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自転車でキャンプツーリングに行くぞ29

294 :ツール・ド・名無しさん:2018/01/29(月) 07:22:06.21 ID:553ZTnyc.net
れている。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊と
なった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を
経て村山口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗
教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主
に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設され
たが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊さ
れた。これらは再建されたが、その復興は須走口より遅かった
。主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などが
あった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた
静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、153
2年以降不連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は1
8世紀後半から19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2
,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。1826年
の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記
述もあるが、1860年、初の外国人登山となる英国公使オ−
24−ールコックは大宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざ
した。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子
が確認できる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者
は増加傾向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿
場口利用者の増加により衰退し、これへの対策として1906
年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口
)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は
登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道
の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡の推定
は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などを
ある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登
山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起
点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起
源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉
田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられて
いる。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「
すはま口」の名が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須

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