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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3

457 :名無しを整える。:2018/10/18(木) 21:02:47.62 ID:bwADlhBO.net
別館に、新スレたてたであります。

こちらも、スレ消滅まで読書会をつづけるであります。もしかすると、途中でおわるかもなのである。
では。

時の流れ
鈴木 大拙

「時」は流れると云ふ、それはどんな意味であるか、もとよりはつきりわからぬ。が、我々は普通さう云ふ、またさう考へて居る、何だかわからぬにしても、時を過去・現在・未来にわけると、その「流れ」は
過去から現在に、現在から未来へと云ふ塩梅に、どん/\流れて行くと云ふことになつて居る。
「時」を刻むと云ふ時計なるものがある。カチと響いてしまへば、それが過去で、カチ/\とやつて居るときが現在で、まだカチとも何とも云はぬときが未来だと云ふ。
併し少し考へて見ると、これほど曖昧なことはない。なぜかと云ふと、このカチなるものを捉へることほど困難なことはないのである。カチときくとき、それは既に過去であり、まだきかぬと云へばそれは未来で
ある。現在は過去が未来に転ぜんとする刹那がそれだと云ふが、その刹那はいつも移動性をもつて居る。アッと云ふ間もなく「刹那」はもうそこにないのである。現在ほど現実なものはないと云ひつつも、その現
在ほど捉へ難いものはない。捉へ「難い」ではなくて、その実は捉へ「能はぬ」である。現在が既にさうだとすれば、その現在を基点として、過去と未来とを語らんとする人間の考へは、極めて浮動性を帯びて居
ると云はなければならぬ。浮動性と云ふよりも寧ろ極めて抽象的だと云つてよい。現在・過去・・未来などと云つて、「時」を刻むのは人間の考への実際的便利の上から云ふので、その実これほど「事実」に即せ
ぬ、非具体的なものはないのである。

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