2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

スピリチュア

1 :名無しヒーリング@\(^o^)/:2014/11/20(木) 01:31:35.66 ID:Vea6abkb.net
ちゅ

2 :2015年 8月 国内 地震:2016/02/19(金) 00:59:48.60
20 seconds double gravity → 27 seconds zero gravity → 20 seconds double gravity → 5 minutes interval × 8 times
I almost felt like throwing up with my imagination. ((((;゚Д゚)))))))
Under this situation, water ballons exploded on the flying plane. CHAOS.
I guess you guys must be totally insane. ┐(´ー`)┌
And you guys seemed to kill at least 16 pinatas, so I made the graves for them. ††††††††††††††††
R.I.P. poor sacrificed horses ・゚・(ノД`)・゚・。
You guys really have the great will powers to make it through. I respect you guys from the bottom of my heart.

3 :名無しヒーリング:2016/02/19(金) 01:12:42.22
USA !(・∀・) USA !(・∀・) USA !(・∀・)
RUS !(・∀・) RUS !(・∀・) RUS !(・∀・)

4 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 20:28:29.76
スレッドの容量がいっぱいになったので、こちらに移動します

ニムロド ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%89
>芸術作品におけるニムロド   アメリカのスラングでは、愚かな人間を嘲る際の蔑称として「ニムロド」が用いられることがある。その由来は、
>バッグス・バニーの短編映画にて敵方の愚鈍な猟師を「ニムロド」と呼んでからかっていたことにあるのだが、旧約聖書におけるニムロドが
>優秀な猟師であったことを鑑みれば、皮肉であることが理解できるであろう。    ( ´_ゝ`)フーン…
→これが、ワニを欺いて皮を剥がれる因幡の白兎と似ている>>636 

ワニ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8B
>ワニ(鰐、?)は、ワニ目(ワニもく、学名:ordo Crocodilia) に属する、肉食性で水中生活に適応した爬虫類の総称。
>中生代三畳紀中期に出現して以来、初期を除く全ての時代を通して、ニシキヘビ等の大蛇と並び、淡水域の生態系において生態ピラミッドの
>最高次消費者の地位を占めてきた動物群である。

>三畳紀より大きさの違いはあれ、形態的にはほとんど変化していない。パンゲア大陸ならびゴンドワナ大陸の分裂により生じた浅瀬の海や
>沼沢地に適応するために今日の形態に進化した。恐竜よりもわずかに古い時代から地球上に存在し続けている動物群である。
>三畳紀末期において大量絶滅が起きたことで、繁栄の絶頂にあったクルロタルシ類は、そのほとんどが絶滅。
>これ以降、恐竜が繁栄していくことになるが、クルロタルシ類の中においてワニ類は唯一、絶滅を免れていた。続く恐竜の栄えたジュラ紀、
>白亜紀は彼等にとっても繁栄の時代であり、陸棲種、海棲種、植物食種、濾過摂食(プランクトン食)種、超大型種など多様な環境に適応した種を
>数多く生み出した。また、恐竜が絶滅に追い込まれた白亜紀末の大量絶滅を、彼らが(前述のような多様な種を失いながらも)
>なぜ生き延びられたのかについては解明されていない。

5 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 20:32:32.12
>日本語名
>大陸との接触以降、古い中国語でイリエワニを指す語であった「鰐」という字・概念が輸入された。『和名類聚抄』では「鰐」を「和邇」と訓じ、
>似?、有四足、喙長三尺、甚利歯、虎及大鹿渡水、鰐撃之、皆中断
>?(スッポン、もしくは何らかの水生爬虫類)に似て四足あり、吻長3尺、歯は非常に鋭い。虎や大鹿が水を渡ると攻撃し、仕留めて断つ
>と解説している。このような生き物は当時の日本人にとって全く未知はあったが、最もイメージの近い生物として「わに」、すなわち日本近海に見られるサメを連想し、
>「鰐」の訓を「わに」として結びつけたのであろうと推測される。とは言え、「鰐」がイメージのしづらい未知の生物であることに変わりはなく、
>長い間「鰐」とサメとは明確に区別されることがなかった。

>和邇が鰐であることについては、丸山林平が1936年『国語教材説話文学の新研究』において『和邇伝説』と題した章を設け、和邇はサメであるとする説
>(以下、鮫説)を否定し、和邇はワニである(以下、鰐説)と断定している。同書の要約を示す。

>和名抄にある和邇は爬虫類の鰐で、本居宣長も『古事記伝』において和名抄を引用し鰐説をとっている。中国の鰐に関する記述は正確で、
>奈良時代末からは西洋人との接触により正確な鰐の知識を日本人も持っていたと考えられる。森鴎外・松村武雄も鰐説である。
>津田左右吉が和邇を海蛇としたのは極めて非科学的な態度であるが、トヨタマ姫のお産の話にある陸上で腹ばいになり、のたうつ動物が鮫のはずはない。
>鱶がワニと同語源とするのは、漢字に対する無知を物語るもので、鱶は干物か干魚のことである。記紀に和邇の別名としてサヒモチの神とあるが、
>サヒモチは歯が鋭いという意味で、鮫説の根拠にはならない。鮫説の根拠は、日本に鮫がいない、日本周辺にワニに音と意味で似た語がない、
>出雲で鮫をワニと呼ぶの3点である。かつて、日本に鰐がいた可能性はあるが、いなくても何の差し支えもなく、『因幡の白兎』は明らかに南方から
>伝播した話である。南方では、鰐を騙す動物は鼠鹿や猿と変化があるが、騙される動物は常に鰐である。

6 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 20:39:03.03
>日本に龍はいないが、タツという語と概念があるように、ワニは日本の固有語で、鰐口は鰐の口であって、鮫の口ではない。
>出雲のワニザメは鰐のように強い鮫の意味で、後にワニと呼ぶようになったものである。山幸彦と海幸彦にある和邇も鰐で、
>南方のトーテムとしての鰐の反映である。したがって、人名の和邇もトーテムとしての鰐の影響を受けている。和邇はワニで断じてサメやワニザメではない。

>ワニが現れた奄美大島の風俗を描いた『南島雑話』では蛇龍という名前でワニを記している。

>日本語名以外
>英語名 alligator(アリゲーター)はスペイン語: "el lagarto (de India)"(エル・ラガルト(・デ・インディア))「(インドの)とかげ」が訛ったもの。crocodile(クロコダイル)
>は元来「ナイルワニ」を意味した古代ギリシア語: κροκοδιλο?(krokodilos; クロコディロス)から。
>gavial(ガビアル)はgharial(ガリアル)の誤植が定着したもので、成長したオス個体の吻端が瘤状に盛り上がる様子を『壺』に喩え、ヒンディー語
>ghariy?l(ガリヤール)(意:壷を持つ者)[要出典]からの命名とされる。
>中国語では?(繁体字:ダ)が一般的で、これはヨウスコウアリゲーターを意味する。鰐で表記されるものは、古代中国南部に生息していたイリエワニなどを
>意味した。竜や蛟なども、特定の種を意味していたものと思われる。

>神話・伝承
>東南アジアにおいて川船の舳先に描かれる目玉の模様はワニに対する魔除けの名残りであるといわれる。ベトナムのホイアンにて。
>ワニの棲息する地方では、水泳中の人間が襲われることもあり、ワニは邪悪な動物、魔性の動物とされていることが多い。一方で、ワニを神聖視する
>例もまた多く見られ、世界中にワニの姿をした神がいる。古代エジプトでは、ワニは豊穣や、ナイル川そのものを象徴し、テーベではワニの頭部を持つ
>セベク神の信仰が盛んであった。神殿ではワニが飼育され、神官が餌を与え、多数のワニのミイラが作られた。

7 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 20:44:49.61
>インドにもワニを神聖な生き物として飼う寺院がある。日本の、船の守護神である海神の金毘羅権現も、サンスクリット語でワニを意味する
>クンビーラに由来するという。中国の伝説上の動物、竜のイメージの原型は、絶滅したマチカネワニではないかという説もある。
>また、パプアニューギニア、インドネシア、カメルーンなど世界各地に、ワニを自分の氏族のトーテム(祖霊)として祀る人々がいる。
>ブラジルのアマゾン川流域では、ワニのペニスは幸運を呼び込むものとして祀られている。西洋では、ワニは涙を流して獲物を油断させるという
>伝承があり、「ワニの涙」(英語crocodile tears)は、偽りを意味した。

>イギリスでもワニがいない。古典の『ベーオウルフ』(Beowulf私はオオカミ)では冷たい沼から出てきて人々を襲うgrendelという怪物を
>退治する話になっているのだが、想像で描かれている(日本の「獅子」がライオンと似ても似つかぬ怪獣になっているのと似ている)。
>シェイクスピアも困ったらしく、『アントニーとクレオパトラ』(2幕7場)で、ローマの三巨頭がガレー船の中で酒盛りをしていて、酔ったレピダスが
>アントニーに聞く。アントニーは「体形は、いわゆるワニ形で、それなりの幅があって、しかるべき厚みもある。いつも自分の器官を使って動く。
>適量の栄養になるエサを取り、やがてその力がつきると、巡りめぐって生死のサイクルに戻る」と説明する。

セベク ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%99%E3%82%AF
>セベク(Sebek) またはソベク(Sobek) は古代エジプトの神。ソブク(Sobk)、Sochet、Sobki、Soknopaisとも呼ばれ、ギリシアではスコス(Suchos) とされている。
>彼の名前は「妊娠するかしないかを決める者」を意味する。母はネイト、妻はレネネトである。

>セベクは、鰐(クロコダイル。以下「鰐」と表記)がナイル川に深く依存していた国民に非常に恐れられたことから、鰐が神格化された神である。
>ナイル川で働いていたり、水面を移動したりしていたエジプト人は、鰐とナイル川の神であるセベクに祈るならばセベクが自分たちを川に住む鰐から
>攻撃されないよう保護するだろうと望んでいた。

8 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 20:56:30.19
>神セベクは、鰐または鰐の首を持ちラーと同様の角・太陽円盤・2匹のウラエウスを組み合わせた頭飾りを付けた男の姿で表される、
>強大で怖がらせる神であった。セベクはまたミイラにされた鰐でも表された。

>一部のエジプトの創造神話においては、世界を創造するため混沌の海から最初に現れたのがセベクであった。
>セベクは創造神として、太陽神ラーとしばしば関連づけられた。

蛇形記章 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%87%E5%BD%A2%E8%A8%98%E7%AB%A0
>蛇形記章またはウラエウス(uraeus)とは、エジプトに棲息するアスプコブラが鎌首を持ち上げた様子を様式化したもので、古代エジプトの主権、
>王権、神性の象徴である。エジプト語の(iaret)、すなわち「立ち上がったコブラ」が語源である。

>蛇形記章は女神ウアジェトの象徴である。ウアジェトはエジプト神話の中でも最古の神の1つで、コブラとして描かれることが多い。

ウアジェト ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%88
>ウアジェト(Wadjet、ウジャトとも)は古代エジプト神話の女神。名前は、コブラの皮のように彩色されたパピルスを意味し、コブラの姿、あるいは、
>頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる。湿地のためにコブラが多く生息していた下エジプトの守護女神とされ、上エジプトを守護する
>ネクベト女神とともに、ファラオを守護するとされた。

>エジプトと言えば多くの人が思い浮かべるであろう目の図柄は、「ウアジェトの目」と言われる。
>これは、ホルスが父オシリスの敵セトを討つ時に奪われた左目のことである。

9 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 21:11:30.22
プロビデンスの目 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%9B%AE
>プロビデンスの目(英: Eye of Providence)とは、目が描かれたキリスト教における意匠。プロビデンスはキリスト教の摂理という意味で、
>神の全能の目(英: all-seeing eye of God)を意味する。光背や、三位一体の象徴である三角形としばしば組み合わせて用いられる。

>フリーメイソン陰謀論者やそれにまつわる都市伝説では、三角形に目を配したプロビデンスの目はフリーメイソンの象徴とされる。
>この紋章がUSドル紙幣に描かれていることはアメリカ合衆国がフリーメイソンの支配下にある証拠だ、と唱える者もいる。
>これらの図像学研究においては、プロビデンスの目は「神が全てを見通す目」だと考えている。未完成のピラミッド型の建造物の上で、
>まわりを栄光の光によって囲まれる三角形の目で監視する、という意味。神の目で人類を監視していることを示しているとされる。

>アメリカのドル札だけではなく、日本の千円札を透かして見ると野口英世の左目と富士山の頂上付近が重なって見える様子が「プロビデンスの目」であり、
>日本銀行紋章も、フリーメイソンがアメリカ合衆国と同じく日本経済にも関与していると考察する者もいる。 尚、野口英世は、
>ジョン・コールマン氏著書の三百人委員会会員のロックフェラー財団の研究員に属し貢献した。 ロックフェラー財団は、福島県の野口の生家の保存を
>目的として「野口英世博士記念会」を設立し、現在は野口英世記念館となった。紙幣発行の日本銀行も資本の30%程度は非公表であるとし、
>同行は三百人委員会が保有している私有銀行であるとの陰謀論を唱える者もいる。また世界の紙幣発行のFRBも国有ではなく、
>三百人委員会の資本が入っているとしている。

→以前にも書きましたが、フリーメイソンにもキチガイ系とまとも系の2系統があり、同じ組織の名前で活動しています
キチガイ系はプロビデンスの眼=ウアジェト=毒蛇(コブラ)そのものを信仰する悪魔崇拝、まとも系は、来たる最後の審判のときに
キチガイ魔術師=毒蛇を使役して、毒蛇の信奉者たちを滅ぼすことを目的としています

10 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 21:39:06.69
目的は真逆ですが、御本尊はどちらもキチガイ魔術師=毒蛇=ヒラム・アビブ(木工・石工)なので、同じ名前で活動できるのです( ´_ゝ`)

ちなみに漫画ワンピースの船大工フランキーの本名はカティ・フラム(ヒラム)ですが、フランキーはもともと船大工ではなく解体屋をしており
兄弟子のアイスバーグが、船大工になりすましていたルッチ・カク・カリファの3人に殺されかけるところが、ヒラム・アビブが3人の職人に
殺されるところとまったく同じであり、このあとアイスバーグは、もう廃船にするしかないと自ら引導を渡したゴーイング・メリー号の修理にとりかかり   
麦わらの一味が絶体絶命の状況でエニエス・ロビーから脱出する手助けをします                                         
なので、クイーン・メリー2が沈没させられることはないとワンピースの中ですでに予言されていまーす(^ω^) ざんねーん(^ω^)

ホルスの目 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%9B%AE
>古代エジプトでは非常に古くから、太陽と月は、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスの両目(「ホルスの目」)だと考えられてきた。
>やがて二つの目は区別され、左目(「ウアジェト(ウジャト)の目」)は月の象徴、右目(「ラーの目」)は太陽の象徴とされた。

>ウアジェト(ウジャト)の目
>ウアジェト(ウジャト)は、コブラの姿、あるいは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、下エジプトの守護女神。
>「ウアジェトの目」は、周期的に満ち欠けする月の象徴であることから、欠けた月が再び満ちるように、「失ったものを回復させる」
>「完全なるもの、修復されたもの」という意味がある。    →プーシャンの「失った財産や家畜を回復させる」

>エジプト神話では、ホルス神の左目である「ウアジェトの目」は、ホルス神が父オシリス神の仇であるセト神を討つ時に失われたが、(この左目はホルス神の
>下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後、)知恵の神にして月の神・時の神であるトート神によって癒され(ホルス神の下に戻り)、回復した。

11 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 22:08:10.99
>そのため、「ウアジェトの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルス神が癒された目を
>父オシリス神に捧げたというエピソードから、供物の象徴(シンボル)ともされた。 →ここでも零落した太母は時の神=ヘラクレスに癒されるのを待ってますね…

>また、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。
>ミイラ(死者)に添えられることもある。ツタンカーメンの「ウジャトの目の胸飾り」が有名である。

>ラーの目
>ラーは、エジプト神話の太陽神。ラーは自らを崇め敬わない人間を滅ぼすため、自らの片目(右目とも左目とも)を雌ライオンの頭を持つ破壊の女神
>セクメトに作り変え地上に送り、人間界で殺戮のかぎりを尽くさせた。

→マヤ神話のフンアフプー(猟師)=ニムロド=ホルス、イシュバランケー(小さなジャガー)=ウジャト=セクメト=ヤマタのオロチ
ポポル・ブフの中で復活するのは偽物の太陽シリウスと、月のバケモノ女ということになります
ワニ=シリウスの象徴であり、豊玉姫=ワニ=ナマズ=地震・噴火などの災害の象徴
「海の星」しらほしは兄がフカボシ、サメのメガロとお友達なので、豊玉姫ではなく玉依姫 こちらが本物の太陽神、兄のフカボシが本物の月神です

ワニに襲われた2歳児、遺体で発見 米ディズニー旅行が一転悲劇に ttp://www.afpbb.com/articles/-/3090598
>【6月16日 AFP】楽しいディズニーリゾートでの家族旅行が一転、悲劇に──。米フロリダ(Florida)州オーランド(Orlando)のテーマパーク
>「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート(Walt Disney World Resort)」のホテル前にある人工湖でワニに襲われ、行方不明になっていた男児(2)が、
>遺体で発見された。地元警察当局が15日、発表した。

12 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 22:40:38.46
>オレンジ(Orange)郡のジェリー・デミングス(Jerry Demings)保安官は記者団に対し、「男の子の遺体はまったく損傷がなかった…遺体は検視のため、
>オレンジ郡の医療局に引き渡された」と語った。死因はおそらく水死だとしている。男児はネブラスカ(Nebraska)州在住のレーン・グレーブズ
>(Lane Graves)君と特定された。

>現場となったのはディズニー・グランド・フロリディアン・リゾート&スパ(Disney's Grand Floridian Resort & Spa)前の湖。14日午後9時
>(日本時間15日午前10時)ごろ、深さ約30センチの浅瀬で遊んでいた男児が、ワニによって水中に引きずり込まれた。当局によると、
>父親がワニと格闘したが、ワニは男児と共に水中に消えた。ワニの体長は推定1.2〜2.1メートルと報じられている。

>湖は人工だが自然湖とつながっており、フロリダに多く生息するワニは陸地を移動することができることから、湖にワニがいたことも説明がつく。
>フロリダ州魚類野生生物局関係者によると、湖には遊泳禁止の標識があったが、ワニへの注意を促す掲示はなかったという。

>ワニの襲撃による死亡事故は、ディズニー・ワールドの45年の歴史で初めて。同園は事故を受け、リゾート内のビーチやマリーナを閉鎖したと発表した。

>オーランドでは12日、同性愛者向けのナイトクラブで49人が死亡する米史上最悪の銃乱射事件が起きたばかりだった。

ウォルト・ディズニーにまつわる、信じられないほど黒い4つの都市伝説 ttp://ciatr.jp/topics/31881
>ウォルト・ディズニーがとんでもない人種差別主義者だったという説、どうやら『ミッキーマウス』に登場するキャラクターの「手」の表現が根拠になっている
>ようです。例えばミッキーやミニーは白い手袋をしていますが、これは「白人」を表しており、逆に手袋をつけていないプルートは日本人のような「黄色人種」
>を表しているそうです。プルートはミッキー達に飼われている存在なので、暗にその上下関係を表現しているのでは?という憶測が飛んでいるのです。
>また白雪姫など、過去のヒロイン達はみな白人であったこともこの説を助長する理由の一つです。

13 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 22:46:40.11
ミッキーの原点だった…悲劇のディズニーキャラ「オズワルド」の物語 ttps://matome.naver.jp/odai/2136789176588381201
>彼の名は「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」。ミッキーマウスよりも早く誕生していたキャラクターでした。しかし、大人の事情で居場所を奪われ、
>時代の流れの中で、70年以上も忘れ去られていました。今だからこそ知っておきたい、彼の悲しい歴史と、嬉しい復帰の物語。

>ミッキーマウスよりも早く誕生していた「オズワルド」 オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット または「しあわせウサギのオズワルド」

>彼がミッキーマウスの“原点”だった   ウサギのオズワルドは、ミッキーマウス誕生以前の1927年にウォルトが発案したキャラクター。
>類似キャラクターの1つかと勘ぐってしまうが、実はれっきとしたミッキーマウスの原点となる重要なキャラクターなのである。

>大人気キャラクターだったオズワルド   1927年から1928年にかけて、ウォルト・ディズニーはオズワルドの短編シリーズを26本製作。
>オズワルドは、たちまち全米で大人気のキャラクターになった。

>オズワルドの所有権をめぐり、ディズニーと配給元が対立   ある時、オズワルド作品の配給元であるユニバーサル・ピクチャーズと、
>ウォルト・ディズニー・カンパニーはオズワルドの所有権などで対立してしまう。(ウォルトはオズワルドの生みの親であったものの、法律上、版権を持っていなかった。
>権利を所有していたのは、当時、ユニバーサル・ピクチャーズとディズニー・カンパニーの中間で下請けをしていたチャールズ・ミンツ社であった。)

>引き抜かれてしまう大量のスタッフ   さらにユニバーサル・ピクチャーズは、ウォルトのもとにいるスタッフ達を大量に引きぬいてしまう。
>実は、この一連の出来事を画策したのはチャールズ・ミンツであったのだが…。
>ウォルトのもとに残ったのは、兄のロイ、生涯の友人でありアニメーターのアブ・アイワークスと、わずかなスタッフだけだった。

14 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 22:55:42.52
>奪われたオズワルド…ディズニーも倒産の危機に   結局、ウォルト・ディズニーがオズワルドの版権を手にすることはなく、そのままオズワルドは
>ユニバーサルのもとに渡ってしまう。またこの出来事により、ディズニー・カンパニーは倒産の危機に陥る。(これがディズニーが著作権に厳しく
>なった理由であると言われている。)

>そしてミッキーマウスの誕生へ   失意のウォルトだったが、アブ・アイワークスと共に新たなオリジナルキャラクターのアイデアを練り続けた。
>そんなとき、ウォルトの頭に以前飼っていたネズミの姿が浮かぶ。今や世界中で愛されているミッキーマウスの誕生である。

>「アブ・アイワークス物語」〜世界一有名なネズミが生まれるまで〜ミッキーマウスの誕生には、アブ・アイワークスの多大な功績もあった。

>ミッキーマウス、最初は"モーティーマー"という名前だった?   傷心のウォルトは新しいキャラクターを作ろうと決意。そこで頭に浮かんだのが、
>昔飼っていたペットのネズミだった。「最初は"モーティーマー"という名前を考えたが、妻のリリアンに"堅苦しい"と反対され、彼女の意見に従って
>"ミッキー"と名づけた」という。

>一方、ユニバーサルにも大ヒットキャラが誕生   ウッディー・ウッドペッカー 今やユニバーサルの看板キャラクター。特徴があり、作品も面白い、
>魅力的なウッドペッカー。

>ウッディー・ウッドペッカーの誕生   ユニバーサルスタジオのプロデューサーであり、アニメーターのウォルター・ランツは、1940年、ユニークな
>キツツキのキャラクター「ウッディー・ウッドペッカー」を作り上げる。

15 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 23:03:17.41
>ユニバーサルの大人気キャラ「ウッディー・ウッドペッカー」   ウォルター・ランツが生み出したいたずら好きのキツツキ。あの世界一憎ったらしい笑い声
>(文章ではとても表現不可能)は、誰しも一度は聞いたことがあるだろう。
>ウッディー・ウッドペッカーはいつも意表を突くわかりやすいギャグで、そのセンスには、笑う以前に、思わず「お見事!」とうなってしまう傑作ばかり。

>やがてオズワルドは忘れ去られた…   ミッキーマウスの誕生と、ウッディ・ウッドペッカーの大ヒットの影で、やがて人気を失ったオズワルドの
>アニメーション作品は、1943年を最後に製作されることもなくなる。そしてオズワルドは、ユニバーサルが権利を持ったまま表舞台から消えていった。

>1966年、ウォルト・ディズニー死去   1966年、ウォルト・ディズニーは65年の生涯を閉じた。オズワルドがその手に戻ることは、最後まで無かった。

>時が経ち…USJにひっそりと置かれていたオズワルド   忘れ去られたオズワルド。しかし、2001年にオープンしたUSJには、彼のグッズがひっそりと
>売られていた時期があったという。

>「いつかオズワルドを取り戻せ」   ※これはあくまで噂レベルの話ですが、ディズニー社の社長にだけ伝えられていた社訓に、ウォルトの遺言の
>ひとつとして「いつかオズワルドを取り戻せ」という言葉があった、という出所不明の話すら存在します。しかし、こういった噂話が出るほどまでに、
>「オズワルド」というキャラクターは決してディズニーにとって諦めた存在では無かった事が分かる出来事が、その後起こります。

>2006年、78年ぶりにディズニーに戻ってきた!   当時のプレスリリースによると、現ディズニー社CEOであるロバート・アイガーは、就任時、
>ウォルトの娘ダイアン・ディズニー・ミラーに「オズワルドを取り戻したい」と語っていたそうで、その約束がここに果たされる事となった。

オズワルドは手袋してないから、人種差別主義ではないと思います(^ω^) ついこの前、オズワルドのツムツムの折り紙おりましたー\(^o^)/

16 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 23:20:20.03
ウォルトディズニーの意外な一面
ttp://sekainoura.net/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%A4%96%E3%81%AA%E4%B8%80%E9%9D%A2.html
>ディズニーの創設者と言えば、ウォルトディズニーですが、もともと彼は「デモレー団」という組織に属していました。
>デモレー団は1919年に米国ミズリー州カンサスシティで設立された組織で、入会できるのは12〜21歳までの青少年です。
>「デモレー」という名称は、テンプル騎士団の最後の総長であったジャック・ド・モレーが由来しています。

>ジャック・ド・モレーと言えば、過去にフリーメイソンの話をした際に登場したと思いますが、財産を妬まれ、フランス国王によって火あぶりの刑にされ、
>死ぬ前に国王に呪いをかけたと言われる人物です。
>ウォルトディズニーは、デモレー団に19歳で入団し、後にはデモレー団の殿堂入りも果たしています。かつてのクリントン大統領も実はこのデモレー団の出身者です。

>このデモレー団は、ただの青年組織ではなく、実はフリーメイソンによって設立され、フリーメイソンの資金によって運営されているフリーメイソンの下部組織です。
>ウォルトディズニーはエッセイの中で「デモレー団で人生の大切さを学んだ。決断する時、危機に直面した時にデモレー団で学んだことが大いに役に立った。
>私は至高の存在を信じることを学んだ。と述べています。

>デモレー団はフリーメイソンの関連組織なので、彼はフリーメイソンの影響を強く受けたのです。そして、彼が信じた至高存在とは一体何だったのでしょうか?
>「神」だったのか、それとも「悪魔」だったのか?

→クリントン元大統領も所属していた団体なら、悪魔ではありません
フロリダのディズニーランドでの男児の死亡事故は、ウォルト・ディズニーのフリーメイソン的背景とは関係がありません
男児は悪魔崇拝者に生贄として殺されたのだと思います パンゲア大陸(三日月)復活のための儀式殺人の生贄

17 :名無しヒーリング:2017/04/09(日) 23:26:36.05
メキシコ湾 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3%E6%B9%BE
>メキシコ湾(英語:Gulf of Mexico、スペイン語:Golfo de M?xico)は、北アメリカ大陸南東部とメキシコ北東部に挟まれた湾である。
>広くは大西洋、カリブ海(アメリカ地中海)の一部として分類される。

>地理
>湾の東部、北部、および北西部の海岸線はアメリカ合衆国(フロリダ州、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州、テキサス州)に接し、南西部と南部の
>海岸線はメキシコ(タマウリパス州、ベラクルス州、タバスコ州、カンペーチェ州、ユカタン州およびキンタナ・ロー州)に接している。
>また南東部はキューバとの海岸線をもつ。

>アメリカとキューバの間にあるフロリダ海峡を経て大西洋に通じており、メキシコとキューバの間にあるユカタン海峡を経てカリブ海へと通じている。
>支湾として北東部にアパラチー湾、南西部にカンペチェ湾などがある。

>メキシコ湾は東西の幅が約1,500km、総面積は約160万 km?で、南の3分の1は熱帯に入る。最大水深はSigsbee Deepでの4,384m。
>二大海流として黒潮と共に知られるメキシコ湾流はここを起源とし、巨大ハリケーンが頻繁に訪れることでも有名である。

>形成史
>三畳紀後期以前はパンゲア大陸の一部だったが、よく知られていない。三畳紀後期に北米プレートに亀裂が生じ、アフリカプレートと南米プレート
>から分離していった。この亀裂(リフト)は前〜中期ジュラ紀に発達し、大陸の西から海が侵入して、岩塩が堆積した。
>後期ジュラ紀に今のユカタン半島が北米プレートから分離し、メキシコ湾盆地中央部に海洋地殻が形成された。

18 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 00:12:24.67
どうもメキシコ湾がパンゲア大陸の分離の亀裂のはじまりと考えているのではないかと思います(本当かどうかはわかりません)
メキシコ湾の石油流出事故、フロリダのディズニーの男児死亡事故(実際はたぶん殺人)、オーランドの米史上最悪の銃乱射事件、
ベラクルスの244の遺体、そしてキューバの経済封鎖も、おそらくこの計画の一端だったと思います

ベラクルスの戦い (1838年)ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1838%E5%B9%B4)
>(中略)フランス艦隊はすぐ近くのフランス領の島マルチニーク島とグアドループ島とともに、メキシコ湾の端のキューバのハバナを基地として
>使用しなければならなかった。したがってこの作戦はスペイン当局の好意に依存していた。

フランスのサン=ナゼールの造船所で艦隊をつくるつもりなんでしょうか… ということは、サン=ナゼールがウォーターセブン?
ウォーターセブンはイタリアのベネチアをモデルにしていると思われる水の都ですが、アクア・ラグナという高潮が毎年押し寄せ、水害に悩まされます
やっぱりサン=ナゼールは水没に注意だと思います

ビスケー湾 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E6%B9%BE
>ビスケー湾(Bay of Biscay)は、北大西洋の一部でイベリア半島の北岸からフランス西岸に面する湾である。

>「ビスケー湾」とは英語表記(Bay of Biscay)に由来している。フランス語ではGolfe de Gascogne(ガスコーニュ湾)、スペイン語ではGolfo de Vizcaya(ビスカヤ湾)と、
>それぞれこの湾が面するガスコーニュ地方、ビスカヤ地方に因んだ名で呼ばれており、いずれもバスク地方に関連する地名である。
>スペインではビスケー湾南部をカンタブリア海と呼び、これはカンタブリア地方に由来している。

>国際水路機関はビスケー湾の範囲を「(ガリシア州の)オルテガルと(ブルターニュ半島突端部南端の)パンマール岬を結ぶ線の間」と定義している。

19 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 00:32:45.41
URL長すぎて貼れませんが、サン=ナゼールの地図を見ると ビスケ湾をはさんで、ビルバオと向かい合う位置

カンタブリア山脈 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%B1%B1%E8%84%88
>カンタブリア山脈は、イベリア半島北部にある山地。ビスケー湾のカンタブリア海に沿って東西約300km以上にわたって連なっており、
>西端はガリシア山地に、東端はピレネー山脈に接続する。最高地点はピコス・デ・エウロパ山塊にある標高2,648mのトーレ・セレード。

>カンタブリア山脈はアルプス・ヒマラヤ造山帯における明確な地形学的領域である。

ピコス・デ・エウロパ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%83%91
>ピコス・デ・エウロパ (Picos de Europa)は、スペイン北岸から20km内陸にある連山の名称。「ヨーロッパの頂、峰々」を意味する。
>アストゥリアス州、カンタブリア州、カスティーリャ・イ・レオン州に接し、カンタブリア山脈の一部となっている。
>日本ではエウロパ山と表記されることも多いが、単独の山ではない。名前の由来は、アメリカ大陸からヨーロッパへやってきた船が初めて目にする
>ヨーロッパの光景がこの連山であったから、という説が広く受け入れられている。

>連山は3つの断層地塊からなる。中央、東部、西部(ピコス・デ・コルニオンと呼ばれる)。中央と西部の地塊は、1,5kmの深さがあるカレス川渓谷
>によって分けられ、渓谷の先端にはカイン村がある。カレス川の水はほとんど洞窟からわき出ている。
>カレス川の水の一部は水力発電に転換され、カマルメーニャへ向かう峡谷の北壁を走る運河を通っている。

→「3つの断層地塊」と「水力発電所」に注意みたいです

20 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 00:53:35.14
アルプス・ヒマラヤ造山帯
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%A4%E9%80%A0%E5%B1%B1%E5%B8%AF >アルプス-ヒマラヤ造山帯は、地球の造山帯のひとつ。地中海・ヒマラヤ造山帯と呼ばれることもある。
>アルプス山脈からヒマラヤ山脈を通り、インドシナ半島まで東西に延びている。現在も活発に活動している造山帯・地震帯。

>アフリカ大陸とユーラシア大陸の衝突はアルプス造山運動、インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突はヒマラヤ造山運動とそれぞれ呼ばれている。
>同時期にこのほか、アラビア楯状地もユーラシア大陸に衝突した。
>いずれの造山運動においても、プレートが激しく衝突して一部は破砕し、隆起して褶曲山脈が形成された。

>いずれの衝突地域においても、北側が隆起して山脈や高原となり、南側がやや沈降して平原や浅い海となっている。
>ペルシャ湾やアラビア半島北東部(イラク〜オマーン)は、ザグロス山脈の隆起に伴って緩やかに沈降して、低地や海となった地域である。
>インドのヒンドスタン平原は、ヒマラヤ山脈の隆起に対してそのままの形を保ち、相対的に低地となった地域である。

>アルプス・ヒマラヤ造山帯は環太平洋造山帯とともに、世界の2大造山帯ともいわれている。環太平洋造山帯は火山を伴った活動が見られるのに対して、
>アルプス・ヒマラヤ造山帯は火山が少なく褶曲が多いのが特徴である。イタリア南部や西アジアには、ヴェスヴィオ山、エトナ山、エルブルス山、アララト山、
>ダマーヴァンド山といった火山が点在しているが、活動が活発な火山は少ない。

21 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 16:26:49.67
アトラス山脈 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9%E5%B1%B1%E8%84%88
>アトラス山脈は、アフリカ北西部、モロッコからチュニジアにかけて東西に伸びる褶曲山脈である。名称はギリシア神話の巨神アトラスにちなんでいる。

>西側が最も高く、東に行くにつれ低くなる。長さは2,400km。モロッコでは標高3,000mを超え、北緯31度3分43秒、西経7度54分58秒にある
>モロッコの最高峰ツブカル山(4,167m)などがある。また、北からリフ山脈、モワヤンアトラス山脈(中アトラス)、オートアトラス山脈(高アトラス)、
>アンティアトラス山脈(小アトラス)の4つに分かれている。アルジェリアではアトラス高原をはさんで北のテルアトラス山脈と南のサハラアトラス山脈
>の2列になっている。標高は1,600-2,000m程度で最高峰はシュリア山(2,320m)である。チュニジアでは標高1,000m以下となる。

>3,000m級の高地(モロッコ)では雪が降る。スキー・リゾート地として開発されている場所も存在する。

フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%8D%E3%83%AD%E3%82%B9
>次にシスネロスが取り組んだのは、北アフリカのイスラム都市オランの攻略であった。この計画はシスネロスの宗教的な情熱とフェルナンド2世の
>経済的野心が一体となって推し進められた。シスネロスが私財を投じて派遣した先発隊は1505年に港湾都市メルス・エル・ケビールを占領。
>1509年にはシスネロス自身も本隊と共にアフリカに向かったが、メルス・エル・ケビールが自然災害の影響で壊滅的な打撃をうけた為、スペインに戻った。
>シスネロスはフェルナンド2世にさらなる軍資金の出資を願ったが、オラン占領以上の戦闘拡大を望まなかった事とイタリア情勢が気がかりであった
>という2つの理由でフェルナンド2世は軍資金を出さなかった。

22 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 16:46:53.80
オラン ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3
>オラン(Oran)は、アルジェリア北西部に位置する同国第2の都市である。2006年時点の人口は683,000人。
>オラン県の県都に定められている。「オラン」の名前は「二頭のライオン」を意味する言葉である。 →アケル神

>アルジェリアの主要港の一つで、商業の中心地でもある。バーガ建ち並び、夜毎にコンサートやダンスショーが催されるオランはアルジェリアの歓楽地
>の一つにも挙げられる。オラン市内には3つの大学があり、オランの旧市街部にはカスバ(城砦)や18世紀に建てられたモスク(寺院)などがある。
>また、アルベール・カミュの小説『ペスト』の舞台としても知られている。

>903年にイベリア半島のイスラム教徒によって商業の拠点として建設された町がオランの始まりである。オランはイベリア半島への小麦粉の供給地
>となり、ムワッヒド朝、ザイヤーン朝の時代に繁栄した。1509年にスペインのシスネロスに占領され、町は衰退する。
>1708年にオランはオスマン帝国に征服される。1732年に再びスペインが奪い返したものの、オランの貿易都市としての必要性が下がったため、
>時のスペイン王カルロス4世はオスマン帝国に町を売却した。1791年にオランはオスマン帝国に編入され、オラン州の州都に定められた。
>オスマン帝国の支配は1830年にフランスがアフリカの植民地の拠点としてアルジェリアを占領するまで続く。1831年にフランスに併合された後、
>ヨーロッパからの入植拠点として近代的な市街地が建設され、20世紀後半のアルジェリア独立後の大都市の原型となった。

>フランス植民地時代のオランは200,000人のヨーロッパ系入植者が居住する、ヨーロッパ風の近代的な都市として繁栄を享受していた。
>第二次世界大戦時には事実上半ばドイツ占領下にあるヴィシー政権下に置かれ、1942年後半のトーチ作戦で連合国軍によって占領されるまでそれが続いた。

23 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 16:52:59.75
>フランス海軍の艦隊がドイツの手に渡るのを恐れたイギリス軍がフランスに対して艦艇をイギリスの港に回航すること、自沈すること、英軍と戦闘を
>交えること(艦隊を壊すため)などの最後通牒を突きつけるが、フランスはこれを拒否したためフランス艦隊が停泊しているアルジェリアのメルス・エル・ケビール
>で戦闘が始まった(メルセルケビール海戦)。オランにも艦艇が10隻ほど存在したため、ここでも戦闘が行われていた。

>1954年からアルジェリア独立戦争が始まるまで、オランはフランス領であり、北アフリカの中でも特に多くのフランス人を始めとしたヨーロッパ人
>(ピエ・ノワール)が居住していた。しかし、アルジェリア独立戦争が終わるまでにほとんどのヨーロッパ人やユダヤ人がフランスに去った。
>特にアルジェリア独立時の1962年7月5日にオランで起きたヨーロッパ人の大虐殺は、彼等のアルジェリア外への脱出を促進した。
>これによりオランはわずか3ヶ月で人口が半分にまで減少した。1962年7月5日以降は独立に伴い、アルジェリア領となる。

>建築物   スィーディー・ハイドゥールの丘に建てられたサンタクルーズの城壁は16世紀後半にスペインによって建てられたもので、その下には
>1847年のコレラ流行の犠牲者を追悼するためにフランスによって建立された大聖堂が建つ。

>文化   スィーディー・ハイドゥールの丘の洞穴では鶏を生け贄とする願掛けが行われ、町の守護聖者とされるスィーディー・フワーリーの廟は
>女性の参拝者で賑わっている。

>交通   オランは首都のアルジェ、シジベルアベス、マスカラなどの後背地の都市、内陸部の高地と鉄道で接続されている。
>1906年に南に伸びる鉄道が施設され、オランはアルジェリアの主要都市に成長した。

24 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 17:10:00.26
中国企業がアフリカ高層建築の記録更新、250メートルの塔―中国メディア ttp://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170314/Recordchina_20170314011.html
>中国建築工程総公司が請け負ったアルジェリアのイスラム教寺院のミナレット(塔)建設工事は11日に最後のコンクリート注入が終わり、
>主体構造の最上部が閉じられた。人民日報海外版が伝えた。高さ250メートルのこの塔は、アフリカの高層建築の高さの記録を更新した。

2003年5月21日アルジェリア北部で発生した大地震の震源過程 ttp://iisee.kenken.go.jp/staff/yagi/eq/algeria20030521/algeria2003521-j.html
>2003年5月21日にアルジェリア北部でマグニチュード6.7の地震が発生しました。この地域は、ヨーロッパプレートとアフリカプレートのプレート境界に位置します。
→震源に近いのはブーメルデス

アルジェリアで強い地震が発生 ttps://jp.sputniknews.com/incidents/201611183026669/
>18日、アルジェリア北部のビスクラ県でマグニチュード5.3の地震が発生。米地質調査所が発表。
>同調査所によれば震源地はエル・ウエッド市の西26キロ。震源の深さは10キロ。

メルス・エル・ケビール
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB
>メルス・エル・ケビールは、アルジェリアの都市。メルス・エル・ケビール(アル=マルサー・アル=カビール)とはアラビア語で「大きな港」を意味し、
>その名の通り地中海に面する港町である。オラン市の西隣に位置し、オラン県に属する。

>メルス・エル・ケビールはローマ帝国時代に建設され、12世紀にはアルモハード朝によって海軍基地が置かれた。15世紀にはトレムセンの
>ザイヤーン朝の支配下に入ったものの、1492年には海賊の支配下となった。その後短期間にオスマン帝国やポルトガルの占領下に入ったのち、
>1505年にはスペインのフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿の軍によって占領された。

25 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 17:16:49.89
>シスネロスはここを拠点に隣接するオランの攻略を目指したが、1509年にメルス・エル・ケビールを襲った災害によって断念を余儀なくされた。
>スペインは1708年までこの街を支配したが、同年オスマン帝国のベイであるムスタファ・ベン・ユーセフによって追放された。スペインは1732年に
>モンテマール公爵の指揮の元メルス・エル・ケビールに再び来襲し、アイン・エッ=トゥルクの戦いに勝利してメルス・エル・ケビールとオランを奪取した。
>その後はスペイン領となったものの、1792年にカルロス4世 (スペイン王)はオスマン帝国のアルジェ知事に両市を売却した。

>1830年にはフランス領となり、市名はサン・アンドレ・デ・メルス・エル・ケビールと改称された。1868年には港湾機能が強化され大灯台が建設されたが、
>灯台は第2次世界大戦中に破壊された。

>1940年7月3日にはイギリス海軍とヴィシー・フランスのフランス海軍との間で港内にてメルセルケビール海戦が勃発した。第2次世界大戦後もフランス軍は
>この港を海軍基地として使い続け、1962年に締結されたアルジェリア独立のためのエビアン協定においても、フランス軍は15年間メルス・エル・ケビール港
>を使用し続ける権利を獲得したが、実際には5年後にはフランス軍はすべて撤退した。

ヴィシー ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%BC
>ヴィシー(Vichy)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、アリエ県のコミューン。温泉保養地。第二次世界大戦期には
>ヴィシー政権が置かれた場所としても知られている。

>1940年6月22日に署名された停戦条約の後、この区域はドイツには占領されず、フランス国 (?tat Fran?ais) の名前で、7月1日にヴィシーを首都と定めた。
>理由は比較的パリに近く (列車で4.5時間)、温泉地であるためホテルの収容人数が多く、臨時の官庁及び官舎を置くのに都合が良かったためである。
>当時のホテル収容人数は国内第2位であった。その上、当時では超近代的な電話交換機があり、電話を介して全世界と連絡を取ることが可能であった。

26 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 17:23:56.41
>7月1日、政府は多くのホテルの所有権を得た。国会議員600人はヴィシーでの会議や評議会に参加した。7月9-10日には、オペラハウスの大ホール客席で、
>国会議員は、第三共和制終了のための投票を行った。民主政体は廃止され、フィリップ・ペタンを首席とするヴィシー政権がこれに替わった。
>600人中わずか80人の議員が反対を表明した。この日から始まって4年以上の間、ヴィシーはフランスの首都となり「ヴィシー政権」と呼ばれた。

>北アフリカのフランス植民地を舞台とした映画「カサブランカ」には、登場人物の警察署長が「ヴィシー水」を捨てるという象徴的なシーンがある。

メルセルケビール海戦
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%B5%B7%E6%88%A6
>メルセルケビール海戦(Attack on Mers-el-K?bir)は、第二次世界大戦でのイギリス海軍とフランス海軍との間の海戦。

>背景   ドイツ軍の侵攻により、1940年6月22日フランスは降伏した。イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、フランス海軍の艦隊がドイツの手に下り、
>イギリスのシーレーンを脅かす存在になることを危惧した。そのため、イギリス海軍はフランス艦隊がドイツに渡らないように、自軍の指揮下に入れるか、
>無力化するために作戦行動を起こした(「カタパルト作戦」)。

>7月2日、サマヴィル中将が率いるH部隊(「フッド」「ヴァリアント」「レゾリューション」、空母「アーク・ロイヤル」、軽巡洋艦「アリシューザ」「エンタープライズ」、
>駆逐艦11隻)がジブラルタルを出撃した。7月3日朝、H部隊はメルセルケビール沖に到着した。

>この時メルセルケビールにはフランス海軍襲撃部隊司令長官兼第1艦隊司令長官ジャンスール中将麾下、戦艦「プロヴァンス」「ブルターニュ」「ダンケルク」
>「ストラスブール」、水上機母艦「コマンダン・テスト」、大型駆逐艦モガドール、ヴォルタ、ランクス、ティーグル、ケルサン、ル・テリブルが停泊していた。
>また、近くのオランにも10隻の駆逐艦などが存在した。

27 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 17:42:25.07
>H部隊の駆逐艦フォックスハウンドが港の入り口付近に停泊し、交渉役のホランド大佐が交渉に向かった。ホランド大佐はフランス軍に対し
>5つの選択肢からなる最後通牒を突きつけた。内容は以下の通りである。

>1.再びイギリス側に加わり枢軸軍と戦う。
>2.艦艇をイギリスの港に回航する。   乗員はできるだけ早く送還し、艦艇が被害を負った場合は補償する。  
>3.西インド諸島、又はアメリカの港に向かう。
>ドイツの配下になることに抵抗があるなら西インド諸島 -例えばマルティニーク- へ向かい、非武装化できるならアメリカへ向かう。
>4.自沈する。  もし、公式な申し出を拒否すれば6時間以内に自沈を行うよう要求する。
>5.戦闘を交える。   イギリス国王陛下の政府からの要請に基き、どんな手を使ってでもドイツの手に渡ることを防がねばならない。

マルティニーク ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%AF
>マルティニーク(Martinique)はフランスの海外県の1つであり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属する一島。
>海を隔てて北にドミニカ国が南にセントルシアが存在する。県都はフォール=ド=フランス(Fort de France)。

>「世界で最も美しい場所」とコロンブスに呼ばしめ、彼を魅了したマルティニーク島の語源は島に住んでいた、カリブ人の言葉でマディニーナ
>(Madinina、花の島)、またはマティニーノ(Matinino、女の島)がマルティニークの語源になっている。  →女ヶ島のアマゾン・リリーかな?

>マルティニークは1502年にジェノヴァ人の航海者、クリストファー・コロンブスの第四次航海により「発見」されたが、金や銀を産出せず、
>さらにカリブ人が頑強な抵抗を続けたこの島は暫くヨーロッパ人の侵入を退けた。

28 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 17:51:05.77
>しかし、1635年にセント・キッツ島を拠点にしたフランス人のブラン=デスナンビュックが上陸した。既にイギリス人による入植が行われていたが、
>これによってフランスが主導権を握り、1658年にフランス軍は抵抗する島民を虐殺、島民は絶滅したといわれる。島の植民地化が進むと、
>マルティニークはアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビプランテーション農業で経済的に発展し、大西洋三角貿易によって
>サン=ドマングやグアドループと共にフランス本国に多大な利益をもたらした。

>この時期に、後にエメ・セゼールやフランツ・ファノンが批判した、肌の色によって全ての序列が決定される階層社会が成立した。
>18世紀に入ると七年戦争の最中の1762年に一時イギリスによって占領されたが、1763年にパリ条約によりフランスはカナダと引き換えに
>島を確保した。アメリカ独立戦争が始まると、1780年に英仏の間でマルティニーク島の海戦が行われた。

>789年にフランス革命が勃発すると、1791年にはサン=ドマングの黒人大暴動に続いてマルティニークでも黒人奴隷は自由を求めて反乱を起こしたが、
>間もなく王党派のグラン・ブラン(大白人)によって奴隷反乱は鎮圧され、王党派は共和制フランスを裏切ってイギリスに帰属し、1794年から1802年の
>アミアンの和約までイギリス軍の占領が続いた。1793年にフランスの国民公会ではジャコバン派とロベスピエールによって奴隷制の廃止が
>決議されていたが、1802年にマルティニークがフランスに返還された後に、マルティニークのグラン・ブラン出身のジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと
>結婚していたナポレオン・ボナパルトは、サン=ドマングの再征服を行ってトゥーサン・ルーヴェルチュールを捕らえ、カリブ海の植民地での
>奴隷制の復活を考えた。ジャン=ジャック・デサリーヌによって指導されたハイチ人はフランス軍を破って1804年にハイチは独立を達成したが(ハイチ革命)、
>ナポレオンはその他の西インド諸島の植民地での奴隷制を再導入し、マルティニークでも奴隷制が復活した。

29 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 18:02:53.79
>1848年2月にフランス二月革命によって第二共和政が樹立されると、4月にはヴィクトル・シュルシェールによって再び奴隷制の廃止が実施されたが、
>奴隷制廃止の時期が引き伸ばされたため、黒人奴隷による暴動が勃発した。その後ナポレオン3世の第二帝政下で黒人選挙権は失われたものの、
>普仏戦争の敗戦によって第三共和政が成立すると、以降は「文明化の使命」の概念により、黒人への選挙権の復活、植民地県議会の開設、
>徴兵制の導入など、政治面、文化面の双方においてマルティニーク人のフランス国民への同化政策が進められた。
>1902年にはプレー火山が爆発、火砕流で当時の県庁所在地だったサン・ピエールで住民3万人が死亡、街は壊滅し、島の首府がフォール・ド・フランスに移転した。

>第二次世界大戦が勃発し、フランスがナチス・ドイツに降伏すると、マルティニーク政府はヴィシー政権に帰属し、島にはヴィシー政権の水兵が上陸した。
>大戦中の島ではナチズム風の人種主義が露骨な形で顕れたが、1944年にシャルル・ド・ゴールの自由フランスに復帰した。第二次世界大戦でも
>フランツ・ファノンのように、マルティニークからも多くの兵士が出征し、アルザスの戦いなどでフランスのために戦った。

>第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代を迎えると、1945年にフランス共産党から立候補した黒人文学者で教育者のエメ・セゼールが
>フォール市市長に当選した。かつてネグリチュード運動を主導し、フランスの「白い普遍」に対する反逆者だったセゼールは、以後フランスへの
>同化政策を採らざるを得なかった。1946年にマルティニークはフランス海外県となった。セゼールは自治を求めたが、ド・ゴールにとって、
>「海の上の小さな埃」に過ぎなかったマルティニークに自治は認められず、1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、
>マルティニークは同化されるべき海外県との扱いから脱することは出来なかった。 2002年にはユーロの流通が始まった。

>1763年 - 大白人(グラン・ブラン)の娘としてジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(ナポレオン・ボナパルトの妻)生まれる。
>1796年 - ジョゼフィーヌがナポレオンと結婚。

30 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 18:16:22.33
プレー山 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E5%B1%B1
>プレー山(仏: Montagne Pel?e)は、西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属するマルティニーク島にある活火山。名称は『はげ山』の意味。
>1902年に大噴火を起こし、当時の県庁所在地だったサン・ピエールを全滅させた。その結果、約30,000人が死亡、20世紀の火山災害中最大で
>あったことで知られる。モンプレー(Mont Pel?e)とも呼ばれる。

>地勢及び歴史   西インド諸島はカリブプレートが南アメリカプレートの下に潜り込む沈み込み帯に位置するため、一帯にはプレー山を含む著名な
>火山が4つ位置する。北から順にスーフリエール・ヒルズ、スーフリエール、プレー第二のスーフリエールである。
>プレー山は、マルティニーク島の北端に位置し、海抜1397メートル。富士山と同じ形式の成層火山であるが、山腹にえぐられた谷は富士山より深く、
>より古い火山と考えられる。しかしヨーロッパ人がマルティニーク島に到来したのは1635年以降であるので、火山活動の記録は新しい。
>最初の噴火は1792年であり、1851年にも噴火があったが、いずれも小規模で、住民の注意を喚起するようなものではなかった。

>1902年の噴火 噴火の始まりと経過
>前年の1901年に、すでに登山者たちがプレー山の噴気活動を目撃している。1902年4月25日、プレー山は噴火活動を開始し、4月27日には
>山頂に直径180mの火口湖が形成され、噴出物が15mの高さに積もった。火口湖からは沸騰するような音がし、硫黄を含んだ火山ガスが
>サン・ピエールにまで達した。4月30日に付近の川で土石流が発生し、付近の村を飲み込んだ。5月2日午前11時30分、プレー山は地震とともに噴火し、
>火山灰などの噴出物が島の北部を覆った。火山灰などに汚染された植物を食べた家畜が死亡するようになった。5月3日に降灰は北の方に
>積もるようになりサン・ピエールへの降灰は一時少なくなったが、翌日には一転して増加。サン・ピエールとル・プルシュール地区との交通は遮断され、
>激しい降灰のために船の運航は難しくなった。

31 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 18:21:22.20
>5月5日月曜日に噴火は一時落ち着いたが、午後1時頃に突然海岸線が約100mも後退した後に激しく押し戻され、付近の都市は水に浸かった。
>一方、山の西部からも噴煙が上がり始めた。同日、山頂の火口湖の一部が崩落して火山泥流がブランシュ川に押し寄せ、付近の村の住民
>約150名が犠牲となった。生き残った町の周辺の人々は安全を求めてサン・ピエールに流入した。翌6日の午前2時頃にも、大音響とともに
>噴火が起こった。さらに5月7日水曜日の午前4時頃から活発になり、火山の火映によりオレンジ色に染まった火山灰が山全体に降り注いだ。
>その日の間に多くの人々が町を脱出した一方で、町で噴火をやり過ごそうとした周辺からの住民が殺到したので、サン・ピエールの人口は
>数千人増加した。 11日にサン・ピエールの市長選挙が行われる予定だった事もあり、新聞はあくまでサン・ピエールは安全であると主張した。

>同日には隣のセントビンセント島のスフリエール山が噴火し、火砕流により1680人が死亡。当局はこれによりプレー山への圧力が解放された
>と発表し住民らを安心させた。事実、山の活動も落ち着いたように見えた。

>大噴火   主の昇天の祭日である5月8日、人々は朝から噴火する山を見物していた。7時52分、それまで火山の情報を送っていたサン・ピエールの電信士が
> "allez"(どうぞ)とフォール・ド・フランス(サン・ピエールの南にある町)に送信したのを最後に町との連絡は途絶えた。その時、サン・ピエールに停泊していた
>船から噴火の様子が目撃された。山は4度にわたって爆発し、噴煙が上空に噴き上がる一方、その一部が火砕流となってサン・ピエールの方向へ流れて行った。

>高温の火砕流は瞬く間にサン・ピエールを飲み込み、建物を倒壊させると共に大量のラム酒を貯蔵した倉庫を爆発させたために町は炎に包まれた。
>港に停泊していた18隻の船も巻き込まれて16隻が沈没したが、奇跡的に焼け残った2隻の船内にいた約100人が生還できた。

32 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 18:36:48.05
>災害発生により派遣された軍艦は12時30分頃に到着したが、火砕流の熱により午後3時頃まで接岸できなかった。町はその後数日間燃え続け、
>破壊された町並みと多くの焼死体があって、死者の中には、高温で脳の水分が気化したために頭蓋骨が割れたものもあったという。
>しかし、町全体には厚さ30センチメートル程度の火山灰が覆っていただけで、火砕流の本体である岩や礫や砂はほとんどなかった。
>火砕流の速度は時速約150〜200km、温度は約1,000℃であったと推測されるが、サン・ピエールに到達したのは火砕流上部の、
>火山灰や火山ガスを主とする密度が小さく流動性の大きな部分だけで、溶岩塊を含んだ高密度の本体は地形の影響を受けやすく、
>サン・ピエールのはるか手前で谷に入ってサン・ピエール直撃コースを外れ、海に流れて行った。町に流入した低密度で高温の流体は、
>その特性から「熱雲」と呼ばれ、火砕流の代名詞としてしばしば用いられた。

>この災害による死者数ははっきりしないが、サン・ピエールの住民と避難民合わせて2万4,000人とも、3万人ないし4万人とも言われる人々が
>僅か数分(時計は噴火の2分後に停止している)のうちに死亡した。犠牲者の中にはサン・ピエール市長も含まれていた。市内の生存者は3名だけで、
>4月7日に喧嘩を起こして逮捕され海辺の半地下の独房に監禁されていた既決重罪犯の黒人オーギュスト・シパリと、何らかの形で難を逃れた
>(本人は自宅にいたと語るが、多くの学者は吹き飛ばされたのか、海に逃げていたと考えている)靴職人の黒人レオン・コンペール=レアンドル、
>そして友人と海賊ごっこをして遊んだ洞窟に船で逃げ込んだ白人少女アヴィーヴラ・ダ・イフリーレであった(この他には、港に停泊していた
>船の乗員達が海上に脱出し難を逃れている程度である)。3人とも高熱を受けて重度の火傷を負ったが、命は取りとめた。

>災害を大きくした原因   1902年5月8日のプレー山の噴火そのものは特筆するような大規模なものではなく、たまたまサン・ピエールの町が
>熱雲の通り道にあった事が大災害の直接の原因であった。しかし一方で人災の面も指摘される。

33 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 18:47:54.69
>5月に実施予定の選挙のため、市民が市から退避するのを防ごうと、市の首脳部や新聞社はプレー山の活動を過小評価し、あるいは無視して、
>差し迫った危険を市民に知らせなかった。災害の直前には市長は市に戻って安全を強調すると共に、軍隊により住民の退去を強制的に阻止した。
>しかし、島の地形がサン・ピエール市を災害から守るようになっていると信じて郊外から市内に移った人々もいた
>(実際、火砕流の本体は谷に沿って流れ、サン・ピエールを外れている)。

セントビンセント島 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E5%B3%B6
>セントビンセント島(Saint Vincent)は、カリブ海のウィンドワード諸島にある肥沃な火山島。面積は344km2、人口約11万人。
>最高峰は標高1,234mのスフリエール山(1979年4月に最後の噴火を記録)。セントビンセント島の海岸は黒色の浜辺がほとんどで、良質の海綿の産地である。

>1498年にコロンブスが望見、1667年以来、イギリスがしばしば領有し、1763年のパリ条約でイギリスの植民地として確定した。1979年にグレナディーン諸島
>と共にセントビンセント・グレナディーンとして、イギリスから独立。首都キングスタウンがある。
>西インド諸島で最初にパンノキを持ち込まれた島として知られる。1789年、太平洋上で、西インド諸島の奴隷達のための安い食料としてパンノキを手に入れた後、
>バウンティ号の反乱が起きた。反乱者達は隠れ家として南太平洋にある無人の孤島、ピトケアン島に住み着いた。反乱の後、1792年に153本のパンノキが
>セントビンセント島とジャマイカに持ち込まれた。 →パンノキ キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 星の王子様 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

>1902年5月7日、スフリエール山が噴火して火砕流が発生し、1680人が死亡している(その翌日には島の北に位置するマルティニークのプレー山が
>三万人の命を奪う大噴火を起こしている)。

>映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』はセントビンセント島で撮影された。バナナ、コプラ、ココア、砂糖、香水、アロールートを産出。

34 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 18:55:15.57
スフリエール山 (セントビンセント・グレナディーン)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B1%B1_(%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3)
>スフリエール山(またはスフリエール・セントビンセント、Soufri?re Saint Vincent)は、カリブ海のウィンドワード諸島にあるセントビンセント島の活火山である。

>地理と構造   標高1,234 mあるスフリエール山はセントビンセント島の最高峰であると同時に、島国であるセントビンセント・グレナディーンの最高標高地点である。
>スフリエール山は火口湖を持つ成層火山であり、島の最北に位置する最も新しい火山でもある。

>噴火の歴史   スフリエール山では、1718年、1812年、1902年、1971年、及び1979年に激しい噴火が発生している。マルティニークにある
>プレー山の噴火のわずか数時間前に発生した1902年5月7日の噴火では火砕流により1,680人が死亡した。この噴火におけるほとんどの死者は
>カリブ海海岸に近い地域で亡くなっている。なお、この噴火の際に、カリブ族地域の一部に過ぎなかったこの島に存在していたカリブ文化最後の
>巨大な遺跡は破壊された。この時の噴火では、プリニー式噴火で発生した噴煙柱が自重で崩壊して地表を流れ下った。
>現在ではこの噴火様式を「スフリエール式火砕流」と呼んでいる(翌日の3万人が死亡したプレー山の噴火も同様のものと考えられている)。

>1979年4月に記録された中では最後となる噴火が発生した。この際には、事前に警告が出されていたことにより死傷者はなかった。

>カリブ海にある多くの火山がスフリエール(フランス語で"硫黄の放出口"の意)と名付けられている。モントセラトにあるスーフリエール・ヒルズと
>グアドループにあるスフリエール山がそれに当たる。

>ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーによって1812年4月13日の噴火の様子が描かれており、リヴァプール大学のビクトリア美術館&博物館に所蔵されている。

35 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 19:04:39.00
サン=ドマング ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B0
>サン=ドマング(Saint-Domingue)は1697年から1804年までの間、カリブ海のイスパニョーラ島の西三分の一を占めていたフランスの植民地である。
>砂糖とコーヒー貿易でフランス植民地の中でも最も利益を上げていた。今日のハイチ共和国にあたる。

>フランス領サン=ドマング植民地の成立
>サン=ドマング(Saint-Domingue)は、スペインがこの島の名前としていたサント・ドミンゴがフランス語になったものである。スペインはかつて
>イスパニョーラ島全土を支配しサント・ドミンゴと呼び、先住民や黒人奴隷を酷使して金鉱などを開発していたが、より豊かな金鉱・銀鉱が
>南アメリカやメキシコに発見された1520年代以降関心が薄れつつあった。海賊の襲撃が相次ぐため、1606年スペイン王フェリペ3世は
>イスパニョーラ島の植民者に対し、島の東の拠点都市サントドミンゴ周辺に移転するよう命令を出した。島の北や西には、イングランドやフランス、
>オランダなどの海賊が代わって拠点を置くようになった。

>未開であった島の西北部では、フランス人やイングランド人の海賊たちが1625年に沖合の島トルトゥーガ島(トルチュ島)に初の拠点を置き、
>スペイン船などを襲いながら海賊同士の交易を行い野獣を狩って生活した。スペイン軍はしばしばトルトゥーガ島を掃討したが、海賊たちが
>獣や新鮮な水を求めて戻ってくることを止められなかった。1659年、フランス王ルイ14世はトルトゥーガ島を公式に植民地とし、新設された
>フランス西インド会社が1664年に植民地経営を引き継ぎ、公式にイスパニョーラ島本土の西部の領有を宣言した。1670年には島北部に
>本土初の入植地カプ=フランセ(Cap-Fran?ais、現在のカパイシャン Cap-Ha?tien)を築いた。
>衰退しつつあったスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で正式に島の西側三分の一がフランス領となった。
>フランスは新植民地に「サン=ドマング」と名づけた。その首都は1770年に、カプ=フランセから島西部のゴナーブ湾に面したポルトープランスに移っている。
→ルスカイナ島 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

36 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 19:56:57.67
>東側はひきつづきスペインのサントドミンゴ植民地であり、現在では「ドミニカ共和国」として独立している。

>サン=ドマングの繁栄と奴隷制の悲惨
>フランス人植民者は肥沃な北部海岸を中心に多くの砂糖やコーヒー、タバコ、藍、カカオのプランテーションを設立し、アフリカから奴隷たちを
>導入した。奴隷たちは厳しい労働に耐えかね、しばしば山岳部へと逃亡した。逃亡奴隷(マルーン)たちは山地にいた先住民タイノ族の最後の
>世代と共に住み混血した。最後のタイノ人が死ぬと、ハイチにおける純粋アラワク系先住民は絶滅した。

>サン=ドマングは18世紀のフランス植民地帝国で最も豊かな植民地となった。1750年以後はコーヒーの生産が急上昇して、世界の総生産の半分を産出した。
>七年戦争(1756年 - 1763年)の時期、サン=ドマング経済は穏やかに成長を遂げ、砂糖、のちにはコーヒーを主要作物にしていった。
>海上貿易を阻害していた七年戦争が終わると経済は爆発的に成長した。1767年の記録ではサン=ドマングは7,200万ポンドの粗糖と5,100万ポンドの精製糖、
>100万ポンドの藍、200万ポンドの綿を輸出した。ほとんど放置された状態の島の東側(スペイン領)を尻目に、「アンティル諸島の真珠」サン=ドマングは、
>1780年代までに、ヨーロッパで消費される砂糖の40%、コーヒーの60%を産出した。ベルギーほどの大きさしかない植民地サン=ドマング一ヶ所が、
>イギリスの西インド諸島の全植民地をあわせたより多い砂糖とコーヒーを産出していた計算となる。

>18世紀半ばには灌漑設備が整えられサトウキビ増産の体制が整った。白人は数十万を数える黒人奴隷に対し3万から4万程度と人口では圧倒されていたが、
>権力や土地や富のほとんどすべてを握っていた。北部プランテーション地帯を独占する農園主グラン・ブラン(grands blancs)たちや植民地政府の
>上層部はフランス生まれの白人であった。下級の白人プティ・ブラン(petits blancs)たちは軍人、商人、職人、労働者などで、サン=ドマング植民地に
>生まれ育った者や、アカディアからイギリス人に追放されて逃げてきたフランス人も多かった。

37 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:02:48.92
>この期間、サン=ドマングは大西洋の奴隷貿易の行き先の大きな割合を占めていた。79万人のアフリカ人奴隷が奴隷貿易を通じてサン=ドマング
>に売られ、プランテーションで働いていたと推定される(1783年から1791年の大西洋の奴隷貿易の3分の1をハイチ行きが占めた)。1764年から1771年
>までは毎年の奴隷輸入の平均は10,000人から15,000人の間、1786年ごろまでには毎年平均28,000人、1787年以降は毎年40,000人以上を輸入していた。
>しかし、労働の厳しさと高い死亡率からコンスタントにアフリカから奴隷を補給しつづけないと人数を維持できない状態であり、植民地支配の終わりごろ、
>白人支配層は3万2,000人であった一方、黒人奴隷人口は50万人程度に低迷していた。植民地の時期、サン=ドマングの黒人は地元生まれの
>二世代目以降が少数派でアフリカ生まれの者が多数派であり、奴隷労働が過酷であったために死亡する人口が多く、人口の自然増による拡大が
>起こる状態ではなかった。 一方で、アフリカ生まれの人口が多かったことが、サン=ドマングにブードゥー教や言語などアフリカ文化の伝統を強く残すこととなった。

>黒人奴隷たちに対しては、ルイ14世の治世に奴隷に対する秩序維持のため制定された悪名高い「黒人法」(フランス語: Code Noir)が適用された。
>この法律は黒人奴隷に対する奴隷主の責務を規定しており、奴隷のカトリック改宗の必要性や奴隷主もカトリックであること(オランダ領の植民者に
>多かったユダヤ人の影響を排除するため)を規定したほか、残虐な制裁も正当化するもので、多くの奴隷が吊るされたり埋められたりマラリア蚊の
>蔓延する湿地に追い立てられたりして殺された。

>逃亡奴隷であるマルーンは山岳部に村を造りしばしば平地の農園を襲った。もっとも有名なマルーンは、ギニアから売られ1751年に逃亡した隻腕の元奴隷
>フランソワ・マッカンダル(Fran?ois Mackandal)である。ヴードゥーの僧侶でもあった彼は異なるマルーンの集団をまとめあげ6年間にわたり農園襲撃を
>繰り返し6,000人以上を殺したといわれる。

38 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:07:26.58
>彼は黒人奴隷たちの不満を吸収し、サン=ドマングの白人文明が崩壊する熱狂的なビジョンを語りかけた。
>1758年に彼は捕まりカプ=フランセの広場で火刑にされたが、これはハイチ革命に先立つ黒人反乱の一つであった。

>サン=ドマングはまた、自由な有色人種(こうした集団は、「gens de couleur」と呼ばれていた)の人口がカリブ一帯で最も多く、最も裕福な生活を
>送っていた場所であった。黒人法は黒人奴隷を抑圧した一方で、奴隷が金銭を奴隷主に払って自由の身を得ることや、文面上では自由有色人が
>白人同様フランス国民の地位を得ることも規定していた。1789年の王立国勢調査では自由有色人は2万5,000人を数えた。彼らの多くは、フランス人
>植民者の男性が黒人奴隷の女性を夫人や愛人とした際の子孫であった。自由な有色人たちは解放奴隷が多かったが、この階層には純粋な
>アフリカ人は少なく、白人と黒人の混血の子孫(ムラート)が多かった。彼らが土地を買うことは禁止されてはいなかったため、自由有色人は
>次第にサン=ドマングのコーヒー農園主の中でも無視できない勢力となっていった。1789年までにコーヒープランテーションの3分の1、
>黒人奴隷の4分の1は有色人が所有した。北部の肥沃な一帯はすでに富裕白人のものだったため、有色人らは土地が険しく大西洋への航路からも
>離れていた未開拓の南部に入植した。

>フランス革命とハイチ革命
>1789年夏、フランス革命の勃発がサン=ドマング植民地の転機となった。フランス人植民者が革命政府の新法がどのようにサン=ドマングに
>適用されるのか論争している間に、1790年、ムラートなどの有色自由人らが自分達もまたフランス人権宣言の下にあるフランス市民であると
>主張し内戦を始めた。さらに1791年8月22日、北部カプ=フランセ近くの森で黒人奴隷達が主人達に対する反乱であるハイチ革命を開始した。
>ブードゥー教の儀式により革命の開始が宣言され、ブードゥーの僧侶であるデュティ・ブークマン(Dutty Boukman)が動員令を発し、数時間の
>うちに北部のプランテーションは相次いで戦火に飲み込まれた。

39 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:13:02.41
>9月、ブークマンは逮捕され処刑されたが、それまでに反乱は植民地全土に拡大し、多くの白人植民者が殺害された。
>追い詰められた白人達はムラート勢力と組んで反撃し、互いに多くの死者を出す戦いとなった。

>1792年、サン=ドマングを安定化し、国民公会が認めたばかりの自由有色人種の社会的平等を徹底させ、植民地の支配を維持するため、革命政府の
>立法議会よりレジェ=フェリシテ・ソントナ(L?ger-F?licit? Sonthonax)が使節として送り込まれた。

>黒人奴隷の反乱は植民者やムラート、本国軍により抑えられた状態になったが、イスパニョーラ島東部からのスペイン軍の侵入により情勢は変化した。
>黒人奴隷反乱軍を味方につけたスペイン軍が迫り、白人植民者の中にも反革命をかかげイギリスなどと組んで革命政府軍に敵対する動きが出る中、
>ソントナは黒人を味方にする必要に迫られた。1793年8月29日、ソントナは北部地域の奴隷達に、きわめて限定されたものではあるが自由を宣言する
>という思い切った手に出た。9月と10月には植民地全域で奴隷解放が宣言された。1794年2月4日、国民公会はこの行為を認め、
>全フランス植民地に対し同様の措置を適用した。

>黒人奴隷達は即座にはソントナの宣言を信用せず、白人植民者たちは奴隷解放に反発するムラートなど自由有色人とともにイギリスの支援で
>ソントナ率いる革命政府軍と戦い続けた。スペイン側に転じていた黒人奴隷の指導者、トゥーサン・ルーヴェルチュール(フランソワ・ドミニク・トゥーサン)
>は奴隷解放宣言がフランス本国から届いた後、他の黒人指導者たちから離れ、1794年5月に革命政府軍の味方となった。ソントナは1796年本国の
>政変で解任されたが、もと奴隷だった者達が武器を取る流れは変わらなかった。イギリスはこの戦乱を契機に、カリブ有数の富を誇った
>サン=ドマングに全面的な侵略を行ったが、トゥーサン・ルーヴェルチュール、ジャン=ジャック・デサリーヌ、アンリ・クリストフのもと
>集まった黒人反乱軍は強力であった。イギリス軍は撃退され、1798年にはトゥーサン・ルーヴェルチュールが事実上の支配者の地位についた。
>しかし彼は植民地の全面独立や奴隷制を利用していた白人植民者への報復措置などは考えてはいなかった

40 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:20:13.94
>ナポレオンの出兵とハイチ独立
>1802年、フランスを掌握したナポレオン・ボナパルトによりサン=ドマングにシャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール率いる大軍が送られ、
>黒人側は敗北した。交渉の席に呼ばれたトゥーサン・ルーヴェルチュールは逮捕されフランスに送られ処刑された。黒人の再征服と再奴隷化に
>夢中になったフランス軍に対し、黒人は反乱を開始し、両者とも血で血を洗う残虐な戦闘を繰り広げた。特にフランス軍側の残酷な戦術は
>ムラートたちを辟易させ、ムラートと黒人との連合が成立した。

>戦況は再び黒人側に傾いた。1803年11月の戦いでフランス軍は大敗を喫し、黒人の指導者ジャン=ジャック・デサリーヌが1804年1月1日
>独立を宣言して、国号を先住民によるイスパニョーラ島の呼び名であったハイチに改め、その皇帝に即位した(ハイチ帝国)。
>白人植民者たちは敗北したフランス軍に先立ちサン=ドマングを去り、多くは北米のルイジアナ植民地へと逃亡した。残った白人に対し、
>トゥーサン・ルーヴェルチュールと違いデサリーヌは容赦がなかった。奴隷労働への報いとして、黒人軍はフランス人たちを虐殺した。
>唯一残ることを許された白人は、ナポレオン軍の中にいて黒人軍との戦闘をためらい、中には黒人側につく者もあったポーランド軍人達であった。
>悲惨な運命をたどった他の白人たちとは異なり彼らは残留を許された。帰国を選んだ者のほかはハイチに住み、その末裔は今もハイチに住んでいる。

>こうしてサン=ドマング植民地は滅び、ハイチは黒人とムラートの国となった。だが両者はその後も事あるごとに対立し続け、比較的裕福で政権に近い
>ムラートに対する多数派の黒人の反発は続いた。国内での混乱は独立後も続き、欧米からの干渉も絶えなかった。フランスは19世紀前半、
>フランス植民者が失った農園や財産などの賠償金をハイチ政府に請求し、ハイチは軍事的圧力の下これを受け容れることとなった。この賠償金
>は20世紀前半までハイチ財政を苦しめた。

41 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:29:34.20
トゥーサン・ルーヴェルチュール
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
>フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール、またはトゥサン・ルヴェチ、トゥーサン・ブレダ(Fran?ois-Dominique Toussaint Louverture,
>ハイチ語: Tousen Louv?ti, Toussaint Br?da、生年不詳・1739年から1743年 - 1803年4月7日)は、(フランス革命期の)ハイチの独立運動指導者であり、
>ジャン=ジャック・デサリーヌ等とともにハイチ建国の父の一人と看做されている。一般にL'Ouvertureと綴られることも多いが、彼の兄弟や息子は
>Louvertureと綴り、歴史家にもその傾向がある。

>生い立ち
>トゥーサンの父祖は祖父ゴー=ギヌーまで西アフリカのダホメ王国(現在のベナン)のアラダ(ダホメ王家の発祥の地)の首長であったが、トゥーサンの
>父イポリト・ゴーは捕えられて奴隷としてフランス王国の植民地サン=ドマング(現在のハイチ)のカプ=フランソワ近くの北県のブレダの不在領主の
>ノエ伯爵に売られた。トゥーサンは彼の長男で5月20日か11月1日(諸聖人の日、フランス語でトゥーサン)に生まれた。ブレダ姓は地名に因む。

>農園の管理者ベヨン・ド・リベルタは“比較的に人間的で親切な”管理人でトゥーサンに読み書きを奨めた。そのためトゥーサンはフランス語の基礎と
>ラテン語を自由黒人の司祭ピエール・バチストに学んだ。普段はフランス語はあまり使わずハイチ・クレオールの単語やフォン語を使った。
>トゥーサンの教育の高さ、父から受けた薬草の知識や身体能力などはベヨンを喜ばせ、家畜の管理から、治療係、奴隷の教育係を任された
>トゥーサンは“奴隷としては比較的富裕”であった。1774年に法的に解放され、植民地政府の記録では13エーカーの土地と15人の奴隷をコーヒー栽培
>のために借りている。彼は熱心なカトリックであり、また高位のフリーメーソンリーでもあった。 禁欲的で質素な生活をし、菜食主義者であった。

42 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:32:56.94
>反乱と交渉
>1789年にフランスで革命が勃発すると、1790年には「自由・平等・博愛」のメッセージがサン=ドマングにも届けられた。フランス国民議会はすべての
>人が自由で平等であると宣言し、フランス軍兵士はポルトープランスに上陸し黒人やムラートと友愛的に交わった。しかしサン=ドマングの
>プランテーション経営者は人権宣言の効力を否定した。そのため各地で奴隷の反乱が起こった。トゥーサンは(裕福な有色人種の)ヴァンサン・オジェの
>指導する有色人種の権利を叫んだ1790年10月の反乱には加わらなかった。それらは容赦なく弾圧された。
>1791年8月に北県で奴隷の反乱が起こるとトゥーサンも自分が動揺しているのに気付いた。

>初めのうちトゥーサンは反乱による破壊や流血に対し否定的であった。彼は反乱の指導者たちと関係があったのは確実だと考えられているが、
>数ヶ月間彼の主人の奴隷たちやその農園を保った。反乱が拡大し白人が脅されるようになると、トゥーサンは主人とその家族をスペイン領
>サントドミンゴの安全な場所へ彼自身の家族の手で逃し、自分は農園を焼き白人やムラートを殺している奴隷たちの拠点へ向かった。
>すぐに彼は反乱指導者たちの不適切さと白人の自由主義派と妥協しようとしていることを非難し始めた。そして経験を生かして彼らを権威的に
>指導しゲリラ戦の中で訓練した。1793年には彼はジョルジュ・ビアスーの仲間になっていた。彼はその中で階級を上げ、また黒人部隊は熱病に
>やられて指揮を欠いたヨーロッパの軍隊に驚くほど勝利を収めていた。

>フランス革命戦争が起きると1793年にはスペインとフランスも戦争状態となり、黒人司令官たちはイスパニョーラ島の東3分の2を占めるサント・ドミンゴの
>スペイン人を支持した。トゥーサンはナイトに叙され、将軍としても認められ、並外れた軍事的能力を見せつけて、甥のモイズ、将来のハイチの君主となる
>ジャン=ジャック・デサリーヌやアンリ・クリストフなどの有名な戦士たちを魅了した。また彼は敵の守備を開くことが得意であったのでルヴェルチュール
>(フランス語で「開く」)との別名が付けられ、これを彼は姓とした。8月29日には黒人指導者として、

43 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:39:10.62
>「兄弟と友よ、私はトゥーサン・ルヴェルチュールである。名前は恐らく君たちのお陰で知られるようになった。私は復讐を果たした。私はサン=ドマングに
>自由と平等に拠る統治を望む。私はこれを実現させよう。兄弟たち、私と共に闘う者たちよ、集まれ。同じ大義のために闘おう。」
>―我らの非常に謙虚にして非常に従順な僕 トゥーサン・ルヴェルチュール 公益のための、国王軍将軍
>と檄を飛ばした。この年の後半にイギリス軍はポルトープランスを含むサン=ドマングの沿岸部の大半を占領した。

>北部でトゥーサンが勝利し、南部ではムラートがこれに続き、沿岸部をイギリス軍が占領したのでフランスも事態を認めざるを得なくなった。
>1793年パリの革命政府の代表部であったレジェ=フェリシテ・ソントナとエチエンヌ・ポルヴェレは黒人に反革命軍と外国部隊に勝利すれば
>自由を与えると約束した。1794年2月4日ジャコバン派の国民公会はこの命令を確認しフランス全領土での奴隷廃止を決めた。
>5月にはトゥーサンは共和主義者となりフランスに寝返った。イギリスとスペインが奴隷廃止を認めなかったためだった。トゥーサンの元同盟者への
>裏切りとスペイン人の虐殺は後に強く非難されることになった。トゥーサンの転向が決定的となるとサン=ドマングの司令官エティエンヌ・ラヴォーは
>彼に准将の位を与えた。イギリス軍はこれに慌て、スペイン人は追放された。トゥーサンの増大する影響力の元でフランスの黒人及びムラート、
>白人の連合軍はイギリス軍とスペイン軍を破った。1794年1月にはトゥーサンの軍は1週間に7度イギリス軍を破った。トゥーサンは新しく出てきた
>パンシナのムラートの指導者とも争っていた。

>フランス革命政府の元で
>1795年にはトゥーサンはよく知られた人物となっていた。黒人から尊敬を集め、多くの白人やムラートからもサン=ドマングの経済を建て直す
>助けになるとみられていた。彼はフランス革命政府の法を無視してプランテーション経営者が戻ることを認め、元奴隷たちを軍令で働くように命じた。
>彼は人々は自然には怠惰であると信じ、怠惰を防ぐためには強制も必要だと考えた。

44 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:44:20.08
>ただし、労働者はもはや鞭打たれることはなく、法的には自由で平等であった。そして再建されたプランテーションの利益を分け合った。
>トゥーサンは和解を説き、また「多数派であるアフリカ生まれの黒人は白人やヨーロッパ化されたムラートから学ぶべきことが多くある」
>と信じていたせいもあり、人種間の緊張は緩和した。

>ラヴォーは1796年にサン=ドマングを離れた。フランス革命政府の弁務官の後任にソントナが就いた。彼はトゥーサンの統治を認め階級を
>少将に上げた。しかしトゥーサンはヨーロッパを根絶やしにしようとする白人の過激派であるソントナに無神論、粗雑さ、倫理なき攻撃性などを観て、
>彼の提案を拒んだ。いくつかの策略を費やして1797年にトゥーサンはソントナを追放した。

>次いでフランスと交戦中であるイギリスは損失が大きかったためトゥーサンとの秘密交渉に及んだ。1798年及び1799年の条約でイギリス軍は完全撤退を保証し、
>サン=ドマングは利益の出る貿易をイギリス及びアメリカ合衆国と始めた。武器や商品と引換えに砂糖を売りトゥーサンは英領であったジャマイカおよび
>米国南部を侵さないと約束した。イギリスは彼を独立国ハイチの王として認めると提案したが、彼はイギリスが奴隷制度を続けていることを不審に思い
>それを拒んだ。イギリス軍は1798年に撤退した。

>フランスによる名目の上官として総裁政府の代表者ガブリエル・エドゥヴィルが1798年に赴任した。エドゥヴィルはトゥーサンを南部で半独立状態であった
>ムラートのアンドレ・リゴーと対立するように仕向けた。しかしトゥーサンはそれに気付き、エドゥヴィルを逃亡させた。エドゥヴィルの後任には
>フィリップ・ルームがあたった。1799年10月の血腥い作戦でトゥーサンはリゴーを排除しフランスへの亡命を余儀なくし、南部のムラートの半独立国も
>破壊された。このジャン=ジャック・デサリーヌによる粛清は残忍過ぎてムラートとの和解は不可能になった。

>1799年5月22日トゥーサンはイギリス及び米国と貿易協定を結んだ。アレクサンダー・ハミルトンは米国における強力な支援者であったが、
>1801年にトーマス・ジェファーソンが米国大統領に就くとハイチとの友好政策は覆された。

45 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 20:53:55.70
>サン=ドマング全土を掌握すると、トゥーサンは奴隷制を維持していたスペイン領サントドミンゴに転じた。そしてフランスの第一執政となった
>ナポレオン・ボナパルトの命令も無視し、1801年1月に侵攻して24日には公式に全島を掌握し奴隷を解放した。そして委員会に諮って植民地独自の
>憲法を起草、公布し7月7日に施行して全イスパニョーラ島に自らの権限を打ち立てた。  →この人がフィッシャー・タイガーかな?

>ルクレールの遠征とトゥーサンの捕縛
>トゥーサンは独裁権力に近いかたちで自らを終身総督に任じる憲法を定めた。またカトリックを国教に定め、多くの革命的な軍令も形式的に承認された。
>フランスは公式には何の承認も与えなかったが、トゥーサンはフランスの自治植民地としてナポレオンに忠誠を示した。
>ナポレオンはトゥーサンの地位を認めたが、彼を収益の上がる植民地としてのサン=ドマングの回復の障害と看做した。奴隷制の再建を否定しつつも、
>1802年にはナポレオンの義弟のシャルル・ルクレール率いる遠征軍がサン=ドマングの再支配を試みた。遠征軍は1月20日に上陸し、トゥーサンと敵対した。
>トゥーサンの軍はルクレールと戦ったが、月を追う毎に彼の軍からデサリーヌやクリストフなど主だった将校たちがルクレールの側へ離脱した。
>5月7日ルヴェルチュールはフランスと奴隷廃止を条件にアンネリの農園に引退する協定を結んだ。しかし3週間後ルクレールの部隊は反乱を
>企てているとの嫌疑をかけてトゥーサンを襲って家族共々捕え、戦艦でフランスへ送った。彼らは7月2日にフランスへ到着した。
>8月25日トゥーサンはジュラ山脈のドゥー県のジュー要塞へ送られ、監禁されて繰り返し拷問を受けた。1803年4月7日トゥーサンは肺炎で亡くなった。

>1952年のハリウッドの歴史冒険映画 『Lydia Bailey(嵐を呼ぶ太鼓)』ではハイチ独立戦争を舞台にしており脇役でトゥーサンも配置されている。
>トリニダード・トバゴのカリプソ奏者デイヴィド・ラダーの1988年のアルバム『ハイチ』のタイトル曲は "Toussaint was a mighty man, and to
>make matters worse he was black."(トゥーサンは強い男だったが黒人なのが悪かった)という詞で始まる。

46 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 21:00:59.81
>2006年ハリウッド俳優のダニー・グローヴァーはドン・チードルをトゥーサン役としてトゥーサンの生涯を描いた映画を撮影すると発表した。
>2007年にグローヴァーは製作費をベネズエラから受取った。
>イギリスの詩人ウィリアム・ワーズワースは『To Toussaint L'Ouverture』と題したソネットを1803年1月に発表した。

>>28に戻る グアドループ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
>グアドループ(Guadeloupe)は、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのリーワード諸島の一角をなす島嶼群であり、フランスの海外県である。
>最も大きい島はグアドループ島を結成している、バス・テール島とグランド・テール島で、他に、マリー・ガラント島、ラ・デジラード島、プティト・テール諸島、
>レ・サント諸島などの島々からなる。サン・マルタン島とサン・バルテルミー島はグアドループに属していたがそれぞれ分離して独自のフランス海外準県となった。

>略史
>島名のグアドループとは、スペインのサンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院に祀られたグアダルーペの聖母にちなむ。
>新大陸発見へのとりなしを感謝したクリストファー・コロンブスが名付けた。

>政治
>フランスの海外県で、グアドループの知事はポール・ジロ・ドラングラドである。グアドループ海外県はフランス国民議会に4名、元老院に2名の
>代表を送る権利を持っている。

>サン・マルタン島とサン・バルテルミー島では独自の地方議会があり、両島でグアドループの郡としてサン・マルタン=サン・バルテルミー郡を結成していた。
>しかし、グアドループの郡ではなく独自の行政区となることを望んで2003年の選挙でグアドループからの分離を選び、2007年2月22日にサン・マルタン島と
>サン・バルテルミー島、それぞれ独自でのフランス海外準県になった。

47 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 21:08:59.97
>1980年代にグアドループの独立運動が盛んになり、カリブ革命同盟 (ARC) などの独立派がある。1984年、独立を目指すカリブ革命同盟がフランス本土で
>過激な爆弾テロの事件を起こした。そのため、フランス政府は戦闘的な自治運動組織であるカリブ革命同盟を非合法化した。

>地形   主島であるグアドループ島はカリブ海の狭い水路サレ川をは挟んで繋がる、西側のバス・テール島とすぐ隣にある東側のグランド・テール島からなり、
>両島とも合わせて、蝶が羽を広げたような形をしている。西側のバス・テール島は起伏の激しい火山島(最高峰は1,467mのスフリエール山)で、島の中央部には
>樹木の密林した雨林が広がり、西部の海岸は火山性の黒浜である。一方、東部のグランド・テール島は石灰岩からなる標高の低い島で、海岸は白浜の海岸が多い。

>経済   砂糖とバナナが経済の中心で、観光産業も盛んである。フランス、欧州連合(EU)からの多大な援助でグアドループの経済は繁栄している。

スフリエール山 (グアドループ)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B1%B1_(%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97)
>スフリエール山(フランス語: Soufri?re、"大きな硫黄の放出口"の意)は、フランスの海外県であるグアドループのバス・テール島に位置する
>活発な成層火山である。標高1,467 mであり小アンティル諸島の中で最も高い山である。

>1976年の噴火   1976年にスフリエール山は噴火を起こした。その際、避難を指示すべきかどうかについて、科学者のクロード・アレグルと
>アルーン・タジェフとの間で激しい論争があった。アレグルは念のため住民が避難しなければならないと考える一方で、タジェフはスフリエール山
>による噴火で被害は発生しないと考えたのである。 グアドループ県知事は過度に慎重な姿勢であったものの、最終的には避難することを決定した。
>結果的に噴火による被害は出なかった。

48 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 21:27:26.46
グアダルーペの聖母 (スペイン)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%81%AE%E8%81%96%E6%AF%8D_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3)
>グアダルーペの聖母は、スペインに存在する聖母マリアの彫像。また、彫像が発見された際の聖母マリアの出現伝説である。
>グアダルーペの聖母の聖堂は中世のカスティーリャ王国において、最も重要な聖マリア聖堂であった。 現在でもスペインのエストレマドゥーラ州
>カセレス県に位置するサンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院において崇敬されつづけている。 グアダルーペの聖母はスペインに3つある
>黒い聖母像のうちの1つとされる。 1928年10月12日、聖マリア像は教会法に基づき戴冠された。

>聖母像の発見
>グレゴリウス1世により、聖母マリア像は聖ルカが彫刻したものであり、セビリアの大司教、聖レアンデルに与えられたとされた。 地元の伝説では、
>712年にセルビアがムーア人に侵略されたため司祭たちが北方に逃れる際、彼らの手によってエストレマドゥーラにあるグアダルーペ川近くの丘に
>聖母マリア像が埋められたとされる。 14世紀の初頭、牛飼いのヒル・コルデロが山で逃げ出した家畜を探している際に聖母マリアが出現した。
>彼は司祭に、聖母マリアが目の前に現れた。また、その周辺を掘るよう司祭に願い出よと命じられたと訴え出た。 発掘した司祭は隠された彫像を発見し、
>その場所に小さな聖堂を立てた。その聖堂は大きく発展し、後にサンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院となった。

>聖母像について
>高さ60cmほどの彩色された木製の彫像であり、黒い聖母像である。 イエスが聖母マリアの膝の上に座っている聖母子像で、"知恵の座"や
>"上智の座"として知られる形式となっている。 また、この形式は11世紀から13世紀の間に北ヨーロッパから広まっている。
>少なくとも14世紀後半においては、彫像は刺繍された服で飾られていた。そのため、彫像の手と顔だけが見られる状態であった。 豪華なローブは提供した
>者の富と名誉の証明とされており、天の女王に相応しく金糸で刺繍され宝石で飾られていた。(ローブに隠され)彫刻そのものはほぼ見られなかったとされる。

49 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 21:42:36.72
>巡礼   巡礼は1326年及び、1340年に始まった。アルフォンソ11世がサラド川の戦いにおいてムーア人に勝利したのは聖母マリアのとりなしであった
>として、この場所に修道院を立てたとされる。1386年には周辺の礼拝堂に彫像の複製が置かれた。 イベリア半島のレコンキスタにおいては、
>聖大ヤコブやピラールの聖母と同じく、グアダルーペの聖母はスペインのキリスト教徒たちの巡礼地となった。 1492年に、クリストファー・コロンブスは
>スペインのイサベル1世とフェルナンド2世からサンタフェ契約を取り付けアメリカへ初めての航海に向かった。 アメリカから戻ったコロンブスは
>安全な航海と神の加護の感謝をするため、グアダルペの聖母の修道院へ巡礼を行った。
>その頃の修道院は王室の保護により、もっとも裕福な教会の1つであった。

ルカ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB
>ルカ(Lukas, ギリシア語発音でルカス, 福音記者ルカ)は新約聖書の『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』の著者とされる人物。
>聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。カトリック教会での記念日は10月18日、正教会での記憶日は4月22日(5月3日)である。
>西方世界では医者及び画家の守護聖人とされる。日本語表記では、「路加」とも書かれる。

>福音記者ルカ   『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』はルカの手によるものとして「ルカ文書」と呼ばれるが、福音書及び使徒行伝には著者についての
>記述が欠けている。一方、新約聖書中には、ルカと云う名前がパウロの書簡に協力者として現れる(『フィレモンへの手紙』24、『テモテへの手紙2』4:11、
>『コロサイ人への手紙』4:14)。教会の伝承では、早くからこの人物が福音書及び使徒行伝の著者とされてきた。『コロサイ書』には「愛する医者ルカ」とあり、
>ここから福音書記者ルカの職業は伝統的に医者であると信じられてきた。

>『使徒行伝』には、パウロの幾度かの布教旅行に「わたしたち」とする記述が有り、ルカが著者であれば、ルカはパウロの最初のマケドニア宣教
>及びマケドニアからエルサレムへの旅行、またエルサレムからローマへの護送に付き添っていたことになる。

50 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 21:46:43.05
>またこの記述からは、ルカは小アジアのトロアスと何かしら深い関係が有った様である。

>ルカ及びルカ福音書はしばしば牛のシンボルで表される。これは『エゼキエル書』1:10に登場する四つの生き物に由来し、
>それぞれ四人の福音記者と福音書に比定されている。

>後代の記録・伝承に於けるルカ   4世紀、一説には2世紀のものとされる文書『ルカによる福音書への反マルキオン的序文』に、ルカは
>シリアのアンティオキアの出身で、シリア人、職業は医者」とする記述が現れる。この文書はまた、ルカは生涯独身で、84歳で亡くなったとも伝える。
>幾つかの写本はルカが亡くなったのはボイオーティアのテーバイであると追記している。

>後代の伝承では、彼の伝記はより明確化された。エピファニオスは七十門徒の一人に彼の名を挙げている。ヨハネス・クリュソストモスは、
>『コリント人への第2の手紙』8:18に言う「私の兄弟」とは、バルナバとルカのどちらかを指すと考えていた。

>また、ルカには画才があり、初めて聖母マリアを描いたとの伝承も有った為、中世の絵画作品等には、聖母子像を描くルカの姿が好んで描かれている。
>この為、中世ヨーロッパの画家・薬剤師のギルドは多くルカを守護聖人としている。また、ネーデルラント等の諸都市にある画家ギルドは、
>共通して「聖ルカ組合」を名乗ることが多かった。

>ルカ文書の筆者問題   『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』はルカの手によるものとして「ルカ文書」と呼ばれる。だがその真偽については以前から
>論争が有り、未だ決着を見ていない。保守的な学者はルカ著者説を支持している。その論点としては、これらの文書の著者がルカであるとすることで
>古代の記者達は一致しており、新約聖書では余り目立たないこの人物が著者であるとすることで、格別の権威付けが為されるとは考えられないとする。
>一方これらの見解を否定する学者は、ルカ文書の真の著者は不明であると考えている。

51 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:00:26.82
エゼキエル書
1:1 第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。
1:2 これはエホヤキン王の捕え移された第五年であって、その月の五日に、
1:3 主の言葉がケバル川のほとり、カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった。
1:4 わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。
   その火の中に青銅のように輝くものがあった。
1:5 またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。
1:6 おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。
1:7 その足はまっすぐで、足のうらは子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。
1:8 その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。この四つの者はみな顔と翼をもち、
1:9 翼は互に連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。
1:10 顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、
   また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。
1:11 彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。
1:12 彼らはおのおのその顔の向かうところへまっすぐに行き、霊の行くところへ彼らも行き、その行く時は回らない。
1:13 この生きもののうちには燃える炭の火のようなものがあり、たいまつのように、生きものの中を行き来している。火は輝いて、その火から、いなずまが出ていた。
1:14 生きものは、いなずまのひらめきのように速く行き来していた。
1:15 わたしが生きものを見ていると、生きもののかたわら、地の上に輪があった。四つの生きものおのおのに、一つずつの輪である。
1:16 もろもろの輪の形と作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その作りは、あたかも、輪の中に輪があるようである。
1:17 その行く時、彼らは四方のいずれかに行き、行く時は回らない。

52 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:05:32.96
1:18 四つの輪には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。
1:19 生きものが行く時には、輪もそのかたわらに行き、生きものが地からあがる時は、輪もあがる。
1:20 霊の行く所には彼らも行き、輪は彼らに伴ってあがる。生きものの霊が輪の中にあるからである。
1:21 彼らが行く時は、これらも行き、彼らがとどまる時は、これらもとどまり、彼らが地からあがる時は、輪もまたこれらと共にあがる。
    生きものの霊が輪の中にあるからである。
1:22 生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。
1:23 大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。
1:24 その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は翼をたれる。
1:25 また彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ちとどまる時は翼をおろした。
1:26 彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。
1:27 そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の
   下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。
1:28 そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、
   わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。

2:1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
2:2 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
2:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。
   彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
2:4 彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。

53 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:12:39.88
2:5 彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
2:6 人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、
   またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。
2:7 彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。
2:8 人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」。
2:9 この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。
2:10 彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。

3:1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」。
3:2 そこでわたしが口を開くと、彼はわたしにその巻物を食べさせた。
3:3 そして彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、これであなたの腹を満たしなさい」。
   わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。
3:4 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。
3:5 わたしはあなたを、異国語を用い、舌の重い民につかわすのでなく、イスラエルの家につかわすのである。
3:6 すなわちあなたがその言葉を知らない、異国語の舌の重い多くの民につかわすのではない。
   もしわたしがあなたをそのような民につかわしたら、彼らはあなたに聞いたであろう。
3:7 しかしイスラエルの家はあなたに聞くのを好まない。彼らはわたしに聞くのを好まないからである。イスラエルの家はすべて厚顔でまた強情である。
3:8 見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした。

54 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:16:52.65
3:9 わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である」。
3:10 また彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、あなたの耳に聞きなさい。
3:11 そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って、彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」。
3:12 時に霊がわたしをもたげた。そして主の栄光がその所からのぼった時、わたしの後に大いなる地震の響きを聞いた。
3:13 それは互に相触れる生きものの翼の音と、そのかたわらの輪の音で、大いなる地震のように響いた。
3:14 霊はわたしをもたげ、わたしを取り去ったので、わたしは心を熱くし、苦々しい思いで出て行った。主の手が強くわたしの上にあった。
3:15 そしてわたしはケバル川のほとりのテルアビブにいる捕囚の人々のもとへ行き、七日の間、驚きあきれて彼らの中に座した。
3:16 七日過ぎて後、主の言葉がわたしに臨んだ、
3:17 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。
3:18 わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、
   その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
3:19 しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。
3:20 また義人がその義にそむき、不義を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、
   彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
3:21 けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受けいれたゆえに、
   その命を保ち、あなたは自分の命を救う」。

55 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:20:33.03
3:22 その所で主の手がわたしの上に臨み、彼はわたしに言われた、「立って、平野に出て行きなさい。その所でわたしはあなたに語ろう」。
3:23 そこで、わたしは立って平野に出て行った。見よ、主の栄光が、かつてわたしがケバル川のほとりで見た栄光のように、
   その所に立ち現れたので、わたしはひれ伏した。
3:24 しかし霊がわたしのうちにはいって、わたしを立ちあがらせ、わたしに語って言った、「行って、あなたの家にこもっていなさい。
3:25 人の子よ、見よ、彼らはあなたの上になわをかけ、それであなたを縛り、あなたを民の中に行かせないようにする。
3:26 わたしはあなたの舌を上あごにつかせ、あなたをおしにして、彼らを戒めることができないようにする。彼らは反逆の家だからである。
3:27 しかし、わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。
   聞く者は聞くがよい、拒む者は拒むがよい。彼らは反逆の家だからである。

4:1 人の子よ、一枚のかわらを取って、あなたの前に置き、その上にエルサレムの町を描きなさい。
4:2 そしてこれを取り囲み、これにむかって雲梯を設け、塁を築き、陣を張り、その回りに城くずしを備えてこれを攻めなさい。
4:3 また鉄の板をとり、それをあなたと町の間に置いて鉄の壁となし、あなたの顔をこれに向けなさい。
   町をこのように囲んで、その包囲を押し進めなさい。これがイスラエルの家のしるしである。
4:4 あなたはまた自分の左脇を下にして寝なさい。わたしはあなたの上にイスラエルの家の罰を置く。
   あなたはこのようにして寝ている日の間、彼らの罰を負わなければならない。
4:5 わたしは彼らの罰の年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。その間あなたはイスラエルの家の罰を負わなければならない。
4:6 あなたはその期間を終ったなら、また右脇を下にして寝て、ユダの家の罰を負わなければならない。わたしは一日を一年として四十日をあなたのために定める。
4:7 あなたは自分の顔をエルサレムの包囲の方に向け、腕をあらわし、町に向かって預言しなければならない。

56 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:25:20.98
4:8 見よ、わたしはあなたに、なわをかけて、あなたの包囲の期間の終るまで、左右に動くことができないようにする。
4:9 あなたはまた小麦、大麦、豆、レンズ豆、あわ、はだか麦を取って、一つの器に入れ、これでパンを造り、
   あなたが横になって寝る日の数、すなわち三百九十日の間これを食べなければならない。
4:10 あなたが食べる食物は量って一日に二十シケルである。あなたは一日に一度これを食べなければならない。
4:11 また水を量って一ヒンの六分の一を一日に一度飲まなければならない。
4:12 あなたは大麦の菓子のようにしてこれを食べなさい。すなわち彼らの目の前でこれを人の糞で焼かなければならない」。
4:13 そして主は言われた、「このようにイスラエルの民はわたしが追いやろうとする国々の中で汚れたパンを食べなければならない」。
4:14 そこでわたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしは自分を汚したことはありません。わたしは幼い時から今日まで、自然に死んだものや、
   野獣に裂き殺されたものを食べたことはありません。また汚れた肉がわたしの口にはいったことはありません」。
4:15 すると彼はわたしに言われた、「見よ、わたしは牛の糞をもって人の糞に換えることをあなたにゆるす。あなたはそれで自分のパンを整えなさい」。
4:16 またわたしに言われた、「人の子よ、見よ、わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く。彼らはパンを量って、
   恐れながら食べ、また水を量って驚きながら飲む。
4:17 これは彼らをパンと水とに乏しくし、互に驚いて顔を見合わせ、その罰のために衰えさせるためである。

5:1 人の子よ、鋭いつるぎを取り、それを理髪師のかみそりとして、あなたの頭と、ひげとをそり、はかりで量って、その毛を分けなさい。
5:2 その三分の一は包囲の期間の終る時、町の中で火で焼き、また三分の一を取り、つるぎで町のまわりでこれを打ち、
   さらに三分の一を風に散らしなさい。わたしはつるぎを抜いて、彼らのあとを追う。
5:3 あなたはその毛を少し取って、衣のすそに包み、
5:4 またそのうちから少しを取って火の中に投げ入れ、火でこれを焼きなさい。火はその中から出て、イスラエルの全家に及ぶ。

57 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:30:03.92
5:5 主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。
5:6 エルサレムは他の国々よりも悪しく、わたしのおきてにそむき、そのまわりの国々よりもわたしの定めにそむいた。
   すなわち彼らはわたしのおきてを捨て、わたしの定めに歩まなかった。
5:7 それゆえ主はこう言われる、あなたがたはそのまわりにいる異邦人よりも狂暴であって、わたしの定めに歩まず、
   わたしのおきてを行わず、むしろ、あなたがたの回りにいる異邦人のおきてを守っていた。
5:8 それゆえ主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたを攻め、異邦人の目の前で、あなたの中にさばきを行う。
5:9 あなたのもろもろの憎むべき事のために、わたしがまだした事のないような事、またこの後ふたたびしないような事をあなたに対してする。
5:10 それゆえ、あなたのうちで父はその子を食い、子はその父を食う。わたしはあなたに対してさばきを行い、あなたのうちの残りの者をことごとく四方の風に散らす。
5:11 それゆえ、主なる神は言われる、わたしは生きている。あなたはその忌むべき物と、その憎むべき事とをもって、
   わたしの聖所を汚したので、わたしは必ずあなたの数を減らす。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またわたしはあなたをあわれまない。
5:12 あなたの三分の一はあなたの中で疫病で死に、ききんで滅び、三分の一はあなたのまわりでつるぎに倒れ、三分の一は四方の風に散らされる。
   わたしはつるぎを抜いてそのあとを追う。
5:13 こうしてわたしは怒りを漏らし尽し、憤りを彼らの上に漏らして、満足する。こうして、わたしの憤りを彼らの上に漏らし尽した時、
   彼らは主であるわたしが熱心に語ったことを知るであろう。
5:14 わたしはまわりにある国々の中と、すべてそばを通る者の目の前であなたを滅亡とあざけりに渡す。
5:15 わたしが怒りと、憤りと、重い懲罰とをもって、あなたに対してさばきを行う時、あなたはそのまわりにある国々のあざけりとなり、
   そしりとなり、戒めとなり、驚きとなる。これは主であるわたしが語るのである。

58 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:47:55.46
5:16 すなわち、わたしがあなたを滅ぼすききんの矢、滅亡の矢をあなたに放つ時、わたしはあなたを滅ぼすために放つのだ。
   わたしはあなたの上にききんを増し加え、あなたがつえとするパンを打ち砕く。
5:17 わたしはあなたにききんと野獣を送って、あなたの子を奪い取り、また疫病と流血にあなたの中を通らせ、またつるぎをあなたに送る。
   主であるわたしがこれを言う」。

これは完全にバケモノ版の過越、キリスト教版バガヴァッド・ギーターですね…
本物の「主」はイスラエル人を時々懲らすことはあっても、このような憎悪をイスラエルの民に向けることはない

過越 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E8%B6%8A
>イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていた。
>神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこれを妨害しようとする。
>そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる。その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。
>神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、この名称は、戸口に印のあった家には
>その災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。

コプト正教会、爆弾テロ受け声明「誇り持って殉教者に別れの言葉告げる」
ttp://www.christiantoday.co.jp/articles/23576/20170410/coptic-orthodox-church-official-statement-bombings.htm
>パームサンデー(聖枝祭)の9日、エジプト北部にあるコプト正教会の2つの教会が爆弾テロに遭い、50人近い犠牲者が出たことを受け、
>同教会は同日、公式声明を発表した。

59 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:50:36.72
>爆弾テロは、エジプト北部の都市タンタの聖ジョージ教会とアレクサンドリアの聖マルコ大聖堂で発生。聖ジョージ教会では礼拝中に
>教会内部で爆発があり、聖マルコ大聖堂では男が教会外で自爆し、警察官を含む多くの死傷者が出た。聖マルコ大聖堂では、
>コプト正教会のトップであるコプト教皇タワドロス2世も礼拝に出席していたが無事だった。事件後、過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出している。

>コプト正教会は声明で、犠牲者らを殉教者として取り扱い、「大きな誇り」を持って別れの言葉を告げるとコメント。
>テロリストらを「人類の敵」「平和の敵」と呼んで非難し、亡くなった警察官らに対しても哀悼の意を示した。以下は、本サイトによる声明の和訳。

>アレクサンドリアの聖マルコ大聖堂とタンタの聖ジョージ教会の爆発に関する公式声明
>大きな誇りを持って、「殉教者の教会」であるエジプト・コプト正教会は、今日、2017年4月9日、聖枝祭の奉神礼(礼拝)中に殉教した
>子らに別れの言葉を告げます。彼らは、シュロの葉を持ち、祈り、平和の君であるキリストのエルサレム入城の記念を祝い、
>平和のメッセージを告げ、全ての人類に対し愛と平和を約束しようとしていました。

>殉教者の魂は、人類の敵の手によって奪い去られてしまいました。平和の敵、破壊の道具を持つ者によって。
>しかし今、全ての教会と共に、彼らは、見られ、聞かれ、「記録の書」を記される公正な裁き主に祈りをささげています。

>コプト正教会はまた、わが国の勇敢な法執行者(警察官)の殉教者らに哀悼の意を示します。全ての負傷者の癒やしのために、
>また、わが国の壁を破壊し、一致・団結・共存という偉大な遺産からなるエジプト国民という布を切り裂こうとする増悪の攻撃から、
>エジプトと全国民を遠ざけてくださるよう祈ります。

>神が、エジプトと全国民をあらゆる闇、憎しみの霊、あらゆる害から遠ざけてくださいますように。

60 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:10:04.91
本物の過越が、神の見えない特別な力でイスラエルの民を奴隷としていたエジプト人の初子を撃ったのに対し
エゼキエル書では、バガヴァッド・ギーターのアルジュナ(人間)にクリシュナ(霊、悪霊)が、武器を取って戦うよう洗脳するのと同じ仕掛けがある
当たり前の話ですが、当時イスラエルの民を奴隷としていたエジプト人と、現代の敬虔なキリスト教徒のエジプト人には何の関係もありません

聖マルコ大聖堂 (アレクサンドリア)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82_(%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2)
>本項では、エジプト、アレクサンドリアにあるコプト正教会の聖堂である聖マルコ大聖堂(Cathedral of Saint Mark in Alexandria)を扱う。
>紀元60年に、福音記者聖マルコによってアレキサンドリアに聖堂が建てられたと信じられている。
>その後、数世紀にわたってアレキサンドリアでは聖堂の建築、損壊、再建が繰り返されてきたが、「聖マルコ聖堂」の名はコプト教皇アガソによって、
>677年に聖マルコを記憶して再建されたことに始まると考えられている。聖マルコの不朽体の頭部がこの時納められたとされる。
>1047年までは、コプト教皇の座所であった。
>1798年に、侵攻してきたナポレオン軍によって破壊されたが、1870年にビザンティン建築様式で再建された。
>ヴェネチアに持ち去られていた聖マルコの不朽体の一部は、1968年にローマからこの大聖堂に返還された。

マルコ (福音記者) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3_(%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E8%A8%98%E8%80%85)
>福音記者マルコは新約聖書の『マルコによる福音書』の著者とされる人物。ギリシア語ではマルコス。マルクとも表記する。
>マルコスというのはギリシャ名としては一般的なものであり、また同書の中には筆者の名は直接には記されていないが、
>伝承は『使徒行伝』からパウロの書簡にたびたびあらわれるマルコなる人物を同一人物と考え、福音記者とみなしてきた。
>聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。
>カトリック教会・正教会での記念日(記憶日・聖名祝日)は4月25日(ユリウス暦を使用する正教会では5月8日に相当)。

61 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:14:57.16
>記録と伝承   エルサレムの住人であったマルコの名前がはじめて現れるのは『使徒行伝』であり、天使によって牢獄から解放された
>ペトロが「マルコとよばれるヨハネ」の家に行ったという記述である。

>ヨハネ(マルコ)はパウロの最初の宣教旅行にバルナバと同行したが、パンフィリア州から一人エルサレムへ帰ってしまった。パウロは
>このことを根に持っており、第二回宣教旅行ではパウロがマルコの同行を拒否してバルナバと喧嘩別れしてしまう。マルコは結局
>バルナバと共にキプロス島へ向かった。これは西暦50年頃のことと推定される。使徒行伝ではマルコについての記述はここで終わっている。

>一方、『フィレモンへの手紙』[3]では協力者の一人としてパウロはマルコの名前をあげている。獄中書簡である『フィレモン』の成立時期は
>一般に上述の事件よりあとと考えられており、ある説では、決別とフィレモンへの手紙の間に、パウロとマルコが和解したと考える。
>また、パウロの書簡かどうか説が分かれている『コロサイ人への手紙』では、「バルナバのいとこ」マルコがパウロの協力者として挙げられている。

>またマルコは伝承によればアレクサンドリアの教会の創建者であり、正教会(ギリシャ正教)とコプト正教会(非カルケドン派)の両派で初代
>アレクサンドリア総主教とされている。

>『マルコ福音書』とその筆者問題   教会の古い伝承はマルコがペトロの通訳であり、ペトロから聞いたことをまとめて福音書を記したとしていた。
>伝承は『ペトロの手紙一』および『テモテへの手紙二』などを根拠に、晩年のペトロおよびパウロとマルコが一緒にいたと伝えている。
>この福音書が誰にかかれたものであれ、古代から『マルコ福音』がもっとも古い福音書であるという認識は一貫しており、近代以降の
>聖書研究を通じてもこれは確かなこととされている。エルサレム神殿崩壊に明確な言及がないことから、一般に成立年代は70年より前の
>60年代と考えられているが、それよりさらに早い時期のものとする説もある。

62 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:28:05.39
>崇敬   マルコは正教会では七十門徒のひとりとされ、「使徒・福音者」と称せられる。また初代アレクサンドリア総主教に数えられる。

>マルコおよび『マルコの福音書』はしばしばライオンのシンボルであらわされる。これは『エゼキエル書』に登場する四つの生き物に由来し、
>それぞれ四人の福音記者と福音書にあてはめられている。 →>>51 1:10

>828年、ヴェネツィア商人はアレクサンドリアにあったマルコの聖遺物(ないしそうみなされていたもの)を、ヴェネツィア共和国(現イタリアのヴェネツィア)に
>運んだ。そして聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となった。ヴェネツィアの国旗は聖マルコを指す聖書を持った有翼の金のライオンであり、
>ヴェネツィアの大聖堂はサン・マルコ大聖堂と名づけられている。その前のサン・マルコ広場をはじめとして、ヴェネツィア共和国の勢力の
>及んだ各地には今も有翼のライオン像が残っている。

ヨハネの黙示録 ttp://bible.salterrae.net/kougo/html/revelation.html
>4:6御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
>4:7第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
>4:8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、
>「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。

>>50ルカ、マルコともに『エゼキエル書』1:10に登場する四つの生き物に由来する牛、ライオンのシンボルとされていますが、
本来、四つの生き物と言えばヨハネの黙示録のこの生き物なのです

63 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:40:24.78
ファネス ttp://www.theoi.com/Protogenos/Phanes.html (中略)すなわち…牡牛と獅子の頭をした蛇(ドラゴン)で、
中央に神の顔がついている。肩には翼があり、その名はクロノス(年を取らない時間)、そしてまたはヘラクレスと言われる。」

なぜアレクサンドリアのキリスト教会が狙われたかのヒントが、>>50「ルカは小アジアのトロアスと何かしら深い関係が有った様である。」にあります
ゴルディアスの結び目
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%B5%90%E3%81%B3%E7%9B%AE
>ゴルディアスの結び目またはゴルディオンの結び目(英: Gordian Knot)は、古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話と、
>アレクサンドロス大王にまつわる伝説である。この故事によって、手に負えないような難問を誰も思いつかなかった大胆な方法で解決しまうことの
>メタファー「難題を一刀両断に解くが如く」(英: To Cut The Gordian Knot )として使われる。

Turn him to any cause of policy, The Gordian Knot of it he will unloose, Familiar as his garter ―シェイクスピア, ヘンリー五世, 第1幕第1場 45?47.

>伝説   その昔、権力争いにあけくれたフリギアでは、世継ぎの王がいなくなってしまった。そこでテルメッソスの神サバジオスに、臣民が次の王が
>いつ現れるかの託宣を仰いだ。すると、預言者の前に牛車に乗ってやってくる男がフリギアの王になる、という神託がくだった。
>ちょうど神殿へ牛車に乗って入ってくる男がいたが、それは貧しい農民のゴルディアスであった。にわかには信じがたい神託であったが、
>ゴルディアスの牛車には、神の使いの鷲がとまっていたため、それを見た占い師の女が、彼こそが次の王だと高らかに叫んだ。
>ゴルディアスは王として迎えられ王都ゴルディオンを建てた。ゴルディアスは神の予言に感謝を示すため、乗ってきた牛車を神サバジオスに捧げた。
>そしてミズキの樹皮でできた丈夫な紐で荷車の轅を、それまで誰も見たことがないほどにしっかりと柱に結びつけ、
>「この結び目を解くことができたものこそ、このアジアの王になるであろう」と予言した。

64 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:51:31.47
>その後、この荷車を結びつけた結び目はゴルディアスの結び目として知られ、結び目を解こうと何人もの人たちが挑んだが、
>結び目は決して解けることがなかった。

>数百年の後、この地を遠征中のマケドニア王アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)が訪れた。彼もその結び目に挑んだが、やはりなかなか
>解くことができなかった。すると大王は剣を持ち出し、その結び目を一刀両断に断ち切ってしまい、結ばれた轅はいとも簡単に解かれてしまった。
>折しも天空には雷鳴がとどろき、驚いた人々を前に、大王の従者のアリスタンドロスは「たったいま我が大王がかの結び目を解いた。
>雷鳴はゼウス神の祝福の証である」と宣言した。後にアレクサンドロス3世は遠征先で次々と勝利し、予言通りにアジアの王となったという。

>この神話部分は、古い伝承ゆえの多くのバリエーションが存在する。ゴルディアスにはミダースという息子がおり、その息子が王になった
>とする話や、占い師の女と結婚したとする話などもある。  →(´・д・)王様の耳はロバの耳ィ〜〜〜〜

サバジオス ttps://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%B9-69480
>フリュギアないしトラキアの神。ギリシアでは、しばしばディオニュソスやその前身のザグレウスと同一視され、またときにゼウスと同一視される。
>サバジオス崇拝はキュベレとアッティスの崇拝と結びついて、前5世紀頃ギリシアに移入されたが,自己陶酔的な狂乱を伴うのが特徴で、
>へびが重要な役割をになっている。また前2世紀末には、小アジアのユダヤ人たちは彼とゼウスとを同一視し、さらにそれを
>彼らの万軍の主なる神 the Lord of Sabaothと同一視した。

ミダス ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9
>ギリシア神話の中でミダースは、プリュギアの都市ペシヌスの王。(中略)触ったもの全てを黄金に変える能力("Midas touch")のため広く知られている。
>ミダースは子供の頃にゴルディアース(Gordias)と彼を夫とする女神キュベレー(Cybele)の養子となった。

65 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:57:27.81
>ミダースは、快楽主義者、そして優れたバラの庭師として知られていた。また彼には残忍に人を殺したリテュエルセースという一人の息子がいた。
>しかし、神話の中には、代わりにゾエ(Zo?)「生命」という娘がいたとするものもある。
>童話『王様の耳はロバの耳』で、耳がロバになってしまった王様としても有名。
>神託の命令に従って人々に迎え入れられ、王とされた貧しい農夫ゴルディアースの神話については、en:Gordiasを参照。

>神話   ある時、ディオニューソスは、彼の年老いた教師でありかつ養父であるシーレーノスが行方不明であることに気づいた。シーレーノスは
>ワインを飲んでいて、酔っぱらってぶらついていたところを農民たちに発見され、彼らの手によってシーレーノスは王であるミダースのもとへ運ばれた
>(あるいは、シーレーノスはミダースのバラ園で酔いつぶれていた)。ミダースは、シーレーノスとわかって手厚くもてなし、10昼夜の間礼儀正しく歓待し、
>一方、シーレーノスはミダースと彼の友人を物語と歌で楽しませた。11日目に、ミダースはシーレーノスをディオニューソスに返した。ディオニューソスは、
>ミダースに対して彼が望むどんな報酬でも選択するよう言い、ミダースは、彼が触れるものすべてが黄金に変わるよう頼んだ。
>ミダースは彼の新しい力を喜び、それを急いで試した。彼がオークの小枝と石に触れると、両方とも金に変わった。
>狂喜して、彼は家に帰るとすぐに、使用人に豪華な食事をテーブルに用意するよう命じた。「そのようにリューディアの王ミダースは、
>触れるものすべてを黄金に変えられることを知ったとき、最初は誇らしさに得意がった。しかし、食べ物が硬くなり、飲み物が黄金の氷に
>固まるのを見たそのとき、ミダースはこの贈り物が破滅のもとであることを悟り、黄金を強く嫌悪しながら彼の願い事を呪った」。
>ナサニエル・ホーソーンによって語られたバージョンでは、ミダースは彼の娘にさわったとき、彼女が彫像に変わってそのことに気づいた。

>今となっては、彼は自分が望んだ贈り物を憎んだ。彼は、飢餓から解放されることを願いながら、ディオニューソスに祈った。
>ディオニューソスは聞き入れ、ミダースにパクトーロス川で行水するよう言った。

66 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 00:01:33.81
>ミダースはその通り川の水に触れると、力は川に移り、そして、川砂は黄金に変わった。この神話は、パクトーロス川になぜ砂金がそれほど
>豊富かということと、この因果関係についての神話のもととなったことが明らかな、ミダースを祖先だと主張する王朝の富について説明するものだった。
>おそらく黄金だけが富の源泉となる唯一の金属ではなかった。「プリュギア人でキュベレーの息子ミダース王は、黒鉛と白鉛を初めて発見した」。

>ミダースは、富と贅沢を憎んで、田舎へ引っ越して、田園の神 パーンの崇拝者になった。ローマの神話収集家たちは、彼の音楽の家庭教師は
>オルペウスだったと主張する。ある時、パーンは大胆にも、彼の音楽とアポローンのそれの優劣を争って、竪琴の神アポローンに演奏技能についての
>試合を挑んだ。トモーロス (Tmolus、山の神)が、審判に選ばれた。パーンはパイプを吹き、彼の素朴なメロディーは、彼自身とたまたま居合わせた
>彼の誠実な支持者ミダースに大変な満足感を与えたのだった。その次に、アポローンが竪琴を弾いた。トモーロスは即座にアポローンに勝利を与え、
>ミダース以外はその判定に同意したが、彼は同意せず、判定の公平さに疑問を唱えた。アポローンはそのような堕落した耳に我慢できず、
>ミダース王の耳をロバの耳にしてしまった。王はこの災難に心痛し、たくさんのターバンすなわち頭飾りで不幸を隠そうとした。
>しかし、彼の理髪師は、もちろん秘密を知った。理髪師はそれをしゃべらないよう言われたが、秘密を守ることができず、草原に出かけて、
>地面に穴を掘って、そこに話をささやき、そしてすっかり穴を覆った。しばらくすると葦の濃い群生地が草原に出現して、
>「王様の耳は、ロバの耳」と言い出した。家来の何人かがこれを聞いて、うわさをし始めた。ミダースは、誰が話したか探し出して
>殺そうとしたがやめた。彼があり方を改めたことを完璧に示したので、アポローンがやって来て、彼に再び普通の耳を与えた。

>サラ・モリスは、ロバの耳はミラのTarkasnawa(ギリシア語でTarkondemos)王によって設けられたヒッタイトの楔形文字とルウィ語(Luwian)の
>象形文字の両方で刻まれた印章にある青銅器時代の王族の象徴だったと論証した。

67 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:11:05.97
>>51 「その火の中に青銅のように輝くものがあった」 「みがいた青銅のように光っていた」
>>52 「火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た」

>>63 「乗ってきた牛車を神サバジオスに捧げた。」
>>64 「たったいま我が大王がかの結び目を解いた。雷鳴はゼウス神の祝福の証である」と宣言した。 →このような2つの雷神の混同の例を見ていきます

>>6つづき ヨウスコウアリゲーター
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
>ヨウスコウアリゲーター(Alligator sinensis)はアリゲーター属に分類されるワニの一種。別名ヨウスコウワニ。

>分布   中華人民共和国(安徽省、江西省、江蘇省、浙江省の長江下流域)固有種 アリゲーター科では本種のみがユーラシア大陸に分布する。種小名
>sinensisは「中国産の」の意。和名のヨウスコウ(揚子江)は長江下流域の別名。 日本でも大分県安心院盆地にある鮮新世の地層から本種の化石が発見されている。

>人間との関係   淮南子を始め人間には無害とされることが多く、人間を襲った確実な記録はない。岩波文庫の『西遊記』の翻訳元である蘇州刊本
>『李卓吾先生批評西遊記』の翻訳を引き継いだ中野美代子は、後に自著内でヨウスコウカワイルカ説をヨウスコウアリゲーター説に移行した。

>食用や薬用とされることもある。皮が利用されることもあるが、皮下に皮骨が発達しているため加工が難しく価値は高くない。紀元前には太鼓の皮に
>利用されたこともあり、雅楽の?太鼓も本種の皮が用いられていた(本種に対し漢字1文字で「?」をあてることがある)ことが由来とする説もある。

>貝類を求めて水田に侵入して稲を倒したり、灌漑用のダムを破壊する害獣とみなされることもある。

68 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:17:40.87
>開発や農薬による生息地の破壊、食用の狩猟、害獣としての駆除、日本住血吸虫駆除対策における食物である貝類の減少などにより生息数が激減した。
>安徽省宣城の施設などにおいて飼育下繁殖が行われ、蕪湖などに保護区が指定されている。1960年代から200頭の野生個体を基に飼育下繁殖が進められ、
>1991年までに4,000頭以上の飼育下繁殖に成功している。1965年における生息数は50頭と推定されている。
>日本国内では2001年に札幌市円山動物園が初めて飼育下繁殖に成功した。

キ (中国神話) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
>?(き)は、中国神話における神、動物、人物、または妖怪のこと。?牛(きぎゅう)ともいう。古い伝承によれば一本足であり、音楽と深い関係にあるとされた。
>?についての伝承は時代や地域によって大きく異なっている。

>中国の? 起源   元は殷代に信仰された神で、?龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳と共に銅鏡等に刻まれた。
>鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、?龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招く
>とされるのもその名残と思われる。後に一本足の牛の姿で表されたのも牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。
>一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる。

>神話のなかの?   『山海経』第十四「大荒東経」によれば、?は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、
>脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は?を捕らえて
>その皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、
>この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは
>?ではなく同音の軌牛であったという。

69 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:25:27.65
>?は『説文解字』第五篇下における解説では「竜のような姿をしていて角がある」とされている。また『法苑珠林』に引用されている『白沢図』
>によれば「鼓のようで、一本足である」という。

>妖怪の?   『国語』「魯語」に三国時代の韋昭が付した注によると、?は一本足であり、越人はこれを山繰と呼び、人の顔、猿の体で人語を
>解する動物であるという。『史記』「孔子世家」では?は木石の怪であるとされ、魍魎と同一視されている。同様の記述が『抱朴子』「登渉篇」にもある。

>人間としての?   『書経』「舜典」では、?は舜帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。?は「私が石を高く低く打てば
>百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという。

>『韓非子』「外儲説左下」第三十三では、?が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「?は一本足ではない。
>?は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。
>または「?は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため堯帝が『?は一で足りる』と言った」と答えたという。

>山梨岡神社のキ神像と日本の?   山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する
>?(キ)の像として信仰を受けている。10年に一度(現在では7年に一度)4月4日に開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている。

>(中略)キ神の来由を記した中村和泉守『鎮目村山梨岡神社キ神来由記』(慶応2年(1866年)、山梨県立博物館所蔵)によれば、江戸後期にはキ神像
>に関して、天正年間に織田信長軍が山梨岡神社に乱入した際に疫病によって祟ったというような霊験譚が成立している。キ神信仰は江戸後期の
>社会不穏から生じた妖怪ブームにも乗じて広まったと考えられており、キ神の神札が大量に流通し、江戸城大奥へも献上されている。

70 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:32:31.13
>明治初期には山中共古『甲斐の落葉』において紹介され、キ神像は欠損した狛犬の像が「山海経」の「キ」と結びつけられたものであると考えられている。

>また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し、
>キ神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている。
>このほか、『古事記』に出てくる一本足(という読みもある)の神久延毘古の「クエ」という音は、?の古代中国での発音kueiと似ており、関連がある
>可能性がある(加藤徹『怪力乱神』中央公論新社 96頁)。また水木しげるは、日本の一本足の妖怪「一本だたら」「山爺(やまちち)」と?の
>類似性を指摘している(平凡社ライブラリー『山海経』解説「日本に渡った精霊たち」)。

糸魚川−静岡構造線断層帯 ttp://www.jishin.go.jp/main/yosokuchizu/katsudanso/f041_042_044_itoshizu.htm
甲府盆地は曽根丘断層と糸魚川−静岡構造線断層帯南部の市之瀬断層群に囲まれている

甲府盆地 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%BA%9C%E7%9B%86%E5%9C%B0
>地方病 (日本住血吸虫症) - 甲府盆地底部一帯は日本国内最大の日本住血吸虫症罹病地帯だったが、研究者や医師らによる病気撲滅の結果、
>1996年に終息宣言が出されることとなった。
→甲府盆地は@地震、A夏場の高温、B集中豪雨、C河川の氾濫を注意しておけば良いだろうか あと念のためもう一つ

地方病 (日本住血吸虫症)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%97%85_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB%E7%97%87)
じっくり読み入ってしまった 病気ひとつとってもご先祖様たちが必死に撲滅してくれたから今があるわけで、
いろいろな当たり前の前提が高くなってしまった現代だからこそ、小さなことにもこつこつ感謝していこうと思った満月の夜でありました(^-^) 2016/06/20(月)

71 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:53:49.97
>>65 ミダスがディオニュソスの養父シレノスを手厚くもてなしたことに関連して、うしかい座の神話に、2つの雷神の混同がわかりやすく見られる

うしかい座 英語wiki ttps://en.wikipedia.org/wiki/Bo%C3%B6tes
@古代バビロニアではうしかい座はSHU.PA.として知られる。このうしかい座は明らかにバビロニア神界のリーダーであり、
農夫たちの保護者であるエンリルとして描かれる

Aうしかい座(Bo?tes)の名前は最初にホメロスによりオデュッセイアの中で「遅く沈む」「ゆっくり沈む」と描かれた
天測航法の目標として描かれ、「農夫(Plowman)」と訳される

Bギリシャ神話でうしかい座が誰を表すかははっきりしていない ある説によれば、デメテルの息子でプルトス(盲目で豊穣の角を持つ有翼の幼児)の
双子の兄弟フィロメロスで、おおぐま座の中を牛で耕す農夫だという
これは「牛を御する者」「牛飼い」という星座の名前と一致する 古代ギリシャ人はBig Dipper、または牛の引く農耕用の鋤Ploughと呼ばれる
ピロメロスは鋤を発明したために、それを記念してうしかい座に上げられたともされる

Cまた別の神話では、うしかい座はディオニュソスにワインづくりを教わったぶどう農家のイカリオスとされる
イカリオスは強いワインをつくったため、それを飲んだ者は毒を飲まされたと思い、羊飼いたちは復讐にイカリオスを殺してしまった
イカリオスの犬マイラが、娘のエリゴネを父親の遺体の元へ連れて行った 犬とエリゴネは自殺した ゼウスはこの3人を星座に上げた
イカリオスをうしかい座に、エリゴネをおとめ座に、マイラをおおいぬ座またはこいぬ座に上げた 

4/11 こいぬ座S星が極大

72 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 02:02:06.62
Dまた別の神話では、うしかい座はゼウスとカリストの息子アルカスと同一視され、アルクトゥルス(うしかい座α星)として言及される
アルカスは母方の祖父リュカオンに育てられた ある日、ゼウスがリュカオンを訪ね、食事を共にした
客人が本当に神々の王ゼウスであることを確かめるため、リュカオンは自分の孫を殺し、その肉で食事をつくった
ゼウスはこれに気付いて大変怒り、リュカオンをオオカミに変えた
一方で、ゼウスの不貞に怒ったヘラによりカリストは雌熊に変えられた これはうしかい座の別名Arctophylaxが「熊を見守る者」となっているのと関係している
熊の姿になったカリストは狩りに来た息子に殺されそうになったため、ゼウスは彼女をおおぐま座に上げて救った
アルクトゥルス(うしかい座α星)はギリシャ語の「熊を守る者」から来ている アルクトゥルスはりょうけん座の近くで
猟犬にともなわれ、おおぐま座・こぐま座の熊たちを御する姿で描かれる

まずCから このイカリオス・エリゴネ・マイラの物語はだんぶり長者の民話の変形ではないかと思われる
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%93%E3%81%B6%E3%82%8A%E9%95%B7%E8%80%85
エリゴネ=吉祥姫は犠牲となり、ディオニュソスに捧げられた これが生贄祭祀の始まり エリゴネはディオニュソスとの間にスタピュロスという
息子をもうけたとされるが、このスタピュロスはディオニュソス神の唯一の妃アリアドネが生んだ息子とされる エリゴネ=アリアドネである

ブランコ娘と吊られた屍肉 ttp://suwa3.web.fc2.com/enkan/minwa/00_koneta/11.html
>北欧の神話によれば、世界は九つの層で構成されており、それらを中心で繋ぐ途みち、トネリコの大木が世界樹ユグドラシルであった。
>主神オーディンはこの木の枝で自ら首を吊り、更に槍で刺された。そうしてぶらさがったまま九日九夜後に縄が切れ、木から落ちて甦った。
>この《黄泉帰り》を経て、彼は冥界の神秘に通じる偉大なシャーマンとなったのである。この神話にちなんで、オーディンに捧げる生け贄は
>木の枝に首吊りにして槍で刺すものだったと言う。なお、大アルカナのタロットカード《吊るされた男》のルーツをこの神話に求める説もある。
>このカードが象徴するのは《英知、慎重、直観、(自ら望んだ)試練》である。

73 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 02:06:49.79
オーディンが通った試練の道を、アリアドネ=エリゴネ=吉祥姫もくぐることになる
そして以前、月からやってきたというある女魔術師が、白山菊理姫のことを「首くくり姫」と嘲笑っていたことを思い出した
おそらくアリアドネ=エリゴネ=吉祥姫=菊理姫のことだろう
エリゴネに父の死体のありかを教えたマイラは黒い雌犬で魔女の使いであり、こいぬ座のかわりにシリウスとして星に上げられたという説もあるという

Dゼウスとカリストの息子アルカスの物語
ゼウスがリュカオンを訪ねたとき、リュカオンは自分の孫を殺して食事としてゼウスに供したとあるが、このリュカオンの殺した孫が
カリストの息子アルカスであるという説がある ゼウスは怒り狂い、リュカオン一族をオオカミに変え、世界を滅ぼすデウカリオンの大洪水を引き起こす

そしておそらくユダヤのイサクの燔祭のエピソードは、このリュカオンが孫を殺して神への食事として供した
生贄行為を禁忌として取り締まるための、ヤハウエのイスラエルの民への教訓だろう アルカス=イサクでもある

そしてアルカスの母カリストは雌熊に姿を変えられ、おおぐま座に上げられる おおぐま座といえば北斗七星である
北斗七星のことを斗極といい、この斗極のことを足一騰星というそうである ttp://lunabura.exblog.jp/20708246/
>「足一騰」という言葉は「片足 一つ 騰げる」と読み換えるとイメージが湧くと思います。いわゆる片膝立てる座り方ですね。
これはおそらくひっかけで、足一騰とは片足立ちのことである 以前、片膝を立てて座るというのは生贄魔神の祭祀の作法に通じると聞いたことがある
足一騰=片足立ち=テセウスのゲラノス(鶴舞踏)であり、ミノタウロスを打ち破るものであるはずである
そしてこの足一騰宮の祭神は、玉依姫とされる カリスト=玉依姫であり、アルカス=ウガヤフキアエズ(玉依姫の義息子であり夫)ではなかろうか
カリスト=玉依姫=リベカ=北斗七星(ひしゃく/水を汲むもの)=ガニュメデ アルカス=ウガヤフキアエズ=イサク=ゼウス

74 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 02:10:42.75
そしてガニュメデを迎えに行ったゼウスはわし座のアルタイル(牽牛星)であり、うしかい座=彦星であり、うしかい座α星アルクトゥルスは「熊を守る者」だろう
さらにアルカスの変えられたこぐま座とは、現在の北極星ポラリスを含む アルカス=北極星=天帝である
こと座ベガは織姫であり、ガニュメデであり、玉依姫であり、アリアドネ、エリゴネ、白山菊理姫であり、寿老人の持つ桃である

わし座 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%97%E5%BA%A7
@>トロイアの王子ガニュメーデースがあまりに美しい少年だったため、ゼウスが神の宴の給仕をさせるために、天に連れ去るときに遣わした鷲。
>天球上では、ガニュメーデースをモチーフとするみずがめ座の隣にわし座が位置しており、星図でもみずがめ座に飛び掛るように描かれている。

A>ゼウスが用いる雷の矢を運ぶ鷲。わし座に隣接しているや座がゼウスの雷の矢を表している。

B>プロメーテウスの肝臓を食らう鷲。

Aのゼウスが用いる雷の矢を運ぶというのは、ペガススの役目でもある
ガニュメデがペガススに乗って天に飛び立ち新たな英雄となる意味だろう
そうすればBのプロメテウスの肝臓をつつく鷲=プロメテウス(聖王)を生贄として殺し続けるエオスの鷲の時代は終わるはずである

一年前に書いた「自分(カグツチ)を生んで死んでしまった母イザナミを慕って黄泉の世界に降ったものの、
イザナミは何度蘇ってもスサノオ(聖王)を生贄として殺し続けイザナギとの和解も果たされないまま、永遠に呪いの中を生き続けなければならない
無間地獄に陥ったスサノオを救うのは、イザナギとの和解を取り次ぐアマテラスである」
これが実現するということである

75 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:16:45.56
グラヴリーヌ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C
>グラヴリーヌ は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、ノール県のコミューン。

>地理    グラヴリーヌは北海沿いの海側フランドルの、古来からの戦略的要所に位置し、アルトワの入り口であるアー川河口を含む。

>交通   TGVとユーロスターを利用して英仏海峡トンネルへ行ける。高速道路はA16とA25。

>歴史   ローマ征服時代、モリニ族(ベルギカのガリア人部族)の領域は現在のグラヴリーヌの一部であり、水が土地を浸食していた。グラヴリーヌの
>真の歴史が始まるのは800年代、ブルートランドが干拓されて以後、アングロサクソン人司教が聖ウィリブロルドに捧げた礼拝堂を建てた頃である。

>12世紀半ば、フランドル伯ティエリー・ダルザスは、海に面した地域に領土を広げることにした。彼はアー川の掘削をして海港を建設した。住民は住居として
>用いる剛健な砦を建設した。1159年から1163年までの間に町はニーウポールト(nieuwpoort、新しい港)の名を授けられ、これがグラヴリーヌとなった。
>ニシン漁の町、果物・ワイン・塩の中継港として、グラヴリーヌは最上の土地と繁栄を得ていた。周辺の土地は干拓され、文化と繁栄が広まった。
>サントメール商人が商売を維持し、新たな都市は海岸沿いの重要な都市となった。都市は貿易や漁業で繁栄していたが、すぐにそれは歴史の苦悩に直面した。
>軍事的、政治的理由から、グラヴリーヌは何度も攻撃され破壊されたからである。

>13世紀から都市経済が下降した。アー川河口に泥が沈殿して港に接続できなくなった。フィリップ2世とフィリップ4世の遠征軍がグラヴリーヌへ侵攻し
>略奪が行われるたび、グラヴリーヌは復興した。1213年、フランスとの同盟を破棄したフランドル伯を懲らしめるため、フランス軍はグラヴリーヌを荒らした。
>1302年、ウダール・モービュイッソンがグラヴリーヌを再び荒らし、カレー陥落後の1383年にはイングランド軍が町を襲撃した。

76 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:22:25.18
>アー川河口にあるグラヴリーヌは、カレーシス地方とフランドル地方の間にある国境の町だった。戦略的要所であるとみなし最初に防衛強化を行ったのは
>ブルゴーニュ公である。神聖ローマ皇帝カール5世はグラヴリーヌの城を再建し、砦の膨大な事業を開始した。後継者であるフェリペ2世は父の事業を引き
>続き行い、自らの名を冠した砦を砂丘の上に築いた(18世紀に廃墟となった)。1588年、イングランド艦隊がグラヴリーヌ沖合においてアルマダ艦隊を沈めた。

>1644年、ルイ13世の王弟ガストンがグラヴリーヌを包囲し、陥落させた。1652年、オーストリア大公レオポルト(皇帝フェルディナント2世の末子)が要塞を包囲した。
>1654年、グラヴリーヌ城内の火薬庫爆発によって、民家の3/4が破壊された。1658年、フランス元帥ラ・フェルテとヴォーバンがグラヴリーヌを最終的に陥落させた。
>1659年、ピレネー条約によって正式にグラヴリーヌはフランス領となった。しかし国境の町でなくなったことで要塞の重要性が失われた。
>20世紀初頭まで、グラヴリーヌには駐屯地が置かれた。

>1827年に建設された鐘楼は、ベルギーとフランスの鐘楼群の一つとして、2005年にユネスコの世界遺産に登録された。

>現在のグラヴリーヌは、長い間極貧の町として知られていた姿でない。欧州最大の原子力発電所であるグラヴリーヌ原子力発電所が設置され(原子炉が6つ)、
>フランス電力が支払う事業税のため、コミューンの表情を完全に一変させた。

>経済   300以上の会社がグラヴリーヌにある。
>グラヴリーヌ原子力発電所は、年間35億kWhの電力量を生み出す。
>アルミニウム・ダンケルクは、リオ・ティント・アルキャンのグループ会社である。
>アクアノールは、フランス有数の養殖業会社で、タイの養殖で知られる。

77 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:31:49.15
聖ウィリブロルド ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%89
>聖ウィリブロルド(英 Saint Willibrord)は、キリスト教の聖人であり、伝道者である。
>フリーセン地方の伝道者で、ユトレヒト初の司教を務めた。658年ノーサンブリアに生まれ、739年11月8日に、現ルクセンブルクのエヒタナハで没した。

>「踊りの行進」の発祥
>1906年の6月4日には、サンピエトロ大聖堂からの聖遺物の遷移式が行われた。この時に、踊りによる行進が始まり、正装の5人の司教や2人の
>スイス人衛兵をはじめ、15,000人を越える人々が踊りながら行進したといわれる。一方で、この踊りの行進は、既に8世紀にはじまっていたとも、
>14世紀のペスト、災害、戦争といった社会不安の中で、神への祈願をする人々の中から始まったともいわれている。

アー川 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E5%B7%9D
>アー川(Aa)は、フランス北部を流れる川であり、長さは約89kmである。
>ノール=パ・ド・カレー地域圏のブルトス近郊が水源である。グラヴリーヌ付近で北海に流れ込んでいる。Aaとは古オランダ語で川を意味する。
>川は工場廃水によりひどく汚染されていて、環境問題となっている。    →この川を注意してください

ブレダ ttps://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%80-127632
>オランダ南部,ノールトブラバント州の都市。ロッテルダムの南東約 40km,メルク川とアー川の合流点に位置する。

ブレダ(オランダ) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%80_(%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80) 
>ブレダ (Breda) は、オランダの北ブラバント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。ロッテルダムの南南東30 kmに位置する、オランダ南部の主要都市である。

78 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:36:52.44
>15世紀になって町は急速に発展した。このころ97mの塔を持つ、ブラバント・ゴシック様式の大教会(聖母教会)が建てられた。
>1534年、ヘンドリック3世(ウィレム1世の伯父)は市壁を大規模に改修し、オランダで最も難攻不落の都市と言われる城塞都市となった。
>同じ頃、この街にはたくさんの貴族が邸宅を構えるようになり、アルプス以北で初めてルネッサンス様式の宮殿が建てられた。
>また、同じ1534年には大火災が街を襲い、1300棟の建物が焼け落ちた。焼け残ったのはたったの150棟だったといわれる。

>鉄道   オランダ鉄道のブレダ駅が、ロッテルダムとスヘルトーヘンボスを結ぶ幹線鉄道路線上にある。2009年にはオランダ南高速線が開通して、
>アムステルダムとブリュッセルを結ぶ高速鉄道がこの駅に停車する予定である。現在、ブレダ駅を出発する主な列車は、ロッテルダム中央駅経由
>デン・ハーグ中央駅行きインターシティが1時間に2本、ロッテルダム中央駅経由アムステルダム中央駅行き快速 (Sneltrein) が1時間に1本、
>ズヴォレ行きインターシティが1時間に2本、アイントホーフェン方面行きインターシティが1時間に1本運行されている。
>たとえば、アムステルダム中央駅までは1時間40分から2時間かかる。    →この大火災と鉄道を注意してみてください

グラヴリーヌ原子力発電所
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
>グラヴリーヌ原子力発電所(フランス語:Centrale nucl?aire de Gravelines)は、フランス共和国ノール県グラヴリーヌに所在する原子力発電所。施設は北海に面し、
>ベルギーのブルッヘから西南へ80km、ブローニュ=シュル=メールから北東へ50kmに位置している。発電所から半径20km圏内にカレーやダンケルクが含まれている。

>グラヴリーヌ原子力発電所は90万kW級の原子炉6基を有する世界第5位、ヨーロッパ第2位、そして西ヨーロッパ最大の原子力発電所である。2006年には
>3814億kWhの電力を生産し、全フランス電力生産量の8.1%を占めている。1980年にまず2基が運転開始し、続いて1981年に2基、そして1985年に2基が運転している。
>正規従業員数は1,680人に及ぶ。

79 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:40:56.44
>5号機と6号機の設計は中国の大亜湾原子力発電所と臨高原子力発電所で採用された第二世代+原子炉であるCPR-1000の基礎となっている。

>概要   1974年3月5日、ピエール・メスメル内閣は90万kW級加圧水型原子炉12基の建設計画を承認する。これに基づきグラヴリーヌには4基の建設が
>認められ、発電所の建設は1974年5月から始まる。1980年3月に1号機の試運転が開始される。立地条件として、冷却水の確保が容易な沿岸部で
>なおかつ強い潮流が期待でき、電力の輸出を念頭にイギリスやドイツに近く、鉄鋼のアルセロール社やアルミニウム精錬のアルキャン社などの
>大企業の工場が近傍にあり、工業用および人口密集地の需要に応え、地震の危険性が低いと判断されたからであった。

>1970年代後半、当時のイラン王朝に対し同型原子炉2基を供給する予定であったが、1979年のイラン革命により計画は頓挫し、行き先を失った原子炉は
>グラヴリーヌ発電所に組み込まれる。1985年8月に6号機が送電網に接続し、ここにいたりグラヴリーヌ原子力発電所は西ヨーロッパ最大規模となる。
>2010年9月8日には6基の累計1兆kWhの電力を生産している。

>発電所の廃熱を含む冷却水は地元コミューンで行われているヨーロピアンシーバスやヨーロッパヘダイの養殖業に活用されている。

>2011年3月の福島第一原子力発電所事故後、西欧原子力規制者会議(en:Western European Nuclear Regulators' Association)はヨーロッパおよび
>フランスにある原子力発電所の地震と津波に対する耐久性について研究する必要があるとされ(ヨーロッパ各国およびフランソワ・フィヨン首相による
>4つの危険、洪水、地震、冷却障害につながる危険および事故結果の制限処置についての提言を含む)ストレステストの必要性が求められた。

リオ・ティント・アルキャン
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3

80 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:57:55.72
>リオ・ティント・アルキャン(Rio Tinto Alcan Inc.)は、カナダの企業。世界的なアルミニウムメーカーである。本社はカナダ・ケベック州モントリオール。
>アルミニウムの原料であるボーキサイトの採掘から精錬、圧延などの加工までを一手に行う世界最大のアルミニウム企業。

>歴史   アメリカ合衆国のアルミ大手アルコアのカナダ子会社が1928年に独立してアルキャン(Alcan)となり、世界第3位のアルミ大手に成長。
>2004年に核燃料サイクルを営むペシネーを買収した。

>アルコアが2007年に敵対的買収を提案した際、アルキャン側はこれを拒否し、英豪系資源メジャー リオ・ティントの友好的買収に合意。
>2007年11月、リオ・ティントのアルミ部門と統合し世界最大のアルミ企業として、リオ・ティント・アルキャンへ社名変更された。
→アルキャンの工場の事故からグラブリーヌ原発へ飛び火しないよう注意してください

>アルキャン傘下の精練所    オーストラリア・NSW州トマゴ・アルミニウム精練所   カナダ・ケベック州アルマ   カナダ・ケベック州サグネ市アルヴィダ
>カナダ・ケベック州ボーアルノワ   カナダ・ケベック州ベキャンクール   カナダ・ケベック州サグネ市グラン・ベ   カナダ・ケベック州サグネ市ラテリエール
>カナダ・ケベック州セティル市アルエット精練所   カナダ・ケベック州シャウィニガン   フランス・ダンケルク   フランス・サン=ジャン=ド=モーリエンヌ
→アルキャン社全体的に注意ですが、特にこれらの工場を注意してください 詳細はそれぞれの都市のwikiを参照してください(`・ω・´)

ピレネー条約 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%83%BC%E6%9D%A1%E7%B4%84
>ピレネー条約(英: Treaty of the Pyrenees、仏: Trait? des Pyr?n?es)は、三十年戦争さなかの1635年に始まり、三十年戦争終結後も継続していた
>フランスとスペインの間のフランス・スペイン戦争(西仏戦争。1635年 - 1659年)の終戦条約で、1659年に結ばれた。
>この条約は、2つの国の間を流れるビダソア川にある島であるフェザント島において締結された。

81 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:02:09.59
>背景   フランスは、1620年代のオランダでの反乱と1634年のスウェーデンに対するネルトリンゲンの戦い(1634年)におけるスペインの勝利の後、
>三十年戦争に突入した。1640年までに、フランスはカタルーニャ君主国(カタルーニャ共和国)における収穫人戦争(1640年 - 1659年)を支援し、
>スペインの政策に対する妨害を開始していた。一方、スペインはそれに対抗し、1648年にフランスにおけるフロンドの乱を支援した。

>1648年のヴェストファーレン条約の交渉では、フランスはアルザスとロレーヌを手に入れ、オーストリアを経由していたネーデルラントへのスペインの
>接続点を切断した。オーストリアはスペインとフランス間の直接の戦争が生じるように仕向けていた。

>三十年戦争の終結から10年後、イングランド・フランス同盟軍は1658年に砂丘の戦いにおいて勝利を収め、1659年に講和が成立した。

>条約の内容   フランスはルシヨン、アルトワ、ルクセンブルクの一部とフランドルの一部を手に入れ、スペインとの国境をピレネー山脈に固定した。
>しかし条約には、ピレネー山脈の北にある "全ての村" はフランスの一部であると記されていたため、スペインの飛び地がこのフランスの領域に生じることとなった。
>リビア(Ll?via)の町がそうである。リビアは村でなく町とみなされたため、スペインの支配下にとどまり、スペインのジローナ州のサルダーニャの自治区となった。

>条約は同様に、ルイ14世とフェリペ4世の娘であるマリー・テレーズの結婚を承認していた。マリー・テレーズには持参金として賠償金をつける代わりに、
>フランスはスペインの王座に関する権利の放棄を強要された。この賠償金は支払われることなく、1668年のネーデルラント継承戦争、
>1701年のスペイン継承戦争の原因となった。

>敗北とマリー・テレーズの持参金の支払いができない事実は、スペインがヨーロッパの中で重要な位置から転がり落ちたことを示していた。
>一方、「アンシャン・レジーム」のフランスはその力をつけてきた。

82 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:13:34.89
>カタルーニャの行く末   ルシヨン、コンフラン、ヴァレスピール、カプシール、サルダーニャの半分は、現在サルダーニャ、もしくはフランス領カタルーニャとして
>知られており、フランス領として残っている。毎年11月7日にカタルーニャでは、これを記憶するイベントをペルピニャン(Perpignan)で開催している。

>条約はカタルーニャの社会制度の維持に関して何点かの条項を含んでいた。しかし、ルイ14世はこの部分を尊重しなかった。条約が署名された1年後に、
>北カタルーニャの社会制度は大きく変わった。1700年4月2日(5月1日より有効)にフランス国王の勅命として、カタルーニャ語を公的に使用することを禁じた。
>それ以降、フランス語が唯一の公用語となった。
→聖ウィリブロルドの踊りの行進6月4日>>77とともに、5月1日周辺の日付を注意してください

ベルギーとフランスの鐘楼群
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%90%98%E6%A5%BC%E7%BE%A4
>ベルギーとフランスの鐘楼群は、ユネスコの世界遺産のひとつ。ベルギー、フランス両国合わせて56の鐘楼が登録されている。
>1999年にフランドル地方とワロン地方の鐘楼群(Belfries of Flanders and Wallonia)として32の鐘楼が世界遺産に登録されたのが最初。
>2005年にワロン地方のガンブルーの鐘楼、フランスのノール=パ・ド・カレー地域圏、ピカルディー地域圏の23の鐘楼の追加登録により、現在の名称となった。
>なお、ブリュッセル市庁舎の鐘楼は、それが包含されるブリュッセルのグラン=プラスが世界遺産に登録されたため、重複を避けるために登録解除された。

グラン=プラス (ブリュッセル) 
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9_(%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB)

83 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:22:26.10
>グラン=プラス(フランス語:Grand-Place, オランダ語:Grote Markt)は、ベルギーのブリュッセルの中心地にある大広場。
>ヴィクトル・ユゴーが賛嘆したことでも知られるこの大広場は、世界で最も美しい広場のひとつと見なされている。1998年にユネスコの世界遺産に登録された。

>歴史   グラン=プラスは美しい広場であるが、華やかな歴史ばかりに彩られていたわけではない。1523年にプロテスタントの最初の殉教者たちである
>ヘンドリク・フォエス(Hendrik Voes)とヤン・ファン・エッセン(Jan van Essen)がこの地で火刑に処された。
>大同盟戦争中の1695年8月13日に、当時木造だった広場の家屋はヴィルロワ元帥に率いられたフランス軍の砲撃によって大半が破壊された。
>市庁舎の塔は砲撃の的になったが、石でできた壁は放火による火災に耐えた。広場を囲む家々は様々なギルドによって石造りで再建された。
>このため、市庁舎以外のほとんどの建物は、この時以降のものである。

>大広場を囲む建物   市庁舎
>市庁舎は1402年から1455年の間に建造された。上述の歴史的経緯から、この建物は中世におけるグラン=プラスの建築様式を伝える唯一の証人となっている。
>オリジナルを建築したのはヤコブ・ファン・ティエネン (Jacob van Thienen) だったようである。若き日の勇胆公シャルルが1444年に礎石を置いた右側は、
>ギヨーム・ド・ヴォーゲル (Guillaume de Voghel) の手になるものである。ゴシック様式の96メートルの塔はヤン・ファン・ルイスブロエク (Jan van Ruysbroek) が
>手がけたものであり、頂上には竜を打ち倒す天使ミシェル像が飾られている。ミシェルはブリュッセルの守護天使である。

>市庁舎の非対称性も注目される。一瞥した印象とは裏腹に、市庁舎の塔は建物の中央にはない。また、右半分と左半分は少し違っている。
>ブリュッセルの人々に知られている古い伝説では、この誤りに気付いた建築家は頂上から身投げしたのだという。だが実際には、左右が
>一緒に建造されたわけではなかった。 →身投げした建築家がヒラム・アビブに通じる感じがするので注意

84 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:38:00.72
>王の家   王の家 (la Maison du Roi) は、12世紀以降パン市場として親しまれた木造建築物で、それゆえオランダ語では「パンの家」(broodhuis) と呼ばれる。
>15世紀になると石造にかわり、ブラバント公の行政庁が置かれた。これが理由で人々はこの建物を「公の家」と呼ぶようになり、公がスペイン王になると
>「王の家」と呼ぶようになった。のちにカール5世は自分の塔をゴシック様式で建てさせた。現在もその姿を見ることが出来ているように思えるが、実際には
>当時の塔も回廊も存在しない。1695年の砲撃などで損害を蒙ったためであり、現在のものは1875年にネオゴシック様式で再建されたものである。
>建物は1985年に改築され、市立博物館になっている。  →木造建築なので火災に注意してください >>83石でできた壁は放火による火災に耐えた。

>各ギルドハウス   グラン=プラスは様々なギルドを淵源に持つ建物に囲まれ、壁に飾られた包丁や樽、手押し車などの紋章がそれぞれの職業を
>あらわしていて、これらの建物にはそれぞれ名前が付けられている。

・黄金の汽艇 (La Chaloupe d'Or) - 仕立工の家とも言う。Pierre van Dievoetによって彫られた仕立工の守護聖人の像を戴く。
・鳩 (Le Pigeon) - かつてヴィクトル・ユゴーが逗留した。 ・孔雀 (La Paon) - 18世紀の特徴的な切妻のある建物。
・スペイン王の家 - あるいはパン屋の家。聖ユベール像とスペイン王カルロス2世像で飾られている。 ・一輪手押車 (La Broouette) - 聖ジル像で飾られている。
・雌狼 (La Louve) - 建物下部のレリーフでは、雌狼に育てられたロームルスとレムスが描かれている。 ・狐 (Le Renard) - 頂上に聖ニコラの像を戴いている。
→これらの象徴を注意してください 爆破テロなど

85 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 12:57:14.37
ギュスターヴ・フローベール
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB
>ギュスターヴ・フローベール(フロベール)(Gustave Flaubert 発音例、1821年12月12日 - 1880年5月8日)はフランスの小説家。
>ルーアンの外科医の息子として生まれる。当初は法律を学ぶが、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年に4年半の執筆を経て
>『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の
>写実主義を確立した。他の作品に『感情教育』『サランボー』『ブヴァールとペキュシェ』など。

>フロベールは作品の中から作者の主観を排除し、客観的で精密な文体を通じて作中の人物に自己を同化させることを信条とした。風紀紊乱の罪が問われた
>『ボヴァリー夫人』裁判中に語ったといわれる「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉は、彼の文学的信念を端的に表すものとしてよく知られている。

>生涯 少年期
>ノルマンディー地方の都市ルーアンにて、外科医アシル=クレオファス・フローベールとアンヌ=ジュスティーヌ・フローベール(旧姓フルーリオ)の間に生まれる。
>夫妻は六人の子供をもうけておりギュスターヴは第五子にあたるが、第二子(女)、第三子(男)は生後間もなく、第四子(男)はギュスターヴの生後すぐに死んでおり、
>ギュスターヴは9歳上の兄(父親と同じ名のアシル。後に父と同様、ルーアン市立病院の外科部長になる)と2歳下の妹を持つ三人兄妹の次男ということになる。
>父はルーアン市立病院の院長であり、幼少期から死や病を身近に見ながら育った。

>9歳の頃すでに物語を書くことを試みており、また両親に連れられて観劇に行くと劇作家を夢見て芝居の脚本を書くなどしていた。ルーアンの祭りでは悪魔と戦う
>聖アントワーヌ(聖アントニウス)の人形芝居に夢中になり、この主題は長く彼の生涯に付きまとうことになる。1831年、9歳半ルーアンの王立中学に入学。

86 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:02:22.79
>文学と歴史が得意科目で、前年からの友人エルネスト・シュヴァリエの他、アルフレッド・ル・ポワットヴァン(ギ・ド・モーパッサンの叔父)、ルイ・ブイエらと親しくなる。
>フロベールはヴィクトル・ユーゴー、アレクサンドル・デュマ・ペール、ミュッセ、より後にはヴォルテール、シェイクスピア、ラブレーといった作家を読みふけり、
>作家を夢見て物語を作ることに熱中した。10代の頃の創作にはロマン主義的な陶酔や大げさな文章が多いが、反面風刺的な小話や好色話といったものも
>多数手がけている。現存するもので最初の文章は1831年のもので、コルネイユを賛美する短文、続いて便秘の研究と称する文章が残っている。

>1836年の夏の休暇の際に一家でトルーヴィルの海水浴場へ旅行し、ここでパリで音楽出版を手がけているシュレザンジェ夫妻と出会う。14歳のフローベールは
>11歳年上の夫人に激しい恋心を抱き、旅行から帰った後にこの出会いを主題にして『狂人の手記』を執筆した。夫妻との付き合いはその後も続き、
>後に『感情教育』でもこの題材を取り上げることになる。1837年、年上の友人で先に卒業していたポワットヴァンの主催する地元新聞『ハチドリ』に、
>バルザックの『結婚の生理学』から着想を得た風刺的な作品を掲載、これが初めて公にされた文章となる。

>1838年より高等学校に入学、ユゴー、モンテーニュ、サド、ラブレー、ゲーテ、バイロンらに心酔しつつ『芸術と商業』『マテュラン医師の葬式』『ラシェル嬢』
>などの物語、また後の『聖アントワーヌの誘惑』を思わせる中世風の史劇『スマール』に力を注ぐ。哲学科に入ったフローベールは当初教授にかわいがられたが、
>しかしその後強権的な教授に代わるとクラスを挙げて反発、抗議文書を書いて署名を集めるなど嘆願活動を行なった。これにより退学を恐れた父の判断で
>1839年12月に学校を辞め、フロベールは翌年のバカロレアに独学で望まなければならなくなった。

>隠棲の始まり
>バカロレアに合格したフローベールは、父の友人に伴われて南フランスとコルシカ島を旅行した。このときコルシカ島からマルセイユに戻り、
>フロベールはここで取った宿を経営していた35歳のクレオールの女性を相手に童貞を失った。

87 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:08:01.41
>1841年、パリ大学に入学。父の進めで法学を学ぶが、自分の性質と合わない学問に非常に苦しんだ。当初は自宅で学習していたが1842年8月より
>パリで住まいを借りここで生活をはじめ、勉強の傍らでゲーテの『若きウェルテルの悩み』やシャトーブリアンの『ルネ』などから着想を得つつマルセイユでの
>思い出を題材にした作品『十一月』を書き始める。パリでは彫刻家ジェームズ・プラディエの家で憧れの作家ユゴーと対面した他、シュレザンジェ家を
>訪れて夫妻と再会し、同家に親しく訪れた。またこの頃に同い年のマクシム・デュ・カンと出会い、文学的野心を共有する二人はすぐに親友となった。

>1844年1月、ルーアンに帰郷したフローベールは、一別荘の建設予定地を見に兄とともにドーヴィルへ旅行し、中途で眩暈を起こして意識を失い昏倒した。
>てんかんと診断されたフローベールはしばらく療養したものの、授業登録のため再びパリに赴くと直後に発作が再発、事態を重く見た父の判断で
>法学の勉強は諦め、家族の目の届くところで静かに暮らすことを余儀なくされた。父は息子の隠棲場所を作ってやるためクロワッセに館を作ってやり、
>フローベールはここでかえって様々な心配ごとを免れながら、熱望していた執筆生活に専念することができるようになった。

>フローベールは平穏な生活を送りながら『感情教育(初稿)』を書き上げるが、父の財産管理のおかげで経済的な不安がなかったこともあり出版は考えなかった。
>次第に健康状態もよくなり、1845年に妹カロリーヌが結婚すると、両親とともに新婚旅行に同行した。このときジェノヴァのバルビ宮殿でブリューゲルの
>『聖アントニウスの誘惑』を見、『聖アントワーヌの誘惑』の着想を得て準備を始めた。しかし父がにわかに病気にかかり、1846年1月に急死、その1ヶ月後には
>産褥熱がもとで妹カロリーヌが死去するという不幸に見舞われる。一家の大黒柱を失ったフローベールはカロリーヌの娘(名は同じカロリーヌ)を引き取り、
>父の遺産からの年金に頼りながら母、姪と三人で、あるときはルーアン、あるときはクロワッセと住処を移すという生活を始めた。

88 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:13:58.87
>1846年7月、フローベールはカロリーヌの胸像をプラディエに依頼するためにパリに出向き、彼のアトリエでルイーズ・コレと出会う。
>すでに様々な作家と浮名を流していた11歳年上の女性詩人にフローベールは魅了され、以後数年に渡り恋愛関係に陥ることになる。

>『ボヴァリー夫人』まで
>1847年4月、激しやすいルイーズとの関係に疲れていたフローベールは、マクシム・デュ・カンとともに旅行を計画し、途中神経の発作に見舞われながら
>ブルターニュ方面を3ヶ月かけて旅行、帰郷後はデュ・カンと共同で旅行記を執筆した。この年の末よりフランスは政治的な混乱に揺れ、翌1848年2月23日、
>フローベールはルイ・ブイエとともにパリに出向き、新聞に予告のあったデモに付き従った。パリの混乱に面したフローベールは自らも猟銃を手に国民軍に参加し、
>テュイルリー宮殿では民衆による略奪を目にし、パリ市庁舎では共和国宣言を聞いた。彼が目の当たりにした二月革命の光景は、後に改筆した『感情教育』に
>そのままの形で描かれることになる。

>フローベールは再びクロワッセに籠もり『聖アントワーヌの誘惑』を書き始めたが、11月にデュ・カンがアルジェリア旅行から帰ると再び旅行への渇望が起こった。
>母の同意が得られると翌年まで『聖アントワーヌの誘惑』に専心し、旅行に出る前の1849年9月に完成させると、500枚の原稿を丸四日かけてデュ・カンと
>ルイ・ブイエに読み聞かせた。結果は惨憺たるもので、二人は文章のロマン主義的な熱狂や単調さを非難し出版に反対した。フローベールは大きなショックを受ける
>が、このとき二人からバルザックのような卑近なテーマに取り組んでみるよう勧められたことが、『ボヴァリー夫人』がフロベールの内に胚胎するきっかけとなった。

>10月、デュ・カンとともにオリエント旅行に出発。エジプトからパレスチナ、シリア、トルコ、ギリシャ、イタリアを21ヶ月かけて回る。この旅行中に梅毒をうつされて
>急激に頭髪が抜け、また太ったことで容貌が様変わりした。1851年6月帰国。9月より姦通を題材にした新たな小説『ボヴァリー夫人』の執筆を開始。
>クロワッセの自室で自身の文体と格闘、偏執的な推敲を繰り返し、執筆に疲れるとパリに出向いて友人のもとを訪れた。

89 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:20:57.00
>ルイーズ・コレとの関係も続いていたが、彼女が私生活に口を挟むことに業を煮やし、1854年に手紙を送って絶縁している。

>1856年、4年半の苦闘の末『ボヴァリー夫人』が完成。デュ・カンの主宰する『パリ評論』に分割掲載され反響を呼ぶ。この雑誌掲載された『ボヴァリー夫人』に対し、
>1857年1月に検事エルネスト・ピニャールにより公衆道徳違反の裁判が起こされるも、弁護士セナールの名弁論により無罪を勝ち取る。なお検事エルネストは
>この直後にボードレール『悪の華』の訴追を行い、こちらは有罪判決となっている。後年、この検事は匿名で猥褻詩集を出版していたことが判明した。

>1857年4月、レヴィ出版より『ボヴァリー夫人』が刊行される。すでに裁判によって知られていたことからベストセラーとなり、フローベールはこれによって
>一挙にその文名を確立した。批評家には無理解を示す者も少なくかったが、ボードレールからは好意的な評価を受け取った。この成功により著名人となった
>フローベールはパリの文壇で多くの交流ができ、とくにサント・ブーヴ、テオフィル・ゴーティエ、ゴンクール兄弟らと交流を持つようになった。
>その場での言行は『ゴングールの日記』(岩波文庫全2巻)に多く記されている。

>寡作な作家生活
>『ボヴァリー夫人』を完成させたフローベールはすぐに『聖アントワーヌの誘惑』の改作を試み、その後古代カルタゴを舞台にした『サランボー』に取り掛かった。
>作品ごとに膨大な資料を読み込み文体を練り上げる創作方法のため、フローベールは以後数年に1作のペースで少数の作品を発表していくことになる。

>1858年には『サランボー』の舞台を見て回るためチュニスを旅行し、さらに数年をかけ1862年に『サランボー』を完成。前作から一転した壮麗な古代小説に
>当惑した批評も多かったものの評判となり、ボードレールやゴーティエ、ユゴーらも賛辞を送った。中でも心のこもった評を書いたジョルジュ・サンドに
>フローベールは感動し、以後この老作家との親しい付き合いがはじまった。

90 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:27:15.11
>またこの頃にサント・ブーヴの夕食会でツルゲーネフと対面し意気投合、気の知れた仲間となる。1863年にはゴンクール兄弟とともにナポレオンの姪
>マチルド公妃の晩餐に招かれ、彼女のサロンにも出入りするようになった。皇帝ナポレオン三世にも拝謁し、1866年にはレジオン・ドヌール勲章を受け取っている。

>1869年、自らの青春時代をモデルにした自伝的な作品『感情教育』を出版。凡庸な青春時代をゆったりとした時間の流れと繊細な心理描写で描き出した今作は
>フローベールの自信作であったが、しかし批評家の徹底した無理解にさらされ、僅かにサンドやゾラからの評価を得たに過ぎなかった。本もほとんど売れず、
>フローベールはひどく気落ちすることになる。『感情教育』の失敗後は『聖アントワーヌの誘惑』にみたび取り掛かるが、普仏戦争の拡大により中断を余儀なくされた。
>1872年に書き上げると、すぐに最後の作品となる百科全書的な小説『ブヴァールとペキュシェ』の構想を得た。

>1873年には『ブヴァールとペキュシェ』をしばらく置いて戯曲『立候補者』を書くも、手ひどい興行的失敗に合う。1875年、財産管理を任せていた姪の夫
>エルネスト・コマンヴィルが破産し、あおりを受けて生活が窮乏する。フローベールはゾラやツルゲーネフら友人たちの奔走で得られた公的年金、
>ユゴーの働きかけで得られた、出勤義務のない図書館の出向職員の地位を屈辱を感じつつ甘んじて受け取った。こうした経済的な不安によって
>『ブヴァールとペキュシェ』は中断を余儀なくされ、『三つの物語』を書いて気を取り直した後で1877年にようやく執筆を再開、以後はこの長編に全力を傾けた。

>晩年には新しい世代の作家からも巨匠として認められるようになり、アメリカからヘンリー・ジェイムズの訪問も受けた。また晩年のフローベールは
>旧友の甥モーパッサンを愛弟子としてことのほか可愛がり、自作の売れ行きにも増して彼の作品の成功を気にかけていた。
>1880年、『ブヴァールとペキュシェ』の完成を見ずしてクロワッセの自宅で死去。遺体はルーアンの記念墓地に葬られた。

91 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:44:38.17
>後世への影響
>『ボヴァリー夫人』で卑近な題材を精緻な客観描写で作り上げたフローベールの手法はその後ゾラ、モーパッサンに引き継がれ、写実主義から自然主義という
>文学的な潮流を用意することとなった。その一方で徹底した文体の彫琢を通じて作者の痕跡を消し去り、作品をそれ自体で成り立たせようとしたフローベールは、
>のちのヌーヴォー・ロマンなどによってカフカ、プルーストに連なる現代文学の先駆者として位置づけられるようになり、元来評価の別れていた『感情教育』や
>『ブヴァールとペキュシェ』なども再評価されるに至った。『感情教育』を青年期から愛読したフランツ・カフカなど、その精密な文体に範を求めようとした作家も多い。
>ウラジミール・ナボコフは、法律や科学の言葉をなんら個人的な感傷をさしはさまず、皮肉な正確さを持って作品に取り入れたカフカの手法は、
>フローベールの方法とまさに同じものだと論じている(『ヨーロッパ文学講義』)。

>著名なフローベール論としては、アルベール・ティボーデの先駆的な著作『ギュスターヴ・フローベール』、サルトルの未完の大作評論『家の馬鹿息子』、
>バルガス・リョサの作家論『果てしなき饗宴』などがある。またエドワード・サイードは『オリエンタリズム』第一章において、フローベールのエジプト旅行記や
>『サランボー』、『聖アントワーヌの誘惑』の読解を通して彼のオリエンタリズムを論じ、日本の特に比較文学研究の分野にも影響を与えた。
>日本のフローベール研究者としては中村光夫、山田爵、蓮實重彦、工藤庸子などがいる他、作家では金井美恵子などがフローベールの影響下にある。

→むかしから年上の女性に翻弄される癖があったのね…(´・ω・`)
でもご本人は悪人というわけではなさそうだから、バケモノ女の干渉から抜け出せれば、特大逆転ホームラン打てるやろ(`・ω・´)
ただ聖アントニウス、てんかん、梅毒とあるから、バケモノの影響は深く大きい(`・ω・´)
「ボヴァリー夫人は私だ」の言葉通り、身の破滅、自殺への誘導の道が用意されている…(´・ω・`)
大文豪、目を覚まして超がんばれ!!(`・ω・´)

92 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:57:56.02
ルイーズ・コレ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC
>ルイーズ・コレ(Louise Colet, 1810年9月15日 - 1876年3月9日)は、フランスの詩人。エクス・アン・プロヴァンスの郵便局長の娘ルイーズ・ルヴォワルとして生まれる。
>若くして詩に才能を示し、地方のサロンで評判を取った後、1835年にフルート奏者のイポリット・コレと結婚。パリに移り住み、シャトーブリアン、サント・ブーヴ、
>ベランジェといった有名作家に働きかけて自身の詩集の推薦や助成金・文学賞などの支持を得る。1838年からは哲学者ヴィクトル・クザンと愛人関係となり、
>クザンは政府に働きかけて彼女への補助金が降りるよう便宜を図った。のちに生まれた娘アンリエットは愛人クザンとの間に生まれた子供である。

>その放恣な生活はパリ中に知られていたが彼女自身は世間を気にせず、1846年にはまだ無名であった25歳のギュスターヴ・フロベールとパリで知り合い、
>11歳年下の彼と新たな愛人関係を作った。この関係はフロベールが彼女に絶縁状を送りつける1854年まで続き、その間にもコレは新たな愛人を作り続け、
>そのことをフロベールにも隠さなかった。彼女が流した浮名の相手には他にアルフレッド・ド・ヴィニーやアルフレッド・ド・ミュッセなどがいる。
>前述の絶縁状は彼女があまりに自分の生活に介入しようとすることに対しフロベールが怒ったことから書かれたもので、コレはこのことで
>フロベールをうらみ続け、自作の中で彼を登場させ嘲笑の的にした。コレは1876年にパリで死去した。

サランボー ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC
>『サランボー』(Salammb?)は、1862年に発表されたギュスターヴ・フロベールの歴史小説。
>『ボヴァリー夫人』(1857年)に続く2作目の長編小説で、第一次ポエニ戦争後の古代カルタゴを舞台にしている。「サランボー」はカルタゴの将軍
>ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父親)の娘という設定の女性の名で、この人物はフロベールの創作である。巫女であった彼女は、戦争後に起こった
>傭兵の反乱において、女神タニットを祀る神殿から奪われた聖布を取り返すよう命じられ、ひとり反乱軍の指導者マトーの天幕を訪れる。

93 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 14:06:03.06
>彼女は聖布を取り返すが、彼女に恋焦がれるマトーと一夜をともにしたことによって彼女自身もマトーを愛するようになり、反乱の鎮圧後捕えられて
>儀式の生贄となったマトーの姿を見て煩悶のうちに死ぬ、という筋で、ロマン的な主題ながら写実的な表現技法がとられている。

>この題材は『ボヴァリー夫人』に数年間取り組んだことで卑近な題材に飽いたフロベールの、現代から離れた理想的な主題に取り組みたいと願いから
>選ばれたもので、彼はこの作品を書くためにポリュビオスの『歴史』をはじめとする夥しい量の文献を渉猟し、1858年にはチュニスを実地に訪れ物語の
>舞台を見学した。1862年にレヴィ書店より出版されると、本作を失敗作とみなし仰々しい文章を難じたサント・ブーヴの書評をはじめとするいくらかの
>批判に晒されたものの、『レ・ミゼラブル』を出版したばかりのユゴーのほかボードレール、ゴーティエ、ミシュレ、ジョルジュ・サンドなどから賞賛され
>大衆的にも成功を収めた。宮廷やサロンでは本作がもてはやされ、仮面舞踏会でカルタゴ風の衣装が流行するなど当時のモードにも影響を与えている。
>後にはムソルグスキーの未完の作品をはじめとする複数のオペラ化の試みのほか映画などの題材にもなった。

→聖婚儀礼の生贄の聖王となるか、生き残って本物の栄光をつかむか(`・ω・´)
信じるか信じないかは、あなた次第です m9(`・ω・´)ビシッ

94 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:11:03.55
ペロプス ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%97%E3%82%B9
>ペロプスはギリシア神話に登場する英雄である。ペロポネソス半島の地名はペロプスに由来している。

>タンタロスとエウリュアナッサの子。タンタロスはリディアのシピュロスからパフラゴニアにかけての王で、父はクロノス、母はレアーの娘プルートーだといわれるが、
>ゼウスやトモーロス山の神トモーロスが父だとする説、オーケアノスとテーテュースの子とする説もある。ペロプスの母エウリュアナッサは河神パクトーロスの娘だが、
>河神クサントスの娘エウリュテミスタであるという説やアムピダマースの娘クリュティアーとする説など異説が多い。

>オイノーマオスの娘ヒッポダメイアとの間にアトレウス、テュエステース、ピッテウス、アステュダメイア、リューシディケー、ニーキッペーをもうけた。
>また庶子にクリューシッポスがいた。

>タンタロス
>タンタロスは人間でありながら、ゼウスの親しい友で、オリンポス山の饗宴にも席を与えられるほどだった。しかし、タンタロスが神々をシピュロスに招いたとき、
>神を試すつもりだったのかあくまで善意からだったのか不明だが、息子のペロプスを殺し、その身体を切り刻んでシチューにして食事に出した。
>神々はみな料理の正体に気づいて口を付けなかったが、デーメーテールだけはそのとき娘のペルセポネーを失って自失状態にあったので、
>左肩の肉を食べたという。またタンタロスは、オリンポスでの饗宴から神の食物を盗んで人間の友人に分け与えた。

>神々の激怒を買ったタンタロスは、永劫の罰を受けることとなって冥府に送られ、沼の上に枝を広げた果樹に吊された。沼の水は満ちてきてあごまで届くが、
>タンタロスがそれを飲もうとして身をかがめるとあっという間に引いてしまう。果樹の枝にはさまざまな果実が実っているが、タンタロスがこれに手を触れようとすると、
>たちまち一陣の風が吹き起こって枝を舞い上げてしまう。こうして、タンタロスはやむことのない飢えと渇きに苛まれつづけている。

95 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:16:49.37
>ペロプスの復活
>タンタロスを罰したゼウスは、ヘルメースに命じてペロプスの身体を集め、大釜で煮てまじないをかけた。デーメーテールは自分が食べた左肩の代わりに
>象牙でできた肩を与え、運命の女神クロートーが四肢を縫い合わせ、レアーが生命を吹き込んだ。こうしてペロプスは輝くばかりの美少年となって生き返った。
>ポセイドーンはペロプスを一目見て愛し、オリンポスでゼウスがガニュメーデースをそうしたように、ペロプスを自分の侍童とした。

>ヒッポダメイアへの求婚
>その後ペロプスはシピュロスの王位を継いだが、トロイア王イーロスの勢力に押されてギリシアへ移った。ペロプスはオイノマーオスの娘ヒッポダメイアに
>求婚することにした。オイノマーオスはアレースの息子でピサの王だったが、「婿の手にかかって殺される」との神託を受けていた。そのためオイノマーオスは
>ヒッポダメイアへの求婚者に、自分に勝ったら結婚を許すが負ければ殺すという条件で戦車競走をさせるようにしていた。オイノマーオスの戦車を牽く馬は
>父アレースから贈られたプシュラとハルピンナという名馬で、ヘルメースの息子ミュルティロスが御者を務めていたため、求婚者はオイノマーオスがゼウスの祭壇に
>生け贄と祈りを捧げる時間は先行することを許されたにもかかわらず、みな追いつかれて殺された。こうして、すでに12人とも13人ともいわれる犠牲者が出ていた。
>殺された者の遺体は、頭や手足を王宮の門に釘で打ち付けられ、胴体は地上に投げ出されて見せしめとされた。

>戦車競走
>ペロプスはポセイドーンに協力を祈った。これに応えてポセイドーンは翼ある不死の馬と黄金の戦車をペロプスに贈った。それでもペロプスは前の求婚者たちの
>惨状を見て戦慄した。ペロプスはミュルティロスに、もし自分の味方をしてくれたら、王国の半分を与え、ヒッポダメイアとの初夜を過ごさせると約束した。
>ヒッポダメイアもペロプスに恋するようになり、ミュルティロスに報償を持ちかけたという。
>ミュルティロスは承知して、オイノマーオスの戦車の心棒に蝋でできたくさびを差し込んでおいた。

96 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:22:31.65
>競走が始まると、オイノマオースは猛然と追跡し、逃げるペロプスの背中をいままさに突こうと槍を構えた。しかしそのとき、彼の戦車の車輪が外れて飛び、
>オイノマーオスは転げ落ちて戦車に巻き込まれて死んだ。オイノマーオスは息絶える前にミュルティロスの裏切りに気づき、彼を呪った。

>ミュルティロスの呪い
>競走に勝ったペロプスは、ミュルティロスとヒッポダメイアを乗せて戦車を西に走らせた。ミュルティロスとの約束を果たしたくないペロプスは、エウボイア島の
>南端ゲライストス岬まで来ると、ミュルティロスを蹴飛ばして墜落させた。ミュルティロスは海に飲み込まれながらペロプスとその一族に呪いをかけた。
>ミュルティロスは、ヘルメスによって空に上げられぎょしゃ座になったともいう。ペロプスはさらに戦車を西に駆り、大河オーケアノスにまで達した。
>ここでペロプスはヘーパイストスから人殺しの罪の清めを受けた。

>ペロプスの業績
>ペロプスはオイノマーオスの王座を継ぐと、勢力を拡大して支配地の名をペロポネーソスすなわち「ペロプスの島」と改めた。ペロプスはさらにエペイオス王から
>オリンピアを奪い、ギリシア全土の名誉と尊敬の対象となった。ミュルティロスを殺した罪の償いとして、ペロプスはヘルメースの最初の神殿を建て、
>オリンピアの戦車競技場にミュルティロスの記念碑を建てた。しかしアルカディア王ステュムパーロスについては、武力で勝てないと見て友好の席に招いて謀殺した。
>この罪のため、ギリシア全土は飢饉に見舞われた。このときアイアコスがゼウスに祈って雨を降らせたという。

>ペロプスの子孫
>ペロプスとヒッポダメイアの間には数多くの子が生まれた。トロイゼーンの王でテーセウスの祖父となるピッテウス、互いにミュケーナイの王位を争うことになる
>アトレウスとテュエステース、メガラーの王となったアルカトオス、アルゴナウタイのひとりヒッパルコス、エウリュステウスとアルキュオネーの母となったニーキッペー
>などである。クリューシッポスは、ラーイオスがオイディプースに殺される遠因となった。ペロプスの子孫は骨肉の争いに巻き込まれるなど
>悲惨な運命をたどる者が多く、「呪われた一族」ともいわれる。

97 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:34:01.67
稀勢の里が休場、自ら申し出 師匠・田子ノ浦親方「相撲にならない」/夏場所 ttp://www.sanspo.com/sports/news/20170524/sum17052409210007-n1.html
>大相撲の東横綱稀勢の里(30)=本名萩原寛、茨城県出身、田子ノ浦部屋=が夏場所(東京・両国国技館)11日目の24日、日本相撲協会に
>「左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷で約1カ月の通院加療を要する」との診断書を提出して休場した。

>3月の春場所で痛めた負傷が完治せず、10日目には関脇琴奨菊に完敗して2連敗で4敗目(6勝)を喫し、不振だった。3場所連続優勝の可能性は消滅した。

>師匠の田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)は23日夜から24日朝にかけての話し合いで、横綱本人が「ちょっと力が入らない。休場させてください」と申し出た
>ことを明かした。「悪化したわけではないが、8日目を過ぎて力が入らなくなったということだった。横綱としての責任もあるから、決断に至った」と述べた。

>稀勢の里の休場は大関時代の2014年初場所千秋楽以来2度目。11日目の対戦相手、関脇玉鷲は不戦勝。4横綱のうち、鶴竜に続いて2人が休場となった。

>稀勢の里は新横綱だった春場所13日目に負傷しながら、強行出場して劇的な逆転優勝を果たした。4月の春巡業を全休し、急ピッチの調整で
>夏場所への出場にこぎ着けた。前半戦を6勝2敗で折り返しながら、9日目からは左腕をほとんど使えていなかった。

→稀勢の里がタンタロスに殺されたペロプス(生贄)の型を着せられています
@やけどに注意(風呂のお湯の温度) A車の事故に注意(特にタイヤ・車輪への細工に注意) B身近な人との相克による刃傷沙汰に注意
ttp://www.asagei.com/excerpt/81542

311の地震の直前の大相撲に何があったかを思い出してください 今度は稀勢の里を生贄にして引き金を引くつもり
みんなで稀勢の里を守りましょう(`・ω・´)

98 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:47:50.96
>>94 トモロス山から  アラシェヒル ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%92%E3%83%AB
>アラシェヒルはトルコ西部マニサ県にある古代から続く町。かつてはギリシャ語で「フィラデルフィア」と呼ばれていた (同名の都市は、現在のアンマンをはじめ
>古代には数多くあったので、注意が必要である)。アナトリア半島の西海岸のやや内陸よりで、クズ・チャイ川(コガムス川 とも)の谷に位置し、
>ボズ山(Boz Dagh、トモロス山 (Tmolus) とも)の麓にある。エーゲ海に面した港町・イズミル(ギリシャ語:スミルナ)の東にあり、鉄道で結ばれている。

>歴史 都市の建設   この町は紀元前189年にアッタロス朝ペルガモン王国の王、エウメネス2世が建設した。エウメネス2世はこの町を、彼の弟で
>後継者であったアッタロス2世への友愛のため、弟のあだ名である「ピラデルポス」と名づけた。ピラデルポスとは「兄弟を愛する者」という意味で、
>アッタロスは兄エウメネス2世への忠誠心の深さからこのあだ名が付けられていた。同様に「フィラデルフィア」と呼ばれていた都市は現在のアンマン(ヨルダン)
>などが大きく有名だが、このフィラデルフィアは『ヨハネの黙示録』の宛先となっている小アジアの7つの教会のひとつがある町として有名である。
>この都市は地震が頻発する地帯にあった。    →地震注意

>跡継ぎを欠いたアッタロス3世は、紀元前133年に死去する際、彼の王国を(フィラデルフィアの町も含めて)同盟国ローマに遺贈した。ローマは
>紀元前129年にイオニア地方と旧ペルガモン王国地域を合わせ、属州・アシア(Asia)を発足させた。

>現在   現在、アラシェヒルの街はオスマン帝国末期に建設されたイズミルとアンカラを結ぶ鉄道網の途中にあり、1990年時点での人口は36,649人である。
>アラシェヒル付近では、鉄道は広く肥沃なヘルムスの平野を見晴るかす急斜面を登るように建設され、その路線は遠くから見ると堂々とした姿を見せている。
>この街には正教会の大主教座があり、いくつかのモスクとキリスト教会が並存している。(略)   →鉄道事故注意

99 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:14:53.00
>黙示録におけるフィラデルフィア(アラシェヒル)
>ヨハネの黙示録の冒頭(1:11)で、著者ヨハネは小アジアの七つの教会に対し書簡を出しているが、その一つである「フィラデルフィア」は、数多くある
>フィラデルフィアという名の町の中でも現在のアラシェヒルの事を指すと推測されている。フィラデルフィアは七つの教会のうち、六番目に言及される。

>関連項目   聖餐 - 初期キリスト教における「聖餐 (エウカリスト)」の用語の最初期の使用例として、アンティオキアのイグナティオスがフィラデルフィアの
>共同体に充てて書いた手紙がある。

聖餐 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%A4%90#.E5.88.9D.E6.9C.9F.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E6.95.99
>聖餐とはイエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式。「エウカリスト」(ユーカリスト)の日本語訳。「聖餐」はおもに西方の教派で
>使われる訳語だが、カトリック教会では「聖体拝領」、「聖体の秘跡」と呼ばれる。日本の聖公会、プロテスタント教会などでは「聖餐式」とも呼ばれる。
>正教会における「聖体礼儀」、「聖体機密」「領聖」に相当する。「主の晩餐」の語はいずれの教派でも使われる。

アンティオキアのイグナティオス
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B9
>アンティオキアのイグナティオス(35年頃 - 107年?)は、アンティオキアの第2代主教(司教)。正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、
>ルーテル教会などで聖人とされる。使徒教父の一人。

>正教会では「神品致命者」という称号のほか、「捧神者」(ほうしんしゃ、ギリシア語: Θεοφ?ρο?, ロシア語: Богоносец)という
>称号を付されて呼ばれる。

100 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:24:24.06
神品致命者 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%93%81%E8%87%B4%E5%91%BD%E8%80%85
>神品致命者(しんぴんちめいしゃ)とは、正教会の伝統において神品(主教・司祭・輔祭)でかつ致命者(信仰の為に死んだ聖人)である者を言う。日本正教会の訳語。

>>99 聖餐つづき  初期キリスト教
>ギリシア語の「感謝」を意味する「エウカリスト」という言葉は初期のキリスト教の歴史にすでに現れる。たとえばアンティオキアのイグナティオスは
>110年ごろのスミルナとフィラデルフィアの共同体にあてた手紙の中で聖餐の儀式を指して「エウカリスト」という言葉を用いている。150年ごろ、
>ユスティノスも『弁明』 (Apologia) の中でエウカリストと呼ばれる聖餐の儀式の詳細を描いている。

>初代教会では「アガペーの食事」と呼ばれる儀式が行われていた。それはパンとワインを分け合って、キリストの最後の食事を思い起こす典礼儀式であった
>(「?γ?πη」というのはギリシア語で愛を意味する言葉の一つで、「無私の愛」というニュアンスを含んでいる)。

アガペー ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%9A%E3%83%BC
>アガペーは、キリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を表す。神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、神が人間を
>愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので、「無償の愛」とされる。また、それは不変の愛なので、旧約聖書には、神の「不朽の愛」として出てくる。
>新約聖書では、キリストの十字架上での死において顕された愛として知られる。

>またキリスト教においては、神が人間をアガペーの愛において愛するように、人間同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされており、キリスト教徒の
>あいだでの相互の愛もまた、広い意味でアガペーの愛である(マタイ福音書22、37 - 40)。

101 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:28:51.66
>アガペーの選択
>神が人間を無償において、限りなく愛していることは、『新約聖書・福音書』において、イエズスが弟子たちや人々に述べ伝えていることである。
>『マタイ福音書』にある著名な「山上の垂訓」においても、「神は、善なる者にも、悪なる者にも、変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる」というように、
>人間をその行為や社会的地位や身分や性別などによって区別せず、恵みを与えてくれる存在として宣明されている。

>また同じ「山上の垂訓」において、イエズスは、知人や友人、家族などを愛するだけでは十分ではない。そういうことは異邦人や取税人もしている。
>わたしの教えに従う者は、みずからの「敵」さえも愛さねばならないとして、単なる「隣人愛」以上の普遍的な人間愛を語っており、このような愛を通じて、
>「神の子」となりえるのであるとしている。このことは、「良きサマリア人」の譬えのなかでも示唆されている。ここでイエズスが述べている「愛する」という言葉は、
>ギリシア語原文では αγαπειν という動詞であり、この動詞の名詞形が「アガペー」である。

>無限の愛の神学
>神の愛、即ち「アガペー」は、無限にして無償であるというのは、この世の「悪」や「悲惨」の存在からして疑問とも考えられる。神が無限・無償に人間を
>愛してくださるのなら、何故、この世界には悪や悲惨や不幸や差別や貧困や、様々な矛盾が存在するのか。原始キリスト教の出現と並行して、
>擡頭した地中海世界でのグノーシス主義は、この世の悪の原因は、この世が「悪の神・偽の神」によって創造された為であるとした。

>グノーシス主義の主張は、その基本的な「悪の実在」に関して明晰であり、非常に説得力がある。このため、敬虔なキリスト教徒の母の元に生まれながらも、
>思想的に、グノーシス主義の主張に共鳴したヒッポの聖アウグスティヌスは、東方グノーシス主義最大の教派であるマニ教の信徒となった。

102 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:32:31.79
>善の欠如としての悪
>しかし後にアウグスティヌスはキリスト教に回心(復帰)し、キリスト教の立場より、マニ教の主張を論駁する。この世に「悪の現象が実在」する
>根拠議論の前提として、アウグスティヌスは、神は世界を善でもって創造したのであり、その世界はまた多様な世界であることを指摘した。

>この故に、世界が具体的な実在として現象するにおいて、善の現れが見かけ上で濃淡のあるものとなり、ある善の現象が実現するためには、別の現象において、
>そのような善が実現していないという事態が生じ、世界全体として、相対的に、善と悪が混合して存在するように認識されるのであって、「悪そのもの」は
>実は実在していないとの説明を行った。これを、キリスト教神学的に「善の欠如としての悪」という。

>アウグスティヌスの説は詭弁論法のようにも見え、マニ教の代表的な思想家とのあいだの論争はきわめて激しいものであった。また、当時、西ローマ帝国が
>ゲルマン族の侵略によって荒廃した理由を、異教キリスト教がローマに広がった為であるとして、キリスト教を非難する主張が存在したが、これに対しても、
>アウグスティヌスは反駁して『神の国』を著し、西ローマ帝国の荒廃はキリスト教の興隆が原因ではなく、地上の歴史は、神の無限の善と愛の実現へと向かう、
>神の国の歴史の一面であるとして、世界史的歴史観を築いた。

アウグスティヌス ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9
>アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)あるいはアウグウティノは、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。
>ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した
>教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派で聖人。
>母モニカも聖人である。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。

103 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:36:01.99
>なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名のアウグスティヌスであるため、本項のアウグスティヌスはこれと区別してヒッポのアウグスティヌスと呼ばれる。

>生涯
>アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのスーク・アハラス)に生まれた。
>若い頃から弁論術の勉強を始め、370年からは、タガステの富裕な市民ロマニアヌスの伝で西方第2の都市カルタゴにて学ぶ。父パトリキウスは371年、
>死の直前に受洗した。翌372年、同棲中の女性(氏名不詳)との間に私生児である息子アデオダトゥス(Adeodatus、?a-deo-datus? から「神からの贈り物」の意。
>372年-388年)が生まれる。同棲は15年に及んだといわれる。
>当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている。

>キリスト教に回心する前は、一時期(373年-382年)、善悪二元論のマニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、
>マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。

>当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに383年に行き、更に384年には、その北に位置する宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち、
>ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。
>受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」
>第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる。

>387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送ったが、この時に彼が定めた規則は
>「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を
>送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。

104 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:42:33.74
>391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、更に396年には司教に選出されたため、その時初めて
>聖職者としての叙階を受けた。

>410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対し、天地創造以来の「神の国」と「地の国」(次節「思想」参照)の
>二つの国の歴史による普遍史(救済史)の大著『神の国』によって応えた。この著作はアウグスティヌスの後期を代表する著作となる。

>430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、
>ローマ帝国の落日と合わせるかのように、古代思想の巨人はこの世を去った。

>思想 「神の国」と「地の国」
>(中略)J・B・モラルによれば、アウグスティヌスの考えでは異教国家に真の正義はなく、キリスト教に基づく政治社会だけが正義を十分に実現できる国家であり、
>非キリスト教的な政治社会には「国家」 (Respublica) の名称を与えてはいない。アウグスティヌスは、国家を卑しい存在とし、堕落した人間の支配欲に基づくもので、
>その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕で、それはカトリック教会への従属によって得られる。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた
>信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも影響を与えた。

>記念日   
>アウグスティヌスの記念日は彼が死去した日とされる8月28日である。彼は西方においては醸造業者、印刷業者、神学者の守護聖人であり、
>多くの地域、都市の守護聖人ともなっている。

105 :名無しヒーリング:2017/05/26(金) 11:09:16.70
キセノンにかけられた呪いのことを書いたので、バケモノ女が半狂乱になっています
呪いが成就する前に見破られると、呪いはかけた者にすべて返るので

その半狂乱になったバケモノ女が今執念を燃やしているのが、高須先生です
今朝うつらうつらしていた時に、名前がはっきりと浮かんできました
暗殺にご注意ください 

バケモノ女は他人も使役できるし、先生が体調を崩したりしたときに、意識を乗っ取ろうとすることもできる
意志が強い方だから大丈夫だと思いますが、あらゆる可能性にご注意ください

キセノンのことを書いてから、バケモノ女がムキになって私の意識を乗っ取ろうと必死(`・ω・´)
焦りで半狂乱になっているので、むやみに恐れることはありませんが
捨て身でぶつかってこられると、対処するほうにもそれなりにエネルギーが必要なので、ご注意ください(`・ω・´)

106 :名無しヒーリング:2017/05/26(金) 11:14:59.42
狙うとしたら、高須先生のヘリ移動かな
ご自分で操縦されますね
ご注意願います!!!(`・ω・´)
しばらくは控えていただいたほうがいいかも…(´・ω・`)

107 :名無しヒーリング:2017/05/29(月) 09:03:48.86
魔女メディア ttp://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/witch.html
>かねてからメディアの激しさに戦慓していたイアソンは、メディアと別れて、 コリントの王女グラウケーと再婚しようと考える。
>これを知ったメディアは、グラウケーに素晴らしい花嫁衣装を贈るが、 グラウケーがそれを着た途端、花嫁衣装は紅蓮の炎と化し、
>娘を助けようと駆け寄った父の王もろともに焼き殺してしまう。
>その上、メディアは、イアソンとの間に生まれた二人の自分の子供まで殺し、 龍の引く戦車に乗ってイオルコスを去る。

ttp://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/05/29/kiji/20170529s00041000146000c.html

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E4%BC%9D%E8%AA%AC

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E7%A5%9E%E5%9F%8E%E6%96%AD%E5%B1%A4%E5%9C%B0%E9%9C%87

これが六日町断層から糸魚川−静岡構造線断層帯南部への連動の引き金らしい
お姉さんは、こんな神話級のバケモノ相手にずっと一人でよく頑張った 言葉がない
最後、大切なものを守ってください

108 :名無しヒーリング:2017/05/29(月) 17:46:04.26
お姉さん、心配しないでね
今夜はまだ大丈夫
なので平常心、平常心ヽ(・∀・)ノ

これから先の段取りを大まかに見せてもらったので、心配しないでね
すべて上手くいくから、悪いことにはならないから
お姉さんは、良心に沿ってできることをすべてしてきたから、大丈夫だからね(^-^)
とにかく平常心で!(`・ω・´) あとは任せて!(`・ω・´)

総レス数 108
187 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★