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スピリチュア

1 :名無しヒーリング@\(^o^)/:2014/11/20(木) 01:31:35.66 ID:Vea6abkb.net
ちゅ

59 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 22:50:36.72
>爆弾テロは、エジプト北部の都市タンタの聖ジョージ教会とアレクサンドリアの聖マルコ大聖堂で発生。聖ジョージ教会では礼拝中に
>教会内部で爆発があり、聖マルコ大聖堂では男が教会外で自爆し、警察官を含む多くの死傷者が出た。聖マルコ大聖堂では、
>コプト正教会のトップであるコプト教皇タワドロス2世も礼拝に出席していたが無事だった。事件後、過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出している。

>コプト正教会は声明で、犠牲者らを殉教者として取り扱い、「大きな誇り」を持って別れの言葉を告げるとコメント。
>テロリストらを「人類の敵」「平和の敵」と呼んで非難し、亡くなった警察官らに対しても哀悼の意を示した。以下は、本サイトによる声明の和訳。

>アレクサンドリアの聖マルコ大聖堂とタンタの聖ジョージ教会の爆発に関する公式声明
>大きな誇りを持って、「殉教者の教会」であるエジプト・コプト正教会は、今日、2017年4月9日、聖枝祭の奉神礼(礼拝)中に殉教した
>子らに別れの言葉を告げます。彼らは、シュロの葉を持ち、祈り、平和の君であるキリストのエルサレム入城の記念を祝い、
>平和のメッセージを告げ、全ての人類に対し愛と平和を約束しようとしていました。

>殉教者の魂は、人類の敵の手によって奪い去られてしまいました。平和の敵、破壊の道具を持つ者によって。
>しかし今、全ての教会と共に、彼らは、見られ、聞かれ、「記録の書」を記される公正な裁き主に祈りをささげています。

>コプト正教会はまた、わが国の勇敢な法執行者(警察官)の殉教者らに哀悼の意を示します。全ての負傷者の癒やしのために、
>また、わが国の壁を破壊し、一致・団結・共存という偉大な遺産からなるエジプト国民という布を切り裂こうとする増悪の攻撃から、
>エジプトと全国民を遠ざけてくださるよう祈ります。

>神が、エジプトと全国民をあらゆる闇、憎しみの霊、あらゆる害から遠ざけてくださいますように。

60 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:10:04.91
本物の過越が、神の見えない特別な力でイスラエルの民を奴隷としていたエジプト人の初子を撃ったのに対し
エゼキエル書では、バガヴァッド・ギーターのアルジュナ(人間)にクリシュナ(霊、悪霊)が、武器を取って戦うよう洗脳するのと同じ仕掛けがある
当たり前の話ですが、当時イスラエルの民を奴隷としていたエジプト人と、現代の敬虔なキリスト教徒のエジプト人には何の関係もありません

聖マルコ大聖堂 (アレクサンドリア)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82_(%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2)
>本項では、エジプト、アレクサンドリアにあるコプト正教会の聖堂である聖マルコ大聖堂(Cathedral of Saint Mark in Alexandria)を扱う。
>紀元60年に、福音記者聖マルコによってアレキサンドリアに聖堂が建てられたと信じられている。
>その後、数世紀にわたってアレキサンドリアでは聖堂の建築、損壊、再建が繰り返されてきたが、「聖マルコ聖堂」の名はコプト教皇アガソによって、
>677年に聖マルコを記憶して再建されたことに始まると考えられている。聖マルコの不朽体の頭部がこの時納められたとされる。
>1047年までは、コプト教皇の座所であった。
>1798年に、侵攻してきたナポレオン軍によって破壊されたが、1870年にビザンティン建築様式で再建された。
>ヴェネチアに持ち去られていた聖マルコの不朽体の一部は、1968年にローマからこの大聖堂に返還された。

マルコ (福音記者) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3_(%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E8%A8%98%E8%80%85)
>福音記者マルコは新約聖書の『マルコによる福音書』の著者とされる人物。ギリシア語ではマルコス。マルクとも表記する。
>マルコスというのはギリシャ名としては一般的なものであり、また同書の中には筆者の名は直接には記されていないが、
>伝承は『使徒行伝』からパウロの書簡にたびたびあらわれるマルコなる人物を同一人物と考え、福音記者とみなしてきた。
>聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。
>カトリック教会・正教会での記念日(記憶日・聖名祝日)は4月25日(ユリウス暦を使用する正教会では5月8日に相当)。

61 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:14:57.16
>記録と伝承   エルサレムの住人であったマルコの名前がはじめて現れるのは『使徒行伝』であり、天使によって牢獄から解放された
>ペトロが「マルコとよばれるヨハネ」の家に行ったという記述である。

>ヨハネ(マルコ)はパウロの最初の宣教旅行にバルナバと同行したが、パンフィリア州から一人エルサレムへ帰ってしまった。パウロは
>このことを根に持っており、第二回宣教旅行ではパウロがマルコの同行を拒否してバルナバと喧嘩別れしてしまう。マルコは結局
>バルナバと共にキプロス島へ向かった。これは西暦50年頃のことと推定される。使徒行伝ではマルコについての記述はここで終わっている。

>一方、『フィレモンへの手紙』[3]では協力者の一人としてパウロはマルコの名前をあげている。獄中書簡である『フィレモン』の成立時期は
>一般に上述の事件よりあとと考えられており、ある説では、決別とフィレモンへの手紙の間に、パウロとマルコが和解したと考える。
>また、パウロの書簡かどうか説が分かれている『コロサイ人への手紙』では、「バルナバのいとこ」マルコがパウロの協力者として挙げられている。

>またマルコは伝承によればアレクサンドリアの教会の創建者であり、正教会(ギリシャ正教)とコプト正教会(非カルケドン派)の両派で初代
>アレクサンドリア総主教とされている。

>『マルコ福音書』とその筆者問題   教会の古い伝承はマルコがペトロの通訳であり、ペトロから聞いたことをまとめて福音書を記したとしていた。
>伝承は『ペトロの手紙一』および『テモテへの手紙二』などを根拠に、晩年のペトロおよびパウロとマルコが一緒にいたと伝えている。
>この福音書が誰にかかれたものであれ、古代から『マルコ福音』がもっとも古い福音書であるという認識は一貫しており、近代以降の
>聖書研究を通じてもこれは確かなこととされている。エルサレム神殿崩壊に明確な言及がないことから、一般に成立年代は70年より前の
>60年代と考えられているが、それよりさらに早い時期のものとする説もある。

62 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:28:05.39
>崇敬   マルコは正教会では七十門徒のひとりとされ、「使徒・福音者」と称せられる。また初代アレクサンドリア総主教に数えられる。

>マルコおよび『マルコの福音書』はしばしばライオンのシンボルであらわされる。これは『エゼキエル書』に登場する四つの生き物に由来し、
>それぞれ四人の福音記者と福音書にあてはめられている。 →>>51 1:10

>828年、ヴェネツィア商人はアレクサンドリアにあったマルコの聖遺物(ないしそうみなされていたもの)を、ヴェネツィア共和国(現イタリアのヴェネツィア)に
>運んだ。そして聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となった。ヴェネツィアの国旗は聖マルコを指す聖書を持った有翼の金のライオンであり、
>ヴェネツィアの大聖堂はサン・マルコ大聖堂と名づけられている。その前のサン・マルコ広場をはじめとして、ヴェネツィア共和国の勢力の
>及んだ各地には今も有翼のライオン像が残っている。

ヨハネの黙示録 ttp://bible.salterrae.net/kougo/html/revelation.html
>4:6御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
>4:7第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
>4:8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、
>「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。

>>50ルカ、マルコともに『エゼキエル書』1:10に登場する四つの生き物に由来する牛、ライオンのシンボルとされていますが、
本来、四つの生き物と言えばヨハネの黙示録のこの生き物なのです

63 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:40:24.78
ファネス ttp://www.theoi.com/Protogenos/Phanes.html (中略)すなわち…牡牛と獅子の頭をした蛇(ドラゴン)で、
中央に神の顔がついている。肩には翼があり、その名はクロノス(年を取らない時間)、そしてまたはヘラクレスと言われる。」

なぜアレクサンドリアのキリスト教会が狙われたかのヒントが、>>50「ルカは小アジアのトロアスと何かしら深い関係が有った様である。」にあります
ゴルディアスの結び目
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%B5%90%E3%81%B3%E7%9B%AE
>ゴルディアスの結び目またはゴルディオンの結び目(英: Gordian Knot)は、古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話と、
>アレクサンドロス大王にまつわる伝説である。この故事によって、手に負えないような難問を誰も思いつかなかった大胆な方法で解決しまうことの
>メタファー「難題を一刀両断に解くが如く」(英: To Cut The Gordian Knot )として使われる。

Turn him to any cause of policy, The Gordian Knot of it he will unloose, Familiar as his garter ―シェイクスピア, ヘンリー五世, 第1幕第1場 45?47.

>伝説   その昔、権力争いにあけくれたフリギアでは、世継ぎの王がいなくなってしまった。そこでテルメッソスの神サバジオスに、臣民が次の王が
>いつ現れるかの託宣を仰いだ。すると、預言者の前に牛車に乗ってやってくる男がフリギアの王になる、という神託がくだった。
>ちょうど神殿へ牛車に乗って入ってくる男がいたが、それは貧しい農民のゴルディアスであった。にわかには信じがたい神託であったが、
>ゴルディアスの牛車には、神の使いの鷲がとまっていたため、それを見た占い師の女が、彼こそが次の王だと高らかに叫んだ。
>ゴルディアスは王として迎えられ王都ゴルディオンを建てた。ゴルディアスは神の予言に感謝を示すため、乗ってきた牛車を神サバジオスに捧げた。
>そしてミズキの樹皮でできた丈夫な紐で荷車の轅を、それまで誰も見たことがないほどにしっかりと柱に結びつけ、
>「この結び目を解くことができたものこそ、このアジアの王になるであろう」と予言した。

64 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:51:31.47
>その後、この荷車を結びつけた結び目はゴルディアスの結び目として知られ、結び目を解こうと何人もの人たちが挑んだが、
>結び目は決して解けることがなかった。

>数百年の後、この地を遠征中のマケドニア王アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)が訪れた。彼もその結び目に挑んだが、やはりなかなか
>解くことができなかった。すると大王は剣を持ち出し、その結び目を一刀両断に断ち切ってしまい、結ばれた轅はいとも簡単に解かれてしまった。
>折しも天空には雷鳴がとどろき、驚いた人々を前に、大王の従者のアリスタンドロスは「たったいま我が大王がかの結び目を解いた。
>雷鳴はゼウス神の祝福の証である」と宣言した。後にアレクサンドロス3世は遠征先で次々と勝利し、予言通りにアジアの王となったという。

>この神話部分は、古い伝承ゆえの多くのバリエーションが存在する。ゴルディアスにはミダースという息子がおり、その息子が王になった
>とする話や、占い師の女と結婚したとする話などもある。  →(´・д・)王様の耳はロバの耳ィ〜〜〜〜

サバジオス ttps://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%B9-69480
>フリュギアないしトラキアの神。ギリシアでは、しばしばディオニュソスやその前身のザグレウスと同一視され、またときにゼウスと同一視される。
>サバジオス崇拝はキュベレとアッティスの崇拝と結びついて、前5世紀頃ギリシアに移入されたが,自己陶酔的な狂乱を伴うのが特徴で、
>へびが重要な役割をになっている。また前2世紀末には、小アジアのユダヤ人たちは彼とゼウスとを同一視し、さらにそれを
>彼らの万軍の主なる神 the Lord of Sabaothと同一視した。

ミダス ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9
>ギリシア神話の中でミダースは、プリュギアの都市ペシヌスの王。(中略)触ったもの全てを黄金に変える能力("Midas touch")のため広く知られている。
>ミダースは子供の頃にゴルディアース(Gordias)と彼を夫とする女神キュベレー(Cybele)の養子となった。

65 :名無しヒーリング:2017/04/10(月) 23:57:27.81
>ミダースは、快楽主義者、そして優れたバラの庭師として知られていた。また彼には残忍に人を殺したリテュエルセースという一人の息子がいた。
>しかし、神話の中には、代わりにゾエ(Zo?)「生命」という娘がいたとするものもある。
>童話『王様の耳はロバの耳』で、耳がロバになってしまった王様としても有名。
>神託の命令に従って人々に迎え入れられ、王とされた貧しい農夫ゴルディアースの神話については、en:Gordiasを参照。

>神話   ある時、ディオニューソスは、彼の年老いた教師でありかつ養父であるシーレーノスが行方不明であることに気づいた。シーレーノスは
>ワインを飲んでいて、酔っぱらってぶらついていたところを農民たちに発見され、彼らの手によってシーレーノスは王であるミダースのもとへ運ばれた
>(あるいは、シーレーノスはミダースのバラ園で酔いつぶれていた)。ミダースは、シーレーノスとわかって手厚くもてなし、10昼夜の間礼儀正しく歓待し、
>一方、シーレーノスはミダースと彼の友人を物語と歌で楽しませた。11日目に、ミダースはシーレーノスをディオニューソスに返した。ディオニューソスは、
>ミダースに対して彼が望むどんな報酬でも選択するよう言い、ミダースは、彼が触れるものすべてが黄金に変わるよう頼んだ。
>ミダースは彼の新しい力を喜び、それを急いで試した。彼がオークの小枝と石に触れると、両方とも金に変わった。
>狂喜して、彼は家に帰るとすぐに、使用人に豪華な食事をテーブルに用意するよう命じた。「そのようにリューディアの王ミダースは、
>触れるものすべてを黄金に変えられることを知ったとき、最初は誇らしさに得意がった。しかし、食べ物が硬くなり、飲み物が黄金の氷に
>固まるのを見たそのとき、ミダースはこの贈り物が破滅のもとであることを悟り、黄金を強く嫌悪しながら彼の願い事を呪った」。
>ナサニエル・ホーソーンによって語られたバージョンでは、ミダースは彼の娘にさわったとき、彼女が彫像に変わってそのことに気づいた。

>今となっては、彼は自分が望んだ贈り物を憎んだ。彼は、飢餓から解放されることを願いながら、ディオニューソスに祈った。
>ディオニューソスは聞き入れ、ミダースにパクトーロス川で行水するよう言った。

66 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 00:01:33.81
>ミダースはその通り川の水に触れると、力は川に移り、そして、川砂は黄金に変わった。この神話は、パクトーロス川になぜ砂金がそれほど
>豊富かということと、この因果関係についての神話のもととなったことが明らかな、ミダースを祖先だと主張する王朝の富について説明するものだった。
>おそらく黄金だけが富の源泉となる唯一の金属ではなかった。「プリュギア人でキュベレーの息子ミダース王は、黒鉛と白鉛を初めて発見した」。

>ミダースは、富と贅沢を憎んで、田舎へ引っ越して、田園の神 パーンの崇拝者になった。ローマの神話収集家たちは、彼の音楽の家庭教師は
>オルペウスだったと主張する。ある時、パーンは大胆にも、彼の音楽とアポローンのそれの優劣を争って、竪琴の神アポローンに演奏技能についての
>試合を挑んだ。トモーロス (Tmolus、山の神)が、審判に選ばれた。パーンはパイプを吹き、彼の素朴なメロディーは、彼自身とたまたま居合わせた
>彼の誠実な支持者ミダースに大変な満足感を与えたのだった。その次に、アポローンが竪琴を弾いた。トモーロスは即座にアポローンに勝利を与え、
>ミダース以外はその判定に同意したが、彼は同意せず、判定の公平さに疑問を唱えた。アポローンはそのような堕落した耳に我慢できず、
>ミダース王の耳をロバの耳にしてしまった。王はこの災難に心痛し、たくさんのターバンすなわち頭飾りで不幸を隠そうとした。
>しかし、彼の理髪師は、もちろん秘密を知った。理髪師はそれをしゃべらないよう言われたが、秘密を守ることができず、草原に出かけて、
>地面に穴を掘って、そこに話をささやき、そしてすっかり穴を覆った。しばらくすると葦の濃い群生地が草原に出現して、
>「王様の耳は、ロバの耳」と言い出した。家来の何人かがこれを聞いて、うわさをし始めた。ミダースは、誰が話したか探し出して
>殺そうとしたがやめた。彼があり方を改めたことを完璧に示したので、アポローンがやって来て、彼に再び普通の耳を与えた。

>サラ・モリスは、ロバの耳はミラのTarkasnawa(ギリシア語でTarkondemos)王によって設けられたヒッタイトの楔形文字とルウィ語(Luwian)の
>象形文字の両方で刻まれた印章にある青銅器時代の王族の象徴だったと論証した。

67 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:11:05.97
>>51 「その火の中に青銅のように輝くものがあった」 「みがいた青銅のように光っていた」
>>52 「火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た」

>>63 「乗ってきた牛車を神サバジオスに捧げた。」
>>64 「たったいま我が大王がかの結び目を解いた。雷鳴はゼウス神の祝福の証である」と宣言した。 →このような2つの雷神の混同の例を見ていきます

>>6つづき ヨウスコウアリゲーター
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
>ヨウスコウアリゲーター(Alligator sinensis)はアリゲーター属に分類されるワニの一種。別名ヨウスコウワニ。

>分布   中華人民共和国(安徽省、江西省、江蘇省、浙江省の長江下流域)固有種 アリゲーター科では本種のみがユーラシア大陸に分布する。種小名
>sinensisは「中国産の」の意。和名のヨウスコウ(揚子江)は長江下流域の別名。 日本でも大分県安心院盆地にある鮮新世の地層から本種の化石が発見されている。

>人間との関係   淮南子を始め人間には無害とされることが多く、人間を襲った確実な記録はない。岩波文庫の『西遊記』の翻訳元である蘇州刊本
>『李卓吾先生批評西遊記』の翻訳を引き継いだ中野美代子は、後に自著内でヨウスコウカワイルカ説をヨウスコウアリゲーター説に移行した。

>食用や薬用とされることもある。皮が利用されることもあるが、皮下に皮骨が発達しているため加工が難しく価値は高くない。紀元前には太鼓の皮に
>利用されたこともあり、雅楽の?太鼓も本種の皮が用いられていた(本種に対し漢字1文字で「?」をあてることがある)ことが由来とする説もある。

>貝類を求めて水田に侵入して稲を倒したり、灌漑用のダムを破壊する害獣とみなされることもある。

68 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:17:40.87
>開発や農薬による生息地の破壊、食用の狩猟、害獣としての駆除、日本住血吸虫駆除対策における食物である貝類の減少などにより生息数が激減した。
>安徽省宣城の施設などにおいて飼育下繁殖が行われ、蕪湖などに保護区が指定されている。1960年代から200頭の野生個体を基に飼育下繁殖が進められ、
>1991年までに4,000頭以上の飼育下繁殖に成功している。1965年における生息数は50頭と推定されている。
>日本国内では2001年に札幌市円山動物園が初めて飼育下繁殖に成功した。

キ (中国神話) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
>?(き)は、中国神話における神、動物、人物、または妖怪のこと。?牛(きぎゅう)ともいう。古い伝承によれば一本足であり、音楽と深い関係にあるとされた。
>?についての伝承は時代や地域によって大きく異なっている。

>中国の? 起源   元は殷代に信仰された神で、?龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳と共に銅鏡等に刻まれた。
>鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、?龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招く
>とされるのもその名残と思われる。後に一本足の牛の姿で表されたのも牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。
>一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる。

>神話のなかの?   『山海経』第十四「大荒東経」によれば、?は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、
>脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は?を捕らえて
>その皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、
>この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは
>?ではなく同音の軌牛であったという。

69 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:25:27.65
>?は『説文解字』第五篇下における解説では「竜のような姿をしていて角がある」とされている。また『法苑珠林』に引用されている『白沢図』
>によれば「鼓のようで、一本足である」という。

>妖怪の?   『国語』「魯語」に三国時代の韋昭が付した注によると、?は一本足であり、越人はこれを山繰と呼び、人の顔、猿の体で人語を
>解する動物であるという。『史記』「孔子世家」では?は木石の怪であるとされ、魍魎と同一視されている。同様の記述が『抱朴子』「登渉篇」にもある。

>人間としての?   『書経』「舜典」では、?は舜帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。?は「私が石を高く低く打てば
>百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという。

>『韓非子』「外儲説左下」第三十三では、?が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「?は一本足ではない。
>?は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。
>または「?は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため堯帝が『?は一で足りる』と言った」と答えたという。

>山梨岡神社のキ神像と日本の?   山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する
>?(キ)の像として信仰を受けている。10年に一度(現在では7年に一度)4月4日に開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている。

>(中略)キ神の来由を記した中村和泉守『鎮目村山梨岡神社キ神来由記』(慶応2年(1866年)、山梨県立博物館所蔵)によれば、江戸後期にはキ神像
>に関して、天正年間に織田信長軍が山梨岡神社に乱入した際に疫病によって祟ったというような霊験譚が成立している。キ神信仰は江戸後期の
>社会不穏から生じた妖怪ブームにも乗じて広まったと考えられており、キ神の神札が大量に流通し、江戸城大奥へも献上されている。

70 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:32:31.13
>明治初期には山中共古『甲斐の落葉』において紹介され、キ神像は欠損した狛犬の像が「山海経」の「キ」と結びつけられたものであると考えられている。

>また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し、
>キ神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている。
>このほか、『古事記』に出てくる一本足(という読みもある)の神久延毘古の「クエ」という音は、?の古代中国での発音kueiと似ており、関連がある
>可能性がある(加藤徹『怪力乱神』中央公論新社 96頁)。また水木しげるは、日本の一本足の妖怪「一本だたら」「山爺(やまちち)」と?の
>類似性を指摘している(平凡社ライブラリー『山海経』解説「日本に渡った精霊たち」)。

糸魚川−静岡構造線断層帯 ttp://www.jishin.go.jp/main/yosokuchizu/katsudanso/f041_042_044_itoshizu.htm
甲府盆地は曽根丘断層と糸魚川−静岡構造線断層帯南部の市之瀬断層群に囲まれている

甲府盆地 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%BA%9C%E7%9B%86%E5%9C%B0
>地方病 (日本住血吸虫症) - 甲府盆地底部一帯は日本国内最大の日本住血吸虫症罹病地帯だったが、研究者や医師らによる病気撲滅の結果、
>1996年に終息宣言が出されることとなった。
→甲府盆地は@地震、A夏場の高温、B集中豪雨、C河川の氾濫を注意しておけば良いだろうか あと念のためもう一つ

地方病 (日本住血吸虫症)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%97%85_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB%E7%97%87)
じっくり読み入ってしまった 病気ひとつとってもご先祖様たちが必死に撲滅してくれたから今があるわけで、
いろいろな当たり前の前提が高くなってしまった現代だからこそ、小さなことにもこつこつ感謝していこうと思った満月の夜でありました(^-^) 2016/06/20(月)

71 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 01:53:49.97
>>65 ミダスがディオニュソスの養父シレノスを手厚くもてなしたことに関連して、うしかい座の神話に、2つの雷神の混同がわかりやすく見られる

うしかい座 英語wiki ttps://en.wikipedia.org/wiki/Bo%C3%B6tes
@古代バビロニアではうしかい座はSHU.PA.として知られる。このうしかい座は明らかにバビロニア神界のリーダーであり、
農夫たちの保護者であるエンリルとして描かれる

Aうしかい座(Bo?tes)の名前は最初にホメロスによりオデュッセイアの中で「遅く沈む」「ゆっくり沈む」と描かれた
天測航法の目標として描かれ、「農夫(Plowman)」と訳される

Bギリシャ神話でうしかい座が誰を表すかははっきりしていない ある説によれば、デメテルの息子でプルトス(盲目で豊穣の角を持つ有翼の幼児)の
双子の兄弟フィロメロスで、おおぐま座の中を牛で耕す農夫だという
これは「牛を御する者」「牛飼い」という星座の名前と一致する 古代ギリシャ人はBig Dipper、または牛の引く農耕用の鋤Ploughと呼ばれる
ピロメロスは鋤を発明したために、それを記念してうしかい座に上げられたともされる

Cまた別の神話では、うしかい座はディオニュソスにワインづくりを教わったぶどう農家のイカリオスとされる
イカリオスは強いワインをつくったため、それを飲んだ者は毒を飲まされたと思い、羊飼いたちは復讐にイカリオスを殺してしまった
イカリオスの犬マイラが、娘のエリゴネを父親の遺体の元へ連れて行った 犬とエリゴネは自殺した ゼウスはこの3人を星座に上げた
イカリオスをうしかい座に、エリゴネをおとめ座に、マイラをおおいぬ座またはこいぬ座に上げた 

4/11 こいぬ座S星が極大

72 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 02:02:06.62
Dまた別の神話では、うしかい座はゼウスとカリストの息子アルカスと同一視され、アルクトゥルス(うしかい座α星)として言及される
アルカスは母方の祖父リュカオンに育てられた ある日、ゼウスがリュカオンを訪ね、食事を共にした
客人が本当に神々の王ゼウスであることを確かめるため、リュカオンは自分の孫を殺し、その肉で食事をつくった
ゼウスはこれに気付いて大変怒り、リュカオンをオオカミに変えた
一方で、ゼウスの不貞に怒ったヘラによりカリストは雌熊に変えられた これはうしかい座の別名Arctophylaxが「熊を見守る者」となっているのと関係している
熊の姿になったカリストは狩りに来た息子に殺されそうになったため、ゼウスは彼女をおおぐま座に上げて救った
アルクトゥルス(うしかい座α星)はギリシャ語の「熊を守る者」から来ている アルクトゥルスはりょうけん座の近くで
猟犬にともなわれ、おおぐま座・こぐま座の熊たちを御する姿で描かれる

まずCから このイカリオス・エリゴネ・マイラの物語はだんぶり長者の民話の変形ではないかと思われる
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%93%E3%81%B6%E3%82%8A%E9%95%B7%E8%80%85
エリゴネ=吉祥姫は犠牲となり、ディオニュソスに捧げられた これが生贄祭祀の始まり エリゴネはディオニュソスとの間にスタピュロスという
息子をもうけたとされるが、このスタピュロスはディオニュソス神の唯一の妃アリアドネが生んだ息子とされる エリゴネ=アリアドネである

ブランコ娘と吊られた屍肉 ttp://suwa3.web.fc2.com/enkan/minwa/00_koneta/11.html
>北欧の神話によれば、世界は九つの層で構成されており、それらを中心で繋ぐ途みち、トネリコの大木が世界樹ユグドラシルであった。
>主神オーディンはこの木の枝で自ら首を吊り、更に槍で刺された。そうしてぶらさがったまま九日九夜後に縄が切れ、木から落ちて甦った。
>この《黄泉帰り》を経て、彼は冥界の神秘に通じる偉大なシャーマンとなったのである。この神話にちなんで、オーディンに捧げる生け贄は
>木の枝に首吊りにして槍で刺すものだったと言う。なお、大アルカナのタロットカード《吊るされた男》のルーツをこの神話に求める説もある。
>このカードが象徴するのは《英知、慎重、直観、(自ら望んだ)試練》である。

73 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 02:06:49.79
オーディンが通った試練の道を、アリアドネ=エリゴネ=吉祥姫もくぐることになる
そして以前、月からやってきたというある女魔術師が、白山菊理姫のことを「首くくり姫」と嘲笑っていたことを思い出した
おそらくアリアドネ=エリゴネ=吉祥姫=菊理姫のことだろう
エリゴネに父の死体のありかを教えたマイラは黒い雌犬で魔女の使いであり、こいぬ座のかわりにシリウスとして星に上げられたという説もあるという

Dゼウスとカリストの息子アルカスの物語
ゼウスがリュカオンを訪ねたとき、リュカオンは自分の孫を殺して食事としてゼウスに供したとあるが、このリュカオンの殺した孫が
カリストの息子アルカスであるという説がある ゼウスは怒り狂い、リュカオン一族をオオカミに変え、世界を滅ぼすデウカリオンの大洪水を引き起こす

そしておそらくユダヤのイサクの燔祭のエピソードは、このリュカオンが孫を殺して神への食事として供した
生贄行為を禁忌として取り締まるための、ヤハウエのイスラエルの民への教訓だろう アルカス=イサクでもある

そしてアルカスの母カリストは雌熊に姿を変えられ、おおぐま座に上げられる おおぐま座といえば北斗七星である
北斗七星のことを斗極といい、この斗極のことを足一騰星というそうである ttp://lunabura.exblog.jp/20708246/
>「足一騰」という言葉は「片足 一つ 騰げる」と読み換えるとイメージが湧くと思います。いわゆる片膝立てる座り方ですね。
これはおそらくひっかけで、足一騰とは片足立ちのことである 以前、片膝を立てて座るというのは生贄魔神の祭祀の作法に通じると聞いたことがある
足一騰=片足立ち=テセウスのゲラノス(鶴舞踏)であり、ミノタウロスを打ち破るものであるはずである
そしてこの足一騰宮の祭神は、玉依姫とされる カリスト=玉依姫であり、アルカス=ウガヤフキアエズ(玉依姫の義息子であり夫)ではなかろうか
カリスト=玉依姫=リベカ=北斗七星(ひしゃく/水を汲むもの)=ガニュメデ アルカス=ウガヤフキアエズ=イサク=ゼウス

74 :名無しヒーリング:2017/04/11(火) 02:10:42.75
そしてガニュメデを迎えに行ったゼウスはわし座のアルタイル(牽牛星)であり、うしかい座=彦星であり、うしかい座α星アルクトゥルスは「熊を守る者」だろう
さらにアルカスの変えられたこぐま座とは、現在の北極星ポラリスを含む アルカス=北極星=天帝である
こと座ベガは織姫であり、ガニュメデであり、玉依姫であり、アリアドネ、エリゴネ、白山菊理姫であり、寿老人の持つ桃である

わし座 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%97%E5%BA%A7
@>トロイアの王子ガニュメーデースがあまりに美しい少年だったため、ゼウスが神の宴の給仕をさせるために、天に連れ去るときに遣わした鷲。
>天球上では、ガニュメーデースをモチーフとするみずがめ座の隣にわし座が位置しており、星図でもみずがめ座に飛び掛るように描かれている。

A>ゼウスが用いる雷の矢を運ぶ鷲。わし座に隣接しているや座がゼウスの雷の矢を表している。

B>プロメーテウスの肝臓を食らう鷲。

Aのゼウスが用いる雷の矢を運ぶというのは、ペガススの役目でもある
ガニュメデがペガススに乗って天に飛び立ち新たな英雄となる意味だろう
そうすればBのプロメテウスの肝臓をつつく鷲=プロメテウス(聖王)を生贄として殺し続けるエオスの鷲の時代は終わるはずである

一年前に書いた「自分(カグツチ)を生んで死んでしまった母イザナミを慕って黄泉の世界に降ったものの、
イザナミは何度蘇ってもスサノオ(聖王)を生贄として殺し続けイザナギとの和解も果たされないまま、永遠に呪いの中を生き続けなければならない
無間地獄に陥ったスサノオを救うのは、イザナギとの和解を取り次ぐアマテラスである」
これが実現するということである

75 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:16:45.56
グラヴリーヌ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C
>グラヴリーヌ は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、ノール県のコミューン。

>地理    グラヴリーヌは北海沿いの海側フランドルの、古来からの戦略的要所に位置し、アルトワの入り口であるアー川河口を含む。

>交通   TGVとユーロスターを利用して英仏海峡トンネルへ行ける。高速道路はA16とA25。

>歴史   ローマ征服時代、モリニ族(ベルギカのガリア人部族)の領域は現在のグラヴリーヌの一部であり、水が土地を浸食していた。グラヴリーヌの
>真の歴史が始まるのは800年代、ブルートランドが干拓されて以後、アングロサクソン人司教が聖ウィリブロルドに捧げた礼拝堂を建てた頃である。

>12世紀半ば、フランドル伯ティエリー・ダルザスは、海に面した地域に領土を広げることにした。彼はアー川の掘削をして海港を建設した。住民は住居として
>用いる剛健な砦を建設した。1159年から1163年までの間に町はニーウポールト(nieuwpoort、新しい港)の名を授けられ、これがグラヴリーヌとなった。
>ニシン漁の町、果物・ワイン・塩の中継港として、グラヴリーヌは最上の土地と繁栄を得ていた。周辺の土地は干拓され、文化と繁栄が広まった。
>サントメール商人が商売を維持し、新たな都市は海岸沿いの重要な都市となった。都市は貿易や漁業で繁栄していたが、すぐにそれは歴史の苦悩に直面した。
>軍事的、政治的理由から、グラヴリーヌは何度も攻撃され破壊されたからである。

>13世紀から都市経済が下降した。アー川河口に泥が沈殿して港に接続できなくなった。フィリップ2世とフィリップ4世の遠征軍がグラヴリーヌへ侵攻し
>略奪が行われるたび、グラヴリーヌは復興した。1213年、フランスとの同盟を破棄したフランドル伯を懲らしめるため、フランス軍はグラヴリーヌを荒らした。
>1302年、ウダール・モービュイッソンがグラヴリーヌを再び荒らし、カレー陥落後の1383年にはイングランド軍が町を襲撃した。

76 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:22:25.18
>アー川河口にあるグラヴリーヌは、カレーシス地方とフランドル地方の間にある国境の町だった。戦略的要所であるとみなし最初に防衛強化を行ったのは
>ブルゴーニュ公である。神聖ローマ皇帝カール5世はグラヴリーヌの城を再建し、砦の膨大な事業を開始した。後継者であるフェリペ2世は父の事業を引き
>続き行い、自らの名を冠した砦を砂丘の上に築いた(18世紀に廃墟となった)。1588年、イングランド艦隊がグラヴリーヌ沖合においてアルマダ艦隊を沈めた。

>1644年、ルイ13世の王弟ガストンがグラヴリーヌを包囲し、陥落させた。1652年、オーストリア大公レオポルト(皇帝フェルディナント2世の末子)が要塞を包囲した。
>1654年、グラヴリーヌ城内の火薬庫爆発によって、民家の3/4が破壊された。1658年、フランス元帥ラ・フェルテとヴォーバンがグラヴリーヌを最終的に陥落させた。
>1659年、ピレネー条約によって正式にグラヴリーヌはフランス領となった。しかし国境の町でなくなったことで要塞の重要性が失われた。
>20世紀初頭まで、グラヴリーヌには駐屯地が置かれた。

>1827年に建設された鐘楼は、ベルギーとフランスの鐘楼群の一つとして、2005年にユネスコの世界遺産に登録された。

>現在のグラヴリーヌは、長い間極貧の町として知られていた姿でない。欧州最大の原子力発電所であるグラヴリーヌ原子力発電所が設置され(原子炉が6つ)、
>フランス電力が支払う事業税のため、コミューンの表情を完全に一変させた。

>経済   300以上の会社がグラヴリーヌにある。
>グラヴリーヌ原子力発電所は、年間35億kWhの電力量を生み出す。
>アルミニウム・ダンケルクは、リオ・ティント・アルキャンのグループ会社である。
>アクアノールは、フランス有数の養殖業会社で、タイの養殖で知られる。

77 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:31:49.15
聖ウィリブロルド ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%89
>聖ウィリブロルド(英 Saint Willibrord)は、キリスト教の聖人であり、伝道者である。
>フリーセン地方の伝道者で、ユトレヒト初の司教を務めた。658年ノーサンブリアに生まれ、739年11月8日に、現ルクセンブルクのエヒタナハで没した。

>「踊りの行進」の発祥
>1906年の6月4日には、サンピエトロ大聖堂からの聖遺物の遷移式が行われた。この時に、踊りによる行進が始まり、正装の5人の司教や2人の
>スイス人衛兵をはじめ、15,000人を越える人々が踊りながら行進したといわれる。一方で、この踊りの行進は、既に8世紀にはじまっていたとも、
>14世紀のペスト、災害、戦争といった社会不安の中で、神への祈願をする人々の中から始まったともいわれている。

アー川 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E5%B7%9D
>アー川(Aa)は、フランス北部を流れる川であり、長さは約89kmである。
>ノール=パ・ド・カレー地域圏のブルトス近郊が水源である。グラヴリーヌ付近で北海に流れ込んでいる。Aaとは古オランダ語で川を意味する。
>川は工場廃水によりひどく汚染されていて、環境問題となっている。    →この川を注意してください

ブレダ ttps://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%80-127632
>オランダ南部,ノールトブラバント州の都市。ロッテルダムの南東約 40km,メルク川とアー川の合流点に位置する。

ブレダ(オランダ) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%80_(%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80) 
>ブレダ (Breda) は、オランダの北ブラバント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。ロッテルダムの南南東30 kmに位置する、オランダ南部の主要都市である。

78 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:36:52.44
>15世紀になって町は急速に発展した。このころ97mの塔を持つ、ブラバント・ゴシック様式の大教会(聖母教会)が建てられた。
>1534年、ヘンドリック3世(ウィレム1世の伯父)は市壁を大規模に改修し、オランダで最も難攻不落の都市と言われる城塞都市となった。
>同じ頃、この街にはたくさんの貴族が邸宅を構えるようになり、アルプス以北で初めてルネッサンス様式の宮殿が建てられた。
>また、同じ1534年には大火災が街を襲い、1300棟の建物が焼け落ちた。焼け残ったのはたったの150棟だったといわれる。

>鉄道   オランダ鉄道のブレダ駅が、ロッテルダムとスヘルトーヘンボスを結ぶ幹線鉄道路線上にある。2009年にはオランダ南高速線が開通して、
>アムステルダムとブリュッセルを結ぶ高速鉄道がこの駅に停車する予定である。現在、ブレダ駅を出発する主な列車は、ロッテルダム中央駅経由
>デン・ハーグ中央駅行きインターシティが1時間に2本、ロッテルダム中央駅経由アムステルダム中央駅行き快速 (Sneltrein) が1時間に1本、
>ズヴォレ行きインターシティが1時間に2本、アイントホーフェン方面行きインターシティが1時間に1本運行されている。
>たとえば、アムステルダム中央駅までは1時間40分から2時間かかる。    →この大火災と鉄道を注意してみてください

グラヴリーヌ原子力発電所
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
>グラヴリーヌ原子力発電所(フランス語:Centrale nucl?aire de Gravelines)は、フランス共和国ノール県グラヴリーヌに所在する原子力発電所。施設は北海に面し、
>ベルギーのブルッヘから西南へ80km、ブローニュ=シュル=メールから北東へ50kmに位置している。発電所から半径20km圏内にカレーやダンケルクが含まれている。

>グラヴリーヌ原子力発電所は90万kW級の原子炉6基を有する世界第5位、ヨーロッパ第2位、そして西ヨーロッパ最大の原子力発電所である。2006年には
>3814億kWhの電力を生産し、全フランス電力生産量の8.1%を占めている。1980年にまず2基が運転開始し、続いて1981年に2基、そして1985年に2基が運転している。
>正規従業員数は1,680人に及ぶ。

79 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:40:56.44
>5号機と6号機の設計は中国の大亜湾原子力発電所と臨高原子力発電所で採用された第二世代+原子炉であるCPR-1000の基礎となっている。

>概要   1974年3月5日、ピエール・メスメル内閣は90万kW級加圧水型原子炉12基の建設計画を承認する。これに基づきグラヴリーヌには4基の建設が
>認められ、発電所の建設は1974年5月から始まる。1980年3月に1号機の試運転が開始される。立地条件として、冷却水の確保が容易な沿岸部で
>なおかつ強い潮流が期待でき、電力の輸出を念頭にイギリスやドイツに近く、鉄鋼のアルセロール社やアルミニウム精錬のアルキャン社などの
>大企業の工場が近傍にあり、工業用および人口密集地の需要に応え、地震の危険性が低いと判断されたからであった。

>1970年代後半、当時のイラン王朝に対し同型原子炉2基を供給する予定であったが、1979年のイラン革命により計画は頓挫し、行き先を失った原子炉は
>グラヴリーヌ発電所に組み込まれる。1985年8月に6号機が送電網に接続し、ここにいたりグラヴリーヌ原子力発電所は西ヨーロッパ最大規模となる。
>2010年9月8日には6基の累計1兆kWhの電力を生産している。

>発電所の廃熱を含む冷却水は地元コミューンで行われているヨーロピアンシーバスやヨーロッパヘダイの養殖業に活用されている。

>2011年3月の福島第一原子力発電所事故後、西欧原子力規制者会議(en:Western European Nuclear Regulators' Association)はヨーロッパおよび
>フランスにある原子力発電所の地震と津波に対する耐久性について研究する必要があるとされ(ヨーロッパ各国およびフランソワ・フィヨン首相による
>4つの危険、洪水、地震、冷却障害につながる危険および事故結果の制限処置についての提言を含む)ストレステストの必要性が求められた。

リオ・ティント・アルキャン
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3

80 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 21:57:55.72
>リオ・ティント・アルキャン(Rio Tinto Alcan Inc.)は、カナダの企業。世界的なアルミニウムメーカーである。本社はカナダ・ケベック州モントリオール。
>アルミニウムの原料であるボーキサイトの採掘から精錬、圧延などの加工までを一手に行う世界最大のアルミニウム企業。

>歴史   アメリカ合衆国のアルミ大手アルコアのカナダ子会社が1928年に独立してアルキャン(Alcan)となり、世界第3位のアルミ大手に成長。
>2004年に核燃料サイクルを営むペシネーを買収した。

>アルコアが2007年に敵対的買収を提案した際、アルキャン側はこれを拒否し、英豪系資源メジャー リオ・ティントの友好的買収に合意。
>2007年11月、リオ・ティントのアルミ部門と統合し世界最大のアルミ企業として、リオ・ティント・アルキャンへ社名変更された。
→アルキャンの工場の事故からグラブリーヌ原発へ飛び火しないよう注意してください

>アルキャン傘下の精練所    オーストラリア・NSW州トマゴ・アルミニウム精練所   カナダ・ケベック州アルマ   カナダ・ケベック州サグネ市アルヴィダ
>カナダ・ケベック州ボーアルノワ   カナダ・ケベック州ベキャンクール   カナダ・ケベック州サグネ市グラン・ベ   カナダ・ケベック州サグネ市ラテリエール
>カナダ・ケベック州セティル市アルエット精練所   カナダ・ケベック州シャウィニガン   フランス・ダンケルク   フランス・サン=ジャン=ド=モーリエンヌ
→アルキャン社全体的に注意ですが、特にこれらの工場を注意してください 詳細はそれぞれの都市のwikiを参照してください(`・ω・´)

ピレネー条約 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%83%BC%E6%9D%A1%E7%B4%84
>ピレネー条約(英: Treaty of the Pyrenees、仏: Trait? des Pyr?n?es)は、三十年戦争さなかの1635年に始まり、三十年戦争終結後も継続していた
>フランスとスペインの間のフランス・スペイン戦争(西仏戦争。1635年 - 1659年)の終戦条約で、1659年に結ばれた。
>この条約は、2つの国の間を流れるビダソア川にある島であるフェザント島において締結された。

81 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:02:09.59
>背景   フランスは、1620年代のオランダでの反乱と1634年のスウェーデンに対するネルトリンゲンの戦い(1634年)におけるスペインの勝利の後、
>三十年戦争に突入した。1640年までに、フランスはカタルーニャ君主国(カタルーニャ共和国)における収穫人戦争(1640年 - 1659年)を支援し、
>スペインの政策に対する妨害を開始していた。一方、スペインはそれに対抗し、1648年にフランスにおけるフロンドの乱を支援した。

>1648年のヴェストファーレン条約の交渉では、フランスはアルザスとロレーヌを手に入れ、オーストリアを経由していたネーデルラントへのスペインの
>接続点を切断した。オーストリアはスペインとフランス間の直接の戦争が生じるように仕向けていた。

>三十年戦争の終結から10年後、イングランド・フランス同盟軍は1658年に砂丘の戦いにおいて勝利を収め、1659年に講和が成立した。

>条約の内容   フランスはルシヨン、アルトワ、ルクセンブルクの一部とフランドルの一部を手に入れ、スペインとの国境をピレネー山脈に固定した。
>しかし条約には、ピレネー山脈の北にある "全ての村" はフランスの一部であると記されていたため、スペインの飛び地がこのフランスの領域に生じることとなった。
>リビア(Ll?via)の町がそうである。リビアは村でなく町とみなされたため、スペインの支配下にとどまり、スペインのジローナ州のサルダーニャの自治区となった。

>条約は同様に、ルイ14世とフェリペ4世の娘であるマリー・テレーズの結婚を承認していた。マリー・テレーズには持参金として賠償金をつける代わりに、
>フランスはスペインの王座に関する権利の放棄を強要された。この賠償金は支払われることなく、1668年のネーデルラント継承戦争、
>1701年のスペイン継承戦争の原因となった。

>敗北とマリー・テレーズの持参金の支払いができない事実は、スペインがヨーロッパの中で重要な位置から転がり落ちたことを示していた。
>一方、「アンシャン・レジーム」のフランスはその力をつけてきた。

82 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:13:34.89
>カタルーニャの行く末   ルシヨン、コンフラン、ヴァレスピール、カプシール、サルダーニャの半分は、現在サルダーニャ、もしくはフランス領カタルーニャとして
>知られており、フランス領として残っている。毎年11月7日にカタルーニャでは、これを記憶するイベントをペルピニャン(Perpignan)で開催している。

>条約はカタルーニャの社会制度の維持に関して何点かの条項を含んでいた。しかし、ルイ14世はこの部分を尊重しなかった。条約が署名された1年後に、
>北カタルーニャの社会制度は大きく変わった。1700年4月2日(5月1日より有効)にフランス国王の勅命として、カタルーニャ語を公的に使用することを禁じた。
>それ以降、フランス語が唯一の公用語となった。
→聖ウィリブロルドの踊りの行進6月4日>>77とともに、5月1日周辺の日付を注意してください

ベルギーとフランスの鐘楼群
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%90%98%E6%A5%BC%E7%BE%A4
>ベルギーとフランスの鐘楼群は、ユネスコの世界遺産のひとつ。ベルギー、フランス両国合わせて56の鐘楼が登録されている。
>1999年にフランドル地方とワロン地方の鐘楼群(Belfries of Flanders and Wallonia)として32の鐘楼が世界遺産に登録されたのが最初。
>2005年にワロン地方のガンブルーの鐘楼、フランスのノール=パ・ド・カレー地域圏、ピカルディー地域圏の23の鐘楼の追加登録により、現在の名称となった。
>なお、ブリュッセル市庁舎の鐘楼は、それが包含されるブリュッセルのグラン=プラスが世界遺産に登録されたため、重複を避けるために登録解除された。

グラン=プラス (ブリュッセル) 
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9_(%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB)

83 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:22:26.10
>グラン=プラス(フランス語:Grand-Place, オランダ語:Grote Markt)は、ベルギーのブリュッセルの中心地にある大広場。
>ヴィクトル・ユゴーが賛嘆したことでも知られるこの大広場は、世界で最も美しい広場のひとつと見なされている。1998年にユネスコの世界遺産に登録された。

>歴史   グラン=プラスは美しい広場であるが、華やかな歴史ばかりに彩られていたわけではない。1523年にプロテスタントの最初の殉教者たちである
>ヘンドリク・フォエス(Hendrik Voes)とヤン・ファン・エッセン(Jan van Essen)がこの地で火刑に処された。
>大同盟戦争中の1695年8月13日に、当時木造だった広場の家屋はヴィルロワ元帥に率いられたフランス軍の砲撃によって大半が破壊された。
>市庁舎の塔は砲撃の的になったが、石でできた壁は放火による火災に耐えた。広場を囲む家々は様々なギルドによって石造りで再建された。
>このため、市庁舎以外のほとんどの建物は、この時以降のものである。

>大広場を囲む建物   市庁舎
>市庁舎は1402年から1455年の間に建造された。上述の歴史的経緯から、この建物は中世におけるグラン=プラスの建築様式を伝える唯一の証人となっている。
>オリジナルを建築したのはヤコブ・ファン・ティエネン (Jacob van Thienen) だったようである。若き日の勇胆公シャルルが1444年に礎石を置いた右側は、
>ギヨーム・ド・ヴォーゲル (Guillaume de Voghel) の手になるものである。ゴシック様式の96メートルの塔はヤン・ファン・ルイスブロエク (Jan van Ruysbroek) が
>手がけたものであり、頂上には竜を打ち倒す天使ミシェル像が飾られている。ミシェルはブリュッセルの守護天使である。

>市庁舎の非対称性も注目される。一瞥した印象とは裏腹に、市庁舎の塔は建物の中央にはない。また、右半分と左半分は少し違っている。
>ブリュッセルの人々に知られている古い伝説では、この誤りに気付いた建築家は頂上から身投げしたのだという。だが実際には、左右が
>一緒に建造されたわけではなかった。 →身投げした建築家がヒラム・アビブに通じる感じがするので注意

84 :名無しヒーリング:2017/04/22(土) 22:38:00.72
>王の家   王の家 (la Maison du Roi) は、12世紀以降パン市場として親しまれた木造建築物で、それゆえオランダ語では「パンの家」(broodhuis) と呼ばれる。
>15世紀になると石造にかわり、ブラバント公の行政庁が置かれた。これが理由で人々はこの建物を「公の家」と呼ぶようになり、公がスペイン王になると
>「王の家」と呼ぶようになった。のちにカール5世は自分の塔をゴシック様式で建てさせた。現在もその姿を見ることが出来ているように思えるが、実際には
>当時の塔も回廊も存在しない。1695年の砲撃などで損害を蒙ったためであり、現在のものは1875年にネオゴシック様式で再建されたものである。
>建物は1985年に改築され、市立博物館になっている。  →木造建築なので火災に注意してください >>83石でできた壁は放火による火災に耐えた。

>各ギルドハウス   グラン=プラスは様々なギルドを淵源に持つ建物に囲まれ、壁に飾られた包丁や樽、手押し車などの紋章がそれぞれの職業を
>あらわしていて、これらの建物にはそれぞれ名前が付けられている。

・黄金の汽艇 (La Chaloupe d'Or) - 仕立工の家とも言う。Pierre van Dievoetによって彫られた仕立工の守護聖人の像を戴く。
・鳩 (Le Pigeon) - かつてヴィクトル・ユゴーが逗留した。 ・孔雀 (La Paon) - 18世紀の特徴的な切妻のある建物。
・スペイン王の家 - あるいはパン屋の家。聖ユベール像とスペイン王カルロス2世像で飾られている。 ・一輪手押車 (La Broouette) - 聖ジル像で飾られている。
・雌狼 (La Louve) - 建物下部のレリーフでは、雌狼に育てられたロームルスとレムスが描かれている。 ・狐 (Le Renard) - 頂上に聖ニコラの像を戴いている。
→これらの象徴を注意してください 爆破テロなど

85 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 12:57:14.37
ギュスターヴ・フローベール
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB
>ギュスターヴ・フローベール(フロベール)(Gustave Flaubert 発音例、1821年12月12日 - 1880年5月8日)はフランスの小説家。
>ルーアンの外科医の息子として生まれる。当初は法律を学ぶが、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年に4年半の執筆を経て
>『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の
>写実主義を確立した。他の作品に『感情教育』『サランボー』『ブヴァールとペキュシェ』など。

>フロベールは作品の中から作者の主観を排除し、客観的で精密な文体を通じて作中の人物に自己を同化させることを信条とした。風紀紊乱の罪が問われた
>『ボヴァリー夫人』裁判中に語ったといわれる「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉は、彼の文学的信念を端的に表すものとしてよく知られている。

>生涯 少年期
>ノルマンディー地方の都市ルーアンにて、外科医アシル=クレオファス・フローベールとアンヌ=ジュスティーヌ・フローベール(旧姓フルーリオ)の間に生まれる。
>夫妻は六人の子供をもうけておりギュスターヴは第五子にあたるが、第二子(女)、第三子(男)は生後間もなく、第四子(男)はギュスターヴの生後すぐに死んでおり、
>ギュスターヴは9歳上の兄(父親と同じ名のアシル。後に父と同様、ルーアン市立病院の外科部長になる)と2歳下の妹を持つ三人兄妹の次男ということになる。
>父はルーアン市立病院の院長であり、幼少期から死や病を身近に見ながら育った。

>9歳の頃すでに物語を書くことを試みており、また両親に連れられて観劇に行くと劇作家を夢見て芝居の脚本を書くなどしていた。ルーアンの祭りでは悪魔と戦う
>聖アントワーヌ(聖アントニウス)の人形芝居に夢中になり、この主題は長く彼の生涯に付きまとうことになる。1831年、9歳半ルーアンの王立中学に入学。

86 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:02:22.79
>文学と歴史が得意科目で、前年からの友人エルネスト・シュヴァリエの他、アルフレッド・ル・ポワットヴァン(ギ・ド・モーパッサンの叔父)、ルイ・ブイエらと親しくなる。
>フロベールはヴィクトル・ユーゴー、アレクサンドル・デュマ・ペール、ミュッセ、より後にはヴォルテール、シェイクスピア、ラブレーといった作家を読みふけり、
>作家を夢見て物語を作ることに熱中した。10代の頃の創作にはロマン主義的な陶酔や大げさな文章が多いが、反面風刺的な小話や好色話といったものも
>多数手がけている。現存するもので最初の文章は1831年のもので、コルネイユを賛美する短文、続いて便秘の研究と称する文章が残っている。

>1836年の夏の休暇の際に一家でトルーヴィルの海水浴場へ旅行し、ここでパリで音楽出版を手がけているシュレザンジェ夫妻と出会う。14歳のフローベールは
>11歳年上の夫人に激しい恋心を抱き、旅行から帰った後にこの出会いを主題にして『狂人の手記』を執筆した。夫妻との付き合いはその後も続き、
>後に『感情教育』でもこの題材を取り上げることになる。1837年、年上の友人で先に卒業していたポワットヴァンの主催する地元新聞『ハチドリ』に、
>バルザックの『結婚の生理学』から着想を得た風刺的な作品を掲載、これが初めて公にされた文章となる。

>1838年より高等学校に入学、ユゴー、モンテーニュ、サド、ラブレー、ゲーテ、バイロンらに心酔しつつ『芸術と商業』『マテュラン医師の葬式』『ラシェル嬢』
>などの物語、また後の『聖アントワーヌの誘惑』を思わせる中世風の史劇『スマール』に力を注ぐ。哲学科に入ったフローベールは当初教授にかわいがられたが、
>しかしその後強権的な教授に代わるとクラスを挙げて反発、抗議文書を書いて署名を集めるなど嘆願活動を行なった。これにより退学を恐れた父の判断で
>1839年12月に学校を辞め、フロベールは翌年のバカロレアに独学で望まなければならなくなった。

>隠棲の始まり
>バカロレアに合格したフローベールは、父の友人に伴われて南フランスとコルシカ島を旅行した。このときコルシカ島からマルセイユに戻り、
>フロベールはここで取った宿を経営していた35歳のクレオールの女性を相手に童貞を失った。

87 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:08:01.41
>1841年、パリ大学に入学。父の進めで法学を学ぶが、自分の性質と合わない学問に非常に苦しんだ。当初は自宅で学習していたが1842年8月より
>パリで住まいを借りここで生活をはじめ、勉強の傍らでゲーテの『若きウェルテルの悩み』やシャトーブリアンの『ルネ』などから着想を得つつマルセイユでの
>思い出を題材にした作品『十一月』を書き始める。パリでは彫刻家ジェームズ・プラディエの家で憧れの作家ユゴーと対面した他、シュレザンジェ家を
>訪れて夫妻と再会し、同家に親しく訪れた。またこの頃に同い年のマクシム・デュ・カンと出会い、文学的野心を共有する二人はすぐに親友となった。

>1844年1月、ルーアンに帰郷したフローベールは、一別荘の建設予定地を見に兄とともにドーヴィルへ旅行し、中途で眩暈を起こして意識を失い昏倒した。
>てんかんと診断されたフローベールはしばらく療養したものの、授業登録のため再びパリに赴くと直後に発作が再発、事態を重く見た父の判断で
>法学の勉強は諦め、家族の目の届くところで静かに暮らすことを余儀なくされた。父は息子の隠棲場所を作ってやるためクロワッセに館を作ってやり、
>フローベールはここでかえって様々な心配ごとを免れながら、熱望していた執筆生活に専念することができるようになった。

>フローベールは平穏な生活を送りながら『感情教育(初稿)』を書き上げるが、父の財産管理のおかげで経済的な不安がなかったこともあり出版は考えなかった。
>次第に健康状態もよくなり、1845年に妹カロリーヌが結婚すると、両親とともに新婚旅行に同行した。このときジェノヴァのバルビ宮殿でブリューゲルの
>『聖アントニウスの誘惑』を見、『聖アントワーヌの誘惑』の着想を得て準備を始めた。しかし父がにわかに病気にかかり、1846年1月に急死、その1ヶ月後には
>産褥熱がもとで妹カロリーヌが死去するという不幸に見舞われる。一家の大黒柱を失ったフローベールはカロリーヌの娘(名は同じカロリーヌ)を引き取り、
>父の遺産からの年金に頼りながら母、姪と三人で、あるときはルーアン、あるときはクロワッセと住処を移すという生活を始めた。

88 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:13:58.87
>1846年7月、フローベールはカロリーヌの胸像をプラディエに依頼するためにパリに出向き、彼のアトリエでルイーズ・コレと出会う。
>すでに様々な作家と浮名を流していた11歳年上の女性詩人にフローベールは魅了され、以後数年に渡り恋愛関係に陥ることになる。

>『ボヴァリー夫人』まで
>1847年4月、激しやすいルイーズとの関係に疲れていたフローベールは、マクシム・デュ・カンとともに旅行を計画し、途中神経の発作に見舞われながら
>ブルターニュ方面を3ヶ月かけて旅行、帰郷後はデュ・カンと共同で旅行記を執筆した。この年の末よりフランスは政治的な混乱に揺れ、翌1848年2月23日、
>フローベールはルイ・ブイエとともにパリに出向き、新聞に予告のあったデモに付き従った。パリの混乱に面したフローベールは自らも猟銃を手に国民軍に参加し、
>テュイルリー宮殿では民衆による略奪を目にし、パリ市庁舎では共和国宣言を聞いた。彼が目の当たりにした二月革命の光景は、後に改筆した『感情教育』に
>そのままの形で描かれることになる。

>フローベールは再びクロワッセに籠もり『聖アントワーヌの誘惑』を書き始めたが、11月にデュ・カンがアルジェリア旅行から帰ると再び旅行への渇望が起こった。
>母の同意が得られると翌年まで『聖アントワーヌの誘惑』に専心し、旅行に出る前の1849年9月に完成させると、500枚の原稿を丸四日かけてデュ・カンと
>ルイ・ブイエに読み聞かせた。結果は惨憺たるもので、二人は文章のロマン主義的な熱狂や単調さを非難し出版に反対した。フローベールは大きなショックを受ける
>が、このとき二人からバルザックのような卑近なテーマに取り組んでみるよう勧められたことが、『ボヴァリー夫人』がフロベールの内に胚胎するきっかけとなった。

>10月、デュ・カンとともにオリエント旅行に出発。エジプトからパレスチナ、シリア、トルコ、ギリシャ、イタリアを21ヶ月かけて回る。この旅行中に梅毒をうつされて
>急激に頭髪が抜け、また太ったことで容貌が様変わりした。1851年6月帰国。9月より姦通を題材にした新たな小説『ボヴァリー夫人』の執筆を開始。
>クロワッセの自室で自身の文体と格闘、偏執的な推敲を繰り返し、執筆に疲れるとパリに出向いて友人のもとを訪れた。

89 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:20:57.00
>ルイーズ・コレとの関係も続いていたが、彼女が私生活に口を挟むことに業を煮やし、1854年に手紙を送って絶縁している。

>1856年、4年半の苦闘の末『ボヴァリー夫人』が完成。デュ・カンの主宰する『パリ評論』に分割掲載され反響を呼ぶ。この雑誌掲載された『ボヴァリー夫人』に対し、
>1857年1月に検事エルネスト・ピニャールにより公衆道徳違反の裁判が起こされるも、弁護士セナールの名弁論により無罪を勝ち取る。なお検事エルネストは
>この直後にボードレール『悪の華』の訴追を行い、こちらは有罪判決となっている。後年、この検事は匿名で猥褻詩集を出版していたことが判明した。

>1857年4月、レヴィ出版より『ボヴァリー夫人』が刊行される。すでに裁判によって知られていたことからベストセラーとなり、フローベールはこれによって
>一挙にその文名を確立した。批評家には無理解を示す者も少なくかったが、ボードレールからは好意的な評価を受け取った。この成功により著名人となった
>フローベールはパリの文壇で多くの交流ができ、とくにサント・ブーヴ、テオフィル・ゴーティエ、ゴンクール兄弟らと交流を持つようになった。
>その場での言行は『ゴングールの日記』(岩波文庫全2巻)に多く記されている。

>寡作な作家生活
>『ボヴァリー夫人』を完成させたフローベールはすぐに『聖アントワーヌの誘惑』の改作を試み、その後古代カルタゴを舞台にした『サランボー』に取り掛かった。
>作品ごとに膨大な資料を読み込み文体を練り上げる創作方法のため、フローベールは以後数年に1作のペースで少数の作品を発表していくことになる。

>1858年には『サランボー』の舞台を見て回るためチュニスを旅行し、さらに数年をかけ1862年に『サランボー』を完成。前作から一転した壮麗な古代小説に
>当惑した批評も多かったものの評判となり、ボードレールやゴーティエ、ユゴーらも賛辞を送った。中でも心のこもった評を書いたジョルジュ・サンドに
>フローベールは感動し、以後この老作家との親しい付き合いがはじまった。

90 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:27:15.11
>またこの頃にサント・ブーヴの夕食会でツルゲーネフと対面し意気投合、気の知れた仲間となる。1863年にはゴンクール兄弟とともにナポレオンの姪
>マチルド公妃の晩餐に招かれ、彼女のサロンにも出入りするようになった。皇帝ナポレオン三世にも拝謁し、1866年にはレジオン・ドヌール勲章を受け取っている。

>1869年、自らの青春時代をモデルにした自伝的な作品『感情教育』を出版。凡庸な青春時代をゆったりとした時間の流れと繊細な心理描写で描き出した今作は
>フローベールの自信作であったが、しかし批評家の徹底した無理解にさらされ、僅かにサンドやゾラからの評価を得たに過ぎなかった。本もほとんど売れず、
>フローベールはひどく気落ちすることになる。『感情教育』の失敗後は『聖アントワーヌの誘惑』にみたび取り掛かるが、普仏戦争の拡大により中断を余儀なくされた。
>1872年に書き上げると、すぐに最後の作品となる百科全書的な小説『ブヴァールとペキュシェ』の構想を得た。

>1873年には『ブヴァールとペキュシェ』をしばらく置いて戯曲『立候補者』を書くも、手ひどい興行的失敗に合う。1875年、財産管理を任せていた姪の夫
>エルネスト・コマンヴィルが破産し、あおりを受けて生活が窮乏する。フローベールはゾラやツルゲーネフら友人たちの奔走で得られた公的年金、
>ユゴーの働きかけで得られた、出勤義務のない図書館の出向職員の地位を屈辱を感じつつ甘んじて受け取った。こうした経済的な不安によって
>『ブヴァールとペキュシェ』は中断を余儀なくされ、『三つの物語』を書いて気を取り直した後で1877年にようやく執筆を再開、以後はこの長編に全力を傾けた。

>晩年には新しい世代の作家からも巨匠として認められるようになり、アメリカからヘンリー・ジェイムズの訪問も受けた。また晩年のフローベールは
>旧友の甥モーパッサンを愛弟子としてことのほか可愛がり、自作の売れ行きにも増して彼の作品の成功を気にかけていた。
>1880年、『ブヴァールとペキュシェ』の完成を見ずしてクロワッセの自宅で死去。遺体はルーアンの記念墓地に葬られた。

91 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:44:38.17
>後世への影響
>『ボヴァリー夫人』で卑近な題材を精緻な客観描写で作り上げたフローベールの手法はその後ゾラ、モーパッサンに引き継がれ、写実主義から自然主義という
>文学的な潮流を用意することとなった。その一方で徹底した文体の彫琢を通じて作者の痕跡を消し去り、作品をそれ自体で成り立たせようとしたフローベールは、
>のちのヌーヴォー・ロマンなどによってカフカ、プルーストに連なる現代文学の先駆者として位置づけられるようになり、元来評価の別れていた『感情教育』や
>『ブヴァールとペキュシェ』なども再評価されるに至った。『感情教育』を青年期から愛読したフランツ・カフカなど、その精密な文体に範を求めようとした作家も多い。
>ウラジミール・ナボコフは、法律や科学の言葉をなんら個人的な感傷をさしはさまず、皮肉な正確さを持って作品に取り入れたカフカの手法は、
>フローベールの方法とまさに同じものだと論じている(『ヨーロッパ文学講義』)。

>著名なフローベール論としては、アルベール・ティボーデの先駆的な著作『ギュスターヴ・フローベール』、サルトルの未完の大作評論『家の馬鹿息子』、
>バルガス・リョサの作家論『果てしなき饗宴』などがある。またエドワード・サイードは『オリエンタリズム』第一章において、フローベールのエジプト旅行記や
>『サランボー』、『聖アントワーヌの誘惑』の読解を通して彼のオリエンタリズムを論じ、日本の特に比較文学研究の分野にも影響を与えた。
>日本のフローベール研究者としては中村光夫、山田爵、蓮實重彦、工藤庸子などがいる他、作家では金井美恵子などがフローベールの影響下にある。

→むかしから年上の女性に翻弄される癖があったのね…(´・ω・`)
でもご本人は悪人というわけではなさそうだから、バケモノ女の干渉から抜け出せれば、特大逆転ホームラン打てるやろ(`・ω・´)
ただ聖アントニウス、てんかん、梅毒とあるから、バケモノの影響は深く大きい(`・ω・´)
「ボヴァリー夫人は私だ」の言葉通り、身の破滅、自殺への誘導の道が用意されている…(´・ω・`)
大文豪、目を覚まして超がんばれ!!(`・ω・´)

92 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 13:57:56.02
ルイーズ・コレ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC
>ルイーズ・コレ(Louise Colet, 1810年9月15日 - 1876年3月9日)は、フランスの詩人。エクス・アン・プロヴァンスの郵便局長の娘ルイーズ・ルヴォワルとして生まれる。
>若くして詩に才能を示し、地方のサロンで評判を取った後、1835年にフルート奏者のイポリット・コレと結婚。パリに移り住み、シャトーブリアン、サント・ブーヴ、
>ベランジェといった有名作家に働きかけて自身の詩集の推薦や助成金・文学賞などの支持を得る。1838年からは哲学者ヴィクトル・クザンと愛人関係となり、
>クザンは政府に働きかけて彼女への補助金が降りるよう便宜を図った。のちに生まれた娘アンリエットは愛人クザンとの間に生まれた子供である。

>その放恣な生活はパリ中に知られていたが彼女自身は世間を気にせず、1846年にはまだ無名であった25歳のギュスターヴ・フロベールとパリで知り合い、
>11歳年下の彼と新たな愛人関係を作った。この関係はフロベールが彼女に絶縁状を送りつける1854年まで続き、その間にもコレは新たな愛人を作り続け、
>そのことをフロベールにも隠さなかった。彼女が流した浮名の相手には他にアルフレッド・ド・ヴィニーやアルフレッド・ド・ミュッセなどがいる。
>前述の絶縁状は彼女があまりに自分の生活に介入しようとすることに対しフロベールが怒ったことから書かれたもので、コレはこのことで
>フロベールをうらみ続け、自作の中で彼を登場させ嘲笑の的にした。コレは1876年にパリで死去した。

サランボー ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC
>『サランボー』(Salammb?)は、1862年に発表されたギュスターヴ・フロベールの歴史小説。
>『ボヴァリー夫人』(1857年)に続く2作目の長編小説で、第一次ポエニ戦争後の古代カルタゴを舞台にしている。「サランボー」はカルタゴの将軍
>ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父親)の娘という設定の女性の名で、この人物はフロベールの創作である。巫女であった彼女は、戦争後に起こった
>傭兵の反乱において、女神タニットを祀る神殿から奪われた聖布を取り返すよう命じられ、ひとり反乱軍の指導者マトーの天幕を訪れる。

93 :名無しヒーリング:2017/05/09(火) 14:06:03.06
>彼女は聖布を取り返すが、彼女に恋焦がれるマトーと一夜をともにしたことによって彼女自身もマトーを愛するようになり、反乱の鎮圧後捕えられて
>儀式の生贄となったマトーの姿を見て煩悶のうちに死ぬ、という筋で、ロマン的な主題ながら写実的な表現技法がとられている。

>この題材は『ボヴァリー夫人』に数年間取り組んだことで卑近な題材に飽いたフロベールの、現代から離れた理想的な主題に取り組みたいと願いから
>選ばれたもので、彼はこの作品を書くためにポリュビオスの『歴史』をはじめとする夥しい量の文献を渉猟し、1858年にはチュニスを実地に訪れ物語の
>舞台を見学した。1862年にレヴィ書店より出版されると、本作を失敗作とみなし仰々しい文章を難じたサント・ブーヴの書評をはじめとするいくらかの
>批判に晒されたものの、『レ・ミゼラブル』を出版したばかりのユゴーのほかボードレール、ゴーティエ、ミシュレ、ジョルジュ・サンドなどから賞賛され
>大衆的にも成功を収めた。宮廷やサロンでは本作がもてはやされ、仮面舞踏会でカルタゴ風の衣装が流行するなど当時のモードにも影響を与えている。
>後にはムソルグスキーの未完の作品をはじめとする複数のオペラ化の試みのほか映画などの題材にもなった。

→聖婚儀礼の生贄の聖王となるか、生き残って本物の栄光をつかむか(`・ω・´)
信じるか信じないかは、あなた次第です m9(`・ω・´)ビシッ

94 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:11:03.55
ペロプス ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%97%E3%82%B9
>ペロプスはギリシア神話に登場する英雄である。ペロポネソス半島の地名はペロプスに由来している。

>タンタロスとエウリュアナッサの子。タンタロスはリディアのシピュロスからパフラゴニアにかけての王で、父はクロノス、母はレアーの娘プルートーだといわれるが、
>ゼウスやトモーロス山の神トモーロスが父だとする説、オーケアノスとテーテュースの子とする説もある。ペロプスの母エウリュアナッサは河神パクトーロスの娘だが、
>河神クサントスの娘エウリュテミスタであるという説やアムピダマースの娘クリュティアーとする説など異説が多い。

>オイノーマオスの娘ヒッポダメイアとの間にアトレウス、テュエステース、ピッテウス、アステュダメイア、リューシディケー、ニーキッペーをもうけた。
>また庶子にクリューシッポスがいた。

>タンタロス
>タンタロスは人間でありながら、ゼウスの親しい友で、オリンポス山の饗宴にも席を与えられるほどだった。しかし、タンタロスが神々をシピュロスに招いたとき、
>神を試すつもりだったのかあくまで善意からだったのか不明だが、息子のペロプスを殺し、その身体を切り刻んでシチューにして食事に出した。
>神々はみな料理の正体に気づいて口を付けなかったが、デーメーテールだけはそのとき娘のペルセポネーを失って自失状態にあったので、
>左肩の肉を食べたという。またタンタロスは、オリンポスでの饗宴から神の食物を盗んで人間の友人に分け与えた。

>神々の激怒を買ったタンタロスは、永劫の罰を受けることとなって冥府に送られ、沼の上に枝を広げた果樹に吊された。沼の水は満ちてきてあごまで届くが、
>タンタロスがそれを飲もうとして身をかがめるとあっという間に引いてしまう。果樹の枝にはさまざまな果実が実っているが、タンタロスがこれに手を触れようとすると、
>たちまち一陣の風が吹き起こって枝を舞い上げてしまう。こうして、タンタロスはやむことのない飢えと渇きに苛まれつづけている。

95 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:16:49.37
>ペロプスの復活
>タンタロスを罰したゼウスは、ヘルメースに命じてペロプスの身体を集め、大釜で煮てまじないをかけた。デーメーテールは自分が食べた左肩の代わりに
>象牙でできた肩を与え、運命の女神クロートーが四肢を縫い合わせ、レアーが生命を吹き込んだ。こうしてペロプスは輝くばかりの美少年となって生き返った。
>ポセイドーンはペロプスを一目見て愛し、オリンポスでゼウスがガニュメーデースをそうしたように、ペロプスを自分の侍童とした。

>ヒッポダメイアへの求婚
>その後ペロプスはシピュロスの王位を継いだが、トロイア王イーロスの勢力に押されてギリシアへ移った。ペロプスはオイノマーオスの娘ヒッポダメイアに
>求婚することにした。オイノマーオスはアレースの息子でピサの王だったが、「婿の手にかかって殺される」との神託を受けていた。そのためオイノマーオスは
>ヒッポダメイアへの求婚者に、自分に勝ったら結婚を許すが負ければ殺すという条件で戦車競走をさせるようにしていた。オイノマーオスの戦車を牽く馬は
>父アレースから贈られたプシュラとハルピンナという名馬で、ヘルメースの息子ミュルティロスが御者を務めていたため、求婚者はオイノマーオスがゼウスの祭壇に
>生け贄と祈りを捧げる時間は先行することを許されたにもかかわらず、みな追いつかれて殺された。こうして、すでに12人とも13人ともいわれる犠牲者が出ていた。
>殺された者の遺体は、頭や手足を王宮の門に釘で打ち付けられ、胴体は地上に投げ出されて見せしめとされた。

>戦車競走
>ペロプスはポセイドーンに協力を祈った。これに応えてポセイドーンは翼ある不死の馬と黄金の戦車をペロプスに贈った。それでもペロプスは前の求婚者たちの
>惨状を見て戦慄した。ペロプスはミュルティロスに、もし自分の味方をしてくれたら、王国の半分を与え、ヒッポダメイアとの初夜を過ごさせると約束した。
>ヒッポダメイアもペロプスに恋するようになり、ミュルティロスに報償を持ちかけたという。
>ミュルティロスは承知して、オイノマーオスの戦車の心棒に蝋でできたくさびを差し込んでおいた。

96 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:22:31.65
>競走が始まると、オイノマオースは猛然と追跡し、逃げるペロプスの背中をいままさに突こうと槍を構えた。しかしそのとき、彼の戦車の車輪が外れて飛び、
>オイノマーオスは転げ落ちて戦車に巻き込まれて死んだ。オイノマーオスは息絶える前にミュルティロスの裏切りに気づき、彼を呪った。

>ミュルティロスの呪い
>競走に勝ったペロプスは、ミュルティロスとヒッポダメイアを乗せて戦車を西に走らせた。ミュルティロスとの約束を果たしたくないペロプスは、エウボイア島の
>南端ゲライストス岬まで来ると、ミュルティロスを蹴飛ばして墜落させた。ミュルティロスは海に飲み込まれながらペロプスとその一族に呪いをかけた。
>ミュルティロスは、ヘルメスによって空に上げられぎょしゃ座になったともいう。ペロプスはさらに戦車を西に駆り、大河オーケアノスにまで達した。
>ここでペロプスはヘーパイストスから人殺しの罪の清めを受けた。

>ペロプスの業績
>ペロプスはオイノマーオスの王座を継ぐと、勢力を拡大して支配地の名をペロポネーソスすなわち「ペロプスの島」と改めた。ペロプスはさらにエペイオス王から
>オリンピアを奪い、ギリシア全土の名誉と尊敬の対象となった。ミュルティロスを殺した罪の償いとして、ペロプスはヘルメースの最初の神殿を建て、
>オリンピアの戦車競技場にミュルティロスの記念碑を建てた。しかしアルカディア王ステュムパーロスについては、武力で勝てないと見て友好の席に招いて謀殺した。
>この罪のため、ギリシア全土は飢饉に見舞われた。このときアイアコスがゼウスに祈って雨を降らせたという。

>ペロプスの子孫
>ペロプスとヒッポダメイアの間には数多くの子が生まれた。トロイゼーンの王でテーセウスの祖父となるピッテウス、互いにミュケーナイの王位を争うことになる
>アトレウスとテュエステース、メガラーの王となったアルカトオス、アルゴナウタイのひとりヒッパルコス、エウリュステウスとアルキュオネーの母となったニーキッペー
>などである。クリューシッポスは、ラーイオスがオイディプースに殺される遠因となった。ペロプスの子孫は骨肉の争いに巻き込まれるなど
>悲惨な運命をたどる者が多く、「呪われた一族」ともいわれる。

97 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:34:01.67
稀勢の里が休場、自ら申し出 師匠・田子ノ浦親方「相撲にならない」/夏場所 ttp://www.sanspo.com/sports/news/20170524/sum17052409210007-n1.html
>大相撲の東横綱稀勢の里(30)=本名萩原寛、茨城県出身、田子ノ浦部屋=が夏場所(東京・両国国技館)11日目の24日、日本相撲協会に
>「左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷で約1カ月の通院加療を要する」との診断書を提出して休場した。

>3月の春場所で痛めた負傷が完治せず、10日目には関脇琴奨菊に完敗して2連敗で4敗目(6勝)を喫し、不振だった。3場所連続優勝の可能性は消滅した。

>師匠の田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)は23日夜から24日朝にかけての話し合いで、横綱本人が「ちょっと力が入らない。休場させてください」と申し出た
>ことを明かした。「悪化したわけではないが、8日目を過ぎて力が入らなくなったということだった。横綱としての責任もあるから、決断に至った」と述べた。

>稀勢の里の休場は大関時代の2014年初場所千秋楽以来2度目。11日目の対戦相手、関脇玉鷲は不戦勝。4横綱のうち、鶴竜に続いて2人が休場となった。

>稀勢の里は新横綱だった春場所13日目に負傷しながら、強行出場して劇的な逆転優勝を果たした。4月の春巡業を全休し、急ピッチの調整で
>夏場所への出場にこぎ着けた。前半戦を6勝2敗で折り返しながら、9日目からは左腕をほとんど使えていなかった。

→稀勢の里がタンタロスに殺されたペロプス(生贄)の型を着せられています
@やけどに注意(風呂のお湯の温度) A車の事故に注意(特にタイヤ・車輪への細工に注意) B身近な人との相克による刃傷沙汰に注意
ttp://www.asagei.com/excerpt/81542

311の地震の直前の大相撲に何があったかを思い出してください 今度は稀勢の里を生贄にして引き金を引くつもり
みんなで稀勢の里を守りましょう(`・ω・´)

98 :名無しヒーリング:2017/05/24(水) 23:47:50.96
>>94 トモロス山から  アラシェヒル ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%92%E3%83%AB
>アラシェヒルはトルコ西部マニサ県にある古代から続く町。かつてはギリシャ語で「フィラデルフィア」と呼ばれていた (同名の都市は、現在のアンマンをはじめ
>古代には数多くあったので、注意が必要である)。アナトリア半島の西海岸のやや内陸よりで、クズ・チャイ川(コガムス川 とも)の谷に位置し、
>ボズ山(Boz Dagh、トモロス山 (Tmolus) とも)の麓にある。エーゲ海に面した港町・イズミル(ギリシャ語:スミルナ)の東にあり、鉄道で結ばれている。

>歴史 都市の建設   この町は紀元前189年にアッタロス朝ペルガモン王国の王、エウメネス2世が建設した。エウメネス2世はこの町を、彼の弟で
>後継者であったアッタロス2世への友愛のため、弟のあだ名である「ピラデルポス」と名づけた。ピラデルポスとは「兄弟を愛する者」という意味で、
>アッタロスは兄エウメネス2世への忠誠心の深さからこのあだ名が付けられていた。同様に「フィラデルフィア」と呼ばれていた都市は現在のアンマン(ヨルダン)
>などが大きく有名だが、このフィラデルフィアは『ヨハネの黙示録』の宛先となっている小アジアの7つの教会のひとつがある町として有名である。
>この都市は地震が頻発する地帯にあった。    →地震注意

>跡継ぎを欠いたアッタロス3世は、紀元前133年に死去する際、彼の王国を(フィラデルフィアの町も含めて)同盟国ローマに遺贈した。ローマは
>紀元前129年にイオニア地方と旧ペルガモン王国地域を合わせ、属州・アシア(Asia)を発足させた。

>現在   現在、アラシェヒルの街はオスマン帝国末期に建設されたイズミルとアンカラを結ぶ鉄道網の途中にあり、1990年時点での人口は36,649人である。
>アラシェヒル付近では、鉄道は広く肥沃なヘルムスの平野を見晴るかす急斜面を登るように建設され、その路線は遠くから見ると堂々とした姿を見せている。
>この街には正教会の大主教座があり、いくつかのモスクとキリスト教会が並存している。(略)   →鉄道事故注意

99 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:14:53.00
>黙示録におけるフィラデルフィア(アラシェヒル)
>ヨハネの黙示録の冒頭(1:11)で、著者ヨハネは小アジアの七つの教会に対し書簡を出しているが、その一つである「フィラデルフィア」は、数多くある
>フィラデルフィアという名の町の中でも現在のアラシェヒルの事を指すと推測されている。フィラデルフィアは七つの教会のうち、六番目に言及される。

>関連項目   聖餐 - 初期キリスト教における「聖餐 (エウカリスト)」の用語の最初期の使用例として、アンティオキアのイグナティオスがフィラデルフィアの
>共同体に充てて書いた手紙がある。

聖餐 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%A4%90#.E5.88.9D.E6.9C.9F.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E6.95.99
>聖餐とはイエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式。「エウカリスト」(ユーカリスト)の日本語訳。「聖餐」はおもに西方の教派で
>使われる訳語だが、カトリック教会では「聖体拝領」、「聖体の秘跡」と呼ばれる。日本の聖公会、プロテスタント教会などでは「聖餐式」とも呼ばれる。
>正教会における「聖体礼儀」、「聖体機密」「領聖」に相当する。「主の晩餐」の語はいずれの教派でも使われる。

アンティオキアのイグナティオス
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B9
>アンティオキアのイグナティオス(35年頃 - 107年?)は、アンティオキアの第2代主教(司教)。正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、
>ルーテル教会などで聖人とされる。使徒教父の一人。

>正教会では「神品致命者」という称号のほか、「捧神者」(ほうしんしゃ、ギリシア語: Θεοφ?ρο?, ロシア語: Богоносец)という
>称号を付されて呼ばれる。

100 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:24:24.06
神品致命者 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%93%81%E8%87%B4%E5%91%BD%E8%80%85
>神品致命者(しんぴんちめいしゃ)とは、正教会の伝統において神品(主教・司祭・輔祭)でかつ致命者(信仰の為に死んだ聖人)である者を言う。日本正教会の訳語。

>>99 聖餐つづき  初期キリスト教
>ギリシア語の「感謝」を意味する「エウカリスト」という言葉は初期のキリスト教の歴史にすでに現れる。たとえばアンティオキアのイグナティオスは
>110年ごろのスミルナとフィラデルフィアの共同体にあてた手紙の中で聖餐の儀式を指して「エウカリスト」という言葉を用いている。150年ごろ、
>ユスティノスも『弁明』 (Apologia) の中でエウカリストと呼ばれる聖餐の儀式の詳細を描いている。

>初代教会では「アガペーの食事」と呼ばれる儀式が行われていた。それはパンとワインを分け合って、キリストの最後の食事を思い起こす典礼儀式であった
>(「?γ?πη」というのはギリシア語で愛を意味する言葉の一つで、「無私の愛」というニュアンスを含んでいる)。

アガペー ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%9A%E3%83%BC
>アガペーは、キリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を表す。神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、神が人間を
>愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので、「無償の愛」とされる。また、それは不変の愛なので、旧約聖書には、神の「不朽の愛」として出てくる。
>新約聖書では、キリストの十字架上での死において顕された愛として知られる。

>またキリスト教においては、神が人間をアガペーの愛において愛するように、人間同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされており、キリスト教徒の
>あいだでの相互の愛もまた、広い意味でアガペーの愛である(マタイ福音書22、37 - 40)。

101 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:28:51.66
>アガペーの選択
>神が人間を無償において、限りなく愛していることは、『新約聖書・福音書』において、イエズスが弟子たちや人々に述べ伝えていることである。
>『マタイ福音書』にある著名な「山上の垂訓」においても、「神は、善なる者にも、悪なる者にも、変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる」というように、
>人間をその行為や社会的地位や身分や性別などによって区別せず、恵みを与えてくれる存在として宣明されている。

>また同じ「山上の垂訓」において、イエズスは、知人や友人、家族などを愛するだけでは十分ではない。そういうことは異邦人や取税人もしている。
>わたしの教えに従う者は、みずからの「敵」さえも愛さねばならないとして、単なる「隣人愛」以上の普遍的な人間愛を語っており、このような愛を通じて、
>「神の子」となりえるのであるとしている。このことは、「良きサマリア人」の譬えのなかでも示唆されている。ここでイエズスが述べている「愛する」という言葉は、
>ギリシア語原文では αγαπειν という動詞であり、この動詞の名詞形が「アガペー」である。

>無限の愛の神学
>神の愛、即ち「アガペー」は、無限にして無償であるというのは、この世の「悪」や「悲惨」の存在からして疑問とも考えられる。神が無限・無償に人間を
>愛してくださるのなら、何故、この世界には悪や悲惨や不幸や差別や貧困や、様々な矛盾が存在するのか。原始キリスト教の出現と並行して、
>擡頭した地中海世界でのグノーシス主義は、この世の悪の原因は、この世が「悪の神・偽の神」によって創造された為であるとした。

>グノーシス主義の主張は、その基本的な「悪の実在」に関して明晰であり、非常に説得力がある。このため、敬虔なキリスト教徒の母の元に生まれながらも、
>思想的に、グノーシス主義の主張に共鳴したヒッポの聖アウグスティヌスは、東方グノーシス主義最大の教派であるマニ教の信徒となった。

102 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:32:31.79
>善の欠如としての悪
>しかし後にアウグスティヌスはキリスト教に回心(復帰)し、キリスト教の立場より、マニ教の主張を論駁する。この世に「悪の現象が実在」する
>根拠議論の前提として、アウグスティヌスは、神は世界を善でもって創造したのであり、その世界はまた多様な世界であることを指摘した。

>この故に、世界が具体的な実在として現象するにおいて、善の現れが見かけ上で濃淡のあるものとなり、ある善の現象が実現するためには、別の現象において、
>そのような善が実現していないという事態が生じ、世界全体として、相対的に、善と悪が混合して存在するように認識されるのであって、「悪そのもの」は
>実は実在していないとの説明を行った。これを、キリスト教神学的に「善の欠如としての悪」という。

>アウグスティヌスの説は詭弁論法のようにも見え、マニ教の代表的な思想家とのあいだの論争はきわめて激しいものであった。また、当時、西ローマ帝国が
>ゲルマン族の侵略によって荒廃した理由を、異教キリスト教がローマに広がった為であるとして、キリスト教を非難する主張が存在したが、これに対しても、
>アウグスティヌスは反駁して『神の国』を著し、西ローマ帝国の荒廃はキリスト教の興隆が原因ではなく、地上の歴史は、神の無限の善と愛の実現へと向かう、
>神の国の歴史の一面であるとして、世界史的歴史観を築いた。

アウグスティヌス ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9
>アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)あるいはアウグウティノは、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。
>ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した
>教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派で聖人。
>母モニカも聖人である。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。

103 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:36:01.99
>なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名のアウグスティヌスであるため、本項のアウグスティヌスはこれと区別してヒッポのアウグスティヌスと呼ばれる。

>生涯
>アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのスーク・アハラス)に生まれた。
>若い頃から弁論術の勉強を始め、370年からは、タガステの富裕な市民ロマニアヌスの伝で西方第2の都市カルタゴにて学ぶ。父パトリキウスは371年、
>死の直前に受洗した。翌372年、同棲中の女性(氏名不詳)との間に私生児である息子アデオダトゥス(Adeodatus、?a-deo-datus? から「神からの贈り物」の意。
>372年-388年)が生まれる。同棲は15年に及んだといわれる。
>当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている。

>キリスト教に回心する前は、一時期(373年-382年)、善悪二元論のマニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、
>マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。

>当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに383年に行き、更に384年には、その北に位置する宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち、
>ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。
>受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」
>第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる。

>387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送ったが、この時に彼が定めた規則は
>「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を
>送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。

104 :名無しヒーリング:2017/05/25(木) 00:42:33.74
>391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、更に396年には司教に選出されたため、その時初めて
>聖職者としての叙階を受けた。

>410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対し、天地創造以来の「神の国」と「地の国」(次節「思想」参照)の
>二つの国の歴史による普遍史(救済史)の大著『神の国』によって応えた。この著作はアウグスティヌスの後期を代表する著作となる。

>430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、
>ローマ帝国の落日と合わせるかのように、古代思想の巨人はこの世を去った。

>思想 「神の国」と「地の国」
>(中略)J・B・モラルによれば、アウグスティヌスの考えでは異教国家に真の正義はなく、キリスト教に基づく政治社会だけが正義を十分に実現できる国家であり、
>非キリスト教的な政治社会には「国家」 (Respublica) の名称を与えてはいない。アウグスティヌスは、国家を卑しい存在とし、堕落した人間の支配欲に基づくもので、
>その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕で、それはカトリック教会への従属によって得られる。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた
>信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも影響を与えた。

>記念日   
>アウグスティヌスの記念日は彼が死去した日とされる8月28日である。彼は西方においては醸造業者、印刷業者、神学者の守護聖人であり、
>多くの地域、都市の守護聖人ともなっている。

105 :名無しヒーリング:2017/05/26(金) 11:09:16.70
キセノンにかけられた呪いのことを書いたので、バケモノ女が半狂乱になっています
呪いが成就する前に見破られると、呪いはかけた者にすべて返るので

その半狂乱になったバケモノ女が今執念を燃やしているのが、高須先生です
今朝うつらうつらしていた時に、名前がはっきりと浮かんできました
暗殺にご注意ください 

バケモノ女は他人も使役できるし、先生が体調を崩したりしたときに、意識を乗っ取ろうとすることもできる
意志が強い方だから大丈夫だと思いますが、あらゆる可能性にご注意ください

キセノンのことを書いてから、バケモノ女がムキになって私の意識を乗っ取ろうと必死(`・ω・´)
焦りで半狂乱になっているので、むやみに恐れることはありませんが
捨て身でぶつかってこられると、対処するほうにもそれなりにエネルギーが必要なので、ご注意ください(`・ω・´)

106 :名無しヒーリング:2017/05/26(金) 11:14:59.42
狙うとしたら、高須先生のヘリ移動かな
ご自分で操縦されますね
ご注意願います!!!(`・ω・´)
しばらくは控えていただいたほうがいいかも…(´・ω・`)

107 :名無しヒーリング:2017/05/29(月) 09:03:48.86
魔女メディア ttp://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/witch.html
>かねてからメディアの激しさに戦慓していたイアソンは、メディアと別れて、 コリントの王女グラウケーと再婚しようと考える。
>これを知ったメディアは、グラウケーに素晴らしい花嫁衣装を贈るが、 グラウケーがそれを着た途端、花嫁衣装は紅蓮の炎と化し、
>娘を助けようと駆け寄った父の王もろともに焼き殺してしまう。
>その上、メディアは、イアソンとの間に生まれた二人の自分の子供まで殺し、 龍の引く戦車に乗ってイオルコスを去る。

ttp://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/05/29/kiji/20170529s00041000146000c.html

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E4%BC%9D%E8%AA%AC

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E7%A5%9E%E5%9F%8E%E6%96%AD%E5%B1%A4%E5%9C%B0%E9%9C%87

これが六日町断層から糸魚川−静岡構造線断層帯南部への連動の引き金らしい
お姉さんは、こんな神話級のバケモノ相手にずっと一人でよく頑張った 言葉がない
最後、大切なものを守ってください

108 :名無しヒーリング:2017/05/29(月) 17:46:04.26
お姉さん、心配しないでね
今夜はまだ大丈夫
なので平常心、平常心ヽ(・∀・)ノ

これから先の段取りを大まかに見せてもらったので、心配しないでね
すべて上手くいくから、悪いことにはならないから
お姉さんは、良心に沿ってできることをすべてしてきたから、大丈夫だからね(^-^)
とにかく平常心で!(`・ω・´) あとは任せて!(`・ω・´)

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