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ハーバード大学教授、関東大震災での『朝鮮人虐殺』も否定 米国韓人団体、糾弾集会予告 ネット「朝鮮人が横浜の警察署を襲ったんだろ [Felis silvestris catus★]

1 :Felis silvestris catus ★:2021/02/18(木) 18:09:31.25 ID:CAP_USER9.net
https://anonymous-post.mobi/archives/6551
[アンカー]日本軍慰安婦被害者を「売春婦」と規定する論文を書いたマーク・ラムザイヤー、ハーバード大教授が関東大地震の朝鮮人虐殺も否定したことが確認されました。米国の韓国人団体は3.1節にハーバード大の前でラムザイヤーの辞退を促す集会を開くことにしました。パク・へジュンPDです。
[リポーター]2019年に発表されたマーク・ラムザイヤー、ハーバード大ロースクール教授の論文です。聯合ニュースが入手したこの論文を見ればラムザイヤー教授は関東大地震の朝鮮人虐殺を否定したことが確認されました。論文は非正常状況で私的な警察力の使用を正当化する内容を含んでいるが、その例として1923年、日本関東地域で発生した大地震をあげました。

大地震発生後、日本人自警団が在日朝鮮人を殺害したことは認めるが、重要なのは虐殺の有無ではなく朝鮮人の犯罪範囲と実際の殺害された朝鮮人の数だと強調しました。

ラムザイヤーは当時、朝鮮人が犯罪を犯したので自警団の標的になったとし、大地震後に起きた関東地域の火災を韓国左翼勢力の仕業と既定事実化しました。

引き続き日王暗殺事件主謀者とねつ造された朴烈(パク・ヨル)に対して「明白な暗殺企図」と規定するなど日本右翼の見解をそのまま表わしました。

また、自警団が殺した朝鮮人の数が膨らんだとし「大地震の時に亡くなった朝鮮人の数は2人以上1万人以下」という日帝時代の弁護士の発言を聞いて「皮肉な言葉だが、それが正しい」と話しました。

論文は朝鮮総督府の報告書と資料を根拠に提示しました。一方、米国の韓国人団体はハーバード大に書簡を送って「慰安婦は売春婦」という主張を入れたラムザイヤーの論文を撤回させ直ちに辞任するなどの措置を要求しました。

マサチューセッツ州韓人会は来月1日、三一節(サムイルチョル)をむかえてハーバード大前で集会を開く計画とし参加を訴えました。

聯合ニュースTV、パク・へジュンでした。

ソース:聯合ニュース(韓国語)ラムザイヤー、関東朝鮮人虐殺も不正…3.1節ハーバードの前糾弾集会
https://m.yna.co.kr/view/MYH20210217015400038?section=video/all

(略)

92 :ソーシャル名無しさん:2024/01/12(金) 19:31:54.86
4.一日夕刻、麹町内幸町二丁目(虎ノ門外)東京乗合自動車会
社専務堀内良平が、同社へ帰る折に、倉庫と本社との間に於て、
煙の燃えるのを見て、駆け付けると、襤褸(ぼろ)に石油を注ぎ、  (←ボロ布に石油を注いで放火する)
放火するものであったため、直ちに座布団を持って行き、これを
被せてようやく消し止めることができた。

5.震災直後、帝都の警察呆然その能力を失った際に、陸軍士官
学校長 津野田(つのだ)中将は決然と生徒を指揮し、各方面に亘って、
もっぱら保安の維持、および罹災者の救護に従わせていたが、二日
正午過ぎ頃、浴衣に兵子帯を締めた学生風で二十二〜三才位の
男がいた。あたかも士官学校内に収容した負傷者を訪ねるかの
ように装い「山田さんがここへ来ていないか」と問いつつズンズン
奥の方へ侵入して行こうとしたので、忽ち兵士の怪しむ所となり、誰何
の上これを訊問すると、その際懐中に爆弾を隠しているのを発見し、
直ちに逮捕したが、以上の青年は鮮人で、捕えられながら豪語して
「自分は校長を殺しに来た者だがその目的を果たさずして捕えられ  (←爆弾テロで殺人を企む)
たのは残念だ!」と叫びつつ、連れて行かれた。

                              (1923年9月)

93 :ソーシャル名無しさん:2024/01/12(金) 19:37:35.65
6.二日午後六時頃、牛込加賀町五番地 辻嘉六氏のすぐ後ろの
大化会へ石油を注ぎ放火した者があったが、忽ち大化会の山中理一 (←石油を注いで放火し逃走)
の発見する所となり、同人は一方では会員にこれの消防に従わせ、
一方では自らその放火者を追跡すると、彼は約一町半位の所にある
林某の家に逃げ込んだのを付近の応援により百方捜索したが、
遂に発見することができなかったと言う。

7.四日夜十一時頃、牛込方面より闇夜の中、一人の男が追われて来て
市ヶ谷見附停車場と反対側の深い方の濠中へ飛び込んだ。
同所の歩哨がこれを認知すると、自動車の灯火を集中して探視し
つつこれを銃殺した。同人は日本人か鮮人か知らないとは言え、
牛込方面のある路地口において土瓶のようなもので石油を注いで  (←土瓶で石油を注いで放火)
いたのを発見された旨、追跡者の談とのこと。

                             (1923年9月)

94 :ソーシャル名無しさん:2024/01/12(金) 19:43:17.44
8.二日午前十時頃、牛込神楽町と若宮町との間にある家の物
置小屋に潜み、何事かをしつつある者を子供らが発見するところ (←子供の目は騙せない)
となり、騒ぎ出したため、日本大学教授平元平吾氏は近隣の者と
駆けつけ、その逃げ出した者を物理学校の傍で取り押えたところ、
年齢三十歳位、詰襟白洋服を着た一見紳士風の鮮人にして、
菊版紙大二寸厚さ位の角錐に揮発油を入れたのを持っており (←「菊版紙大二寸厚さ位の角錐に揮発油を入れたの」とは?)
また物置にも揮発油がこぼれており、疑いなく放火犯であること (←疑いなく放火犯)
から平元氏は証拠物件を添えてこれを神楽坂署に引渡したが、
同署にはこの時すでに二十余名の鮮人が拘留されていたと言う。 (←この時すでに二十余名の鮮人が拘留!)

                         (1923年9月)

95 :ソーシャル名無しさん:2024/01/12(金) 19:48:53.91
9.七日午前三時頃、早稲田鶴巻町青年団の警戒先を、自転車で走り過ぎようとする美術学校の
制服制帽を着けた、年齢二十二〜三歳位の男がいた。団員がこれを誰何して、その行先を問うと  (←他人の制服制帽で変装する習性)
「憲兵司令部の伝令で大塚へ行く者だ」と答えたので「何か書類でも携帯しているか」と質すと、
「実は浅草分遣隊森某の私用だ」と答えるなど、その言辞すこぶる曖昧なため、念のため在郷軍人  (←身分を偽る習性)
曹長某を招いてこれを取調べる事とし、同曹長は突如として隊長の名を問うたが、彼はこれに答える  (←すぐにボロが出る)
ことができず、よって身体検査をしたところ、赤布を持っていたため、いよいよ社会主義者もしくは
不逞鮮人の使者であることを認め、補助憲兵及び軍隊の出張を求め、再検査をしたところ、唐紙様  (←社会主義者または不逞鮮人)
の赤紙に三十余名の鮮人らしい名を列記したもの及び諺文様の文字にて書いた密書と、衣装中より
百数十枚の徽章様のものとを発見したため、憲兵は「これは生きた証拠だ」と言って群集の激昂する (←群集を怒らす)
のを和らげ、これを引って立てたと。

                                                 (1923年9月)

96 :ソーシャル名無しさん:2024/01/12(金) 19:53:38.77
     七、麻布、芝方面の事実

1.十七日午後十時頃、麻布霞町増田屋蕎麦屋の横道において、
一人の社会主義者が、巡回中の憲兵に捕えられたが、彼は年齢  (←テロリスト)
二十二〜三才にして、その懐には短刀一本、拳銃英国製一丁、  (←短刀一本、英国製拳銃一丁で武装)
実弾六発と暗号を記した紙六枚と宣伝ビラを所持していたと言う。 (←実弾六発と暗号帳と宣伝ビラ)

2.二日夜十時頃、芝区三田四国町の自警団員らは憲兵の触れ回りにより
警戒中、鮮人六名が通過するのを誰何し、取調べの結果、一人は拳銃、  (←鮮人を見たらテロリストと思え)
他は短刀、或いは鳶口様のものを携えていたため、群集はこれを殺そうと (←殺すのが先か、殺されるのが先か)
したが、なだめる者がいて、遂にこれを三田警察署に引き渡した。

                             (1923年9月)

97 :ソーシャル名無しさん:2024/01/12(金) 20:01:47.17
     第二章

東京市外各方面に於ける不逞鮮人及び社会主義者の行動

     一、大島方面の事実

1.亀井戸、大島、砂町、小松川には従来、鮮人約四百五十名、 (←鮮人450人、支那人1270〜80人)
支那人約千二百七〜八十名居住しているが、
震災前に至り、飴売業者の入り込んだのが特に多数に及んだ。 (←飴売業者もほとんど鮮人)

2.南葛飾労働会及び亀井戸友愛会理事平沢計七なる者、かねて支那人及び鮮人労働者の
世話をしていたが、二日正午頃、労働者風の者多数を引き連れ、不逞鮮人が毒薬を井戸に  (←世話係が風説流布)
投ずるとか言いつつ宣伝し歩き、また特に鮮人扇動の疑いがあるため、大島と砂村との間に
架かる新開橋において習志野軍隊と警察との手に捕縛され翌日軍隊によって銃殺された。
彼はその際三たび革命萬歳を唱え、従容として死に就いたと言う。               (←革命万歳と言いつつ銃殺)
尚お彼はかねてその死を覚悟していたようで、拘引の途中亀井戸に於て曽識(?)の大島
町会議員某に逢い「自分は最早生きては帰れないだろう」とその覚悟を告げたと言う。  (←テロを主導したのか)

                                          (1923年9月)

98 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 00:29:52.75
3.通称■■■■なる者あり、民労会員と称し、前科五犯の無頼漢にして亀井戸  (←ロクなのいない)
署に拘留中だったが、震災が起ると同時に同署を解放されたのを機会とし、その (←監獄が倒壊し、収監できなくなった)
部下二十余名の無頼漢を指嗾(指差しそそのかす)し、窃盗強盗をやりまくり、  (←やること一緒)
また朝鮮人支那人の二名を惨殺するなど、乱暴極まりなかったが、亀井戸遊園地
駐在所において反抗したため巡査より斬殺され、同時にその徒党二十余名も   (←成敗)
捕縛され、その中には放火未遂者も二〜三名いたと言う。

4.二日午後三時半頃、大島町の五百羅漢において、鮮人八名が捕えられ、
いずれも自警団員によって殴打され、瀕死の状態になったが、
会々(たまたま)軍人が来て、これを取調べたところ、その内の一人は、
「名古屋に爆弾六万発ほど隠してある」と言ったまま遂に絶命したと言う。  (←関東大震災は爆弾放火テロ)

5.三日午後四時頃、大島町新開橋において、三名の鮮人、
軍隊により殺されたが、その押収品はあたかも爆弾の如く、
軍人は「触ったら危険、ないない」と言いつつ持って行ったと。

                                 (1923年9月)

99 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 00:33:30.53
6.二日大島町より行徳に通ずる道に当たる中川橋に於て
鮮人三〜四十名と青年団が衝突し、鮮人多数のため青年   (←朝鮮人暴動は実話)
団側にも死傷少なくなかったが、扇町三十五番地に居住する
竹本柔道道場の弟子らが抜刀にて応援しつつある中、
軍隊の応援を得て鮮人を鏖殺(皆殺に)した。        (←成敗)

7.三日夜、小名木川自警団らが六名の鮮人を追跡すると、
彼らは拳銃を発砲し、反抗したので兵士により射殺された。 (←鮮人が拳銃を発砲しながら逃走、兵士により射殺)

8.二日夜、京成電車四ツ木駅に於て十七〜八名の鮮人が (←鮮人が拳銃を発砲し、軍隊、軍人と衝突し射殺)
拳銃で、軍隊及び在郷軍人と衝突し、銃殺された。
相撲年寄春日野の別荘には、その時の二個の弾痕が残っ
ていた。
                         (1923年9月)

100 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 00:37:43.29
9.砂町の砂村田甫に秋山藤四郎なる土木請負業者あり。乾分(こぶん:子分)二〜三百人を有する身分だったが、
九月一日は正に勘定日に当り、支払準備中、突然地震にあった為、金壱千二〜三百円を懐に入れて護身用の  (←不逞鮮人襲来に備えた)
仕込杖を携え、両三名の子分を連れ、新開橋まで来かかった時、扇橋署員に捕えられ、間もなく同方向に
出動した習志野軍隊へ、災時盗賊として引渡されたが、軍隊で取調べた結果、事情が判明し、釈放されたがまた
程なくして、再び扇橋署員に捕えられ、今回は管轄違いとなって亀井戸署に引渡されたが、同署では竹刀を以て
乱打半殺しとした後、これを軍隊に引渡したため軍隊では警察の報告を信じ、遂にこれを銃殺するに至った。   (←不逞鮮人と間違われた悲劇)
本人家族はこれを聞いて大いに驚き、扇橋署に行き死体の下渡を求めたところ、既に保釈を許して帰ったとの事だが、
家族は一署員の言によってその殺された状態を漏れ聞いたので、当事件を弁護士秋山某に依頼するに至った。
これにより秋山弁護士はまず亀井戸署に行き、交渉する所があったが同署では軍隊に渡したと言い、軍隊では
扇橋署に渡したと言い、扇町署では保釈したと言い、曖昧模糊の答をし、未だ何ら要領を得ないと言う。

                                                     (1923年9月)

101 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 00:44:32.40
10.大島方面に於て殺された朝鮮人は、支那人を合わせて
およそ四百五十名位に達したが、二日自警団にて極力警戒中 (←暴動強盗放火爆弾銃撃毒薬で殺された日本人はその数百倍)
鮮人副団長及び会計と称する者ら、現金三万余円を懐にし  (←今の約1億円。どうせ奪った金)
(捕縛の際これを押収した)大島七、八丁目に居住する支那人 (←カネで支那人も操る朝鮮人)
を指差し「一名に付き金八円宛を与えるから我らと行動を  (←今の約2万4千円)
共にせよ」と説き、支那人はこれに応じ、同日午後に至り
殆んど全部その姿を消したが翌三日、同副団長は支那人と (←現われては消えるテロ集団)
共に軍隊のために捕縛、銃殺された。

11.二日、大島一丁目全部、二丁目半分及び亀井戸
城東電車十軒川停留場より橋本製綿場を経て
堅川河岸の縄倉庫に至る範囲、戸数二千ばかりを焼き
払った火災は亀井戸三百二十九番地、渡邉製菓場の
付近にある肥料置場の藁に支那人が放火したものであり、 (←関東大震災は大放火テロ)
その支那人は捕縛の上銃殺された。

                       (1923年9月)

102 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 00:49:18.75
1.二日、寺島村に於て数百の鮮人が四列となり青旗を (←鮮人が隊列を組んで襲来もどうやら実話)
立てて来たが、やがて大正道路に於て婦女子が強姦され、 (←婦女子強姦も実話)
或いはされた者が少なくなかったのは彼らが四方に散在
したことによる仕業に違いないと村民らは皆推断していた。

2.三〜四日頃、亀井戸水神の森の原に於て、避難者を
装い小屋掛けをした鮮人あり。爆弾多数を所持していたが (←爆弾放火テロのため)
近衛歩兵によって取押さえられた。また大島町のある
長屋には十五名の鮮人、爆弾を縁の下に隠していたのを  (←縁の下に爆弾を隠す)
発見し、同地自警団に取り押えられた。

3.砂村小学校には、三〜四日頃、三度の放火あり。 (←学校にも放火。実験室の薬品が倒れたのではない)
いずれも消し止められたが、村民らはこれを鮮人の
せいに違いないと観測していた。

                     (1923年9月)

103 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 00:54:10.40
     三、巣鴨、田端、尾久方面の事実

1.三日夜、巣鴨、上駒込字染井墓地付近の広場に於て、
一鮮人が、避難者間に混じって、爆弾一個を所持して  (←数え切れないくらいの爆弾テロリスト)
いるのを発見し、青年団よりこれを警察に引渡した。

2.十五日夕刻、西巣鴨町宮仲一九三〇番地先の監獄通り
に於て、同町一九一七鈴木恵作の長男信吉(十九)は    (←住所番地氏名まで明示)
夜警中、巣鴨署刑事某を誰何すると、通り合せの同署巡査 (←誰が敵で、誰が味方かも分からない)
約三十名は信吉を袋叩きにし、信吉は負傷のため気絶し  (←相互が疑心暗鬼)
直ちに付近福武病院に入れて手当てを加えたが、十六日朝
遂に死亡したと言う。
                         (1923年9月)

104 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 01:02:31.57
3.二日夜、田端二番地大澤某宅の塀に放火あり。石油を注いだ  (←ボロ布に石油を吸わせて放火する)
襤褸(ぼろ)に点火したもので、これと同時に四〜五箇所に放火が (←四〜五箇所に放火)
あったが、青年団がそこに駆け付けたところ丁度三名の鮮人が
逃げ去ろうとするのを発見し、直ちにこれを捕縛して富士前警察に
引渡した。これと同時に鮮人が止宿している同番地白井某方の   (←あちこちで放火鮮人が捕まっていた)
二階に踏み込み、これを取調べたところ、始めは九州人と称したが
遂に鮮人であると自白したので警戒上、六番地に止宿した四名の
鮮人と共にこれを富士前警察に引渡した。

4.二日の晩、田端駅の上に、騎兵の手に鮮人男三名、
女二名、捕えられたのを目撃した者あり。
 
5.三日朝、尾久町大字上尾久において、二名の怪しい鮮人がいるのを
認知し、これを捕えようとすると、彼は短銃四発を撃ち、抵抗したため、  (←普通に短銃を携帯、発射していた朝鮮人)
一人を撲殺し、一人は半殺しのまま同町佐藤病院に入院させた。     (←警官が拳銃携帯するようになったのは関東大震災後)
なお同人らの自白によれば、ある三人から依頼され、当方面を焼き払えば
三カ年間寝食を保証し、更に金を与えて帰国させることができると言って、 (←大規模放火したら三年間食わせてやるニダ)
日当金二十五円をもらったとの事で、また竹筒に火薬を入れたものを所持 (←大規模放火したら日当もやるし、帰国できるニダ)
していたと言う。                       (1923年9月)

105 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 16:38:51.88
     四、雑司ヶ谷、池袋、中野方面の事実

1.雑司ヶ谷西ヶ原方面では一日の地震と同時に、消防部青年団らの全員
が集合して警戒に当たった。其の警戒中、鮮人が井戸に何か符号様の印を
付け回りつつあるとの報に接し、三浦陶器店主(六百七十五番地)はすぐに
自転車でその方面に向い、これを追跡しようとしたが、彼らは既に去ってその
姿を見失った。またその符号は〇にア、〇に〃、↑等の印で、鮮人の挙動は  (←他人の家に勝手に落書き)
すこぶる怪しむべきものだったためすぐにこれに対する警戒を厳重にし、居住
鮮人には一歩も外出させないよう監視を付け、更に隣近所に対しても充分の
注意をさせたが、翌二日に至り、一般の鮮人が騒ぎ出したため監視中の鮮人
全員を引致して警察に引渡した。

                                   (1923年9月)

106 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 16:42:59.37
2.二日、鮮人を警察に引き渡して、家宅捜索の結果、
雑司ヶ谷六五六番地に華文社の表札を掲げ、三名の鮮人
(内一名は東洋大学文科生徒安永義)が住居している家より、
日本刀一本、宣伝印刷物多数(菊版形位のもの厚さ約五寸  (←日本刀と宣伝印刷物多数)
位の量)を押収して警察に引渡した。当時青年団の警察に
引渡した鮮人は三組にして、他は間もなく帰されたが、この
華文社は社会主義者だと一般に信じられつつある。

3.雑司ヶ谷水久保には六百余名の鮮人労働者が居住し、
地震と同時に向原の広場に避難して至極平穏だったが、
鮮人騒ぎとなったため、これを水原活動写真館に収容し、  (←不逞民は順良民にも迷惑)
軍隊と警察とにおいて保護した。
                       (1923年9月)

107 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 16:48:35.01
4.池袋方面に居住する鮮人の大部分は警察の手に保護
されたが、二日夜九時半頃、本所方面よりの避難者と称する
鮮人一名が池袋六三五番地の煎餅屋に放火していたのを (←池袋635番地の煎餅屋に放火)
認知し、青年団が追跡して池袋駅側においてこれを捕え、
群集により殴殺された。その所持品は燐寸二個にして    (←放火魔は成敗)
「ポケット」には火薬らしい異様な臭気を帯びていたと言う。 (←ポケットには火薬)

5.三日夜十時頃、成蹊学園の裏で、三名の鮮人が捕えられ、
その所持品としては風呂敷包と「バスケット」の二個だったが、
その中を調べたら縮緬帯その他高級品が入れてあったため、 (←ちりめんおび)
火事場泥棒と判断し警察に引き渡された。            (←火事場泥棒)

                          (1923年9月)

108 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 16:57:13.48
6.中野の豊多摩監獄に於ては、震災当時大島某他、四十人内外の
社会主義者がいたが獄内の破壊が甚だしかっため、囚人はいずれも  (←監獄が地震で損壊)
監獄庭先に避難させていたが、社会主義者と称する殺人強盗犯
■■■■なる者は他の社会主義者らと密かに連絡を取っていた
様子で、五日夕刻、他の囚徒に対して逃走扇動の演説をなす等、  (←監獄倒壊の下で逃走を煽った)
形勢すこぶる不穏だったので監獄は遂にこれを射殺し、またこれと  (←射殺そして斬腕、これが現実)
雷同した強盗五年囚■■■■の片腕を斬ってこれを鎮圧し同時に  (←扇動に同調した強盗五年囚)
中野電信隊の応援を得てようやく事無きを得たと言う。

                                (1923年9月)

109 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 17:00:27.96
     五、新宿淀橋、代々木方面の事実

1.震災当時、新宿駅構内に陸軍用火薬の貨車が数両あったが、
一日夜以来、鮮人が奪取の目的でこれに襲来すると専らの噂で
同貨物は三日ごろ軍隊に引き取られたが、それが果たして四日
午後九時頃、新宿駅側京王電車「ガード」を代々木方面へ隔てる (←当時から東西の往来は不便だった?)
五百メートル線路西側の構内に於て、学生風の男子数人と   (←一見、学生風と婦人風が怪しい)
一日本婦人とが新宿駅方面より逃げて来たのを千駄ヶ谷自警団員
の追跡する所となり、日本婦人一名は捕えられたが他は逃走した。
同婦人は二十歳前後の細君風の者だったと言う。

                               (1923年9月)

110 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 17:05:53.70
2.本会への来訪者の談によれば、三日午前九時頃、淀橋警察署に出頭し、
鮮人取調べの模様を見たところ、検挙者二百名位にして、その内拘置所  (←検挙者200名!呆れる)
内の者はしきりに革命歌を歌い、騒擾を極めていたが、高等係取調べの  (←拘置所内で革命歌!呆れる)
卓上には「エアーシップ」の缶に「ダイナマイト」を装填したもの一個、    (←空缶にダイナマイト!呆れる)
十二番位の猟銃の経子(ケース?)に「ダイナマイト」を装填したもの一個、 (←猟銃のケースにもダイナマイト)
「インク」の外箱に爆薬を入れたもの一個、その他紙包の爆薬数個、     (←インク箱に爆弾、紙包の爆薬数個)
及び兵労社、秘密出版の檄文、共産党系の宣伝文、独立運動に関する  (←共産党のキチガイ)
檄文及びその他革命的文書多数あり、各係員の言によれば独立運動者
及び共産党系者の計画的手段による暴動の証跡は歴然としてかばう  (←テロに同情の余地なし)
余地がないものだった。

                              (1923年9月)

111 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 17:08:25.46
3.四日夕刻、代々木富ヶ谷に於て、一台の自動車が渋谷方面に
向って疾走して来て、農科大学表門にある自警団の警戒線を突破し、
更に第二の警戒線となる富ヶ谷二の橋に差しかかった正にその時、
第一警戒線より追跡して来たものに追い付かれ、この第二線に於て
食い止められた。その自動車内には四名の鮮人と、日本人の運転手
とがいたが、詰問の結果、その答弁はすこぶる曖昧にして不逞鮮人  (←何をするか分からない)
であることが明らかになったため、或る者はこれを殴殺し、或る者は
これを傷つけた末、渋谷警察署に引き渡した。
                              (1923年9月)

112 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 17:12:03.02
     六、世田谷、松澤、溝口、玉川、千歳方面の事実

1.三日の夜、自警団が、世田谷に於て憲兵及び巡査が
鮮人二名を捕え取調べ中、その行動が如何にも奇怪だった
ことにより自警団員は憤激してこれを撲殺した。  (←あちこちに日本人の死体が転がり、死臭が充満している闇夜の環境)

2.松沢方面は泉に火薬庫があり、軍隊の警戒は一層厳重
なため何らの異状もなかったが、同地には以前より一人の
社会主義者が居住し、今回の災害以来、一人の出入者も
なかったが、自警団は警戒の為これを警察に引渡したところ
彼は拳銃一丁と弾丸五十発を所持していた。     (←拳銃と実弾50発を所持するテロリスト)

3.溝口方面は高津警察分署へ、管轄内より連れて来た
鮮人が六名いたが、いずれも善良なる者なので現在同
署に於て小使い代わりに使用している。        (←ほとんどの鮮人は順良にして→当たり前です)

                        (1923年9月)

113 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 17:20:36.24
4.玉川方面では大丸組に雇われて土工に従事する鮮人が
百五十名ばかり居たが、二日軍隊は警戒の必要上これを捕
縛しようとしたら、警官がその性質を釈明した結果、軍隊と  (←順良だった)
警察とが協力してこれの警戒に当たった。            (←軍隊の見解と、警察の見解)

                          (1923年9月)

114 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 17:27:30.42
5.二日の午後十時三十分頃、調布方面より「代々幡自動車部」と
箱囲(はこがこい)に書いた一台の自動貨車が来たが、その上は
蚊帳で覆われ、またムシロで屋根を作り、貨物を積載しているかの
如く装っていた。そうして同車の烏山水車小屋第一非常線
(烏山自警団)を通行するや否や「止まれ」の号令を発したが
彼らは肯(うなず)かず突破して行った、しかし第二の非常線前の橋が
破壊されているのを知らず、これを突破しようとして、遂に車輪が
陥没して動かなくなると同時に、運転手他三人の同乗者は直ちに
逃げ出した。その際貨車の箱中より一人首を出した者がおり、たちまち (←デマではない)
自警団員に見つかるところとなり、団員二百名ばかりで、自動車の (←デマではない)
周囲を取り巻き、取り調べると、箱中に十三名が潜伏していたのを、 (←デマではない)
三人(内一名日本人)逃走したのを除く外は捕縛し、また白米二俵、 (←デマではない)
釜、鍋「バケツ」及び「トランク」一個、その「トランク」の中には、    (←デマではない)

                               (つづく↓)

115 :ソーシャル名無しさん:2024/01/13(土) 17:38:17.51
多量の薬瓶と鋸、玄能、釘抜等を入れていたのを押収した。
なお更に厳重に取り調べると「彼らは府中の裏より来たもので
あり、更に三〜四十名を率いて乗り込んで来るはずだ」とのこと
だったので、直ちにこれを烏山駐在所に引渡そうとしたが、警官  (←当時は警官さえ全員が拳銃携帯ではなかった)
はどこかに逃げ去って不在だったので、翌日府中警察本署に (←警官が拳銃携帯するようになったのは関東大震災後)
引渡方を交渉したところ、部長某が来たが、青年団捕縛の際、
負傷者を出したため「負傷者は受取れない」と言ってこれを
拒んだが、厳談の結果ようやく引き取らせるも、その途中鮮人
の首領を逃がしたため青年団の激昂ひとかたならず、その後  (←当時は警官さえ全員が拳銃携帯ではなかった)
警察では極力その事実を否認していた。なお鮮人の自白した
「後から来るだろう」との鮮人一団がその後来なかったのは、
恐らく最後の逃走者の通知により他に逃げ去ったためであろう。
また逃走した鮮人は首領を除く外、いずれも途中にうろついて  (←首領だけ逃げた)
いる所を翌日自警団に捕えられた。                 (←自警団なしに治安維持は無理だった)
                          (1923年9月)

116 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:08:30.67
     七、大崎、平塚、大森その他各方面の事実

1.二日午後三時頃、大崎町の大崎館前において、
青年団の警戒中、二名の鮮人が南方から来たのに出会い、
これを尋問しつつある時、巡査が来てこれを連れて行ったが、
間もなく丸子渡方面より数百名の鮮人が押し寄せて来たとの報 (←鮮人大挙して襲来す、のデマ元は朝鮮人 >>64
に接したため、巡査、在郷軍人、青年団等、千束村まで出かけ、
一方大崎より五反田に亘って、非常警戒令を発し、婦人小児等を
池田侯爵の備前山等へ避難させる等、用意怠りなかったが、
結局来た鮮人は三十余名に過ぎず、しかも別に不穏の徒とも
認められないので、警察に連れて行ってこれを保護した。

                         (1923年9月)

117 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:12:44.35
2.三日正午、荏原郡平塚村下蛇窪では、小学校で土地の
青年団、在郷軍人団らの手で、震災民に対する食糧の配給を
しつつあったが、日頃より村民の注目する不良の徒十余名
が押し寄せて来て、これを妨害したので、村民は憤慨し、直ちに
彼等を包囲し、巡査派出所に同行したところ、高山某他一名
(下蛇窪三五五番地居住)が彼等を擁護する発言をし、      (←下蛇窪355番地)
ますます村民の激昂を買った。思うに高山某他一名は日頃より (←地域に巣食う社会主義テロリスト)
社会主義者としての嫌疑を受けつつある者であると言う。

                        (1923年9月)

118 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:17:09.04
3.平塚村一帯は、二日午後四時半頃、諸方面と同様、
不逞鮮人の二千名、横浜より殺到して来るとの風説しきり (←不逞鮮人襲来のデマ元は朝鮮人テロリスト >>64
のため、人心動揺殺気立っている間に於て大字宮前
一二五三番地に居住する鉄道省勤務(省線電車運転手)
の鮮人文正奉、同人妻金小禧、同人弟翔敏、外親戚文姓
二名の家族は鮮人である為、一度大崎分署に拘引されたが、
村民は日頃、彼の一家が善良なのを知っているため、警察署  (←善良な朝鮮人にも有害な朝鮮人テロリスト)
に行って詳しく述べて証明し、彼らを連れ帰り、以後彼らに
ついて生活並びに起居の安全を保護していた。

                        (1923年9月)

119 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:20:40.74
4.福田狂二は、居宅を立合川に置き、雑誌「進め」の事務所を
鈴ヶ森に置いたが、二日十一時頃、その事務所へ鮮人が数名
逃げ込んだため、群集はこれに押し寄せたところ、事務所内に
居た者らが反抗したため、群衆中に大鋸を持って行った者が
その一人の首を引き切り、一人を袋叩きにしたところ、  (←日本人を本気で怒らした)
狂二は猟銃を持ち出して来たが、それを奪い取られ、  (←相手も猟銃、そういうヤカラ)
かなわないと思ったのか何れも裏口より逃走した。    (←これが現実)
そうして狂二はその足で品川警察署へ逃げ込み、保護を求め、
今尚同署に保護中とのこと。尚、狂二の本宅は門を鎖して
空家となり、事務所は貸家札が貼ってあった。

                       (1923年9月)

120 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:23:29.02
5.山川均は池上村字市の倉に山川〇〇堀内某の名義で一戸を借り受け、 (←山川出版の日本史ってありましたね)
地震後九月三日に大森方面より移って来たが、五〜六人同居して、
毎夜出掛け、明け方に帰り、表より入らず、裏より出入りして、昼は戸を
鎖ざしていた。近所の者はその挙動を怪しんで官憲に告げたが、        (←社会主義者だった)
本月十三〜四日頃、憲兵三名及び変装巡査五〜六名で一夜、張番したが、
その夜は帰宅せず、そこで会々(たまたま)その夜来ていた山川の妻菊栄を
訊問し、得る所があったもののようで「今日中には均を拘引するだろう」と
言って引き揚げたが、その後姿を見ず、三〜四日後菊栄が来て、二〜三日中
にこの家を退去するだろうと家主に言ったまま、現在そのままとなっている。
その後憲兵も来ないため、思うに均は警察の手に検挙されたのだろう。
因みに山川菊栄は麹町区四番町九番地北海道農科大学教授青木某の娘
にして、あまねく山川なることを知っていた。尚、近所にては夜警の事等、
青木に対し特に相談しなかったが、青木氏は震災後北海道より帰来し
自警団に対し、「留守中は女ばかりで夜警にも出ませんで」と挨拶したと。

                                (1923年9月)

121 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:26:41.79
六、荏原郡方面に於て自警団その他の手により捕縛し、その筋
へ引渡した鮮人中、本会の調査し得た数は左(下)の通り。

町村字名      鮮人数            (1923年9月)

平塚村戸越      少数
平塚村龍原      少数
平塚村小山     十数名
平塚村中延      少数
平塚村谷向     十数名
平塚村東       少数
平塚村上蛇窪    少数
平塚村下蛇窪  二十三名
大崎町上大崎   十数名
大崎町下大崎   十数名
大崎町谷山      少数
大崎町桐ケ谷   十数名
大崎町五反田   十数名
大崎町居木橋   十数名

122 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:29:58.90
目黒村中目黒    少数
目黒村下目黒    少数
入新井村森ケ崎 六〜七名
大森町        十数名
大井町       二十余名  (←荏原郡だけで合計二百名を超える↑↓)
蒲田村山野      六名
蒲田村蒲田新宿 八〜九名
矢口村古市場     少数
矢口村原     五〜六名
六郷村雑色      少数
六郷村古川     十数名
碑衾村谷畑      二名
池上村道口橋  六〜七名
馬込村堂前      少数
馬込村平張      少数
馬込村山宿      少数
羽田町         少数

       (1923年9月)

123 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:33:57.22
            第三章

     神奈川県方面に於ける不逞鮮人及び
     社会主義者の行動

     一、横浜方面の事実

1.朝鮮人の騒ぎ始めは、一日午後四時頃、寿署管内に於て鮮人と
巡査との格闘があった。鮮人は巡査に対し、短銃を撃ち懸けた。
これがそもそも鮮人騒ぎの始まりである。                  (←鮮人騒動は横浜から!)

2.鮮人中、最もその暴行を逞したのは山の手町署管内中村町の裏手、相沢山     (←相沢山の鮮人集団が最悪だった)
付近に於ける鮮人の一団である。この地は一日より罹災民の避難が多く、二日の朝は、
男は皆食料の用意や焼跡の見極めに出張したため、全く女子と商人らのみだったところ、
鮮人は奇貨置くべし(=好機到来・この時を逃すものか)として襲来し、略奪、強姦その他の (←治安が崩壊すると牙をむく)
残虐行為を派手にやったことにより避難民は非常な恐怖心を起し、一大騒動となった。  (←「無辜の朝鮮人」なんてウソ)

                                        (1923年9月)

124 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:38:51.79
三、中村橋は、二日の午前十時頃、相沢山方面より群集が追落
して来て鮮人と衝突し、鮮人が殺されて橋下に墜落した者は十六名
に及んだ。捕えられた朝鮮人は何れも風采に似合わず、多くは  
三百円(今の約90万円)或いは百ドル位(今の70万円?)の金を所持
していた。これは略奪した金なのか、或いはどこかから受取って来た   (←どうせ略奪)
金なのか、未詳である。

四、横浜の鮮人は過激派、或いは社会主義者の扇動によるとの説があり
明確には分からないが、その捕えられた鮮人は殆んど全員、指輪や金時計  (←戦利品)
その他の金品を所持しない者はいない。つまりその略奪が如何に猛烈   (←火事場泥棒)
だったかを推察することができよう。主にこれらの鮮人は車橋派出所
管内に居た沖仲仕の徒であり、中には飴売商人らも混じっていたが  (←飴売商人も鮮人が多かった)
それは極めて少数だった模様。
                             (1923年9月)

125 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 01:43:35.79
5.相沢山の避難者中、婦人が非常に多く、その中には随分死体もあったが、
それは或いは産婦或いは病気のためもあると言えども、強姦死に至らしめられ
たものも少なくなかったのは事実である。                        (←デマではない)

6.中村橋方面の衝突で殺された鮮人は約二十人、その中に日本人   (←日本人も毒されていた)
も二〜三名混じっていた模様。

7.根岸刑務所は地震と同時に倒壊したため、これを解放するに至ったが、 (←監獄が倒壊すると多くの囚人は解放された)
その囚人は救護のため、非常に活動した。中でも特に、山の手方面では  (←解放がうまく行ったケース)
鮮人の婦女子らに対する凶行を救助したものは少なくない。また中村橋
方面衝突の際に於て、鮮人と奮闘した者は、多くは囚人だったと言う。  (←デマではない)

8.戒厳令司令官将校某の報告によれば横浜方面に於ける鮮人
の符号は左(下)のようだと言う。                      (←これを人様の家に書き込む)

□に×印は放火。
□に×印と∧(屋根印)は爆弾。
                            (1923年9月)

126 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 02:16:23.59
9.各方面からの事実を総合すると、鮮人襲来説は横浜においても  (←襲来説を唱えて攪乱した鮮人もいた >>228 >>64
警察より警告を与えたことがその始めだった模様。即ち各方面に
合言葉を作って朝鮮人を誰何し、「怪しいものがあったら殺して   (←夜は漆黒の闇、焼死体は散乱し、誰が隠れていても分らない環境)
も宜しい」と言う旨を伝え、これが中央部は一日の夜、山の手の方は (←爆弾放火と暴動テロで治安が崩壊した)
二日の朝あたりに伝搬したと言う。            (←当時は警官も拳銃を携帯してなかった、拳銃携帯は関東大震災後のこと)

10.三日午後九時頃、桜道にて外国人の家に放火しようとした鮮人 (←放火鮮人)
三名あり。現場に於て二名を捕え、他の一名はこれを逃したが、
これは寿署第一大隊の手によって捕えられた。これが主たる原因と
なって放火説が宣伝され、山の手は非常なる恐怖心を一帯に抱か
せることになった模様。

11.二日、稲荷山に於て三名の鮮人が日本婦人を輪姦しつつあったが、 (←輪姦鮮人)
たちまち現場に於て寿署警官の捕えるところとなった。二日、高島別邸
内の仮署にて、面のあたりこの者が強姦したものであると指した鮮人
を見た者がいた。 
                                 (1923年9月)

127 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:00:37.30
12.二日の午前十時頃より、鮮人騒ぎが続々と起り、三日四日には最も
その猛烈を極め、七日迄住民は一日も安心することができず、ほとんど  (←鮮人暴動は猛烈を極め、一日も安心できない)
不眠の状態であった。それは堀ノ内の後方の山に、火薬庫があるからで、  (←ほとんど不眠で我慢の限界)
もしこれに放火されたときは、その地方が全滅するからである。       (←爆弾放火する鮮人)

13.一日の午後五時頃、警察より「朝鮮人が暴行するから自警      (←朝鮮人の暴動暴行強姦で寝ずの警戒)
せよ」との警告があったので、市民はみんな寝ずに警戒した。

14.西戸部署管内には、鮮人の土工が多数のため、その騒ぎも一層甚し
かった。現在西戸部署の手に捕えられている者は八十名で、内三十名は  (←西戸部署管内だけで80名、現行犯は30名)
現行犯であると言う。久保山避難所一帯が荒らされたのはこれらの鮮人に  (←お前ら、やってるじゃないか!)
よるものと見られる。同署では、恐らく幾多の強姦、略奪等が行われたもの  (←幾多の強姦、略奪等)
と見ている。

15.土工や人夫の暴行は、彼等の民族性にもよるだろうが、地震と同時に
各土方部屋の飯場が破壊されたため、食料に窮し、三々五々、隊伍を組み、 (←隊伍を組み食糧荒し、扇動、暴動、暴行、略奪、強姦)
食糧荒しを始め、これに動機を得て、各種の扇動が行われ、その暴動が
猛威を振るうに至ったと見られる。
                                 (1923年9月)

128 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:03:15.46
16.本牧においては、井戸へ毒を投じて殺された鮮人は六〜七名に及んだと言う。 (←井戸に毒は実話)

17.神奈川方面に於ても、鮮人の強姦、放火、掠奪等が行われたことは
盛んに噂されているが、土工の「ダイナマイト」を所持していた者は、   (←強姦、放火、掠奪、ダイナマイト)
保土ヶ谷、横浜、浅間町、戸塚方面に六百人ばかり居た鮮人であった。

18.横浜より避難した婦人の話によれば、同地の久保山に於て一日の
午後三時頃、一朝鮮人が年齢三十四〜五位の婦人を強姦した上に、
之を殺したため、群衆がこれを殺すことになったと言う。          (←成敗!天罰!)

                                (1923年9月)

129 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:12:32.16
19.京橋宗十郎町にしき屋(芸妓屋)なん子(本名横川静代二十八才)は病気のため、
横浜に赴いたが、たまたま地震に遭い、単身吉田町の野原へ避難しつつあった際、
夕暮れに土工体の男が来て、「津波がありますあります」と連呼したので多数の
避難者は再び驚き慌て、思い思いに岡村山の方面に逃れると、なん子も「助けて
助けて」と呼びながら多数の男女と共に、この土工に手を引かれて、岡村山へ逃げた。 (←今の磯子区内)
この時吉田町に避難中、なん子と同じ場所に居た二十才位の娘と十五〜六才の弟  (←デマでここまで書けません)
もまた他の土工に手を引かれてやはり岡村山に逃れたが、途中右と左にその方面
が別れた。間もなく別方面に行った娘の声で「アレー、助けてくれ」と悲鳴を耳にした
ため、なん子は心配に耐えられずその方へ行こうとしたが、手を握っていた土工は  (←朝鮮人土工)
たちまち暴力でなん子を引きずり、山の方へ連れて行き凌辱を加えようとした。    (←いわゆるクソチョン)

                                          (つづく↓)

130 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:15:55.04
これに対してなん子が全力で抵抗していると、根岸監獄から解放された数十名の囚人  (←正義に目覚める囚人)
に救われた。その囚人は土工を捕え、これを取調べたが、その土工は鮮人にして、
しかも不逞鮮人の徽章と短銃とを所持する者だったので、囚人らは遂に竹槍を以て
その鮮人を突き殺し、これを河中に投じたと言う。なん子は殆ど人事不省になり、   (←囚人が不逞鮮人を成敗)
その夜は囚人により保護され、翌朝心気ようやく静まった後、初めて娘の行方を囚人に  (←正義に目覚める囚人)
話すと、七〜八名ばかりの囚人は棍棒を手に、これを捜索した結果、すぐ付近において
強姦され、且つ陰部に土を埋められた死体となり、弟は姉の危急を見てこれを助け  (←限度を知らない不逞鮮人、だから殺された)
ようとして崖へ突き飛ばされ、僅かに樹木の枝に支えられこれに掴まったまま生存して
いたのを発見し、囚人らはその弟を助け、また娘の死体を焼き、その骨を所持させて
これを返すことにした。なん子はこの日の午後、囚人が止めるのも聞かずそこを去り、
囚人から二個の握飯を貰い、徒歩で帰京すると、主人の家が既に灰燼に帰したのを  (←放火された)
見、落胆の余り気絶して倒れたので赤十字病院に送られ、数日の後、やや快方に
向ったので、主人の府下大崎字五反田百十番地蔦屋に赴いたところ、丁度主人の  (←場所や名前が特定されており実話)
家族一同もそこに避難していたため、ここに仮住まいすることとなった。

                                       (1923年9月)

131 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:20:13.81
20.二日午前十一時頃、横浜駅前の焼跡に三名の婦人が避難したが、
二名の鮮人が来て、三婦人を捕え、まさにこれを強姦しようとした。たまたま  (←クソチョン)
横浜の青年団員に発見され、鮮人はついに斬殺されることになったと言う。 (←成敗!街中は日本人の死体が散乱する環境)

21.九月二日夕暮、桜木町駅前で付近の人々が三名の鮮人を取り調べ
たところ、鞄の中から猫要らず十数個、及び短刀等を所持するのを発見  (←毒殺が目的、短刀も所持)
されたため、群集の激昂は甚しく、遂にこれにより殴殺された。    (←街は日本人の焼死体が山積みで死臭が充満する環境)
当時捕えられた鮮人は、最初は一名、ついで二名だったが、何れも
土工風の印半纏を着ていたが、言語は全く通じなかったと言う。

22.四日、赤坂台町秋山洋服店主人が、横浜本牧字梅田の一農家へ立寄り、
水をもらおうと、手を井戸にかけようとしたら、その家人はこれを拒んだので
これを怪しんで問うと、「先頃夕刻、日本人の老婆が来て毒をその井戸に  (←井戸に毒、は実話)
入れようとしたのを、青年団が捕えてこれを尋問したら、或る人より五圓を  (←五圓は今の約1万5千円)
もらって毒を井戸に入れることを依頼されたとの事により、以来各戸毎に  (←人を雇ってまで井戸に毒を入れさせた朝鮮人)
井戸を厳重に取り締る事にした」と答えたと。また根岸の競馬場東側の
井戸にも阿片を投じた者がいると言う。
                               (1923年9月)

132 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:22:43.29
23.十三日の夜、秋山洋服店主人が、横浜山下町の埋立地に避難していると、
駆逐艦が盛んに探海燈を照らしていたところ、更に他の一艘も照らし始めたのを  (←サーチライト)
認めた。翌早朝聞くところによれば、労農政府の「アリヨール」号が上海より
不逞鮮人と露国の赤化運動員を搭載し、闇夜に乗じて上陸しようと企てたので、 (←闇夜に不法上陸、今も昔もやること一緒)
少尉がこれを発見し、駆逐艦に報告した結果、遂にその船を捕獲したためで
あると言う。これより先に怪しい者がその辺を徘徊して、軍艦の着陸地点を尋ね
ていたのを、土地の人々が話していたことに照らせば右(上)の噂はあながち
根拠のない説ではない模様。
                                    (1923年9月)

133 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:28:18.00
     二、神奈川方面の事実

1.二日夕刻、神奈川の騒動は特に激しく、その方面では捕えられた鮮人
が多かったが、省線付近に於て捕縛した一鮮人などは容量二合位の瓶を
所持していた。自警団が厳問し、「それを飲んでみろ」と言うと、彼は平然と (←街は日本人の死体が散乱する環境)
して笑っていたので、ますます疑いは増し、瓶中の水を調べようとしたが、 (←井戸に毒、は実話)
彼は突然その瓶を地上に投げつけて破壊したため、遂に群集により斬殺  (←成敗)
されたと言う。(神奈川町民談)
                                  (1923年9月)

134 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:32:08.37
2.五日夜九時頃、川崎青年団は挙動の怪しい鮮人を捕え、これを警察に
引き渡そうとしたが、捕縛の際、鮮人が抵抗し、負傷していたため、警察は
「負傷者は受け取らない」と言ってこれを拒否しようとしたので、警察と  (←負傷者は引き取らない建前)
青年団との間に衝突があった。結局警察はその失言を詫びて、これを
受け取り、事なきを得たと言う。

3.三日、京浜電車川崎停留場付近、生洗踏切のそばに於いて、鮮人らしい者が
電話線を切断しようとし、一人は「ペンチ」様のもの、一人は短刀様のもので  (←今も似たことをやる)
切っていたが、事件が発覚すると、彼らは急に逃走し、遂に行方を見失った。 (←逃げ足だけは早い)

                                  (1923年9月)

135 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:50:57.10
          第四章

     大阪府、長野、埼玉、山梨、各県その他に於ける
     不逞鮮人及び社会主義者の行動

       一、大阪府方面の事実

九月十二日午前零時乃至一時迄頃の間に於て、激しい風雨に乗じ、
京阪電鉄沿線枚方火薬庫に、三十名前後の鮮人(内日本人らしき者 (←この事件、TVでやってました、MBS系「映像’23」「流言飛語百年」)
二名が指揮をしていた)が襲来し、突然歩哨を捩じ伏せているところを、 (←デマだと。本当にデマなのかどうか。)
他の歩哨が発見し、警報を発したため、警官、在郷軍人、青年団等が
駈けつけ、日本人一名、鮮人二名を捕え、他は逃走させてしまった。
尚、その捕えられた二名の鮮人は、共に労働党風の者であり、京都
より入り込んだとの噂がある。またこれより先、一週間前より同地に於い
て、鮮人襲来の風説があったため、町民は警察に夜警の出願をしたが
許可されず、よってこれが起こる原因になったと言う。

                                 (1923年9月)

136 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 15:57:38.38
震災が起ると本会関係者中、大阪より信越線を経て、東京に急行帰還した者がいた。
たまたま沿道に於ける鮮人の行動、並びにこれに対する沿道警戒の状況を審(つまびらか)に
するものがあったので左(下)に掲げる。
三日午前十二時半、大阪より乗車、名古屋乗換に至る迄は無事だったが、それより信越線を廻り、
長野まで来ると、長野より大宮の間に異状あり。あたかも戦時状態にして在郷軍人、青年団、
消防組等総出にて、各駅に居た者が各列車毎に鮮人を物色していた。            (←悪いことばっかするから)
長野より大宮までの間にて、五人区々(まちまち)に乗り込んだ鮮人四名を捕えたが、
一人は逃走した。四人の中の二人は「土工用ダイナマイト」を所持し、一人は米国製の爆弾 (←土工用ダイナマイト・米国製爆弾)
を持っていた。その所持の方法は「バスケット」中に入れ、上に食料の如きものを置き、その (←バスケットの下は爆弾、手が込んでいる)
下に隠し置いた。その隠れる者は乗客中にも混じっていたが、列車の下部の連結車に突伏
して取り付き、隠れていた者も少なくない。捕えられた者は、警備者に拉致されて行くのを   (←命がけの割に、得るものがない)
目撃した。軽井沢、その他三ヶ所にて各一名ずつ捕えられたが、同鮮人中の一人は碓氷峠
発電所破壊の計画を漏らした。即ち前日捕えた二名の鮮人中、一名は殺され、残りの一人  (←発電所爆破計画)
が自白した。大宮駅の助役の一人は、碓氷の「アブト」式の大きい「ワイヤ」の一つは既に  (←アプト鉄道のワイヤを切断)
切断され、僅かに一本で用をなしつつあるも、それは一般乗客が恐怖心を起すので秘密に (←往来妨害罪・往来危険罪)
していたと言った。
                                               (つづく↓)

137 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 16:02:14.52
大宮の手前の本庄駅には、五日午前三〜四時頃、三十三〜四名の一行が三台の自動車に乗り
警戒線を突破して来たが、それは碓氷の発電所襲撃に向っていたようだが、幸いに在郷軍人団  (←発電所襲撃計画)
青年会等の撃破する所となり、その目的は達成しなかった模様。
その頃東京から来る列車は、避難民が一杯で、口々に鮮人の暴行を罵っていた。またもって鮮人  (←鮮人暴行を口々に罵る)
に対する国民の憤慨心が如何に盛んなるかを知るに足るだろう。特に我々が感じたのは、暗夜中  (←国民は憤慨していた、デマではない)
碓氷峠の隧道や橋架等を熱心に警戒し、以て東西唯一の交通路たる碓氷の隧道が青年等の手  (←東西唯一の交通路をテロから守った)
によって守られつつあること、即ちこれである。

                                              (1923年9月)

138 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 16:05:43.53
       三、埼玉県下本庄方面の事実

埼玉県本庄町警察署では、東京震災以来、多数の鮮人を留置しているが、
町民らは鮮人の行動に激昂の結果、四日、警察署を襲い、これを奪い  (←我慢の限界、国民は怒っていた!)
去ったため、その後町民で検挙された者は百五十余名に及んだと言う。  (←デマや憶測ではここまでならない)

       四、群馬県藤岡町方面の事実

群馬県藤岡町では、町民らが鮮人の行動に激昂して (←我慢の限界、国民は怒っていた!)
警察署を襲い、かねて同署に留置した多数の鮮人を (←デマや憶測ではここまでならない)
奪い去ったため、目下検挙中であると言う。

                    (1923年9月)

139 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 16:11:08.75
       五、山梨県方面の事実

1.山梨県北都留郡大月村は、東京電燈発電所の所在地だが、
二日、約三十余名の鮮人(中に日本人も混じっていた)は発電所に迫り、
これを破壊しようとしたことが、村民等の発見する所となり、村民はその (←発電所を破壊する朝鮮人)
鮮人を捕縛した上、これを甲府警察署に送った。なお鮮人らは電線切断  (←電線切断、今も同様のことをやらかす)
の道具を持ち、全員ほとんど「ダイナマイト」を所持していたと言う。   (←無辜の朝鮮人が「ほとんど全員」ダイナマイトを所持)

2.同県東山梨郡、塩山、日下部、両駅付近には、従来飴屋労働者、多数の鮮人
が往来しつつあったが、八月三十日夜になり、悉くその影を没した。九月十日頃
になり、塩山に二名の鮮人が潜伏しているのを発見し、これを取調べると、
「自分らは他の鮮人と同行しなかったから、今後再会するときは殺されるおそれが
あるので、この地を離れなかったのだ。それは九月二日にはどこかへ寄り合い、
三日には何事かをしようとする予定だったのに、同意しなかったからだ」と答えた由。
前後の事情を総合するに、彼ら鮮人は二日に大月に集合し、三日に各発電所を  (←二日に集合して、三日に決行するはずだったが)
破壊すべき予定だったのが、突然震災が起こったことを機とし、一日早めて何か  (←一日に地震が起きたから、一日早めて二日に決行)
まさになすことがあるだろうとしたのが二日、大月に於て捕えられたもののようだ。  (←そして捕まった)

                                      (1923年9月)

140 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 16:20:08.12
2.千葉県佐原町に於ては、利根川河川改修工事のため、従来入り込んでいた人夫
が多数いたが、東京震災以前に当り、鮮人の一歯科医が来、また朝鮮飴屋の出入
頻繁にして、その挙動大変怪しむべきものがあるため、警察では怠らず、これに注意し
つつあったが、九月一日東京の震災並びに鮮人凶行の報が伝わると、警官並びに
在郷軍人らは、直ちにその所在に赴き、捕縛の上取調べた結果、爆弾、刀剣等多数 (←爆弾、刀剣、多数の凶器)
の凶器を発見した。民衆激昂してこれを殴打し、そのうち首領と認められる者三人を
殺したが、彼らは死に臨み、檄語していわく「我々はここに死するともなお吾人の志  (←関東大震災は爆弾放火暴動大規模テロ)
を継ぐべき多数の同志あり。今日の恨みは他日必ず吾人の同志によりて酬いられる
べし」と従容と死に就いた。なお彼ら鮮人は佐原の奈良屋呉服店醤油倉庫、河川  (←醤油倉庫、河川改修事務所爆破計画)
改修事務所等を爆破しようとする計画であったと言う。

                                       (1923年9月)

141 :ソーシャル名無しさん:2024/01/14(日) 16:26:51.23
       七、北海道室蘭方面の事実

1.五日頃深夜、怪しい労働者風の鮮人、室蘭製鋼所付近を徘徊し、 (←テロは全国の主要都市で計画されていた)
同所を窺っていた者があったが、同所守衛の手により捕縛された。

2.同夜、室蘭水源地に於ても、同じく鮮人二名、徘徊していた者が
あったが警官によって捕縛された。

                               (1923年9月)

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