽蔑してはならない。
たといかれが若い<道の人>であっても、かれは大神通があり、大威力がある。さあ、わたしは<道の人>ゴータマのもとに赴いて、この質問を発してみよう」と。

 そこで遍歴の行者サビヤは王舎城に向かって順次に歩みを進め、王舎城の竹園林にある栗鼠飼養所におられる尊き師(ブッダ)のもとに赴いた。
そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。それから遍歴の行者サビヤは師に詩を以て呼びかけた。──

(´・(ェ)・`)つ

927 :鬼和尚 :2017/10/23(月) 22:22:32.46 ID:Gxudv9Q+.net
>>925 そのようじゃ。
 真に悟りを求めるならばヴェーダも学べばよいのじゃ。
 ヴェーダやブラフマンは知りたくないという者は本当は悟りも求めていないのじゃ。

928 :名無しを整える。:2017/10/24(火) 18:39:27.78 ID:ZejJnVQC.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、わたくしは質問しょうと願って、ここに来ました。わたくしのためにそれを解決してください。わたくしが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えてください。」

511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。

512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、わたくしに質問なさい。わたくしは一つ一つ質問を解決してあげましょう。」

 そのとき遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、
──わたくしが他の<道の人>たち、バラモンたちのところでは機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。かれは、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。

513 サビヤがいった、「<修行僧>とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって<温和な人>となるのですか? どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが<修行僧>である。

515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない<道の人>、──かれは<温和な人>である。

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」

 そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

518 サビヤがいった、「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか? 何によって<道の人>と呼ぶのですか? どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか? どうして<竜>と呼ぶのですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。

521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。

522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人、──このような人はまさにその故に<竜>とよばける。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか? 何によって巧みなのですか? どうして<賢者>なのですか? どうして<聖者>と呼ばれるのですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に<田の勝者>と呼ばれるのである。

(´・(ェ)・`)つ

929 :名無しを整える。:2017/10/24(火) 21:04:35.40 ID:ZejJnVQC.net
>>928
514
何を得た人を出家修行者(比丘)というのですか?」という質問に対するブッダの解答。
あるべき比丘の状態が述べられている。
比丘は阿羅漢であるべきだということになる。
現状に安住せずに精進すべきだということ。
「生存と衰滅とを捨て(虚無(非有:無)も、実体(有:存在)も、〔両者ともに〕捨棄して)」とは、「有・無を超越した」ということ。
有・無の世界は現象の世界。涅槃は現象の世界を超越した世界なのでこのように表現されている。
515
「何によって、『温和な者』と言うのですか?」に対するブッダの答え。
温和なという言葉のパーリ語sorataの訳は「柔和な、同情ある、やさしき、可楽」。しかし、ブッダの説かれるsorataはそれ以上のもの。
「@平静(無関心)」、「A念のある(気づきある)」、「B害さない(殺さない)」、「C(煩悩)を渡った」、「D濁りのない」、「E情欲のたかまりのない(増長がない)」。
@ 冷静で平等であること。無関心のように見えるが、執着がないこと。
A 念があるとは気づきがあること。自分の身口意の行動が自覚的であること。
B 生き物を殺さないこと。生き物に対する慈しみの心があること。
C 激流に例えられる激流を渡ったこと。煩悩を克服したこと。
D 心に煩悩がないので、心には濁りがなく澄み切って透明であること。
E 情欲の高まりがなく、興奮することがないこと。
516
「どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか?」に対するブッダの答え。
自己を制する或は調御するとは、感覚への対応を制御すること。
何故ならば、感覚に対する反応からいろいろな感情が現れるから。
感覚器官で快を感じると欲が生まれ、不快を感じると怒りが現れるから。
また快でも不快でもないと、無関心になり、意識が不明瞭になる。
感覚のこのような感じ方は業によるものであり、不可避。しかし、この感覚は永続しないもの。
この感覚を持続させたり、増大させたりするのは思考(妄想)や習慣など。
感覚から現れる感情を感覚に対する思考を制御することによって、感情を制御できる。感情を制御できれば、自己を制御できる。
「内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し」
内面的とは感覚の楽、苦、不楽不苦。外面的には感覚の対象。
眼耳鼻舌身意において内面にも外面(色声香味触法)にも執着しないこと。
「この世とかの世とを厭(いと)い離れ、
身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人」
感覚を制御した人は、死に対する感情も制御している。逆に死に対する感情も制御できる人が感覚を制御した人というのでしょう。
517
「どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか?」に対するブッダの解答。
「あらゆる宇宙時期」
「Kappniを完全に考察して」と答えた。
Kappaの意味
@ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
A 教令、法則
B 分別、妄想、はからい、想念、概念
C カッパ樹、如意樹
ブッダは、Kappaを完全に考察して、特に死と再生の輪廻の意味をすべて考察し尽くして、世間の塵から離れ、汚れなく、清浄な人となり、生の滅尽に至った人を「覚者(悟った人)だと言う」と述べたす。
「生の滅尽に至った人」汚れをなく、清浄な人、すべての煩悩をなくした人。
「どうしても生きたい」という渇愛をなくしているの。それで生存の要因がなくなっているので、生が滅尽している。輪廻はしない解脱した人。

(´・(ェ)・`)つ
つづく

930 :名無しを整える。:2017/10/24(火) 21:05:13.86 ID:ZejJnVQC.net
>>928
519
「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか?」のブッダの解答です。
バラモンとは、一切の悪をしりぞけて、自己を確立している人。
一切の悪をしりぞけているので、世間の塵、煩悩の垢から離れている。
煩悩の垢(五蓋)から離れて、心の統一(禅定)によって、智慧を得て、輪廻の原因を越えた人。
渇愛や偏見に執着しないので、とらわれのない人。
そのような人が崇高な人(バラモン)。
520
「何によって<道の人>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答。
「安らぎに帰して(静まった者となり)」samao(沙門)は静まった人ということ。
沙門は出家修行を意味するときがあるが、そうすると比丘と同じような意味になる。しかし、出家修行者の内面に注目すると、心が静まっているということが重要。
ものごとを良い悪いとこだわると心が静まらない。世間の塵とは欲や怒りのこと。これらの煩悩から離れると心は静まる。
善悪を捨てること。
善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがある。
善悪を言って騒がずに、冷静に必要な対応・対策をするべき。
この世のこと、あの世のことを知って、生死を超越すれば、心は動揺することなく、心は静かな状態。
人間の最大の関心事は生と死。この問題に決着をつけるためには、この世あの世についてよく知る必要がある。心を静まった沙門はこの問題に決着をつけた人。
521
「どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答
あらゆる悪をなくした人、悪を洗い清めた人を「沐浴者」と呼ぶ。
その際、罪や悪である心の汚れは、感覚や認識の領域(十二処)で生じるので、「全世界のうちで内面的にも外面的にも(内に、さらには、外に、一切の世において)」と表現されている。
眼耳鼻舌身意と色声香味触法において心が汚れる。これらの十二処で汚れたらすぐ汚れをなくす人を沐浴者というと述べた。
仏教では時間というものはないと考えている。あるのは存在の変化だけ。その変化を見て、時間があると妄想分別しているのだと言う。
十二処で心の汚れが生じるとは、そこから時間や妄想分別が現れること。「時間に支配されている」とは妄想分別していること。悪を洗い清めた人とは妄想分別をしない人。その人が「沐浴者」
522
「どうして<竜>と呼ぶのですか?)」に対するブッダの解答。
訳語の竜(竜)のパーリ語はngoですが、その意味は「@象、A龍、Bすぐれた聖者(行者、とくに仏をさす)」。
「何故すぐれた聖者を龍(象)と呼ぶのですか?ということ。
すぐれた聖者は、この世において如何なる罪も作らず、悪も為さない。
世間のしがらみ(束縛)の中にいても、それに決して拘束されることはない。
あらゆることに対して執着することがない。解脱している。それは完全に自由であるということ。
そのような人がすぐれた聖者であり、龍(象)と呼ばれるのにふさわしい人。
523
@ 田(Khetta)の意味は、耕地、田、田畑(身心または業を示すことがあります。
福田(布施や供養を捧げる対象となる仏、僧団など、ここに種をまくと、功徳・福徳という果が得られるというので田に例えられる。)
「田の勝者」とは、「心身に打ち勝った者」と理解して、質問の意味は「ブッダは誰が身心に打ち勝った者というのですか?」ということ。
524
「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか?に対するブッダの解答。
身心とは五蘊(色受想行識)。五蘊を考察すれば、それらは無常であり、苦であり、無我であることが知られる。これらを知れば、これらに対する執着がなくなる。執着がなくなれば、これらから解脱する。
更に、人間のみならず神々や梵天の身心も考察して、それらに対する束縛を根本から断ち切って、解脱し、自由になっている人。
(´・(ェ)・`)つ

931 :名無しを整える。:2017/10/24(火) 21:09:27.45 ID:ZejJnVQC.net
>>927
ブッダのことば(スッタニパータ)
がおわったら、ヴェーダの講読ゼミをやりたいと思ったのでありますが、全文は見つからなかったであります。
(´・(ェ)・`)つ

932 :鬼和尚 :2017/10/24(火) 22:22:27.68 ID:DeU0Lk5M.net
あるものでよいのじゃ。
わしは図書館で読んだのじゃ。
国立国会図書館の公開資料には大蔵経もあるのじゃ。
ときどきみるのじゃ。

933 :名無しを整える。:2017/10/24(火) 22:48:29.93 ID:ZejJnVQC.net
>>932
鬼和尚ありがとうであります。
コピペできるガラ携サイトで探してみるであります。
『バガヴァッド=ギーター』とかでも良いのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

934 :名無しを整える。:2017/10/25(水) 19:01:10.91 ID:WIHFHi06.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。

526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

527 全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは<聖者>である。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

528 サビヤがいった、「何を得た人を<ヴェーダの達人>とよぶのですか? 何によって<知りつくした人>となるのですか? いかにして<勤め励む者>となるのですか? <育ちの良い人>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、どうかわたくしに説明してください。」

529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、←かれは<ヴェーダの達人>である。

530 内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<知りつくした人>と呼ばれるのである。

531 この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、──そのような人が<勤め励む者>と呼ばれるのである。

532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<育ちの良い人>と呼ばれるのである。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

(´・(ェ)・`)つ

935 :名無しを整える。:2017/10/25(水) 20:24:45.28 ID:WIHFHi06.net
>>934
525
「何によって巧みなのですか?」という質問に対するブッダの解答。
一切の蔵を考察して。
身心(五蘊)や業を比喩的に蔵とも言う。
一切の蔵を弁別(考察)してとは、一切の五蘊を弁別(考察)してという意味。
更に、神々や梵天の五蘊を弁別(考察)して、一切の蔵(五蘊)の根本の束縛から解脱した人。
526
「どうして<賢者>なのですか?」に対するブッダの解答。
paita(賢者)、paati(行く)と発音が似ている。paita(賢者)は「行く者」のように聞こえる。
またpaitaと発音の似ているpaarni(白いもの)を活用して、白いものとは善なるものを意味する。白いものを考察して、行く者が賢者であるとしている。
更に、黒(悪)と白(善)を「越えて行く者」をpaita(賢者)だと説明す。
白(善)を考察するにあたり、「内と外の白(善)を考察(弁別)して」と説明。
内は内処(眼耳鼻舌身意)であり、外は外処(色声香味触法)を意味している。
これらを考察(弁別)すると、それらはすべて無常、苦、無我であることが知られる。そこでこれらのもの一切に執着すべきものは何もないという智慧が現れる。
それは清らかな智慧。
そのため、賢者は黒(悪)白(善)を越えて行く者と表現される。
527
「どうして<聖者>と呼ばれるのですか?」「どのような人が聖者なのですか?」にするブッダの解答。
内面的(眼耳鼻舌身意)と外面的(色声香味触法)における感覚からいろいろな煩悩が生まれる道理を知って、感情をコントロールして、執着の網を断ち切るということ。そのような人は人間や神々から尊敬され、崇拝され、聖者と呼ばれる。
529
「<ヴェーダの達人>とは何を得た人ですか?」
ヴェーダとは聖智のこと。あらゆる聖智を学び、考察する。具体的には沙門(出家修行者)の聖智やバラモン達の聖智を学び考察すること。
無常などを考察して、聖智に対する欲・貪を捨て、同じ聖智を乗り越え、すべての聖智を越えて行く。
聖智を縁として、あるいはこれとは別に感受が生じる。それら一切の感受に対する貪欲を離れて、すべての聖智を越えて行く。
感受を捨て、聖智を捨て越えて行く人が、聖智の達人である。
(´・(ェ)・`)つ
つづく

936 :名無しを整える。:2017/10/25(水) 20:27:54.33 ID:WIHFHi06.net
>>934

530
「<知りつくした人>とは何によって言うのですか?」という質問に対するブッダの解答。
papaca、妄想、いう仏教専門用語。
rogamla(「病いの根源」あるいは「病の根元」とは何か?
「papaca」パパンチャとは、仏教の真理をすべてひと言で表現する単語。「世界はパパンチャであって、解脱・涅槃はニッパパンチャ(nippapaca)である」
現象という意味に達する前にまず、パパンチャ=捏造(ねつぞう)だと、まず覚えておきましょう。捏造の定義は妄想ではない。
妄想なら、なんでも妄想することはできるが、捏造は違う。捏造には、それなりのデータが必要。しかし、データが不十分。自分で自分の仮説を立証するためには、不十分なデータではまずい。
それで、そのデータを捏造する。その場合は、あるデータの一部分だけを抜き出したり、都合の悪いデータを無視したりする。そうしなければ、自分の仮説は成り立たなくなるから。
このようにすべての生命は自分の眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法のデータをありのままに認識しないで捏造して認識する。生命は実際の世界を知らない。
私たちはありのままの世界ではなく、「あって欲しい世界」を捏造する。わざと組み合わせて合成する知識で、「現象」という単語が使える。
それで認識そのものが、捏造した結果になる。認識は知ることですが、正知ではなく、誤知(ごち)になっているのです。仏道とは、この誤知を正知に改良するプロセス。
「病いの根源」は何かという問題
311参照
「欲と飢えと老い」が病いの根源。
531
「<勤め励む者>とは何によって言うのですか?」という質問に対するブッダの解答。
この世において、一切の悪から離れること、これは八聖道の実践により可能。このような人は未来に再生しないで、地獄における苦しみを克服している。
そのような人は精進努力した人す。更にそのよう人は「慧者(智慧ある者)」と言えるのだと「精進のある人」を称賛した。
532
「<育ちの良い人>と何故言うのですか?」という質問のブッダの解答。
一切の束縛がなくなった人を高貴な人と言う。束縛とは心の汚れ。それは生命を輪廻に結びつける結縛。
内的な束縛と外的な束縛、更に束縛の根源をよく知って、断ち切ることによって、一切の束縛をなくすことができる。
内的な束縛とは、眼耳鼻舌身意における束縛。
眼について例をあげれば、見たいという欲求。見たいという欲求がなくなれば、内的な束縛の一つが消える。
外的な束縛とは、色声香味触法における束縛。例えば、良い音を聞きたいという欲求がなくなれば、外的な欲求の一つがなくなる。このように、すべての内外の束縛がなくなれば心がきれいになり、高貴な人間になる。
このことを更に徹底するためには、束縛の根源を知り、束縛の根源を断ち切る必要がある。束縛の根源は無明。すべての束縛は無明から生まれる。無明が心の汚れの根源。束縛の根源である無明を断ち切った人が高貴な人と言われる。
(´・(ェ)・`)つ

937 :鬼和尚 :2017/10/25(水) 21:36:59.89 ID:vFpWLqFZ.net
>>933 それはお釈迦様が涅槃に入った後に作られたものであるから意味は無いのじゃ。
 般若経とかでもよいのじゃ。
 

938 :名無しを整える。:2017/10/25(水) 21:48:26.10 ID:WIHFHi06.net
>>937
なれへそへそのごまであります。
ブッタが読んで勉強したフヴェーダじゃなきゃ意味ないのでありますね。
スッタニパータの講読ゼミは来春くらいまでかかりそうなので、じっくり探してみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

939 :名無しを整える。:2017/10/26(木) 18:32:29.06 ID:nNhMTIIC.net
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたのたもうた。

539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。
あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたはわたくしを救ってくださいました。

540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。

541 わたくしが昔いだいていた疑問をあなたははっきりと説き明してくださいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは<さとりを開いた人>です。あなたは、妨げの覆いがありません。

542 あなたの悩み悶えは、すべて破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。

543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、すべて神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]とともに随喜します。

544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。

546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。

547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」

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