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アンパンマンのアンチスレ
- 1 :ジン:2016/01/16(土) 14:50:57.74 ID:hdE2etqT.net
- 愛と勇気しか友達がいないアンパンマ
ンの欠点や不思議なとこや嫌なところ
を語ろう
- 2 :風の谷の名無しさん@LR&設定変更議論中。。。:2016/01/16(土) 14:57:27.48 ID:A4ty0nN4.net
- アンパンマンアンチスレ
http://hope.2ch.net/test/read.cgi/antianime/1404794302/
それいけ!アンパンマンアンチスレ
http://hope.2ch.net/test/read.cgi/antianime/1405064969/
- 3 :風の谷の名無しさん@LR&設定変更議論中。。。:2016/01/17(日) 08:12:13.90 ID:Ek2VnXRO.net
- >>1
とりあえずアンパンマンの歌詞の意味を調べてこい。
- 4 :風の谷の名無しさん@LR&設定変更議論中。。。:2016/01/17(日) 08:14:36.41 ID:Ek2VnXRO.net
- >>2
どこがアンチスレなんだよ・・・
- 5 :風の谷の名無しさん@LR&設定変更議論中。。。:2016/01/17(日) 18:23:20.90 ID:fe14Ejb1.net
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- 6 :風の谷の名無しさん@LR&設定変更議論中。。。:2016/01/20(水) 21:58:01.69 ID:9/GlJTOO.net
- アンパンマンアンチってほんとアンパンマンのこと全然知らないのに言ってるやつ多いよな。
「ワンパターンだ」→ そう思ってる時点で何もわかってない
「ダサい」 → 映画見たことあんのか?
一番よくあるのは「暴力的。子供に悪影響、暴力の正当化」
以下、やなせたかしの主張
じゃああなたは風邪を引いたとき、ばい菌を殺しちゃかわいそうだから と言ってそのままにするんですか?
風邪薬を飲みますよね。
薬を飲むということは、ばい菌に対してアンパンチを喰らわせているのと 同じなんです。
かと言って、治ったらもう風邪を引かないかと言えば、また引くんですね。
アンパンマンとばいきんまんの闘いはそうやってずっと続いていく。
でもそれが健全な状態なんです。
国家でも、独裁国家で反対がないというのは危険な状態で、
その国はいずれ滅亡します」
さすが、94歳。
そんじょそこらの背伸びした大人の 屁理屈のような「アンパンマン批判」じゃ敵わない。
アンチは批判とかする前にまずアンパンマンのことをもっとよく知ってほしい。
何も知らないのに批判だけするのはおかしいと思う。
まあ確かに国民的アニメだからアンパンマンのことは全部わかってる気になってしまうのはわかる。
でもこれだけはわかっていてほしいな。
94歳まで生きて戦争も体験している人の思想に凡人が反論できるようなものは一つもない。
- 7 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 18:41:46.85
- 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。
- 8 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 18:53:08.92
- 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。
- 9 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 19:04:20.72
- 考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――
- 10 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 19:15:36.22
- それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
- 11 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 19:26:51.94
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 12 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 19:38:07.66
- が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、
- 13 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 19:49:23.54
- 癇癪を起しちゃいけませんって。」
- 14 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 20:00:39.34
- 「おやおや、それっきりかい。」
- 15 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 20:11:55.07
- 太郎はこう言って、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。
- 16 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 20:23:10.77
- 眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。
- 17 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 20:34:27.49
- 馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんなことを考えた。
- 18 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 22:33:31.80
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 19 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 22:46:09.24
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 20 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 23:01:42.18
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 21 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 23:12:58.58
- 偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。
- 22 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 23:24:16.01
- 彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。
- 23 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 23:35:31.88
- が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。
- 24 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 23:46:47.92
- 仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。
- 25 :風の谷の名無しさん:2018/06/09(土) 23:58:03.73
- うちの中は森としている。
- 26 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 00:09:20.19
- 彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。
- 27 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 00:20:36.21
- そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。
- 28 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 00:31:52.22
- それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿する疑問である。
- 29 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 00:43:08.07
- 彼は昔から「先王の道」
- 30 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 00:54:23.81
- 彼の小説は彼自身公言したごとく、まさに「先王の道」
- 31 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 01:05:39.69
- だから、そこに矛盾はない。
- 32 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 01:16:55.44
- が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。
- 33 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 01:28:11.72
- 従って彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は当然また後者を肯定した。
- 34 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 01:39:27.53
- もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想もないことはない。
- 35 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 01:50:44.03
- 実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。
- 36 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 02:01:59.76
- しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。
- 37 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 02:13:15.61
- 彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」
- 38 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 02:24:31.35
- と称しながら、常に彼のうちに磅する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。――
- 39 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 02:35:47.51
- 水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。
- 40 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 02:47:05.12
- この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。
- 41 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 02:58:21.18
- が、彼の前には水滸伝がある。
- 42 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 03:09:37.04
- 不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。
- 43 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 03:20:53.02
- そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。
- 44 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 03:32:08.90
- 袴羽織に紫の風呂敷包みを小脇にしているところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。
- 45 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 03:43:24.67
- 馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。
- 46 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 03:54:40.52
- 「今日は拝借した書物を御返却かたがた、お目にかけたいものがあって、参上しました。」
- 47 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 04:05:56.40
- 崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。
- 48 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 04:17:12.13
- 見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹らしいものを持っている。
- 49 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 04:28:27.83
- 「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」
- 50 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 04:39:43.58
- 「おお、さっそく、拝見しましょう。」
- 51 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 04:50:59.59
- 崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。
- 52 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 05:02:16.74
- 絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。
- 53 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 05:13:32.91
- 林間に散っている黄葉と、林梢に群がっている乱鴉と、――
- 54 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 05:24:48.90
- 画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いていないところはない。
- 55 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 05:36:04.61
- 馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて輝き出した。
- 56 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 05:47:20.69
- 「いつもながら、結構なお出来ですな。
- 57 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 05:58:36.41
- 私は王摩詰を思い出します。
- 58 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 06:09:52.29
- 食随二鳴磬一巣烏下、行踏二空林一落葉声というところでしょう。」
- 59 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 06:21:08.23
- 「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」
- 60 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 06:32:24.25
- 崋山は、鬚の痕の青い顋を撫でながら、満足そうにこう言った。
- 61 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 06:43:40.12
- 「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――
- 62 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 06:54:55.81
- とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」
- 63 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 07:06:11.86
- いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」
- 64 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 07:17:27.84
- 馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。
- 65 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 07:28:43.63
- 未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。
- 66 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 07:39:59.44
- が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。
- 67 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 07:51:16.12
- 「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう描けるだろうと思いますな。
- 68 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 08:02:31.96
- 木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりになり切って、しかもその中に描いた古人の心もちが、悠々として生きている。
- 69 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 08:13:47.68
- あれだけは実に大したものです。
- 70 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 08:25:03.94
- まだ私などは、そこへ行くと、子供ほどにも出来ていません。」
- 71 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 08:36:19.94
- 「古人は後生恐るべしと言いましたがな。」
- 72 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 08:47:35.76
- 馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬ましいような心もちで眺めながら、いつになくこんな諧謔を弄した。
- 73 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 08:58:51.51
- 「それは後生も恐ろしい。
- 74 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 09:10:07.23
- だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。
- 75 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 09:21:23.02
- もっともこれは私どもばかりではありますまい。
- 76 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 09:32:38.97
- 古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」
- 77 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 09:43:54.86
- 「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。
- 78 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 09:55:11.08
- するとまず一足でも進む工夫が、肝腎らしいようですな。」
- 79 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 10:06:26.90
- 「さよう、それが何よりも肝腎です。」
- 80 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 10:17:42.90
- 主人と客とは、彼ら自身の語に動かされて、しばらくの間口をとざした。
- 81 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 10:28:58.81
- そうして二人とも、秋の日の静かな物音に耳をすませた。
- 82 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 10:40:14.47
- 「八犬伝は相変らず、捗がお行きですか。」
- 83 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 10:51:30.93
- やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
- 84 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 11:02:47.30
- 「いや、一向はかどらんでしかたがありません。
- 85 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 11:14:03.07
- これも古人には及ばないようです。」
- 86 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 11:25:18.79
- 「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」
- 87 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 11:36:34.49
- 「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。
- 88 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 11:47:50.69
- しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。
- 89 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 11:59:06.64
- そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死の覚悟をしました。」
- 90 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 12:10:22.36
- こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。
- 91 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 12:21:38.00
- 「たかが戯作だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」
- 92 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 12:32:54.50
- 「それは私の絵でも同じことです。
- 93 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 12:44:10.17
- どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」
- 94 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 12:55:25.99
- 「お互いに討死ですかな。」
- 95 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 13:06:41.82
- 二人は声を立てて、笑った。
- 96 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 13:17:57.48
- が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。
- 97 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 13:29:13.11
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 98 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 13:40:28.79
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 99 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 13:51:44.75
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 100 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 14:03:11.53
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 101 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 14:14:27.32
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 102 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 14:25:42.98
- 「いや、大いにありますよ。」
- 103 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 14:36:58.66
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 104 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 14:48:14.38
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 105 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 14:59:30.53
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 106 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 15:10:46.35
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 107 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 15:22:02.20
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 108 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 15:33:18.24
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 109 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 15:44:34.20
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 110 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 15:55:50.24
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 111 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 16:07:05.97
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 112 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 16:18:22.09
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 113 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 16:29:38.03
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 114 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 16:40:53.75
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 115 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 16:52:09.95
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 116 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 17:03:25.64
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 117 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 17:14:41.50
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 118 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 17:25:57.18
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 119 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 17:37:13.07
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 120 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 17:48:28.96
- 私にはそうも思われませんが。」
- 121 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 17:59:44.63
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 122 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 18:11:00.58
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 123 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 18:22:16.24
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 124 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 18:33:31.97
- 「私が心細いのではない。
- 125 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 18:44:48.83
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 126 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 18:56:04.65
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 127 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 19:07:20.59
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 128 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 19:18:38.01
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 129 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 19:29:53.88
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 130 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 19:41:09.61
- 笑わなかったばかりではない。
- 131 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 19:52:25.89
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 132 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 20:03:41.99
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 133 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 20:14:57.74
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 134 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 20:26:13.69
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 135 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 20:37:30.54
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 136 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 20:48:46.72
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 137 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 21:00:02.72
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 138 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 21:11:18.70
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 139 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 21:22:34.87
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 140 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 21:33:50.69
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 141 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 21:45:06.51
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 142 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 21:56:22.21
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 143 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 22:07:38.29
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 144 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 22:18:54.20
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 145 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 22:30:10.61
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 146 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 22:41:26.70
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 147 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 22:52:44.72
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 148 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 23:04:00.42
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 149 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 23:15:16.26
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 150 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 23:26:32.05
- 彼はその前に書いたところへ眼を通した。
- 151 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 23:37:48.08
- すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。
- 152 :風の谷の名無しさん:2018/06/10(日) 23:49:04.07
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 153 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 00:00:21.68
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 154 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 00:11:37.97
- しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。
- 155 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 00:22:54.37
- そこには何らの映像をも与えない叙景があった。
- 156 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 00:34:10.17
- 何らの感激をも含まない詠歎があった。
- 157 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 00:45:26.35
- そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。
- 158 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 00:56:42.04
- 彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。
- 159 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 01:07:58.04
- 彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
- 160 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 01:19:13.94
- 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
- 161 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 01:30:30.07
- 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。
- 162 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 01:41:45.76
- が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。
- 163 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 01:53:02.34
- 彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。
- 164 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 02:04:20.12
- この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――
- 165 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 02:15:36.03
- そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。
- 166 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 02:26:51.80
- それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――
- 167 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 02:38:07.78
- 彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。
- 168 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 02:49:23.54
- 「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。
- 169 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 03:00:39.32
- が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」
- 170 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 03:11:55.07
- こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。
- 171 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 03:23:10.92
- 彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。
- 172 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 03:34:26.87
- が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。
- 173 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 03:45:42.64
- その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。
- 174 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 03:56:58.44
- しかも彼の強大な「我」
- 175 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 04:08:15.35
- とに避難するにはあまりに情熱に溢れている。
- 176 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 04:19:31.25
- 彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。
- 177 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 04:30:46.94
- もしこの時、彼の後ろの襖が、けたたましく開け放されなかったら、そうして「お祖父様ただいま。」
- 178 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 04:42:02.78
- という声とともに、柔らかい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかったら、彼はおそらくこの憂欝な気分の中に、いつまでも鎖されていたことであろう。
- 179 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 04:53:18.82
- が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持っている大胆と率直とをもって、いきなり馬琴の膝の上へ勢いよくとび上がった。
- 180 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 05:04:34.54
- 「お祖父様ただいま。」
- 181 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 05:15:50.20
- 「おお、よく早く帰って来たな。」
- 182 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 05:27:05.85
- この語とともに、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のような悦びが輝いた。
- 183 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 05:38:21.62
- 茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑やかに聞えている。
- 184 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 05:49:37.26
- 時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せたらしい。
- 185 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 06:00:53.05
- 太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。
- 186 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 06:12:08.68
- 外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。
- 187 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 06:23:24.36
- 「あのね、お祖父様にね。」
- 188 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 07:08:27.20
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 189 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 07:30:59.12
- 癇癪を起しちゃいけませんって。」
- 190 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 07:42:14.89
- 「おやおや、それっきりかい。」
- 191 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 08:04:46.50
- 眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。
- 192 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 08:16:02.33
- 馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんなことを考えた。
- 193 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 08:27:18.23
- そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。
- 194 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 08:38:34.15
- 「まだ何かあるかい?」
- 195 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 08:49:50.23
- いろんなことがあるの。」
- 196 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 09:01:06.37
- 今にもっとえらくなりますからね。」
- 197 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 09:12:22.58
- 「えらくなりますから?」
- 198 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 09:23:38.33
- 辛抱おしなさいって。」
- 199 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 09:34:53.96
- 馬琴は思わず、真面目な声を出した。
- 200 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 09:46:09.62
- 「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
- 201 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 09:57:25.24
- 「誰がそんなことを言ったのだい。」
- 202 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 10:08:40.86
- 太郎は悪戯そうに、ちょいと彼の顔を見た。
- 203 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 10:19:56.65
- 今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
- 204 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 10:31:12.60
- 断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋を少し前へ出すようにして、
- 205 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 10:42:28.40
- 「浅草の観音様がそう言ったの。」
- 206 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 10:53:44.49
- こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉しそうに笑いながら、馬琴につかまるのを恐れるように、急いで彼の側から飛びのいた。
- 207 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 11:05:00.56
- そうしてうまく祖父をかついだおもしろさに小さな手をたたきながら、ころげるようにして茶の間の方へ逃げて行った。
- 208 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 11:16:16.15
- 馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那にひらめいたのは、この時である。
- 209 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 11:27:31.80
- 彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。
- 210 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 11:38:47.72
- それとともに彼の眼には、いつか涙がいっぱいになった。
- 211 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 11:50:03.43
- この冗談は太郎が考え出したのか、あるいはまた母が教えてやったのか、それは彼の問うところではない。
- 212 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 12:01:19.14
- この時、この孫の口から、こういう語を聞いたのが、不思議なのである。
- 213 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 12:12:34.75
- 「観音様がそう言ったか。
- 214 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 12:23:50.34
- そうしてもっとよく辛抱しろ。」
- 215 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 12:35:06.05
- 六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。
- 216 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 12:46:22.00
- 馬琴は薄暗い円行燈の光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始めた。
- 217 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 12:57:37.66
- 執筆中は家内のものも、この書斎へははいって来ない。
- 218 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 13:08:53.30
- ひっそりした部屋の中では、燈心の油を吸う音が、蟋蟀の声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。
- 219 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 13:20:09.08
- 始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。
- 220 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 13:31:24.77
- が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。
- 221 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 13:42:40.44
- 経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行った。
- 222 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 13:53:56.65
- 神来の興は火と少しも変りがない。
- 223 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 14:05:12.26
- 起すことを知らなければ、一度燃えても、すぐにまた消えてしまう。……
- 224 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 14:16:27.86
- そうして出来るだけ、深く考えろ。」
- 225 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 14:27:43.49
- 馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分にささやいた。
- 226 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 14:38:59.23
- が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。
- 227 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 14:50:14.85
- そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。
- 228 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 15:01:30.78
- 彼の耳にはいつか、蟋蟀の声が聞えなくなった。
- 229 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 15:12:46.67
- 彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。
- 230 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 15:24:02.37
- 筆はおのずから勢いを生じて、一気に紙の上をすべりはじめる。
- 231 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 15:35:17.96
- 彼は神人と相搏つような態度で、ほとんど必死に書きつづけた。
- 232 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 15:46:34.00
- 頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々としてどこからか溢れて来る。
- 233 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 15:57:49.82
- 彼はそのすさまじい勢いを恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐えられなくなる場合を気づかった。
- 234 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 16:09:05.64
- そうして、かたく筆を握りながら、何度もこう自分に呼びかけた。
- 235 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 16:20:21.25
- 「根かぎり書きつづけろ。
- 236 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 16:31:36.88
- 今己が書いていることは、今でなければ書けないことかも知れないぞ。」
- 237 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 16:42:52.58
- しかし光の靄に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。
- 238 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 16:54:09.24
- かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲って来る。
- 239 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 17:05:25.38
- 彼は遂に全くその虜になった。
- 240 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 17:16:41.68
- そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐のような勢いで筆を駆った。
- 241 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 17:27:57.37
- この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。
- 242 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 17:39:13.20
- まして毀誉に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。
- 243 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 17:50:29.02
- あるのは、ただ不可思議な悦びである。
- 244 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 18:01:44.76
- あるいは恍惚たる悲壮の感激である。
- 245 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 18:13:00.39
- この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。
- 246 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 18:24:16.16
- どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。
- 247 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 18:35:31.93
- は、あらゆるその残滓を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……
- 248 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 18:46:48.57
- その間も茶の間の行燈のまわりでは、姑のお百と、嫁のお路とが、向い合って縫い物を続けている。
- 249 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 18:58:04.23
- 太郎はもう寝かせたのであろう。
- 250 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 19:09:20.08
- 少し離れたところには弱らしい宗伯が、さっきから丸薬をまろめるのに忙しい。
- 251 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 19:20:38.77
- 「お父様はまだ寝ないかねえ。」
- 252 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 19:31:54.02
- やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
- 253 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 19:43:09.94
- 「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」
- 254 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 19:54:26.03
- お路は眼を針から離さずに、返事をした。
- 255 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 20:05:41.73
- ろくなお金にもならないのにさ。」
- 256 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 20:16:57.54
- お百はこう言って、伜と嫁とを見た。
- 257 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 20:28:13.32
- 宗伯は聞えないふりをして、答えない。
- 258 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 20:39:29.25
- お路も黙って針を運びつづけた。
- 259 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 20:50:44.98
- 蟋蟀はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしている。
- 260 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 21:02:01.09
- 夜、盛遠が築土の外で、月魄を眺めながら、落葉を踏んで物思いに耽っている。
- 261 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 21:13:16.99
- いつもは月が出るのを待ちかねる己も、今日ばかりは明くなるのがそら恐しい。
- 262 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 21:24:33.07
- 今までの己が一夜の中に失われて、明日からは人殺になり果てるのだと思うと、こうしていても、体が震えて来る。
- 263 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 21:35:48.97
- この両の手が血で赤くなった時を想像して見るが好い。
- 264 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 21:47:04.77
- その時の己は、己自身にとって、どのくらい呪わしいものに見えるだろう。
- 265 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 21:58:20.58
- それも己の憎む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思いをしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。
- 266 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 22:09:36.48
- 己はあの男を以前から見知っている。
- 267 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 22:20:52.71
- 渡左衛門尉と云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にしては柔しすぎる、色の白い顔を見覚えたのは、いつの事だかわからない。
- 268 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 22:32:08.41
- それが袈裟の夫だと云う事を知った時、己が一時嫉妬を感じたのは事実だった。
- 269 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 22:43:24.07
- しかしその嫉妬も今では己の心の上に何一つ痕跡を残さないで、綺麗に消え失せてしまっている。
- 270 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 22:54:40.22
- だから渡は己にとって、恋の仇とは云いながら、憎くもなければ、恨めしくもない。
- 271 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 23:05:56.00
- いや、むしろ、己はあの男に同情していると云っても、よいくらいだ。
- 272 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 23:17:11.69
- 衣川の口から渡が袈裟を得るために、どれだけ心を労したかを聞いた時、己は現にあの男を可愛く思った事さえある。
- 273 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 23:28:27.51
- 渡は袈裟を妻にしたい一心で、わざわざ歌の稽古までしたと云う事ではないか。
- 274 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 23:39:43.25
- 己はあの生真面目な侍の作った恋歌を想像すると、知らず識らず微笑が唇に浮んで来る。
- 275 :風の谷の名無しさん:2018/06/11(月) 23:50:59.23
- しかしそれは何も、渡を嘲る微笑ではない。
- 276 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 00:02:19.86
- 己はそうまでして、女に媚びるあの男をいじらしく思うのだ。
- 277 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 00:13:35.93
- あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種の満足を与えてくれるからかも知れない。
- 278 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 00:24:51.67
- しかしそう云えるほど、己は袈裟を愛しているだろうか。
- 279 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 00:36:07.35
- 己と袈裟との間の恋愛は、今と昔との二つの時期に別れている。
- 280 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 00:47:23.13
- 己は袈裟がまだ渡に縁づかない以前に、既に袈裟を愛していた。
- 281 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 00:58:38.90
- あるいは愛していると思っていた。
- 282 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 01:09:54.83
- が、これも今になって考えると、その時の己の心もちには不純なものも少くはない。
- 283 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 01:21:10.81
- 己は袈裟に何を求めたのか、童貞だった頃の己は、明らかに袈裟の体を求めていた。
- 284 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 01:32:30.20
- もし多少の誇張を許すなら、己の袈裟に対する愛なるものも、実はこの欲望を美しくした、感傷的な心もちに過ぎなかった。
- 285 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 01:43:45.98
- それが証拠には、袈裟との交渉が絶えたその後の三年間、成程己はあの女の事を忘れずにいたにちがいないが、もしその以前に己があの女の体を知っていたなら、それでもやはり忘れずに思いつづけていたであろうか。
- 286 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 01:55:01.89
- 己は恥しながら、然りと答える勇気はない。
- 287 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 02:06:17.56
- 己が袈裟に対するその後の愛着の中には、あの女の体を知らずにいる未練がかなり混っている。
- 288 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 02:17:33.37
- そうして、その悶々の情を抱きながら、己はとうとう己の恐れていた、しかも己の待っていた、この今の関係にはいってしまった。
- 289 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 02:28:49.48
- 己は改めて己自身に問いかけよう。
- 290 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 02:40:05.47
- 己は果して袈裟を愛しているだろうか。
- 291 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 02:51:21.35
- が、その答をする前に、己はまだ一通り、嫌でもこう云ういきさつを思い出す必要がある。――
- 292 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 03:02:37.09
- 渡辺の橋の供養の時、三年ぶりで偶然袈裟にめぐり遇った己は、それからおよそ半年ばかりの間、あの女と忍び合う機会を作るために、あらゆる手段を試みた。
- 293 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 03:13:52.78
- そうしてそれに成功した。
- 294 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 03:25:08.58
- いや、成功したばかりではない、その時、己は、己が夢みていた通り、袈裟の体を知る事が出来た。
- 295 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 03:36:24.24
- が、当時の己を支配していたものは、必しも前に云った、まだあの女の体を知らないと云う未練ばかりだった訳ではない。
- 296 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 03:47:40.40
- 己は衣川の家で、袈裟と一つ部屋の畳へ坐った時、既にこの未練がいつか薄くなっているのに気がついた。
- 297 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 03:58:56.51
- それは己がもう童貞でなかったと云う事も、その場になって、己の欲望を弱める役に立ったのであろう。
- 298 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 04:10:12.34
- しかしそれよりも、主な原因は、あの女の容色が、衰えていると云う事だった。
- 299 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 04:21:28.28
- 実際今の袈裟は、もう三年前の袈裟ではない。
- 300 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 04:32:50.43
- 皮膚は一体に光沢を失って、目のまわりにはうす黒く暈のようなものが輪どっている。
- 301 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 06:45:10.36
- 頬のまわりや顋の下にも、以前の豊な肉附きが、嘘のようになくなってしまった。
- 302 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 06:56:26.08
- 僅に変らないものと云っては、あの張りのある、黒瞳勝な、水々しい目ばかりであろうか。――
- 303 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 07:07:41.73
- この変化は己の欲望にとって、確かに恐しい打撃だった。
- 304 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 07:18:57.61
- 己は三年ぶりで始めてあの女と向い合った時、思わず視線をそらさずにはいられなかったほど、強い衝動を感じたのを未にはっきり覚えている。……
- 305 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 07:30:13.23
- では、比較的そう云う未練を感じていない己が、どうしてあの女に関係したのであろう。
- 306 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 07:41:28.87
- 己は第一に、妙な征服心に動かされた。
- 307 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 07:52:44.64
- 袈裟は己と向い合っていると、あの女が夫の渡に対して持っている愛情を、わざと誇張して話して聞かせる。
- 308 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 08:04:00.65
- しかも己にはそれが、どうしてもある空虚な感じしか起させない。
- 309 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 08:15:16.40
- 「この女は自分の夫に対して虚栄心を持っている。」――
- 310 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 08:26:32.01
- 「あるいはこれも、己の憐憫を買いたくないと云う反抗心の現れかも知れない。」――
- 311 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 08:37:47.66
- 己はまたこうも考えた。
- 312 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 08:49:03.42
- そうしてそれと共に、この嘘を暴露させてやりたい気が、刻々に強く己へ働きかけた。
- 313 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 09:00:19.31
- ただ、何故それを嘘だと思ったかと云われれば、それを嘘だと思った所に、己の己惚れがあると云われれば、己には元より抗弁するだけの理由はない。
- 314 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 09:11:35.09
- それにも関らず、己はその嘘だと云う事を信じていた。
- 315 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 09:22:50.83
- が、この征服心もまた、当時の己を支配していたすべてではない。
- 316 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 09:34:06.50
- 己はこう云っただけでも、己の顔が赤くなるような気がする。
- 317 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 09:45:22.13
- 己はそのほかに、純粋な情欲に支配されていた。
- 318 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 09:56:37.71
- それはあの女の体を知らないと云う未練ではない。
- 319 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 10:07:53.55
- もっと下等な、相手があの女である必要のない、欲望のための欲望だ。
- 320 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 10:19:09.33
- 恐らくは傀儡の女を買う男でも、あの時の己ほどは卑しくなかった事であろう。
- 321 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 10:30:25.10
- とにかく己はそう云ういろいろな動機で、とうとう袈裟と関係した。
- 322 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 10:41:40.68
- と云うよりも袈裟を辱めた。
- 323 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 10:52:56.34
- そうして今、己の最初に出した疑問へ立ち戻ると、――
- 324 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 11:04:12.34
- いや、己が袈裟を愛しているかどうかなどと云う事は、いくら己自身に対してでも、今更改めて問う必要はない。
- 325 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 11:15:28.08
- 己はむしろ、時にはあの女に憎しみさえも感じている。
- 326 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 11:26:43.68
- 殊に万事が完ってから、泣き伏しているあの女を、無理に抱き起した時などは、袈裟は破廉恥の己よりも、より破廉恥な女に見えた。
- 327 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 11:37:59.40
- 乱れた髪のかかりと云い、汗ばんだ顔の化粧と云い、一つとしてあの女の心と体との醜さを示していないものはない。
- 328 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 11:49:15.21
- もしそれまでの己があの女を愛していたとしたら、その愛はあの日を最後として、永久に消えてしまったのだ。
- 329 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 12:00:31.00
- あるいは、もしそれまでの己があの女を愛していなかったとしたら、あの日から己の心には新しい憎みが生じたと云ってもまた差支えない。
- 330 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 12:11:46.58
- そうして、ああ、今夜己はその己が愛していない女のために、己が憎んでいない男を殺そうと云うのではないか!
- 331 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 12:23:03.35
- それも完く、誰の罪でもない。
- 332 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 12:34:19.02
- 己がこの己の口で、公然と云い出した事なのだ。
- 333 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 12:45:34.62
- 「渡を殺そうではないか。」――
- 334 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 12:56:50.41
- 己があの女の耳に口をつけて、こう囁いた時の事を考えると、我ながら気が違っていたのかとさえ疑われる。
- 335 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 13:08:06.04
- しかし己は、そう囁いた。
- 336 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 13:19:21.86
- 囁くまいと思いながら、歯を食いしばってまでも囁いた。
- 337 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 13:30:37.87
- 己にはそれが何故囁きたかったのか、今になって振りかえって見ると、どうしてもよくわからない。
- 338 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 13:41:53.51
- が、もし強いて考えれば、己はあの女を蔑めば蔑むほど、憎く思えば思うほど、益々何かあの女に凌辱を加えたくてたまらなくなった。
- 339 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 13:53:09.22
- それには渡左衛門尉を、――
- 340 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 14:04:25.05
- 袈裟がその愛を衒っていた夫を殺そうと云うくらい、そうしてそれをあの女に否応なく承諾させるくらい、目的に協った事はない。
- 341 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 14:15:40.74
- そこで己は、まるで悪夢に襲われた人間のように、したくもない人殺しを、無理にあの女に勧めたのであろう。
- 342 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 14:26:56.37
- それでも己が渡を殺そうと云った、動機が十分でなかったなら、後は人間の知らない力が、(天魔波旬とでも云うが好い。)
- 343 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 14:38:12.17
- 己の意志を誘って、邪道へ陥れたとでも解釈するよりほかはない。
- 344 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 14:49:27.94
- とにかく、己は執念深く、何度も同じ事を繰返して、袈裟の耳に囁いた。
- 345 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 15:00:43.63
- すると袈裟はしばらくして、急に顔を上げたと思うと、素直に己の目ろみに承知すると云う返事をした。
- 346 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 15:11:59.29
- が、己にはその返事の容易だったのが、意外だったばかりではない。
- 347 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 15:23:14.92
- その袈裟の顔を見ると、今までに一度も見えなかった不思議な輝きが目に宿っている。
- 348 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 15:34:30.58
- そう云う気が己はすぐにした。
- 349 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 15:45:46.31
- と同時に、失望に似た心もちが、急に己の目ろみの恐しさを、己の眼の前へ展げて見せた。
- 350 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 15:57:01.94
- その間も、あの女の淫りがましい、凋れた容色の厭らしさが、絶えず己を虐んでいた事は、元よりわざわざ云う必要もない。
- 351 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 16:08:17.96
- もし出来たなら、その時に、己は己の約束をその場で破ってしまいたかった。
- 352 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 16:19:33.72
- そうして、あの不貞な女を、辱しめと云う辱しめのどん底まで、つき落してしまいたかった。
- 353 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 16:30:49.43
- そうすれば己の良心は、たとえあの女を弄んだにしても、まだそう云う義憤の後に、避難する事が出来たかも知れない。
- 354 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 16:42:05.64
- が、己にはどうしても、そうする余裕が作れなかった。
- 355 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 16:53:21.86
- まるで己の心もちを見透しでもしたように、急に表情を変えたあの女が、じっと己の目を見つめた時、――
- 356 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 17:04:40.20
- 己が日と時刻とをきめて、渡を殺す約束を結ぶような羽目に陥ったのは、完く万一己が承知しない場合に、袈裟が己に加えようとする復讐の恐怖からだった。
- 357 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 17:15:55.87
- いや、今でも猶この恐怖は、執念深く己の心を捕えている。
- 358 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 17:27:11.70
- 臆病だと哂う奴は、いくらでも哂うが好い。
- 359 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 17:38:27.41
- それはあの時の袈裟を知らないもののする事だ。
- 360 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 17:49:43.27
- 「己が渡を殺さないとすれば、よし袈裟自身は手を下さないにしても、必ず、己はこの女に殺されるだろう。
- 361 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 18:00:59.04
- そのくらいなら己の方で渡を殺してしまってやる。」――
- 362 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 18:12:14.70
- 涙がなくて泣いているあの女の目を見た時に、己は絶望的にこう思った。
- 363 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 18:23:30.41
- しかもこの己の恐怖は、己が誓言をした後で、袈裟が蒼白い顔に片靨をよせながら、目を伏せて笑ったのを見た時に、裏書きをされたではないか。
- 364 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 18:34:46.08
- ああ、己はその呪わしい約束のために、汚れた上にも汚れた心の上へ、今また人殺しの罪を加えるのだ。
- 365 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 18:46:01.77
- もし今夜に差迫って、この約束を破ったなら――
- 366 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 18:57:18.31
- これも、やはり己には堪えられない。
- 367 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 19:08:34.09
- 一つには誓言の手前もある。
- 368 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 19:19:50.09
- そうしてまた一つには、――
- 369 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 19:31:05.56
- 己は復讐を恐れると云った。
- 370 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 19:42:21.61
- それも決して嘘ではない。
- 371 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 19:53:40.19
- しかしその上にまだ何かある。
- 372 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 20:04:56.28
- この己を、この臆病な己を追いやって罪もない男を殺させる、その大きな力は何だ?
- 373 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 20:16:13.91
- わからないが、事によると――
- 374 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 20:27:29.76
- 己はあの女を蔑んでいる。
- 375 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 20:38:45.52
- しかしそれでも猶、それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない。」
- 376 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 20:50:01.64
- 盛遠は徘徊を続けながら、再び、口を開かない。
- 377 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 21:01:17.65
- どこかで今様を謡う声がする。
- 378 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 21:12:33.32
- げに人間の心こそ、無明の闇も異らね、
- 379 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 21:23:49.12
- ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。
- 380 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 21:35:06.21
- 夜、袈裟が帳台の外で、燈台の光に背きながら、袖を噛んで物思いに耽っている。
- 381 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 21:46:21.89
- 「あの人は来るのかしら、来ないのかしら。
- 382 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 21:57:37.55
- よもや来ない事はあるまいと思うけれど、もうかれこれ月が傾くのに、足音もしない所を見ると、急に気でも変ったではあるまいか。
- 383 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 22:08:53.22
- もしひょっとして来なかったら――
- 384 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 22:20:09.16
- ああ、私はまるで傀儡の女のようにこの恥しい顔をあげて、また日の目を見なければならない。
- 385 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 22:31:24.99
- そんなあつかましい、邪な事がどうして私に出来るだろう。
- 386 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 22:42:40.74
- その時の私こそ、あの路ばたに捨ててある死体と少しも変りはない。
- 387 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 22:53:59.47
- 辱められ、踏みにじられ、揚句の果にその身の恥をのめのめと明るみに曝されて、それでもやはり唖のように黙っていなければならないのだから。
- 388 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 23:05:17.38
- 私は万一そうなったら、たとい死んでも死にきれない。
- 389 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 23:16:33.34
- いやいや、あの人は必ず、来る。
- 390 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 23:27:51.00
- 私はこの間別れ際に、あの人の目を覗きこんだ時から、そう思わずにはいられなかった。
- 391 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 23:39:06.90
- あの人は私を怖がっている。
- 392 :風の谷の名無しさん:2018/06/12(火) 23:50:22.62
- 私を憎み、私を蔑みながら、それでも猶私を怖がっている。
- 393 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 00:01:44.87
- 成程私が私自身を頼みにするのだったら、あの人が必ず、来るとは云われないだろう。
- 394 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 00:13:00.76
- が、私はあの人を頼みにしている。
- 395 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 00:24:16.36
- あの人の利己心を頼みにしている。
- 396 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 00:35:31.99
- いや、利己心が起させる卑しい恐怖を頼みにしている。
- 397 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 00:46:48.21
- だから私はこう云われるのだ。
- 398 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 00:58:04.00
- あの人はきっと忍んで来るのに違いない。……
- 399 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 01:09:19.76
- しかし私自身を頼みにする事の出来なくなった私は、何と云うみじめな人間だろう。
- 400 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 01:20:35.53
- 三年前の私は、私自身を、この私の美しさを、何よりもまた頼みにしていた。
- 401 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 01:31:51.38
- 三年前と云うよりも、あるいはあの日までと云った方が、もっとほんとうに近いかも知れない。
- 402 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 01:43:06.97
- あの日、伯母様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、あの人の心に映っている私の醜さを知ってしまった。
- 403 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 01:54:22.82
- あの人は何事もないような顔をして、いろいろ私を唆かすような、やさしい語をかけてくれる。
- 404 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 02:05:38.84
- が、一度自分の醜さを知った女の心が、どうしてそんな語に慰められよう。
- 405 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 02:16:54.55
- 私はただ、口惜しかった。
- 406 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 02:28:10.13
- 子供の時に乳母に抱かれて、月蝕を見た気味の悪さも、あの時の心もちに比べれば、どのくらいましだかわからない。
- 407 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 02:39:26.02
- 私の持っていたさまざまな夢は、一度にどこかへ消えてしまう。
- 408 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 02:50:41.79
- 後にはただ、雨のふる明け方のような寂しさが、じっと私の身のまわりを取り囲んでいるばかり――
- 409 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 03:01:57.58
- 私はその寂しさに震えながら、死んだも同様なこの体を、とうとうあの人に任せてしまった。
- 410 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 03:13:13.16
- 愛してもいないあの人に、私を憎んでいる、私を蔑んでいる、色好みなあの人に。――
- 411 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 03:24:28.89
- 私は私の醜さを見せつけられた、その寂しさに堪えなかったのであろうか。
- 412 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 03:35:44.58
- そうしてあの人の胸に顔を当てる、熱に浮かされたような一瞬間にすべてを欺こうとしたのであろうか。
- 413 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 03:47:00.38
- さもなければまた、あの人同様、私もただ汚らわしい心もちに動かされていたのであろうか。
- 414 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 03:58:16.05
- そう思っただけでも、私は恥しい。
- 415 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 04:09:31.88
- 殊にあの人の腕を離れて、また自由な体に帰った時、どんなに私は私自身を浅間しく思った事であろう。
- 416 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 04:20:47.60
- 私は腹立たしさと寂しさとで、いくら泣くまいと思っても、止め度なく涙が溢れて来た。
- 417 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 04:32:04.13
- けれども、それは何も、操を破られたと云う事だけが悲しかった訳ではない。
- 418 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 04:43:19.90
- 操を破られながら、その上にも卑められていると云う事が、丁度癩を病んだ犬のように、憎まれながらも虐まれていると云う事が、何よりも私には苦しかった。
- 419 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 04:54:35.62
- そうしてそれから私は一体何をしていたのであろう。
- 420 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 05:05:51.48
- 今になって考えると、それも遠い昔の記憶のように朧げにしかわからない。
- 421 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 05:17:07.23
- ただ、すすり上げて泣いている間に、あの人の口髭が私の耳にさわったと思うと、熱い息と一しょに低い声で、「渡を殺そうではないか。」
- 422 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 05:28:22.91
- と云う語が、囁かれたのを覚えている。
- 423 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 05:39:41.17
- 私はそれを聞くと同時に、未に自分にもわからない、不思議に生々した心もちになった。
- 424 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 05:50:56.94
- もし月の光が明いと云うのなら、それも生々した心もちであろう。
- 425 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 06:02:12.57
- が、それはどこまでも月の光の明さとは違う、生々した心もちだった。
- 426 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 06:13:28.40
- しかし私は、やはりこの恐しい語のために、慰められたのではなかったろうか。
- 427 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 06:24:44.41
- ああ、私は、女と云うものは、自分の夫を殺してまでも、猶人に愛されるのが嬉しく感ぜられるものなのだろうか。
- 428 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 06:36:00.19
- 私はその月夜の明さに似た、寂しい、生々した心もちで、またしばらく泣きつづけた。
- 429 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 06:47:15.80
- いつ、私は、あの人の手引をして夫を討たせると云う約束を、結んでなどしまったのであろう。
- 430 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 06:58:31.43
- しかしその約束を結ぶと一しょに、私は始めて夫の事を思出した。
- 431 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 07:09:47.24
- 私は正直に始めてと云おう。
- 432 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 07:21:02.97
- それまでの私の心は、ただ、私の事を、辱められた私の事を、一図にじっと思っていた。
- 433 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 07:32:18.93
- それがこの時、夫の事を、あの内気な夫の事を、――
- 434 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 07:43:34.55
- いや、夫の事ではない。
- 435 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 07:54:50.15
- 私に何か云う時の、微笑した夫の顔を、ありあり眼の前に思い出した。
- 436 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 08:06:06.68
- 私のもくろみが、ふと胸に浮んだのも、恐らくその顔を思い出した刹那の事であったろう。
- 437 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 08:17:22.35
- 何故と云えば、その時に私はもう死ぬ覚悟をきめていた。
- 438 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 08:28:37.96
- そうしてまたきめる事の出来たのが嬉しかった。
- 439 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 08:39:53.88
- しかし泣き止んだ私が顔を上げて、あの人の方を眺めた時、そうしてそこに前の通り、あの人の心に映っている私の醜さを見つけた時、私は私の嬉しさが一度に消えてしまったような心もちがする。
- 440 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 08:51:09.55
- 私はまた、乳母と見た月蝕の暗さを思い出してしまう。
- 441 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 09:02:25.18
- それはこの嬉しさの底に隠れている、さまざまの物の怪を一時に放ったようなものだった。
- 442 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 09:13:40.81
- 私が夫の身代りになると云う事は、果して夫を愛しているからだろうか。
- 443 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 09:24:56.44
- いや、いや、私はそう云う都合の好い口実の後で、あの人に体を任かした私の罪の償いをしようと云う気を持っていた。
- 444 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 09:36:16.79
- 自害をする勇気のない私は。
- 445 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 09:47:32.76
- 少しでも世間の眼に私自身を善く見せたい、さもしい心もちがある私は。
- 446 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 09:58:48.44
- けれどもそれはまだ大目にも見られよう。
- 447 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 10:10:04.22
- 私はもっと卑しかった。
- 448 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 10:21:19.94
- もっと、もっと醜かった。
- 449 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 10:32:35.59
- 夫の身代りに立つと云う名の下で、私はあの人の憎しみに、あの人の蔑みに、そうしてあの人が私を弄んだ、その邪な情欲に、仇を取ろうとしていたではないか。
- 450 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 10:43:51.26
- それが証拠には、あの人の顔を見ると、あの月の光のような、不思議な生々しさも消えてしまって、ただ、悲しい心もちばかりが、たちまち私の心を凍らせてしまう。
- 451 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 10:55:07.03
- 私は夫のために死ぬのではない。
- 452 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 11:06:23.02
- 私は私のために死のうとする。
- 453 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 11:17:38.64
- 私の心を傷けられた口惜しさと、私の体を汚された恨めしさと、その二つのために死のうとする。
- 454 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 11:28:54.31
- ああ、私は生き甲斐がなかったばかりではない。
- 455 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 11:40:10.13
- 死に甲斐さえもなかったのだ。
- 456 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 11:51:25.77
- しかしその死甲斐のない死に方でさえ、生きているよりは、どのくらい望ましいかわからない。
- 457 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 12:02:41.66
- 私は悲しいのを無理にほほ笑みながら、繰返してあの人と夫を殺す約束をした。
- 458 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 12:13:57.49
- 感じの早いあの人は、そう云う私の語から、もし万一約束を守らなかった暁には、どんなことを私がしでかすか、大方推察のついた事であろう。
- 459 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 12:25:13.11
- して見れば、誓言までしたあの人が、忍んで来ないと云う筈はない。――
- 460 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 12:36:28.76
- あれは風の音であろうか――
- 461 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 12:47:44.37
- あの日以来の苦しい思が、今夜でやっと尽きるかと思えば、流石に気の緩むような心もちもする。
- 462 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 12:58:59.98
- 明日の日は、必ず、首のない私の死骸の上に、うすら寒い光を落すだろう。
- 463 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 13:10:15.93
- それを見たら、夫は――
- 464 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 13:21:31.59
- いや、夫の事は思うまい、夫は私を愛している。
- 465 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 13:32:47.26
- けれど、私にはその愛を、どうしようと云う力もない。
- 466 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 13:44:02.89
- 昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。
- 467 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 13:55:18.51
- そうしてその一人の男が、今夜私を殺しに来るのだ。
- 468 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 14:06:34.39
- この燈台の光でさえそう云う私には晴れがましい。
- 469 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 14:17:50.10
- しかもその恋人に、虐まれ果てている私には。」
- 470 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 14:29:05.93
- 袈裟は、燈台の火を吹き消してしまう。
- 471 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 14:40:21.68
- ほどなく、暗の中でかすかに蔀を開く音。
- 472 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 14:51:37.50
- それと共にうすい月の光がさす。
- 473 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 15:02:53.24
- ごらんなさい、私の手の掌は傷だらけぢやありませんか。
- 474 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 15:14:08.90
- さうすれば屹度癒るわ。」
- 475 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 15:25:24.68
- 彼女は冷い手の掌を代り/″\わしの口に当てた。
- 476 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 15:36:40.27
- わしは何度となくそれを接吻した。
- 477 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 15:47:55.91
- 其間も彼女は、溢るゝ許りの愛情の微笑をもらして、わしをぢつと見戍つてゐるのである。
- 478 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 15:59:11.69
- わしは恥しながら白状する。
- 479 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 16:10:28.65
- 此時わしは僧院長セラピオンの忠告もわしの服してゐる神聖な職務も悉く忘れてしまつた。
- 480 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 16:21:44.25
- わしは何の抵抗もせずに、一撃されて堕落に陥つてしまつたのである。
- 481 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 16:33:00.09
- クラリモンドの皮膚の新たな冷さはわしの皮膚に滲み入つて、わしが淫慾のをのゝきが、全身を通ふのを感ぜずにはゐられなかつた。
- 482 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 16:44:15.78
- わしが後に見た凡ての事があるのにも拘らず、わしは今も猶彼女が悪魔だとは殆ど信じる事が出来ない。
- 483 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 16:55:31.40
- 少くも彼女は何等さうした姿を示さなかつた。
- 484 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 17:06:47.30
- 悪女がこの様に巧に其爪と角とを隠した事は、嘗て無かつた事に相違ない。
- 485 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 17:18:03.11
- 彼女は床をあげて寝台の縁に坐りながら、しどけない媚に満ちた姿をして、時々小さな手をわしの髪の中に入れては、どうしたらわしの顔に似合ふかを見るやうに、わしの髪を撚つたり捲いたりしてゐるのである。
- 486 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 17:29:18.77
- わしが、罪障の深い悦楽に酔つて、彼女の手にわしの体を任せると、彼女は又、其やさしい戯れと共に、楽しげに種々な物語をしてくれる。
- 487 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 17:40:34.68
- しかも最も驚くべき事は、わしが此様な不思議な出来事に際会しながら何等の驚異をも感じなかつたと云ふ事である。
- 488 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 17:51:50.29
- 丁度夢の中では人がどの様な空想的な事件でも、単なる事実として受入れるやうに、わしにも、是等の事情は全く自然であるが如くに思はれたのである。
- 489 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 18:03:05.93
- 「貴方に会はないずつと前から私は貴方を愛してゐてよ。
- 490 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 18:14:21.61
- 可愛いゝロミュアル、さうして方々探してあるいてゐたのだわ。
- 491 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 18:25:37.25
- 貴方は私の愛だつたのよ。
- 492 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 18:36:52.85
- あの時あの教会で始めてお目にかゝつたでせう。
- 493 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 18:48:08.64
- 私、直に『之があの人だ』
- 494 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 18:59:25.77
- つて云つたわ、それから、私の持つてゐた愛、私の今持つてゐる、私の是から先に持つと思ふ、すべての愛を籠めた眸で見て上げたの――
- 495 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 19:10:41.80
- 其眼で見ればどんな大僧正でも王様でも家来たちが皆見てゐる前で、私の足下に跪いてしまふのよ。
- 496 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 19:21:58.71
- けれど貴方は平気でいらしつたわね、私より神様の方がいゝつて。
- 497 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 19:33:15.89
- 「私、ほんたうに神様が憎くらしいわ、貴方はあの時も神様が好きだつたし、今でも私より好きなのね。
- 498 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 19:44:32.60
- 「あゝ、あゝ、私は不仕合せね、私は貴方の心をすつかり私の有にする事が出来ないのね。
- 499 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 19:55:48.93
- 貴方が接吻で生かして下すつた私――
- 500 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 20:07:08.32
- 貴方の為に利の門を崩して、貴方を仕合せにしてあげたいばつかりに、命を貴方に捧げてゐる私。」
- 501 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 20:18:24.99
- 彼女の話は、悉く最も熱情に満ちた撫愛に伴はれた。
- 502 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 20:29:41.22
- 其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。
- 503 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 20:40:57.03
- すると、彼女の眼は、再び緑玉髄の如く輝いた。
- 504 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 20:52:12.83
- 彼女は其美しい胸にわしを抱きながら叫んだ。
- 505 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 21:03:28.86
- 「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。
- 506 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 21:37:36.52
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 507 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 21:48:37.61
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 508 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 21:59:38.36
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 509 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 22:10:39.15
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 510 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 22:21:40.05
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 511 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 22:32:40.76
- 「いや、大いにありますよ。」
- 512 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 22:43:41.41
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 513 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 22:54:42.08
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 514 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 23:05:42.79
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 515 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 23:16:44.32
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 516 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 23:27:45.15
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 517 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 23:38:45.88
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 518 :風の谷の名無しさん:2018/06/13(水) 23:49:46.71
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 519 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 00:00:49.53
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 520 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 00:11:50.35
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 521 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 00:29:23.33
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 522 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 00:40:24.02
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 523 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 00:51:24.70
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 524 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 01:02:25.32
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 525 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 01:13:26.84
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 526 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 01:24:27.54
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 527 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 01:35:29.85
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 528 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 01:46:30.80
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 529 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 01:57:31.59
- 私にはそうも思われませんが。」
- 530 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 02:08:32.42
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 531 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 02:19:33.27
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 532 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 02:30:33.88
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 533 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 02:41:34.66
- 「私が心細いのではない。
- 534 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 02:52:35.35
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 535 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 03:03:35.96
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 536 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 03:14:36.56
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 537 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 03:25:37.27
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 538 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 03:36:38.17
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 539 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 03:47:39.11
- 笑わなかったばかりではない。
- 540 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 03:58:39.87
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 541 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 04:09:40.53
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 542 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 04:20:41.28
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 543 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 04:31:42.02
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 544 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 04:42:42.70
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 545 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 04:53:43.45
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 546 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 05:04:44.09
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 547 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 05:15:44.68
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 548 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 05:26:45.74
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 549 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 05:37:46.46
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 550 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 05:48:47.03
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 551 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 05:59:47.84
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 552 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 06:10:48.63
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 553 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 06:21:49.32
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 554 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 06:32:49.98
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 555 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 06:43:50.63
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 556 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 06:54:51.24
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 557 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 07:05:52.10
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 558 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 07:16:52.92
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 559 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 07:27:53.73
- 彼はその前に書いたところへ眼を通した。
- 560 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 07:38:54.35
- すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。
- 561 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 07:49:55.07
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 562 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 08:00:55.90
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 563 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 08:11:56.62
- しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。
- 564 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 08:22:57.25
- そこには何らの映像をも与えない叙景があった。
- 565 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 08:33:58.14
- 何らの感激をも含まない詠歎があった。
- 566 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 08:44:58.86
- そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。
- 567 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 08:55:59.53
- 彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。
- 568 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 09:07:00.32
- 彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
- 569 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 09:18:01.17
- 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
- 570 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 09:29:01.84
- 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。
- 571 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 09:40:02.47
- が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。
- 572 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 09:51:03.22
- 彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。
- 573 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 10:02:03.81
- この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――
- 574 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 10:13:04.43
- そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。
- 575 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 10:24:05.31
- それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――
- 576 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 11:12:48.72
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 577 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 11:23:49.46
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 578 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 11:34:50.26
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 579 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 11:45:50.94
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 580 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 11:56:51.66
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 581 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 12:07:52.24
- 「いや、大いにありますよ。」
- 582 :風の谷の名無しさん:2018/06/14(木) 12:18:52.79
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 583 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 14:14:20.38
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 584 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 14:25:36.48
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 585 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 14:36:52.14
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 586 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 14:48:07.76
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 587 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 14:59:23.36
- なども到底この「西遊記」
- 588 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 15:10:39.15
- も愛読書の一つである。
- 589 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 15:21:55.56
- これも今以て愛読してゐる。
- 590 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 15:33:11.18
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 591 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 15:44:26.90
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 592 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 15:55:42.62
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 593 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 16:07:10.25
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 594 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 16:18:25.92
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 595 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 16:29:42.21
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 596 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 16:40:57.90
- だから人の事は笑へない。
- 597 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 16:52:13.57
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 598 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 17:03:29.22
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 599 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 17:14:44.88
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 600 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 17:26:00.84
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 601 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 17:37:16.76
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 602 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 17:48:32.55
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 603 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 17:59:48.25
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 604 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 18:11:04.01
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 605 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 18:22:19.82
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 606 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 18:33:35.68
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 607 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 18:44:51.70
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 608 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 18:56:07.47
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 609 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 19:07:23.26
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 610 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 19:18:38.96
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 611 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 19:29:54.67
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 612 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 19:41:10.59
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 613 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 19:52:26.72
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 614 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 20:03:42.48
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 615 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 20:14:58.40
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 616 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 20:26:14.42
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 617 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 20:37:30.12
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 618 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 20:48:45.86
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 619 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 21:00:01.94
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 620 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 21:11:17.75
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 621 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 21:22:33.42
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 622 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 21:33:49.11
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 623 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 21:45:07.36
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 624 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 21:56:23.43
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 625 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 22:07:39.47
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 626 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 22:18:55.61
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 627 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 22:30:11.40
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 628 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 22:41:27.15
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 629 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 22:52:43.78
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 630 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 23:04:00.33
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 631 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 23:15:17.65
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 632 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 23:26:33.88
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 633 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 23:37:50.03
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 634 :風の谷の名無しさん:2018/06/18(月) 23:49:06.70
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 635 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 00:00:24.30
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 636 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 00:11:40.09
- 一層これが甚しかつた。
- 637 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 00:22:56.19
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 638 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 00:34:11.86
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 639 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 00:45:27.58
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 640 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 00:56:43.50
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 641 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 01:07:59.30
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 642 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 01:19:14.99
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 643 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 01:30:31.19
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 644 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 01:41:46.86
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 645 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 01:53:02.53
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 646 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 02:04:18.32
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 647 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 02:15:34.08
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 648 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 02:26:50.15
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 649 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 02:38:06.30
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 650 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 02:49:22.01
- 全く信子を忘れてしまつた。
- 651 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 03:02:16.35
- 勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
- 652 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 03:13:32.11
- 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
- 653 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 03:24:47.97
- 彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
- 654 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 03:36:03.67
- 松脂の匂と日の光と、――
- 655 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 03:47:19.70
- それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
- 656 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 03:58:37.25
- 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
- 657 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 04:09:52.97
- もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
- 658 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 04:21:08.61
- どうか、どうか私を御赦し下さい。
- 659 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 04:32:24.29
- 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
- 660 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 04:43:40.02
- 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
- 661 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 04:54:56.02
- さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
- 662 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 05:06:11.75
- 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
- 663 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 05:17:27.54
- それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
- 664 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 05:28:43.54
- あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
- 665 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 05:39:59.36
- あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
- 666 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 05:51:15.06
- この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
- 667 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 06:02:31.20
- ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
- 668 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 06:13:46.87
- 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
- 669 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 06:25:02.63
- けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
- 670 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 06:36:18.36
- 御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
- 671 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 06:47:34.18
- (御隠しになつてはいや。
- 672 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 06:58:49.84
- 私はよく存じて居りましてよ。)
- 673 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 07:10:05.80
- 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
- 674 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 07:21:21.45
- それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
- 675 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 07:32:37.11
- さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
- 676 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 07:43:53.43
- 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
- 677 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 07:55:09.14
- 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
- 678 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 08:06:24.97
- さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
- 679 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 08:17:41.05
- もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。
- 680 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 08:28:57.01
- けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
- 681 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 08:40:12.86
- 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
- 682 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 08:51:28.56
- 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
- 683 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 09:02:44.24
- が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
- 684 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 09:13:59.89
- さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
- 685 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 09:25:16.23
- 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
- 686 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 09:36:32.06
- そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
- 687 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 09:47:47.89
- 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
- 688 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 09:59:03.61
- 夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
- 689 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 10:10:19.40
- それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。
- 690 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 10:21:35.07
- 信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。
- 691 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 10:32:50.97
- その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。
- 692 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 10:44:06.67
- 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
- 693 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 10:55:22.42
- が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
- 694 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 11:06:38.25
- 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
- 695 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 11:17:53.97
- 信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。
- 696 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 11:29:09.90
- それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。
- 697 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 11:40:25.20
- 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
- 698 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 11:51:40.87
- 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
- 699 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 12:02:56.55
- が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
- 700 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 12:14:12.21
- その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
- 701 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 12:25:28.05
- そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
- 702 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 12:36:44.37
- 夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
- 703 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 12:48:00.52
- と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
- 704 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 12:59:16.25
- しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
- 705 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 13:10:31.89
- 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
- 706 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 13:21:47.52
- 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
- 707 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 13:33:03.18
- が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
- 708 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 13:44:18.85
- 夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
- 709 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 13:55:34.99
- さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
- 710 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 14:06:50.63
- と何時になく厭味を云つた。
- 711 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 14:18:06.38
- 信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
- 712 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 14:29:22.28
- それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
- 713 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 14:40:37.90
- 「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――
- 714 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 14:51:53.60
- そんな事も口へ出した。
- 715 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 15:03:09.64
- 信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
- 716 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 15:14:26.25
- すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
- 717 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 15:25:43.32
- と、やはりねちねちした調子で云つた。
- 718 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 15:36:59.10
- 彼女は猶更口が利けなくなつた。
- 719 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 15:48:14.77
- 夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
- 720 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 15:59:30.45
- が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
- 721 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 16:10:46.57
- と、囁くやうな声で云つた。
- 722 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 16:22:02.27
- 夫はそれでも黙つてゐた。
- 723 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 16:33:17.95
- 暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
- 724 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 16:44:33.62
- それから間もなく泣く声が洩れた。
- 725 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 16:55:49.34
- 夫は二言三言彼女を叱つた。
- 726 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 17:07:05.60
- その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
- 727 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 17:18:22.44
- が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
- 728 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 17:29:38.77
- 翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
- 729 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 17:40:56.24
- と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
- 730 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 17:52:11.90
- しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
- 731 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 18:03:27.54
- 信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
- 732 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 18:14:43.41
- 夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
- 733 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 18:25:59.65
- 「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――
- 734 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 18:37:15.31
- さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
- 735 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 18:48:30.99
- 彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
- 736 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 18:59:46.75
- こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
- 737 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 19:11:02.44
- 私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
- 738 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 19:22:18.26
- 信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
- 739 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 19:33:34.44
- が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
- 740 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 19:44:50.35
- そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
- 741 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 19:56:06.24
- 信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
- 742 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 20:07:22.02
- その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
- 743 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 20:18:38.05
- 彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
- 744 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 20:29:54.09
- その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
- 745 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 20:41:14.42
- それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。
- 746 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 20:52:31.81
- が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」
- 747 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 21:03:48.16
- なぞと、考へ考へ話してゐた。
- 748 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 21:15:04.63
- するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。
- 749 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 21:26:21.61
- 信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。
- 750 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 21:37:37.49
- 大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。
- 751 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 21:48:53.65
- 又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。
- 752 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 22:00:09.50
- が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。
- 753 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 22:11:27.48
- 彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。
- 754 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 22:22:43.27
- 俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。
- 755 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 22:33:59.03
- 彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。
- 756 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 22:45:14.81
- と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。
- 757 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 22:56:31.02
- 信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。
- 758 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 23:07:46.95
- 夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。
- 759 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 23:19:02.75
- その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。
- 760 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 23:30:19.62
- 彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。
- 761 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 23:41:35.29
- 夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。
- 762 :風の谷の名無しさん:2018/06/19(火) 23:52:51.20
- 「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」――
- 763 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 00:04:10.39
- 夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。
- 764 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 00:15:26.24
- が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。
- 765 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 00:26:42.17
- それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。
- 766 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 00:37:57.88
- その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。
- 767 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 00:49:13.54
- 彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。
- 768 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 01:00:29.28
- 「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」
- 769 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 01:11:46.70
- そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)
- 770 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 01:23:05.21
- 筆の渋る事も再三あつた。
- 771 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 01:34:23.16
- すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。
- 772 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 01:45:39.00
- 松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。
- 773 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 01:56:54.96
- その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
- 774 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 02:08:10.84
- 夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。
- 775 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 02:19:26.85
- が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。
- 776 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 02:30:42.83
- 「どれ、寝るかな。」――
- 777 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 02:41:58.50
- 二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。
- 778 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 02:53:14.27
- 信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」
- 779 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 03:04:30.00
- 「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」――
- 780 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 03:15:45.88
- 彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。
- 781 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 03:27:01.89
- 照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。
- 782 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 03:38:17.67
- 当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。
- 783 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 03:49:33.37
- 信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。
- 784 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 04:00:49.04
- 「東京も雪が降つてゐるかしら。」――
- 785 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 04:12:04.81
- こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。
- 786 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 04:23:20.50
- が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……
- 787 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 04:34:36.63
- 信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。
- 788 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 04:45:52.49
- が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。
- 789 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 04:57:08.22
- 彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。
- 790 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 05:08:24.16
- 彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。
- 791 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 05:19:39.82
- しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。
- 792 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 05:30:55.80
- のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――
- 793 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 05:42:12.54
- すべてがどの家も変りはなかつた。
- 794 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 05:53:28.78
- この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。
- 795 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 06:04:44.57
- が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。
- 796 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 06:16:00.39
- 俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」
- 797 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 06:27:16.05
- 彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。
- 798 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 06:38:31.81
- 信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。
- 799 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 06:49:47.92
- 俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。
- 800 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 07:01:03.76
- 座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。
- 801 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 07:12:19.81
- 殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。
- 802 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 07:23:35.44
- その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。
- 803 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 07:34:51.13
- 信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。
- 804 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 07:46:06.84
- 「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」――
- 805 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 07:57:23.01
- 俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。
- 806 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 08:08:38.68
- 「どうです、大阪の御生活は?」
- 807 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 08:19:54.30
- 信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。
- 808 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 08:31:10.47
- 文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。
- 809 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 08:42:26.17
- 彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。
- 810 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 08:53:41.91
- 俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。
- 811 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 09:04:58.10
- が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。
- 812 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 09:16:13.74
- それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。
- 813 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 09:27:29.40
- 時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。
- 814 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 09:38:45.13
- その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。
- 815 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 09:50:00.82
- 其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。
- 816 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 10:01:16.61
- すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。
- 817 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 10:12:32.25
- 彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。
- 818 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 10:23:47.95
- が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。
- 819 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 10:35:03.72
- その内に照子が帰つて来た。
- 820 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 10:46:19.54
- 彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。
- 821 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 10:57:35.28
- 信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。
- 822 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 12:09:19.92
- 二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
- 823 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 12:20:35.69
- 殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。
- 824 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 12:31:51.43
- 俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。
- 825 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 12:43:07.14
- 其処へ女中も帰つて来た。
- 826 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 12:54:23.02
- 俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。
- 827 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 13:05:38.79
- 照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。
- 828 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 13:16:54.65
- 「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」
- 829 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 13:28:11.00
- 「ええ、俊さんだけ。」――
- 830 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 13:39:26.64
- 信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。
- 831 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 13:50:42.33
- すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。
- 832 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 14:01:58.01
- その茶も僕が入れたんだ。」
- 833 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 14:13:13.61
- 照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。
- 834 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 14:24:29.28
- が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。
- 835 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 14:35:45.42
- 間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。
- 836 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 14:47:01.21
- 照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。
- 837 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 14:58:16.86
- 俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。
- 838 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 15:09:32.51
- 小はこの玉子から」――
- 839 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 15:20:48.21
- なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。
- 840 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 15:32:03.87
- その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。
- 841 :風の谷の名無しさん:2018/06/20(水) 15:43:19.51
- 照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。
- 842 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 06:03:52.92
- 信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。
- 843 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 06:15:09.01
- 話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。
- 844 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 06:26:24.81
- 微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。
- 845 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 06:37:40.59
- その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。
- 846 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 06:48:56.27
- 彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」
- 847 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 07:00:11.96
- すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。
- 848 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 07:11:27.65
- それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」
- 849 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 07:22:43.31
- 信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。
- 850 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 07:33:59.07
- 「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて?
- 851 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 07:45:14.77
- アポロは男ぢやありませんか。」――
- 852 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 07:56:38.00
- 照子は真面目にこんな事まで云つた。
- 853 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 08:07:54.75
- 信子はとうとう泊る事になつた。
- 854 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 08:19:10.49
- 寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。
- 855 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 08:30:26.23
- それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。
- 856 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 08:41:41.97
- 信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。
- 857 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 08:52:57.64
- 足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。
- 858 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 09:04:13.29
- 月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。
- 859 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 09:15:29.16
- 従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。
- 860 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 09:26:45.17
- 「大へん草が生えてゐるのね。」――
- 861 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 09:38:00.86
- 信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。
- 862 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 09:49:16.53
- が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
- 863 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 10:00:32.24
- と呟いただけであつた。
- 864 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 10:11:47.91
- 暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」
- 865 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 10:23:03.61
- 鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。
- 866 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 10:34:19.55
- 二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。
- 867 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 10:45:35.30
- しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
- 868 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 10:56:51.01
- 俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」
- 869 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 11:08:06.72
- 「玉子を人に取られた鶏が。」――
- 870 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 11:19:22.39
- 信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
- 871 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 11:30:38.11
- 二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
- 872 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 11:41:53.78
- 青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。
- 873 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 11:53:07.88
- 翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。
- 874 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 12:04:23.62
- 何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。
- 875 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 12:15:39.60
- 午頃までにやきつと帰つて来るから。」――
- 876 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 12:26:55.32
- 彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。
- 877 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 12:38:10.98
- が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。
- 878 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 12:49:26.67
- 照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。
- 879 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 13:00:42.78
- 隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――
- 880 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 13:11:58.63
- その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。
- 881 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 13:23:14.68
- が、信子の心は沈んでゐた。
- 882 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 13:34:30.40
- 彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。
- 883 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 13:45:46.16
- それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。
- 884 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 13:57:01.95
- 妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」
- 885 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 14:08:17.82
- と尋ねてくれたりした。
- 886 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 14:19:33.42
- しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。
- 887 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 14:30:49.14
- 柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」
- 888 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 14:42:05.05
- 照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」
- 889 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 14:53:20.72
- とだけしか答へなかつた。
- 890 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 15:04:36.33
- 信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。
- 891 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 15:15:52.41
- さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
- 892 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 15:27:08.55
- 「照さんは幸福ね。」――
- 893 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 15:38:24.26
- 信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。
- 894 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 15:49:40.02
- が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。
- 895 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 16:00:55.72
- 照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」
- 896 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 16:12:11.39
- それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」
- 897 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 16:23:27.07
- と、甘えるやうにつけ加へた。
- 898 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 16:34:43.12
- その言葉がぴしりと信子を打つた。
- 899 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 16:45:58.85
- 彼女は心もちを上げて、「さう思つて?」
- 900 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 16:57:14.59
- 問ひ返して、すぐに後悔した。
- 901 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 17:08:30.40
- 照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。
- 902 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 17:19:46.12
- その顔にも亦蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。
- 903 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 17:31:02.25
- 信子は強ひて微笑した。――
- 904 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 17:42:18.30
- 「さう思はれるだけでも幸福ね。」
- 905 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 17:53:34.40
- 二人の間には沈黙が来た。
- 906 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 18:04:50.52
- 彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。
- 907 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 18:16:06.54
- 「でも御兄様は御優しくはなくつて?」――
- 908 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 18:27:22.35
- やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。
- 909 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 18:38:37.95
- その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。
- 910 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 18:49:54.08
- 彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。
- 911 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 19:01:09.69
- 新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
- 912 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 19:12:25.40
- その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。
- 913 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 19:23:41.60
- 信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。
- 914 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 19:34:57.32
- 「泣かなくつたつて好いのよ。」――
- 915 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 19:46:13.11
- 照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。
- 916 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 19:57:29.36
- 信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
- 917 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 20:08:45.15
- それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。
- 918 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 20:20:01.05
- 私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。
- 919 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 20:31:16.78
- 俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
- 920 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 20:42:32.52
- と、低い声で云ひ続けた。
- 921 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 20:53:48.21
- 云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
- 922 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 21:05:04.56
- すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
- 923 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 21:16:31.82
- 彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
- 924 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 21:27:47.76
- が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
- 925 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 21:39:05.13
- 御姉様は何故昨夜も――」
- 926 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 21:50:21.86
- 照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
- 927 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 22:01:38.84
- 二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。
- 928 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 22:12:54.96
- 彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。
- 929 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 22:24:11.21
- 其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。
- 930 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 22:35:31.21
- もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。
- 931 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 22:46:48.06
- 彼女の心は静かであつた。
- 932 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 22:58:03.76
- が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。
- 933 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 23:09:19.68
- 照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。
- 934 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 23:20:36.17
- しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。
- 935 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 23:31:51.86
- 彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――
- 936 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 23:43:08.34
- 信子はふと眼を挙げた。
- 937 :風の谷の名無しさん:2018/06/21(木) 23:54:24.10
- その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。
- 938 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 00:05:46.14
- それともこの儘行き違はうか。
- 939 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 00:17:02.92
- 彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。
- 940 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 00:28:19.12
- が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
- 941 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 00:39:36.00
- 彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。
- 942 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 00:50:53.66
- さう云ふ声が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。
- 943 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 01:02:09.47
- 実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。
- 944 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 01:13:26.98
- が、彼女は又ためらつた。
- 945 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 01:24:44.34
- その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。
- 946 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 01:36:00.21
- 薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、――
- 947 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 01:47:16.79
- 後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。
- 948 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 01:58:32.47
- 信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。
- 949 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 02:09:48.28
- やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく
- 950 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 02:21:04.08
- いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨
- 951 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 02:32:20.05
- ほの赤く岐阜提灯もともりけり「二つ巴」
- 952 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 02:43:36.12
- の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)
- 953 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 02:54:51.80
- 戯奴の紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれにけり
- 954 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 03:06:07.50
- なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく
- 955 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 03:17:24.20
- 春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)
- 956 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 03:28:40.01
- 片恋のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり
- 957 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 03:39:55.73
- 恋すればうら若ければかばかりに薔薇の香にもなみだするらむ
- 958 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 03:51:11.95
- 麦畑の萌黄天鵞絨芥子の花五月の空にそよ風のふく
- 959 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 04:02:27.82
- 五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ
- 960 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 04:13:43.51
- 刈麦のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の恋
- 961 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 04:25:02.53
- うかれ女のうすき恋よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ
- 962 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 04:36:18.33
- 桐 (To Signorina Y. Y.)
- 963 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 04:47:34.16
- 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける
- 964 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 04:58:50.27
- 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも
- 965 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 05:10:05.96
- 広重のふるき版画のてざはりもわすれがたかり君とみればか
- 966 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 05:21:21.69
- いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも
- 967 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 05:32:37.48
- 病室のまどにかひたる紅き鳥しきりになきて君おもはする
- 968 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 05:43:53.34
- 夕さればあたごホテルも灯ともしぬわがかなしみをめざまさむとて
- 969 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 05:55:09.00
- 草いろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる
- 970 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 06:06:25.25
- くすり香もつめたくしむは病室の窓にさきたる芙藍の花
- 971 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 06:17:41.19
- 青チヨオク ADIEU と壁にかきすてゝ出でゆきし子のゆくゑしらずも
- 972 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 06:28:57.10
- その日さりて消息もなくなりにたる風騒の子をとがめたまひそ
- 973 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 06:40:12.83
- いととほき花桐の香のそことなくおとづれくるをいかにせましや
- 974 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 08:06:12.64
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 975 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 08:17:43.64
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 976 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 08:29:14.35
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 977 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 08:40:44.91
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 978 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 08:52:15.37
- なども到底この「西遊記」
- 979 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 09:03:45.83
- も愛読書の一つである。
- 980 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 09:15:17.30
- これも今以て愛読してゐる。
- 981 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 09:26:47.84
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 982 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 09:38:18.35
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 983 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 09:49:48.87
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 984 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 10:01:19.94
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 985 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 10:12:50.61
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 986 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 10:24:22.01
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 987 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 10:35:52.80
- だから人の事は笑へない。
- 988 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 10:47:23.31
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 989 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 10:58:53.91
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 990 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 11:12:06.30
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 991 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 11:23:37.20
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 992 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 11:35:08.75
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 993 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 11:46:39.44
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 994 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 11:58:09.90
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 995 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 12:09:42.98
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 996 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 12:21:13.51
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 997 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 12:32:44.07
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 998 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 12:44:15.51
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 999 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 12:55:46.02
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 1000 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 13:07:16.55
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 1001 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 13:18:47.12
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 1002 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 13:30:17.65
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 1003 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 13:41:48.20
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 1004 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 13:53:19.64
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 1005 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 14:04:50.22
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 1006 :風の谷の名無しさん:2018/06/22(金) 14:16:22.33
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
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