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【隠密】忍者抗争の歴史【盗人】

1 :用心棒:2014/12/24(水) 06:54:49.36 0.net
忍者とその戦いや抗争の歴史を語っていきましょう。

2 :名無番長:2014/12/24(水) 07:05:13.29 0.net
い や や



















.

3 :用心棒:2014/12/24(水) 07:32:32.09 0.net
忍者の登場には諸説ある。
中国からの伝来説、日本起源説、等。

中国伝来説には3つの系統があり
有名なのは【孫子】第13篇にある
【用間篇】の影響を受けて、忍者が登場したという説がある。
用間の間とは、敵の隙や油断を意味するから、間諜(スパイ)を使う兵法で、中国でいう間は日本の忍にあたる。
しかし和・洋を問わず、戦いでは間諜を使っていた例は多いので、孫子から触発されたかは不明。

聖徳太子は【志能便・しのび】を使い
蘇我馬子と物部守屋を討ったという。
日本で初めて忍を使った例とされている。
ある伝書によれば、聖徳太子が使った
【志能便】は【大伴細人・おおとものさびと】という名前で、
物部守屋のタマを取った場所は、甲賀郡(滋賀県南東)の馬杉村(甲賀市)だったとも言われる。

さらに【日本書記】には、神武天皇の東征の時、大和国忍坂村(奈良県桜井市忍坂)で、
【道臣命・みちのおみのみこと】が賊を討ち取ったケースを、日本の忍者第1号とする説がある。
賊に酒をたらふく呑ませ、泥酔させて討ち取ったとされている。

4 :用心棒:2014/12/24(水) 07:56:19.96 0.net
長野県の木曾義仲の遺児・戸隠大助という説もあり、戸隠流忍術は有名だが
これも日本起源説のひとつである。

やはり日本では、山岳修業の【修験道】の祖、【役小角・えんのおづぬ】の影響が大きい。
かつて忍者として名を知らしめた者達は、ほぼ例外やく修験道を極めている。
修験道を目指す者は、修験者と呼ばれるが、宗教的呪術者であり、医薬や武芸にも精通していた。

修験道以外にも、天文学、易学、暦学、卜占学、陰陽道、などがあるが、
忍者とは少し性格が違う。
陰陽道の祖、安倍晴明はマクワウリの中に大蛇が潜んでいるのを見抜いたと言われるが、
そういった超能力的な物と、忍術とはまた違うようだが、
忍者にも【陽忍】【陰忍】という区別をされる場合もあるので、リンクしている部分はあるかも知れない。

戦国時代で見れば、上野国(群馬県)と信濃国(長野県)には、1000人を越える忍者が居たと言われる。
戦国大名の中でも徳川家康と毛利元就の2人は、策謀・調略・謀略・奸計が特に上手い。
武田信玄が操った【三つ者】、上杉謙信の操った【軒猿】よりも、遥かに優れていた。

5 :用心棒:2014/12/25(木) 01:08:03.43 0.net
■雑賀孫市(さいかまごいち)
雑賀流忍術、津田流火術

雑賀党の首領であった【鈴木佐太夫】は、紀伊国雑賀崎(和歌山県和歌山市)に雑賀城を構え、7万石を領していた。
【雑賀孫市】は、その鈴木佐太夫の息子であり、本名は【鈴木孫市太夫重朝】といい、紀州海賊でもあった。

合戦では、雑賀党鉄砲衆の頭領であり
雑賀鉢兜をかぶり、天狗具足という魚鱗札の胴をつけた。
伝説の神鳥【三本足の熊野八咫烏(やたがらす)】の旗指物を掲げ、
【愛山護法】と名付けた愛用の銃を持ち、鉄砲2000挺の集団を率いた。

雑賀という土地は、和歌浦に面した肥沃な土地だが、帰化人の定住により鉄砲鍛治の技能者が多く、
紀州(和歌山県)の「韓鍛治」として有名になるほど、鍛治に適した土地となった。

元々は、根来衆行人方の旗頭【杉之坊明算】の兄である【津田監物算長】が
種子島で鉄砲作りの技術と射撃方法を学び、紀州に帰国してから根来衆と雑賀党に、そのノウハウを授けたと言われる。
雑賀党は、その鉄砲術と忍術を組み合わせて合戦に用いたので、ゲリラ戦術のエキスパートでもあった。

ただし、鉄砲作りや雑賀領の運営に莫大な費用が掛かるため、各地の戦国大名から合戦を請負って金銭を稼いだ。

6 :用心棒:2014/12/25(木) 01:36:44.15 0.net
雑賀孫市は、熱心な一向宗(浄土真宗)の門徒であった。

一向宗の総本山・石山本願寺(大阪市中央区)の顕如上人と共に、織田信長と戦いを繰り広げていた。
雑賀孫市が織田信長と最初に戦ったのは、石山本願寺が挙兵した元亀元年(1570年)の9月13日とされる。

これより少し前になるが、三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)は、
織田信長によって阿波(徳島県)に追放されていたが、三人衆は逆襲に転じて本州に渡海し、
摂津国・中島天満森(大阪府大阪市北区)に13000人の兵で布陣していた。
この軍勢の中に、雑賀孫市率いる鉄砲軍団も加わっていた。

三好衆の軍勢は本願寺の西にある、
野田と福島(大阪市福島区)に砦を構えていた。
緒戦こそ三好衆が優勢であったが、織田信長は4万の兵を連れて岐阜から出撃した。
数で有利な織田信長は、その勢いに乗じて天満森まで本陣を進め、鉄砲や火砲で集中攻撃を開始した。

織田信長率いる4万人の兵の猛攻撃に対して、1万3千は三好衆は耐えきれず、
和睦を申し出たのだが織田信長は拒絶し、三好勢力の皆殺しを計った。

その夜半、石山本願寺の鐘が突然鳴り響き、信長軍の楼岸(大阪市東区)にある川口の砦に砲撃が始まった。
顕如上人が率いる一向宗・本願寺は、本格的に織田信長に宣戦布告した瞬間であった。

7 :用心棒:2014/12/25(木) 01:50:01.30 0.net
本願寺からの奇襲に驚いた織田信長勢の一部は、難波(大阪市中央区)の神崎川や中津川の湿地帯に後退した。

その翌朝、朝もやの中を三つ星の馬印を掲げて近づいてくる一団があった。
三つ星の馬印は、織田信長の武将である和田惟政の旗印であり、信長勢は応援が来たと喜んだ。

しかしその一団は中津川を越えず、
突然、三つ星の馬印を捨て去り、白地に黒で描かれた「八咫烏」の馬印に変わった。
その一団は、川を挟んで横一線に展開し、信長勢に対して面での一斉射撃を開始した。
この一団こそが、雑賀孫市率いる【雑賀党】であり、信長勢は逃げ場所がなく正面から砲火を浴びる形となった。

この時、孫市が採用した奇策は「捨て旗の術」と言われている。

8 :用心棒:2014/12/25(木) 05:38:15.68 0.net
しかし別の史料によれば、明け方から激しい西風が吹き、大雨も降りだして淀川が逆流するほどであったと言われる。

いずれにしろ後退できない信長勢は前に出るしかないので、中津川を渡り反撃を試みた。
雑賀党は受け止めず、朝もやに紛れて四散して姿を隠した。
どうやら逃げ遅れたらしい数十人が立ったままの姿だったので、信長勢は容赦なく槍で突き刺し刀で斬り付けた。

だがそれは、青竹に足軽具足を付けたオトリであった。
その周りの河川の中には、先を尖らせた青竹が立ててあり、侵入してきた信長勢に大きな被害が出た。
さらに一向宗の門徒が加わった浅井・朝倉連合軍が琵琶湖西岸への進撃もあり、織田信長勢は、京都方面へ撤退した。

青竹に具足を付けたり、青竹槍の敷設は信長勢を自陣へ引き込んで被害を与える戦術だが、
織田信長は、石山本願寺との緒戦で打撃を与えれば、主導権や士気を高められるため、
攻撃されたら必ず反撃して戦果を狙ってくるだろうと、信長の性格や状況を読んで、それを逆手に取った勝利だった。

9 :用心棒:2014/12/25(木) 06:02:29.91 0.net
雑賀孫市は、五遁の術(火・水・木・金・土)のひとつである「土遁の術」も戦略として利用していた。

塹壕を迷路のように掘り巡らして進撃速度を遅らせ、その迷路の中で姿を隠しながら射撃を加え、また移動する。
まさにゲリラ戦術であり、敵はどこから射撃されているか分からない。

時には、わざと姿を見せて敵を木立へ誘い込むが、そこには青竹槍の落とし穴があったり、
火縄に点火された竹筒製のタイマー式無人銃が仕掛けられ、多くの敵兵が銃弾の餌食となった。

天正4年(1576)5月の戦いでも、織田信長は雑賀党に手を焼いた。
信長はその後の7月に海上封鎖を行い、石山本願寺に兵糧攻めを狙うが
海上封鎖の為に配置した和泉の水軍は、800艘の村上水軍に圧倒されてしまい、
さらに「焙烙(ほうろく)火矢」という火薬兵器を投げ込まれ、信長勢の船団は、またもや敗退する事になった。

翌天正5年、織田信長は石山本願寺の攻略には、まず雑賀党を始末する戦略に変更した。
既に雑賀の者達や根来寺の杉之坊が降伏しており、信長は15ヶ国の将兵を連れて、雑賀城を攻略する。

10 :用心棒:2014/12/25(木) 06:18:48.39 0.net
信長の雑賀城攻略の報が伝えられた雑賀党は、それに対抗すべく弥勒寺山に結集した。

この戦いでも雑賀孫市はゲリラ戦術を駆使して善戦する事になる。

雑賀川には逆茂木(さかもぎ:先を尖らせた木の柵、鹿砦)を設置し、網を張って渡河を遅らせ、
川底を深くえぐり、先を尖らせた青竹槍を敷設して抵抗した。
信長勢はこのゲリラ戦術に引っ掛かり、溺れたりもがいたりする所へ、容赦なく銃撃を浴びた。

確かにダメージを受ける信長勢だったが、今回は最初から雑賀党の殲滅が狙いでもあり、兵の数からして違う。
多勢に無勢そのままに面で押されてしまい、包囲され兵糧攻めを受けると、さしもの雑賀党も1ヶ月後に誓書を出して降伏した。

雑賀孫市は生き残り、関ヶ原合戦では西軍として伏見城攻略に加わった。

晩年は、徳川家康から3000石を受領し
水戸藩の初代藩主・徳川頼房付きとなったと言われる。

11 :用心棒:2014/12/26(金) 07:23:49.32 0.net
■大林坊俊海(だいりんぼうしゅんかい)
・伊達忍者・黒脛巾組

大林坊は、奥羽(山形県・秋田県)、
出羽三山にある羽黒山の修験者であった。
先祖は南北朝時代に、奥羽を拠点に活動した武将・北畠顕信に仕えていたという。
大林坊は修験道で体得した技術を駆使し、伊達政宗に【黒脛巾組(くろはばきぐみ)】という忍者として仕える事になる。

伊達政宗は、米沢城(山形県米沢市)に生まれたが、疱瘡(天然痘)が原因で右目を失明し、自らを独眼竜と名乗った。
その伊達政宗が父の輝宗から家督を譲られ、米沢第17代目当主となったのは、天正12年(1584)10月、18歳の時だった。

それから5年程度の間に、敵対していた奥羽の有力大名、蘆名、最上、佐竹らを撃退し、会津4郡、仙道7郡を制圧した。
もちろん伊達政宗の正確な判断力や行動力の結果だが、その戦の陰には伊達政宗が創設した忍者集団【黒脛巾組】が暗躍した。

黒脛巾組(くろはばきぐみ)の呼び名は、そのメンバー全員が脛(すね)に黒革の脚絆を巻き付けていた事による。
半田(飯田)道時の「伊達秘鑑」には、伊達政宗が家督を相続するとすぐに、
信夫郡鳥屋(福島県福島市)の城主・安部対馬守重定に命じて、盗みの上手い者50人を選抜して雇い入れた。
柳原戸兵衛・世瀬蔵人をトップとした【黒脛巾組】を創設した。

12 :用心棒:2014/12/26(金) 07:41:43.12 0.net
天正13年になると、伊達政宗は8500の兵を率いて、佐竹義重を総大将とした仙道筋の相馬義胤、岩城常隆、石川昭光、白河義親、二階堂盛行、
さらに会津の蘆名家らの連合軍3万人と、人取橋(福島県安達郡本宮町)で「人取橋の合戦」として激突する。

伊達政宗が、いくら軍事に優れていても、
8500の兵で3万に挑むのは数の上で差がありすぎる。

伊達政宗はあらかじめ、安積郡の山々に黒脛巾組の忍者を潜入させて監視をさせていたので、
佐竹義重の連合軍が動き始めると、黒脛巾の太宰金七は早馬を出して、伊達政宗に佐竹らの出撃を報告した。

合戦はやはり佐竹義重の連合軍が終始優勢のまま展開したが、日が落ちたので決戦は翌日に持ち越された。
劣勢の伊達政宗は、本宮城(安積郡本宮町)に後退したが、そこで討ち死を覚悟するほどだったという。

13 :用心棒:2014/12/27(土) 00:38:46.13 0.net
だが、優勢だったはずの佐竹義重率いる3万の連合勢は、一夜にして戦場から消えてしまった。

この夜、伊達政宗から指令を受けた黒脛巾組が佐竹勢に紛れ込み、謀略を開始した。
伊達政宗の叔父にあたる石川昭光や白河義親の両将は、政宗に内通していると吹聴して回った。
内通疑惑が敵陣内に広がると動揺が起こり、疑惑の目を向けられた石川昭光と白河義親は憮然として自領へ帰ってしまった。
黒脛巾組による政宗の攪乱作戦は見事に成功したのである。

さらに混乱している敵へ追い討ちを掛けるように、水戸の江戸重通と里見義頼が、
佐竹が留守の領地を狙って急襲するとの可能性があり、急遽自国へ引き返してしまった。
伊達政宗の生涯でも最も危険であった合戦で生き残る事になった。

14 :用心棒:2014/12/27(土) 01:04:49.42 0.net
その合戦の翌年、会津の黒川城(鶴ヶ城・福島県会津市若松市)の蘆名家では、幼君が3歳で没してしまった。
後継ぎが絶えてしまった蘆名家は、佐竹義重の息子で白河城主の結城白河義広が蘆名家の養子となり、黒川城へと入った。

伊達政宗は、弟の小次郎を跡目にと目論んでいたのだが、しばらく様子を見る事にした。
そして義広が黒川城主になると、義広に随従してきた重臣と蘆名家普代の宿老達の間に激しい確執が起きる。
政宗はこの騒動の詳細を探るべく、黒脛巾組を城下に潜入させる。

黒脛巾組の金助は、城下町にある風呂屋に住み込みで働き、風呂に入りに来た城の侍から、
蘆名家を二分するイザコザの情報を聞き出し、集めた内紛の情報は逐一政宗に報告した。
この時代、緊急の手紙を出す時に鳥の羽を付ける事で「大至急」を意味する「羽檄(うげき)」という方法があるが、
黒脛巾組は、鳥使いの姿に扮装した仲間に密書を託して、政宗と繋ぎをとっていたと言われる。
情報を集めた政宗は、この黒川城内のお家騒動に乗じて、蘆名義広を討伐する準備に入った。

15 :名無番長:2015/01/01(木) 23:01:51.38 0.net
ござる

16 :名無番長:2015/01/05(月) 16:23:38.84 0.net
にんにん

17 :名無番長:2015/01/11(日) 21:08:28.76 0.net
それが忍者のさだめなのだ

18 :用心棒:2015/01/11(日) 23:17:51.32 0.net
天正17年の初旬、伊達政宗は書院の庭先に大林坊俊海を呼んで密命を伝えた。
「会津を屠る(ほふる)機は熟した。黒川に忍び、動きを探れ」

翌日、大林坊俊海は百姓姿に身を変えて黒川の城下へ入ると、深夜まで待って見張りの目をかすめて城の奥深くに忍び込んだ。
城は根雪で覆われており、空気は冷たく物音が響きやすかったが、そこは羽黒山の厳冬の中で鍛えた修験者だけあり、
大林坊は、音を立てずに納戸に忍び込むと、水を含んだ布に糒(ほしい:蒸して乾燥させた保存用の米等)を包んで
柔らかくなった糒と水分をすすりながら丸二日潜入を続け、鉄砲の数量から城主と家老の確執、将兵の士気などを調べた。

大林坊俊海は城からの帰途、かつて羽黒山の修験者仲間であった覚雲坊を訪ねてみた。
覚雲坊は、蘆名家の禅僧であったが、その正体は蘆名家に雇われた忍者であったと思われる。
大林坊は、伊達政宗の大名としての器量を語り、覚雲坊を味方に付けようと説得したが、納得を得られなかった。

だが、大林坊が帰って1ヵ月ほど経ってから、覚雲坊は蘆名義広とその父の佐竹義重らが伊達政宗攻略に向かう事を伝えて来た。

大林坊は、急いでこの密報を伊達政宗に伝えると、政宗は素早く行動に移った。

19 :用心棒:2015/01/11(日) 23:28:16.97 0.net
伊達政宗は5月3日、本宮城に入るとアッと言う間に安積郡の安子島城と高玉城を攻略、
6月5日に伊達の軍勢と蘆名家の軍勢は、磐梯山麓で対峙する事になった。

いわゆる「摺上原の合戦」である。

開戦当初は、強い西風に煽られ、西風を正面に受けて戦う伊達の軍勢は、その砂嵐に目も開けられず追い詰められるが、
午後になってから風向きが変わって東風になると、追い風を利用して一気に攻略を始め、逆転勝利した。

この時期、午後になると強風の風向きが変わる事を政宗に進言したのは、
地元の百姓から季節風の特長を聞き出した、黒脛布組の大林坊俊海であったと言われている。

20 :用心棒:2015/01/12(月) 00:12:36.26 0.net
■城戸弥左衛門(きどやざえもん)
・伊賀忍者11名人の一人

伊賀国(三重県北西部)の音羽出身で、通称【音羽の城戸】と呼ばれた忍者が居た。
忍術の秘伝書【万川集海】によると、伊賀の忍術名人11人の一人に数えられている。
特に謀術と火術に優れ、鉄砲の腕前は抜群であり、樹木の枝葉の揺れから風力を読み、狙った獲物は必ず仕留めたと云う。

日本に鉄砲が伝来されたのは、種子島の領主が種子島時堯(ときたか)の時代に、
この島に漂着したポルトガル人によって天正12年(1543年)8月に伝えられたとされている。

しかしそれより以前、甲賀(滋賀県南東部)の油日(滋賀県油日)では、渡来人によって既に火薬が作られていたと云う。
伊賀の忍者、音羽の城戸が隣国の甲賀から大陸伝来の強力な火薬製造を会得し、
その後急速に普及した鉄砲造りの技術も習得し、射撃についても修業を重ねて腕を磨いたと思われる。

急速に普及したのは鉄砲や火薬だけではなく、その影響は忍者の使う忍具や忍器までも発達させた。
それまで火薬は、狼煙程度にしか使われなかったものが、火薬を詰めた火矢が登場し、
埋め火という地雷も作られ、放り火矢という目眩ましや、殺傷力は弱いものの現代の手榴弾のような兵器まで登場した。

21 :用心棒:2015/01/12(月) 10:27:16.00 0.net
城戸弥左衛門は、熱心な一向宗の門徒であった。
天下統一に向けて戦い続ける織田信長にとって、一向宗の集団は統一を阻む手強い相手でもある。

元亀元年(1570)9月12日
一向宗の総本山である石山本願寺の法主・顕如は一向宗の門徒へ信長に対抗する檄文を発し、
さらに浅井長政や朝倉義景らとも結び、織田信長に対して敢然と立ちはだかった。

織田信長と一向宗による【石山合戦】と呼ばれる戦いは、
天正8年(1580)の閏年3月まで足掛け11年間続く事になる。
信長は元亀2年5月に伊勢国(三重県)長島の一向一揆と戦うも敗北を喫するが、
その年の9月には比叡山延暦寺を襲い、僧侶だけでなく女や子供まで3万4千人を焼き討ちにした。

信長の神仏をも恐れぬ冷酷さは、世間を震え上がらせた。

22 :用心棒:2015/01/12(月) 10:48:40.14 0.net
伊賀忍者【音羽の城戸】が、石山本願寺の顕如上人・教如上人の使いの僧から、口頭で信長暗殺を依頼されたのは、
前関白・近衛前久を使いとする正親町天皇の女房奉書による勅命和睦が成立する前年の天正7年の事だった。

【城戸文書】によれば、石山本願寺との和睦が進む中、信長は琵琶湖畔の膳所(滋賀県大津市)あたりを馬で通りかかった。
そこへ突然、森の中から一発の銃声が響き、従者が信長にさしていた大唐笠の柄に当たり折れた。
信長に怪我は無く、従者達が走り出して森の中を探したが狙撃者は素早く逃げた後だった。

信長を狙撃した翌日、犯人の音羽の城戸は菓子折りを持参して、わざわざ織田信長に目通りをした。
昨日の狙撃事件の犯人は、伊賀か甲賀の忍びであろうと言いのけ、城戸自ら犯人捜査の役を願い出て許可された。

さすがの信長も堂々たる音羽の城戸の態度に、信長は城戸が犯人と思わず一杯喰わされる形になった。
或いは狙撃に失敗した城戸が、信長と刺し違える覚悟で目通りしたのかも知れないが、
全く隙を見せない信長に機会を封じられたか、一杯喰わされたフリをする信長の意図に感づき、怯んだのかも知れない。

音羽の城戸は、その後の天正9年にもう一度信長を狙撃する事になる。

23 :用心棒:2015/01/12(月) 11:03:20.74 0.net
【信長公記】によれば、世に云う後期「天正伊賀の乱」は、天正9年9月3日から戦いが始まったとあるが、
【音羽の城戸】が信長を狙撃したのは、戦いが決した後の10月10日あたりだったようだ。

伊賀の里は、信長軍勢の容赦無い攻撃により全土が焦土化し、生き残りの僅かな伊賀忍者は、
信長が必ずや検分に来るだろうと考えて、音羽の城戸に信長狙撃を依頼する事になった。

その予想通り、信長は状況視察に訪れ、伊賀の一宮・敢国神社(伊賀市一の宮)辺りで休憩するという。
音羽の城戸は、他の伊賀忍者2人と鉄砲を抱え、火種の臭いに気付かれぬよう風下に回り
近くの木陰に狙撃位置を確保すると、鉄砲を構えて三人一斉に射撃した。

しかし、信長には当たらなかった。
信長はよほど強運と見えて、三人同時射撃を受けても、弾丸は従者に命中して信長自身は、かすり傷ひとつ無かった。

24 :用心棒:2015/01/12(月) 11:25:02.98 0.net
この時代の火縄式鉄砲は、口径18mmの長い全長の銃で、重さは8kgもあった。
弾丸は鉛の玉で、
最大射程は700メートル前後だが
実戦での射程は300メートル以内としていたようだ。
しかし、300メートルでは命中しても、かすり傷程度で済んでしまう場合もあり、
狙撃による一撃必殺を狙うのならば、100メートル以内まで接近する必要があった。

鉄砲名人と呼ばれた音羽の城戸だが、2度も信長狙撃に失敗した。
今回も森の中を上手く逃げたが、かつての配下であった宮田某に裏切られ、
かつての琵琶湖畔膳所での狙撃を通報されて捕らえられた。

音羽の城戸は凄まじい拷問を受けたが、依頼人の名前や情報は何も言わず、尋問に耐え抜いた。
それどころか、警備の目を盗み脱走まで試みたが、その追っ手も手練れの忍者であった。

城戸は厳しい拷問により身体は弱っており逃げるのも一苦労で、追跡の忍達に追い詰められる形になった。
迫ってくる忍者を相手に奮戦したが、弱った身体では力も無く、最早逃げられないと考えた城戸は、自害して果てた。

25 :名無番長:2015/01/15(木) 20:46:50.74 0.net
てす

26 :名無番長:2015/01/16(金) 00:27:16.86 0.net
■篠山理兵衛(しのやまりへい)

・甲賀53家の中忍

伏見(京都府伏見区)の籠城戦は、太閣秀吉の没後、野心をあらわにした徳川家康と、
大阪城主・豊臣秀頼の母である淀君をバックにつけた石田三成との確執によって始まるが、
両者の確執はやがて争いとなり、慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いへと発展する。
その関ヶ原開戦までの前哨戦が、7月19日より始まった伏見籠城戦となる。

徳川家康は自分が大阪城を出れば、その留守をついて、石田三成が必ず打倒家康の兵を挙げると読んでいたが、
それは逆に、目障りな石田三成をはじめとする豊臣方を討つ機会であり、むしろ石田三成の挙兵を狙っていた。

慶長5年6月15日、会津(福島県会津若松市)の上杉景勝に難癖を付け、討伐という理由から大阪城を出陣した。

その日は伏見城に入り17日まで滞在し、18日に会津へ向けて出発した。
もし三成が挙兵するならば、まず狙われるのは家康の京都での居城・伏見城であり、伏見城を捨て石にするつもりだった。
そこで家康は、鳥居元忠(下総矢作城主)を守城を命じて、留守を託した。

27 :名無番長:2015/01/16(金) 01:24:47.12 0.net
徳川家康は18日、近江の石部(滋賀県湖南市)の宿陣に入ると、
そこへ水口城(滋賀県甲賀市)の城主・長束正家が訪ねてきて
「明日、牛ヶ淵の景勝地にて朝食でも」と申し出てきた。

長束正家は、豊臣秀頼を補佐する五奉行の一人だが、石田三成に加勢する一人でもあった。
家康は申し出を承諾したが、その夜に篠山理兵衛資盛(すけもり)から、
長束正家が石田三成と謀り、暗殺を企てている事を告げた。
理兵衛は、甲賀武士達を護衛に差し出し、家康を石部ら脱出させる事に成功させ、三成らの暗殺計画は失敗する。

7月11日、近江佐和山(滋賀県彦根市)の居城に蟄居中の石田三成は、家康討伐の兵を挙げた。
小山(栃木県小山市)に布陣していた家康は、この急報を受けて東海道を大阪へ向かった。

7月下旬になると、山岡景友から甲賀武士へ「石田治部少輔の叛逆により上方が蜂起、伏見城が難儀の状態にある。
忠節は、この時である。甲賀の者は早速伏見城に駆け付けるよう」
(甲賀古士由緒書)
と、伝えてきた。

28 :用心棒:2015/01/17(土) 01:27:12.29 0.net
山岡景友は、山岡景隆の弟にあたる。

景隆は、近江瀬田城(滋賀県大津市)の城主で、
本能寺の変直後の家康の「伊賀越え」の時に案内人を務めていた。
この頃には、景友は家康と甲賀武士との連絡役になっていて、さらに弟の景光も伏見城に入っていた。

まず100名前後が伏見城へ向かった。
家康を暗殺計画から救った篠山理兵衛資盛は勿論、父親の理兵衛景春や兄の彦十郎景尚、その一族や配下の者達だった。

一見すると、家康への忠義から集まってきたような感じを受けるが、
伏見城の籠城は劣勢であり、討死の可能性が大きい。
甲賀武士は山岡景友に対して、救援の見返りとして米3ヶ月分を先渡しを要求し、それを受け取っていた。

「日本戦史」には、家康の所領
「近江の代官の岩間兵庫、深尾清十郎、甲賀忍者、50〜60人が来た」
とあり、山岡景友ルートとは別の甲賀武士達も伏見城に入っていた。

29 :用心棒:2015/01/17(土) 01:45:29.21 0.net
しかし甲賀の集結を知ったを水口城主・長束正家は、甲賀を支配下に置いていた立場もあり、
甲賀武士達に急遽水口城へ集まるように命じ、逃亡対策として武士達の妻子を人質にとった。
そして甲賀武士達は、石田三成の西軍と徳川の東軍に別れて戦う事になった。

7月18日
石田三成は、総大将・毛利輝元の名で伏見城の明け渡しを勧告したが、守将・鳥居元忠はそれを拒否。

翌19日
西軍は、宇喜多秀家、小早川秀秋、毛利秀元、島津義弘ら、約4万の大軍で伏見城を包囲し、鉄砲による総攻撃をかけた。

伏見城は、本丸を鳥居元忠が守り、
西ノ丸に内藤家長、
三ノ丸に松平家忠、
松ノ丸に深尾清十郎と甲賀武士
名護屋丸に甲賀作左衛門と岩間兵庫
太鼓丸には、宇治の茶商・上林政重
を配して、銃撃で応戦していた。

宇治の茶商・上林政重(竹庵)は、町人であったが、日頃から世話になっている家康の恩に報いたいと、籠城を願い出ていた。

籠城側の総数は、わずか1800名で
西軍4万とは雲泥の差である以上、
戦いは、1日もあれば終わるはずであった。

30 :用心棒:2015/01/17(土) 02:04:54.49 0.net
だが伏見城は、かつての豊臣秀吉が隠居所として使っていた城である。

他の城より堅牢であり、渡櫨や防御用の塀、矢狭間といった反撃用の拠点がいくつもあり
そこから弓や鉄砲を間断なく撃ち出して抵抗を続け、落城する気配は全く無かった。
その銃撃戦は10日間続く事になったが、甲賀武士達は鉄砲や弾薬を大量に持ち込んでおり、弾切れの心配も無かった。

ただでさえ戦下手の石田三成は焦り始め、29日には三成自らが出陣し猛攻を加えた。

その銃撃戦の最中、長束正家は一計を案じて実行に移した。
長束が脅迫を加えて集めた甲賀武士の中に「浮貝(鵜飼)藤助」という忍が居た。
この浮貝を使って、松ノ丸を防衛している「山口宗助・永原十内」の両甲賀武士に矢文を飛ばした。

「城内に火を放ち、西軍に内応すれば、秀頼公から莫大な恩賞がある。
もし断れば、故郷の妻子や一族の命は無い」

一説によれば、長束正家は実際に甲賀からその家族を連行し、伏見城の前で磔(はりつけ)にしようとした、とある。

31 :用心棒:2015/01/17(土) 02:28:12.84 0.net
この伏見城籠城では、山口宗助や永原十内は西軍の敵になっていたが、
長束から回忠(裏切り)を命じられ、山口達は約40名の甲賀武士と申し合わせ、
「明日の夜、城内に火を放つ」と返答した。

31日夜半
山口・永原らの甲賀武士達は、松ノ丸や城内の各所に火を放ち、城壁を崩して西軍の軍勢を城内へ侵入させた。

鳥居元忠を大将とする籠城組は、裏切りとは知らないまま防戦したが、一度侵入を許した大軍の勢いは凄まじく、
鳥居をはじめとして、将や兵、甲賀武士のほとんどが奮戦の末、討死か自刃して果てた。
裏切った甲賀武士は生き残ったが、恩賞どころか騙されたまま栗田口(京都市左京区)で処刑された。

篠山理兵衛や一族も討死したが、家康は関ヶ原以降、理兵衛の働きに対し、
その子供・資忠に700石を与えて甲賀鳥居野村の代官に任命し、恩に報いた。
※屋敷は、今も残っている。

さらに籠城戦で戦死した甲賀の子孫らを召し出し、山岡景友を頭とした甲賀組を結成させた。
甲賀市甲賀町の多聞寺には伏見城籠城戦で戦死した篠山理兵衛の墓があり、
甲南町の慈眼禅寺には、
「慶長5年伏見籠城之士十人之墓」
と刻まれた墓標と位牌が残っている。

32 :名無番長:2015/01/20(火) 12:20:23.51 0.net
それが忍者のさだめなのだ

33 :名無番長:2015/01/25(日) 02:45:10.39 0.net
てす

34 :名無番長:2015/01/28(水) 15:10:56.39 0.net
まこと栄光の影に数知れぬ

35 :名無番長:2015/01/31(土) 17:11:01.03 0.net
今日もまた太陽は昇り川は流れる

36 :名無番長:2015/01/31(土) 17:54:06.87 0.net
ふむふむ、なるほど

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37 :名無番長:2015/01/31(土) 21:54:27.32 O.net
>>31 『甲賀の恥は甲賀で購うべし』
負傷者ばかりの僅かな甲賀衆を集め敵の大軍の中へ切り込み
城主、鳥居元忠の切腹の刻を稼ぐ為に 突撃して全員討ち死

38 :名無番長:2015/01/31(土) 22:01:21.71 O.net
鳥居元忠は切腹の刻に家臣から 甲賀衆が最後の突撃をしたと報告を受け
『我方の甲賀の見事な忠義に感謝する』と言い残し切腹する

39 :名無番長:2015/01/31(土) 22:03:04.90 O.net
甲賀忍び 伊賀忍び 根来忍び

甲州透破 風魔乱破

40 :名無番長:2015/01/31(土) 22:41:12.53 O.net
影に生き…
影に死す…
名誉も名声も無く
己の存在すら消し去り在るのは忠義のみ
我が身既に鉄なり!
我が心既に空なり!
忍びとは常に心に刄を持ち備え
最後には忠義の名の元で人知れず滅び去る者なり

41 :名無番長:2015/02/01(日) 00:10:56.03 O.net
>>39 根来は門徒衆
や!
風魔は北条に使えた風魔党で
素破は甲斐より西での情報活動する者の呼び方で
乱破は関東で情報活動する者の呼び方

(無知!笑)

42 : ◆4649010066 :2015/02/17(火) 06:03:56.99 0.net
旅愁 https://www.youtube.com/watch?v=gXUIHF-tee4

43 : ◆q......... :2015/02/17(火) 11:21:17.45 0.net
臨兵闘者 皆陳列在前 は 弘法大師空海の金剛界曼荼羅のスピンオフ言語です。

44 : ◆q......... :2015/02/17(火) 13:12:54.92 0.net
伊賀上忍三家 「服部家」 「百地家」 「藤林家」 の三家を指す

服部半蔵VS百地三太夫

45 :名無番長:2015/02/17(火) 13:34:03.45 0.net
【訃報】服部兵衛 死去
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1424145388/l50

46 :名無番長:2015/02/17(火) 13:39:42.72 0.net
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47 : ◆q......... :2015/02/17(火) 18:09:28.59 0.net
2月22日はニンニンニンで忍者の日ですhttp://222.ninja/about

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48 :用心棒:2015/02/17(火) 18:51:37.36 0.net
■杉谷善住坊‐すぎたにぜんじゅうぼう
・甲賀流、53家のひとつ
・?〜1573(天正元年)

杉谷の姓は、甲賀(滋賀県甲賀市)にあった地名を冠したもので、
善住坊はその甲賀忍者の中でも名門と言われる五十三家のひとつという家柄であった。
だが、千種峠を越えた伊賀(三重県三重郡菰野町)にも杉谷という地名がある事から、菰野町杉谷の出という説もある。

杉谷善住坊は『信長公記』や『総見記』によれば、比叡山の僧侶となっている。
また『改正三河後風土記』では、伊勢の朝熊岳・明宝院の悪僧だったとされている。
だが、比叡山の僧侶とは考えにくい。

甲賀忍者の宗家・望月家の一族は、朝熊明宝院の薬売りの僧として朝熊坊を名乗り、
全国にお札を配って生計を立てていたが、杉谷も同族であったと言われている。

いずれにしても、杉谷善住坊は甲賀随一の鉄砲射撃の名人であったと言われている。
甲賀の忍者が鉄砲に通じていたのは、火薬の活用法を鉄砲伝来以前から行っていたが、そこへ鉄砲が伝わってきた。
近江国長浜(滋賀県長浜市)には鉄砲鍛冶で有名な国友市があり、甲賀は国友に近い事から普及も早かったと言われる。

その鉄砲で、織田信長が杉谷善住坊に狙撃されたのは、元亀元年(1570)の事であった。

49 : ◆q......... :2015/02/17(火) 19:11:46.69 0.net
城戸 弥左衛門(きど やざえもん、生没年不詳)は、戦国時代の伊賀流忍者。中忍の身分。通称「音羽(おとわ)ノ城戸」。本名は不明

火縄銃の名手で、他の忍者達の間でも恐れられたほどの腕だったという。織田信長の狙撃を2度試みたことがあり、いずれもうまく逃げおおせている。

戦国時代の伊賀衆。「万川集海」にいう伊賀流忍術十一名人の一人で、本名城戸弥左衛門。音羽の生まれであったため音羽の城戸と呼ばれる。

「伊乱記」によれば、天正9(1581)年、伊賀を平定した織田信長が伊賀を視察した際、他の伊賀者と図って信長を狙撃したという。

狙撃は側近を倒しただけで失敗したが、追っ手を振りきって逃れ去ったという。

50 : ◆q......... :2015/02/17(火) 19:16:21.37 0.net
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http://energy.blog.jp/archives/2014-03.html

51 :用心棒:2015/02/17(火) 19:28:29.06 0.net
織田信長は永禄十一年(1568)に第15代将軍・足利義昭を擁立した。

義昭を奉じて上洛を果たした信長は、足利義昭に対して五ヶ条からなる約定書を提出する。
それは将軍・義昭の権威を無視し、すべて信長の思い通りに行動する為の物であった。
当然、信長っ義昭の間に確執が生じたが、信長は各地の戦国大名に上洛を促す書状を送ったが、
越前(福井県)の朝倉義景は、信長の上洛指示に従わなかった為、元亀元年4月20日、信長は朝倉討伐に向け京都を出陣した。

4月25日、信長は朝倉方の天筒山城(福井県敦賀市)を陥落させ、翌日には金ヶ崎城を制圧、
次いで木ノ芽峠(敦賀市・南条郡南越前町付近)を越えた。
だが、そこへ急を知らせる伝令が入り、信長と同盟関係にあった浅井長政が離反、朝倉方に付いた事を知った。
この浅井長政の離反には、信長が長政との約定を違えたという理由があった。

このまま、木ノ芽峠を進めば、浅井軍に側面から攻撃される可能性があり、
木下藤吉郎(豊臣秀吉)を金ヶ崎城へ残し、近江国朽木峠(滋賀県高島市)を越えて、京都へ戻った。

この退却は『金ヶ崎の退き口(のきぐち)』と言われるが、杉谷善住坊の狙撃事件は、そのような背景で発生した。

52 :用心棒:2015/02/18(水) 08:18:10.06 0.net
織田信長は、しばらく京都に滞在したが5月下旬になると、
甲賀に逃げていた近江守護職・六角義賢(佐々木承禎)が軍備を建て直し、
伊賀や甲賀の武士など数千人規模を引き連れ草津まで進出してきた。

このままでは、岐阜までの帰路を閉じられてしまうと考えた信長は、
5月20日に鈴鹿山脈を横切る千種峠を越えて、一旦岐阜に戻る決意をした。
道中の案内役には、香津畠城(東近江市)の城主・香津畠六左衛門、布施藤九郎が担当した。

杉谷善住坊は、六角義賢から信長暗殺の命を受け、千種峠に現れる信長を待っていた。
おそらく、信長の千種峠越えをいち早く察知したのは甲賀忍者で、六角義賢はその情報を得たと思われる。
当時の千種峠は近江商人が伊賀へ向かう際に、隊列を組んで休憩を入れながら8時間かけて踏破するような峠である。
現在は、岩ヶ谷から三重県菰野町までハイキングコースになっているが、そこには『善住坊の隠れ岩』が残っている。

岩ヶ谷から歩いて30分ぐらいの場所に大きな岩があり、杉谷善住坊はその岩陰に隠れて信長を待ち伏せしたと言われている。
善住坊は、信長が通るであろう峠道から、山中を流れる渋川を挟んで、
約12〜13間(約22〜24m)の距離になる、その大きな岩を狙撃ポイントに選んで信長を待った。

53 :用心棒:2015/02/18(水) 08:39:31.97 0.net
信長の一行が隊列を組んで峠道をやってくると、杉谷善住坊は狙撃の為に鉄砲を構えた。

だが、鉄砲の射撃技術では抜きん出ていたと言われる善住坊が狙撃に失敗した。

善住坊ほどの者が、何故狙撃に失敗したかは不明だが、弾丸は信長の帷子の袖を貫通しただけで、信長は無事であった。
突然の銃声に驚いた家来達が慌てて犯人を探したが、善住坊はすぐに山中に逃げ混んで捕まらなかった。

3年後の天正元年(1573)8月、
善住坊は、琵琶湖近くの高島(高島市)に居た所を、
浅井家の旧家臣・磯野員昌に見つかり捕らえられ、岐阜まで護送された。

一説によると、信長は家臣・菅屋長頼に善住坊への拷問を命じ、狙撃事件の依頼者や情報を自白させたと言われる。
取り調べが終わった善住坊を待っていたのは『竹鋸にて7日間、挽き殺しの刑』であった。
鋸挽きとは、罪人を立たせた状態で肩まで生き埋めにし、竹で作った鋸で首の挽きながら殺す刑であった。

さらに、その鋸を挽くのは処刑場を通り掛かった一般市民がやらねばならず、
たまたま通っただけの人も、一人が一回ずつ鋸で罪人の首を挽かないと通行出来ず、
もし拒否すれば通行人の方が罰せられた。
そのため、通行人の方が恐ろしがって処刑場近くを通る人間が居なくなった。

杉谷善住坊は、その5日後に絶命したと言われる。

54 :用心棒:2015/02/18(水) 09:14:01.16 0.net
■杉原盛重(すぎはらもりしげ)
・毛利・吉川に仕える
・?〜天正9年(1581)

杉原盛重は、備後(広島県東部)の武将であり、通称を播磨守という。
中国地方随一の戦国大名・毛利元就に仕えた忍者に『鉢屋衆』があるが、この杉原盛重も当初は忍者であった。

毛利に仕える以前の杉原盛重は、備後・神辺城(広島県福山市)の城主・杉原宮内少輔忠興の家臣であった。
城主の忠興は一時、長門(山口県北西部)に勢力を持つ大内義隆の命令で、
山名氏を名乗っていたが、義隆没後は、毛利元就に仕えて本来の杉原姓に戻した。

所が、弘治三年(1557)三月、忠興が中風に倒れて急死すると、忠興に世継ぎが居なかった事から、相続問題が発生した。
杉原家は、一族の4名が神辺城の家老になっていたが、毛利元就はこの中で誰に相続させるかを考え、
すでに養子として独立させた吉川元春(元就の次男)、小早川隆景(元就三男)に意見を求めた。

小早川隆景は、近隣周辺に武勇を知られ、さらに律儀さでも知られた一番家老の『左衛門尉興勝』を推薦したが、
吉川元春は、天性の大器と知略に富んだ4番家老の『播磨守盛重』を推挙した。

ただ天性の大器とは、プライドや野心をも併せ持つ事を意味するので、
吉川元春は毛利元就に対して、今後もしも杉原盛重の大器が毛利家に災いとなった時は、
吉川元春自らが盛重を成敗すると、元就に宣言した。

毛利元就は、吉川元春の意見を採用し、永禄元年(1558)1月、杉原盛重は杉原宗家の家督を相続して神辺城主となった。
盛重はいたく感激し、城主となってからは毛利家に仕えるが、特に吉川元春には忠義を尽くす事になる。

55 :用心棒:2015/02/18(水) 09:46:03.47 0.net
それ以降なら盛重は、吉川元春の侍大将として山陰地方攻略の先鋒となり、
永禄四年(1564)に尾高(鳥取県米子市)に駐留して尼子義久や勝久との合戦を行った。
それらの戦績や功績から、伯耆(ほうき)・泉山城(鳥取県米子市)の城主となるまでになった。

神辺城の跡取り城主に杉原盛重を充てたのは毛利元就だったが、元就は更に盛重を取り込む策を実行していた。

盛重が杉原宗家を相続した際、元就は自分の姪を盛重の正妻として、政略結婚をさせていた。
この姪は元就の兄・毛利興元の娘であったが、この結婚の時点で40歳を越えていたと言われる。
杉原盛重の出生年が不明だが、少なくとも10歳以上は歳が離れていたと思われる。

この姪の経歴が凄く、まず山内豊道に嫁ぐが死別、次に小早川興景と再婚したが、また死別した。
3度目は盛重のかつての主君・杉原忠興と再々婚をしたが、また死別した。
そして杉原盛重が4度目の亭主となった。

一連の結婚でも、その姪は子供をもうけていなかったようであるが、
とにかく当時の大名は、政略結婚や養子縁組みは戦略の一環であり、毛利元就もそれで地盤を強化していた。

という事は、杉原盛重は元就にとっても繋ぎ止めておくべき人物であり、他の血筋から嫁をめとらせるよりも
自分の血縁者をあてがう事で、毛利ファミリーを強化し、家督を存続させる一部にしておきたい人材だったと思われる。

56 :用心棒:2015/02/19(木) 07:50:20.72 0.net
杉原盛重は、吉川元春に仕える知勇兼備の武将であり、泉山城の城主であると同時に、忍者の頭領でもあった。

盛重の家臣達には、腕自慢の野武士や山賊、海賊、忍者崩れ等、
実戦経験豊富な兵隊を多く召し抱え、若い者や足軽には盛重自らが、忍びの技術を教えて修得させたが、
さらに盛重自身の見た目も普通ではなかった。
杉原盛重は誰の前でも喜怒哀楽の表情を一切出さず、常に冷酷な顔付きで、陰では『お面杉谷』とアダ名を付けられていた。

『陰徳太平記』には、盛重の家来達について、
『元々、盗賊などを仕事にしていた連中だから、敵の城や陣地に夜討ちや忍び討ち、火付けが得意であり、
厳重な警備を易々と潜り抜け、敵の城を陥落させた』等の記載がある。
盛重の配下には、徳岡久兵衛、佐田彦三郎・神五郎・小鼠の佐田3兄弟、別所雅楽允なども忍術に長けていた。

毛利元就没後の天正六年(1578)4月
毛利輝元を総大将に、吉川元春、小早川隆景ら、総勢3万の軍勢で、
尼子氏が死守する上月城(兵庫県佐用郡佐用町)へ攻勢を掛け包囲した。
その目的は、織田信長による中国地方侵略を阻止する為であった。

毛利軍勢は高倉山を背にして上月城を包囲していたが、その高倉山へ豊臣秀吉率いる尼子氏への織田援軍が到着した。

57 :用心棒:2015/02/19(木) 08:19:54.26 0.net
輝元率いる毛利軍勢と秀吉率いる織田軍勢は、睨み合ったままの状態が続いたが、
毛利軍勢は、既に上月城を包囲して水口を抑えた兵糧攻めに出ていたので、
あとは城の食糧が尽きて降伏してくるのを待つ状態であった。

5月初旬になると杉原盛重は配下の忍者を集めて、秀吉の軍勢へ奇襲攻撃に出る旨を告げた。
大規模な攻撃ではなくゲリラ的な奇襲なので、盛重の配下の忍者達が得意とする戦法であり、
佐田3兄弟、徳岡久兵衛、別所雅楽允、安原神次郎、菊池肥前守など20人前後が闇に紛れて高倉山の秀吉陣地へ潜入した。

最初に忍び込んだ徳岡久兵衛は、眠っている秀吉軍の将兵に近付き、首を斬り落として回った。
他の忍び達は陣屋へ忍び込んで手当たり次第に斬りまくり、秀吉軍が夜討ちだと大騒ぎになった頃には、
杉原盛重のゲリラ部隊は、それなりの成果をあげたので引き揚げる所であった。

中でも別所雅楽允は、派手に暴れ回り
秀吉陣地から引き揚げる際に
『我は杉原の郎党、別所雅楽允なり。
夜討ちを掛けて帰る所だが、悔しければ討ち取ってはどうか?』
と言い放って、闇の中へ走り去った。

秀吉の軍勢は追いかけてはみたものの
高倉山の闇の中では動きが取れず、追跡を諦めた。
その後、秀吉陣地の警戒が厳重になったが、杉原盛重の忍者達はそれを潜り抜け、
さらに数度、ヒットアンドアウェイによる夜討ちを繰り返し、秀吉軍勢を翻弄した。

58 :名無番長:2015/02/21(土) 07:19:33.27 0.net
「包丁投げたら背中刺さった」バイト中の妻が無職夫殺害 [ 2013年12月23日 05:30 ]

夫に刃物を投げつけて殺したとして、大阪府警浪速署は22日、殺人の疑いで大阪市平野区、アルバイト門谷和美容疑者(40)を逮捕した。

逮捕容疑は22日午前1時10分ごろ、勤務する同市浪速区の居酒屋の前で、夫の利幸さん(45)の背中に刃物を投げつけ、刺し殺した疑い。

浪速署によると、門谷容疑者の勤務中に男性と一緒に来店した利幸さんと、店内で口論になったことが原因とみられる。

門谷容疑者は「脅すつもりで包丁を投げた。殺すつもりはなかった」と殺意を否認している。

凶器の刃物は、現場に署員が駆けつけた時には見当たらず、刃渡りなども不明。

同署によると、傷は背中の心臓側に一つ、まっすぐに刃物を突き刺したようについていた。

刃は衣服を貫通し、心臓まで達したとみられている。

浪速署によると、利幸さんは無職で、門谷容疑者としばしば店で痴話ゲンカをしていた。
友人ら周囲も「またか」と思い、刃物が投げられた瞬間も刺さった時も目撃した人はいなかった。

浪速署では、投げた刃物が偶然刺さったという供述の一方で、門谷容疑者が刃物を突き刺した可能性もあることから慎重に調べている。

59 :名無番長:2015/02/21(土) 07:38:01.20 0.net
>>58
現代忍者 凄腕の刺客

60 :用心棒:2015/02/21(土) 12:46:32.75 0.net
■佐田彦四郎(さたひこしろう)
・毛利勢

杉原盛重は、毛利元就の計らいから吉川元春に仕えたが、その配下に佐田彦四郎が居た。
杉原自身も忍者であるが、その配下の中でも特に優秀な忍と言われたのが、
佐田彦四郎、甚五郎、小鼠の3兄弟であった。

『陰徳太平記』によれば、佐田彦四郎は人の目を欺いたり、幻惑させる術については抜群の腕前と言われる、

ある冬の夜に、杉原の家臣達が忍術の訓練を終えて、一室で囲炉裏を囲み暖を取っていたか、その時一人が
「いくら彦四郎でも、皆が集まっているこの状態で、囲炉裏の薪を盗み取れまい」と言った。

しかし彦四郎は
「では盗ってみせよう。薪を盗めば寒くなるがいいか?」と答えた。

囲炉裏には皆が囲い、薪が赤々と燃えているが、寒くなるという言葉に一同は顔を見合せた。

だが半刻たっても何も起こらず、薪は相変わらずに燃えていた。

61 :用心棒:2015/02/21(土) 13:03:34.66 0.net
「何も起こらないではないか?」
一同の中から、そんな声も出たが、
甚五郎と小鼠だけは黙っていた。

彦四郎は薄笑いを浮かべながら
「そうかな?、寒くはないか?」
と答えた。
言われてみれば、囲炉裏の薪は勢いよく燃えてるはずなのに、一同は何故か薄ら寒さを覚えていた。

「もうよかろう」と、彦四郎が持っていた小枝で囲炉裏の端を軽く叩いた。
一同が囲炉裏を見ると、赤々と燃えていたはずの薪は全て無くなっていた。
「お主らに分からぬよう、薪を一本ずつ抜き取ったのだ」

これは幻術と呼ばれる忍術だが、どうやら彦四郎は、囲炉裏を囲む一同に催眠術を掛けたと思われる。
一人ずつ催眠術で眠らせたが、起きているような錯覚を与えたので、囲炉裏の薪は燃えたままだと幻覚を与えた。
彦四郎が小枝で囲炉裏の端を叩いたのが催眠術を解く合図で、
一同は暖を取っていた錯覚から、現実に引き戻されて寒さを覚えたと思われる。

一同は唖然として声も出なかった。

62 :用心棒:2015/02/21(土) 13:28:42.33 0.net
彦四郎には弟子も沢山居たが、その中に佐山彦太郎という忍者が居た。

佐山彦太郎は、彦四郎から忍者の奥義を学ぶまでに上達していたが、
その腕試しとして、彦四郎の家に忍び込み家財道具のひとつでも失敬しようとチャレンジを試みた。

ある夜、佐山彦太郎は彦四郎の家の近くに忍び寄ったが、彦四郎をなんとか家の外へ出さないとならない。
そこで、彦四郎が朝と夕片に縁側で水仕事をする事を利用しようと考え、
縁側と同じ高さに身を構え、魚の骨を噛む犬の鳴き真似を始めた。
彦四郎が犬を追い払おうと部屋から出てきた隙に忍び込むプランであったが、彦四郎は部屋から出て来なかった。

彦四郎は、犬はそんな場所で骨は噛まないし、彦四郎の縁側まで寄ってくる犬を不審に思い、
これは誰かが犬の鳴き真似をしていると見破り、部屋の中で警戒していた為、佐山彦太郎のチャレンジは失敗に終わった。

佐山に比べて、同じ弟彦四郎の子である丸山三九郎は少し違っていた。
ある夏の夜、同じように彦四郎の家に忍び込んだが、部屋の蚊が夜半になっても静まらずに飛び回っていた為、
彦四郎は、誰かの潜入に気付いて起きていると分かり、そのまま何も盗らずに帰った。

翌日、彦四郎が丸山三九郎に昨夜の事を問うと、丸山は忍び込んだのは自分だと白状した。
何故帰ったのかを聞かれ、部屋の蚊の動きから彦四郎が起きていると気付き、チャレンジを諦めた事を話すと、
彦四郎は、たかが蚊の動きでも四方八方に注意を怠らなかった事は忍者の務めであり極意であると、
丸山三九郎のその鋭敏さを誉めた。

63 :用心棒:2015/02/21(土) 13:43:23.92 0.net
彦四郎はその忍の腕前から、様々な人間から挑戦を受けたが、
中国地方で少しは名の知れた、入江大蔵という剛の者から、自分の刀を盗めるかと挑戦を受けた。

もし盗めたら、その刀は進呈するが
盗む所に気付いたら、そのまま斬り捨てるとの条件であったが、
彦四郎は、すんなりとその挑戦を受け、その夜に入江大蔵の屋敷に忍び込んだ。
門や戸は固く閉まっていたが、難なく屋敷へ入り寝床を覗くと、入江大蔵は刀を枕の下に置いてウトウトしていた。

彦四郎は寝室の天井裏に回ると、懷から紙を出し、持ってきた水筒の水で紙を濡らし、入江大蔵の頭の上に数滴たらした。
入江大蔵は、大雨が降ってきたのかと勘違いして慌てて飛び起き、部屋を出て雨漏りがあるかを確かめようとした。

わずかな瞬間であったが彦四郎には十分すぎる程で、入江大蔵の部屋に入り見事に刀を頂戴した。

64 : ◆q......... :2015/02/22(日) 12:38:28.42 0.net
2月22日はニンニンニンで忍者の日ですhttp://222.ninja/about

☯ JOIN US ON 2.22 ☢ NINJA DAY

http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1424574249/l50         __
      ,...-.'::::::::::::i:`:‐.、
     / `ヽ   ハ  :::\
    / ノ  ,...---.、` 、 ::::ヽ
    ,'`ゞ、  /、_ヽ;;;;;;;;ヽ ,ゝ‐、_:',
    |     |;;;;;;;;●ー-;;|  '´::::|
    ';     ゝ;;;;;;;;;;;ヽノ  .::::::,'
   ヽ:‐く   `゙―‐'"   .:::、_/    
    \..`.ー  -、 _...::::::::/
      `ゝ、:_::_Y__;;;: ´
http://energy.blog.jp/archives/2014-03.html

65 : ◆BakeNekoMQ :2015/02/22(日) 12:47:57.39 0.net
2月22日は「にゃんにゃんにゃん」にちなんで「猫の日」。

http://livedoor.blogimg.jp/hamusoku/imgs/4/0/4057f331.gif

http://222.ninja/theme/222/img/main2.png

          /\__/ヽ
        /  ⌒ |||| ⌒\
       /   ( ●)  (●) \ 
.       |  三 ⌒(__人__) ⌒三|
       ん\     |r┬-|    /
.      ∧  /´ ̄`) ー=彡/
      ハ.   /  `T′ ー=7
    厂  ,′ ー=!_ノ    ,{      ∠⌒)
     {ニ  {    ノ}ヽ  ≠ハ   ∠ー/
    Z、 ゙く     イ/ ∧ ∧y'
     Y‐     ̄    / ノ∨ー/
.       〉=        //∧/
      ∧=-         / /\
      {==-    __    /   ノヽ、
     ∨==-   { `'<_ノノ      \
       ゙く ノ    j    `'ー-= 、  \
        `フ=  /          ∨ノ  } ) )) )
       (_((_ノ )) )      `ー '′

66 : ◆FEEL...... :2015/02/22(日) 14:24:40.25 0.net
忍法くノ一 

http://i.imgur.com/Yg4LCUT.gif
http://i.imgur.com/51J3dMi.gif
http://i.imgur.com/FsGHHlq.gif

67 : ◆FEEL...... :2015/02/22(日) 14:33:48.46 0.net
忍法くノ一 

http://i.imgur.com/qPYL67A.gif
http://i.imgur.com/IJq345R.jpg
http://i.imgur.com/rmFseyZ.png
http://livedoor.4.blogimg.jp/news4vip2/imgs/b/8/b8ba22a7.gif
https://www.youtube.com/watch?v=ubdbqbv0Nh8

68 :名無番長:2015/02/25(水) 15:06:08.36 0.net
まこと栄光の影に数知れぬ

69 : ◆q......... :2015/03/01(日) 05:00:49.54 0.net
臨兵闘者皆陳列在前

http://i.imgur.com/0982dNk.jpg
http://i.imgur.com/g1fxZ3G.jpg
http://i.imgur.com/DxC3U03.jpg
http://i.imgur.com/DfqyAjU.jpg
http://i.imgur.com/zCNBMJ1.jpg
http://i.imgur.com/zyJ1NIi.jpg
http://i.imgur.com/UcVvuq2.jpg

70 :名無番長:2015/03/01(日) 20:51:31.86 0.net
てす

71 : ◆q......... :2015/03/02(月) 19:29:07.09 0.net
存在を決して知られてはならず 無の心を求め 孤高の精神を持ち さまざまな修行の中で生きる 

特殊な者たち それは忍び

https://www.youtube.com/watch?v=rSQyqu3r340&feature=player_detailpage#t=24

https://www.youtube.com/watch?v=RhBexrIS574&feature=player_detailpage#t=53

https://www.youtube.com/watch?v=gwQCVhHTUNw&feature=player_detailpage#t=49

72 : ◆q......... :2015/03/02(月) 20:01:27.21 0.net
https://www.youtube.com/watch?v=xehJkrJQO1g
忍法 金遁の術 ハンマーガール

73 :名無番長:2015/03/07(土) 11:00:22.10 0.net
忍者で外国人観光客呼び込め 伊賀や甲賀、協議会設立へ
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1425644450/l50

74 :名無番長:2015/03/11(水) 15:17:55.00 0.net
http://ninkyoudou5910.blogspot.jp/
> ↑↑↑『ヤクザ代紋バッチ』極上の仕上がりでございます。竹中組、加茂田組、菅谷組、地道組、柳川組、南道会、山広組、中野会、二代目難波安組あります。極上の仕上がりでございます。是非一度画像見てくださいませ。6500円

75 : ◆SAMURAI.KY :2015/03/14(土) 13:48:56.32 0.net
士の奉公?本音と建前 江戸時代の出世と処世術 [著]高野信治

■現代に通じる悩み、生き生きと

戦国時代、武士は合戦で名を挙げ、高い地位と豊かな収入を手にした。
命がけのつらい奉公ではあったが、立身の機会はみなに開かれていたし、示された武功にはだれもが納得せざるを得なかった。
 
ところが泰平の江戸時代、合戦はなくなった。一方で武士は、依然として武士のままであった。

則(すなわ)ち建前として、武勲を立てることを目的とする「戦士」であり続けた。
 
働きたくとも、仕事場はない。存在自体に矛盾をかかえた彼らは、いかにして働きがい・生きがいを見つけ、出世の欲望と向き合ったのか。
 
鎌倉時代初め、上位の武士すら読み書きができなかった。だが、次第に成長した武士たちは、江戸時代には文字を操り、あれこれ考え、思案を巡らしていく。その様子は私たちそっくりである。
 
世襲か能力か。人格重視か成果主義か。現代社会の難問は、そのまま彼らの悩みでもあった。本書はそれを、実に生き生きと描き出す。時の流れを体感できる一冊である。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015030800011.html

76 :名無番長:2015/03/15(日) 18:11:48.70 0.net
http://ninkyoudou5910.blogspot.jp/
> ↑↑↑↑↑『ヤクザ代紋バッチ』極上の仕上がりでございます。是非一度画像見てくださいませ。
山口組直参代紋バッチ、竹中組、弘道会、宅見組、極心連合会、加茂田組、地道組、菅谷組、柳川組、山健組、中野会、南道会、二代目難波安組、二代目山広組、代紋バッチ極上の仕上がりでございます。6500円

77 :名無番長:2015/03/22(日) 21:51:50.27 0.net
てす

78 : ◆q......... :2015/03/25(水) 13:30:36.19 0.net
「可愛すぎる忍者」が奈良で見つかる 
17歳の女子高生、伊賀流の子孫でアニメ声
withnews 3月25日(水)6時0分配信

「可愛すぎる海女」「美しすぎる議員」など、“職業美人”が人気ですが、
ついに「可愛すぎる忍者」が見つかりました。奈良に住む17歳の女子高生。
父は忍術のエキスパート、母は伊賀流忍者の末裔だそうで、放課後に女忍者「くノ一」に変身します。
まさにクールジャパン。記者が取材しました。

リンク先に動画・画像あり(直接貼れなかった)
    ↓
http://withnews.jp/article/f0150325000qq000000000000000G0010401qq000011609A
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1427232691/l50
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150324-00000002-withnews-l29

79 :名無番長:2015/04/03(金) 09:42:00.57 0.net
ニンニン

80 : ◆FEEL...... :2015/04/20(月) 18:04:04.86 0.net
忍法くノ一

http://i.imgur.com/nep9CVP.gif
http://i.imgur.com/XK4MvOd.gif
http://i.imgur.com/uQgU8eo.gif
http://i.imgur.com/4neZGgZ.gif
http://i.imgur.com/PboplB1.gif
http://i.imgur.com/3Uat1sE.jpg
http://i.imgur.com/oDT6eMj.gif
http://i.imgur.com/FxIVhTr.jpg

http://i.imgur.com/uhqwmN6.gif
http://i.imgur.com/UGLgT4g.jpg

81 : ◆Anchor..S. :2015/04/21(火) 04:05:40.33 0.net
忍法その名も空遁の術

Niseko camp of ZERO Part1 http://imgur.com/a/hxbmW
Niseko camp of ZERO Part2 http://imgur.com/a/F86nB
Niseko camp of ZERO Part3 http://imgur.com/a/oHnoH
Niseko camp of ZERO Part4 http://imgur.com/a/B1duF


とりあえず取り急ぎ
http://i.imgur.com/SwDxfPW.jpg
http://i.imgur.com/zL5N6p4.jpg
http://i.imgur.com/4mrXn8O.jpg

82 :名無番長:2015/04/30(木) 22:49:30.13 0.net
闇に隠れ

83 : ◆q......... :2015/05/04(月) 16:45:30.40 0.net
忍法くノ一 空手少女 てめぇたちナメんじゃねぇ

Karate Girl 12 minute condensed version
https://www.youtube.com/watch?v=TzVfzAel2Qo

https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=7Is6fBZKhb0#t=19

84 : ◆FEEL...... :2015/05/04(月) 16:52:41.49 0.net
忍法くノ一 参上

『女忍 KUNOICHI』
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=3eCBp2gFCxU#t=4

忍法くノ一 淫魔の術
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=uxq6r_PgJzw#t=6

85 :名無番長:2015/05/04(月) 20:28:33.35 0.net
闇を生きる

86 : ◆qqqqqqqq22 :2015/05/05(火) 04:32:12.87 0.net
忍法くノ一 淫遁の術

https://www.youtube.com/watch?v=Jc5WTPgThyI&feature=player_detailpage#t=1904

87 : ◆XxxXxXXxX. :2015/05/05(火) 04:42:52.75 0.net
忍法くノ一 乳遁の術

https://www.youtube.com/watch?v=_XT0T8TzF-A&feature=player_detailpage#t=95

https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=_XT0T8TzF-A#t=21

https://www.youtube.com/watch?v=x0BHlIEks7o&feature=player_detailpage#t=23

88 :名無番長:2015/05/05(火) 17:01:28.18 0.net
ん?

89 : ◆Gmmmmmmmm. :2015/05/05(火) 18:52:06.34 0.net
グランド・マスター
https://www.youtube.com/watch?v=kZNaIhg_7uA

凄腕くノ一 参上
https://www.youtube.com/watch?v=kZNaIhg_7uA&feature=player_detailpage#t=316

90 : ◆Jupiter/qA :2015/05/05(火) 19:21:51.12 0.net
光の彼方に闇があり その闇を照らすために光はひたすら進み その先に無限の広がりがあり

そこに到達出来るものはたとえ光であろうと不可能といわれている なぜならば・・・

91 : ◆2.kkkkkkkk :2015/05/06(水) 18:42:54.60 0.net
カムイ 必技 変移抜刀霞斬り
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-00-ef/kpgcm339/folder/1488854/04/59064204/img_1?1258809227

92 : ◆2.kkkkkkkk :2015/05/06(水) 18:59:47.99 0.net
忍びが通る 獣道 風がカムイの 影を斬る 孤り 孤り カムイ 孤り 孤り カムイ 風の中を 抜けて行く

忍びが通る 遠い道 闇がカムイの 影を斬る 孤り 孤り カムイ 孤り 孤り カムイ 闇の中を 抜けて行く

https://www.youtube.com/watch?v=ZLrYqgMZIJ8&feature=player_detailpage#t=82

93 : ◆.isssSSsss :2015/05/08(金) 14:34:18.74 0.net
邪悪な血が心ときめき胸を掻き毟っている 

その正体は女になれば誰もが経験する世にも邪悪な命の根源に繋がる血の代償となるもの 

ここに一人の女がくノ一となっていく過程において、数奇な運命に導かれし者の過去から連なる与えられしミッションといえる

 

94 : ◆MIKAMI.YUI :2015/05/09(土) 12:30:16.35 0.net
これぞ、忍法くノ一 水遁の術
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org305907.gif

95 :サリー ◆LJLIHPKJSQ :2015/05/12(火) 19:48:55.54 0.net
てす

96 : ◆SegawaMomo :2015/05/13(水) 05:07:36.32 0.net
忍法くノ一 その正体はハニートラップである 女の武器を最大限に利用して標的となる者に近付いて極秘情報を引き出したり、相手の生命を奪うことである。

生命を奪うこととは相手の生きる権利を奪うことに限定せず、標的を罠にはめて陥れることも含まれる。

97 :名無番長:2015/05/17(日) 20:54:53.89 0.net
ニンニン

98 :名無番長:2015/05/26(火) 15:17:09.67 0.net
   ∠. ̄~\/
. 〜/ 【】【】【】 スッ
  | l`・ω・l卍
   ヽ  ̄ ̄つ
  / し─J

99 :名無番長:2015/06/02(火) 15:39:49.18 0.net
          / \
 (´・ω・`)  <・ω・>
  J | | | し   J | | | し

100 : ◆NINJA6.64tPr :2015/06/02(火) 16:12:57.68 0.net
これぞ、忍法くノ一 その名は裸体フイッシュ 魚遁の術 

http://www.xinhuaxia.jp/wp-content/uploads/2015/06/12746191_980x1200_01.jpg
http://www.xinhuaxia.jp/wp-content/uploads/2015/06/12746198_980x1200_0.jpg
http://www.xinhuaxia.jp/wp-content/uploads/2015/06/12746194_980x1200_0.jpg
http://www.xinhuaxia.jp/wp-content/uploads/2015/06/12746196_980x1200_0.jpg
http://www.xinhuaxia.jp/wp-content/uploads/2015/06/12746192_980x1200_0.jpg

101 : ◆BakeNekoMQ :2015/06/07(日) 05:25:06.97 0.net
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1433604070/l50
なんと世界で最も大きいアソコは24cm!性に関する数字トリビア10個

女性は、性の話を男性ほど気軽にできないもの。でも、本当は興味ありますよね? インターネット上の記事なら、誰かに知られずこっそりチェックできます。

今回は、恥ずかしがり屋さんのために、アメリカの情報サイト『moviepilot.com』を参考に、性の数字トリビアを10個紹介します。
「知らなかった!」と思うものがたくさんあるはずですよ。

■1:男性器を2本持つ男性がいる

アメリカのデータによると、陰茎重複症は550万人に1人の確率で発症すると言われています。
陰茎重複症とは、男性が2本の陰茎を持って生まれてくる先天性の疾患です。

昨年、陰茎重複症のアメリカ人男性が自伝『Double Header: My Life with Two Penises』を出版したことも話題になりました。

■2:世界最小の男性器サイズは1cm

男性器の長さが約5cm以下の場合は“マイクロ男性器”と言われるようです。これまでの記録で一番小さい男性器は約1cmだといいます。

■3:勃起時に男性器が34cmになる男性がいる

世界で最も大きい男性器を持つ男性であるジョナ・ファルコンさん。彼の男性器は、平常時で長さが約24cmで、勃起時には約34cmにもなるといいます。すごい!

■4:両性具有の確率は2,000人に1人

遺伝子の変化で2,000人に1人の割合で男女両性を兼ね備えて生まれることがあります。多くのケースでは男性器と女性器の両方が認められますが、
どちらかがより顕著な形であることが多いです。

(続く)
http://news.ameba.jp/20150605-952/

102 :名無番長:2015/06/13(土) 03:01:53.31 0.net
■鉢屋弥三郎(はちややさぶろう)
・鉢屋衆忍者(尼子氏配下)

関東で平将門が「承平・天慶の乱」を起こすが、天慶3年(940)に敗死すると、
やがて京都には連日のように強盗や夜盗が出没するようになった。

「雲陽軍実記」の記載によれば
「八瀬、大原、鞍馬、市原、高雄、愛宕、の深山茂林に隠れ住み、夜は洛中、洛外、或いは畿内の中まで忍び込み、
押し込み、辻斬り、追い剥ぎ、夜討ちをなし、万民を苦しめ、富裕の者どもの財宝を掠め、奪い取る事おびただしい。
官裁をもって警固したまえども、元が忍びに慣れた者ゆえ、ここに居るかと思えば彼方に飛び、飛鳥の如くに立ち回り、
昼は己が住家に入りて、岩洞窟の内に身を潜ませ、これを防ぐ術もなく、上一人より下四民に至るまで、昼夜悩まされている」

それら忍びに慣れた者達こそ、平将門に
「物聞・物見」役、つまり間謀として味方し、敗戦後に都に取り残された残党達だった。
残党達の連日連夜のごとくに渡る悪逆無道さは、官憲では捕縛できなかった。

103 :名無番長:2015/06/13(土) 03:19:44.48 0.net
ある夜の事、空也上人が洛北の御菩提池を歩いていると、夜盗集団が現れて、上人の着物を剥ぎ取った。
空也上人は落ち着き払い、夜盗集団の所業に対して諭し始めた。
彼等が言うには、好き好んで盗賊に落ちぶれた訳ではない。平将門の陣死によって都を追われ、家族を養う為にやっていると話した。

盗賊集団は空也上人の説得に応じて改心し、盗賊に代わる仕事を教えられた。
鉦(かね)を叩いたり、鉦の代わりに兜の鉢や瓢(ふくべ)を叩いて市中を托鉢して回って施しの食料を得たり、
茶筅(ちゃせん)を作って売り歩き金銭を得るようになり、貧しくても卑賤視されても、れっきとした正業であった。

空也上人は浄土宗の先覚者で名僧として名高いが、出身地等は明らかでない。
20歳の時に仏門に入り、自らを空也と称した。胸にかけた鼓を叩き、
「阿弥陀仏」の名号を唱えて歩き回ったので、市聖(いちのじり)阿弥陀聖と呼ばれた。
空也上人は、庶民に念仏をすすめて回ったが、その信仰は鉦や太鼓を叩き、念仏を唱えて踊る事から、空也念仏と呼ばれた。

104 :名無番長:2015/06/13(土) 03:40:41.90 0.net
空也上人の諭しと導きにより正業に就いた盗賊達は、四条や五条の河原に苫屋(とまや)を建てて住んだ。
苫(とま)とは、菅や茅などを編んで屋根にかぶせて風雨を防いだ、粗末な小屋の事である。

鉢を叩いて売り歩いた事から【鉢屋】
【苫鉢屋】とも呼ばれた。

鉢屋達は改心したとは言え、過去に殺人や強盗をしていた連中であり、その所業が朝廷の耳に入ると、
捕縛や処刑をしろという動きも出たが、空也上人の執り成しもあって、洛中や洛外の治安を担当する事で罪を許された。
かつては官憲も手を焼いた盗賊達が、今度は盗賊を取り締まる側になるのである。
盗賊の考え方や動き方が手に取るように分かるのでその成果は目覚ましく洛中や洛外の治安が驚くほど回復し安定した。

鉢屋達の活躍で、検挙数や治安の安定が高まり、それが各地にも知られるようになると、
悪行を繰り返す他の盗賊達も改心して鉢屋達に加わり、治安がさらに回復して評判は高まった。

その評判を聞いた日本各地の守護職や国司から治安維持の要請が増え始めたので、
彼等【鉢屋衆】は、その要請に応じて数人ずつが全国に散らばっていった。

105 :名無番長:2015/06/13(土) 03:59:15.34 0.net
出雲(島根県東部)の尼子氏に仕えた【鉢屋衆】も、そんな流れをくむ連中であった。

出雲の尼子氏は、近江(滋賀県)源氏佐々木氏の一族で、佐々木京極導誉の三男・高秀が出雲の守護職をつとめていた。
その嫡系が出雲の守護職となり、それが尼子氏の祖となったと言われる。

やがて尼子清定の代になると、守護代であるにも関わらず、応仁の乱(1467)に乗じて京極氏からの独立を目指し、
月山冨田城(がっさんとだ・島根県安来市)を拠点に国人衆(地元の領主)を抑え込み、
本家・京極氏に収める租税を着服して、京極から独立する為の軍資金とした。

さらに守護職を継いだ清定の嫡男・尼子経久は、寺社領や段銭(臨時の課税金)も着服するようになり、主家を無視し始めた。
怒った京極氏らは、文明16年(1484)に幕府へ訴え出ると、国人衆の同意もあって
尼子清定・尼子経久の父子を月山冨田城から追放し、代わりに塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)を城主とし、出雲守護代に任じた。

106 :名無番長:2015/06/17(水) 01:55:11.50 0.net
追放された父・清定に仕えていたのが忍者の【鉢屋衆】であった。
清定自身は流浪のうちに没するが、経久は月山冨田城の奪回を狙っていた。

しかし流浪の身とあっては味方と頼る者が無く、出雲に残るかつての郎党のうちで頼りになるのは、
民間に暮らす亀井氏と山中入道の一族だけであった。
尼子経久は、月山冨田城を奪い返す意気込みに燃えて出雲に忍び入り、山中家をひそかに訪ねた。

驚いたのは、山中家の方であった。
追放から一年後の神無月(11月)の事であり、痩せ細ってみすぼらしい姿の経久だが、
月山冨田城奪回の思いを山中入道に打ち明けると、山中入道も賛同してくれたが、味方は山中一族17人だけであった。
これだけの人数では、どうにもならない。

その時経久は、父・清定に仕えていた【鉢屋衆】の存在を思い出した。
経久は早速、鉢屋一党の大頭目【鉢屋弥三郎】と大将で嫡男の【治三郎】、二男の【兵衛三郎】を呼び寄せた。
鉢屋弥三郎も城の奪回に賛同し、鉢屋衆を味方に加え、かつての旧臣達も集めたが、それでも60人にも満たない。

そこで経久と弥三郎は奇策を案じて、翌18年の元旦に鉢屋衆を主力として奇襲攻撃を仕掛け、月山冨田城を奪回する事になる。

107 :名無番長:2015/06/17(水) 02:26:26.86 0.net
月山冨田城では新年になると、城内に新年を言祝ぐ(ことほぐ)
【千秋万歳(せんずまんざい)】という演芸を見物するのを習わしとしていた。
城主をはじめ、城兵やその家族達が一番気を許す時でもあった。

手筈としては、夜の明けぬ内に鉢屋衆が大手門から、万歳鳥追いに扮して鉦、太鼓、笛、鼓を打ち鳴らして賑やかに入城し、
万歳見物に城内から侍衆や女衆が集まって来た時に、経久らが搦め手から城内に侵入して各所に火を放つ。
その後、経久と鉢屋衆が同時に城内へ斬り込みをかける、という作戦であった。

正月元旦の払暁、鉢屋衆は手筈通りに大手門から城内へ入る事に成功した。
演芸集団に変装した鉢屋衆は、手槍、長刀を隠し持ち、烏帽子を付けて甲冑を着込み、
その上から直垂(ひたたれ)に似た素袍(すおう)で覆い、笛や太鼓を打ち鳴らしながら舞い躍り、
【あら目出度や、56億7千万歳、弥勒の出世、三会の暁】と、囃し立てて回った。

城内の者達は、正月だ、鳥追い万歳がやって来た、これはめでたいと見物に集まり、雑煮や酒で陽気に騒ぎ始めた。
その頃合いを見計らい、城内のあちこちから火の手が上がり始め、尼子経久らが一気に城内へ攻め込んだ。
鳥追いに扮していた鉢屋衆も隠していた手槍や刀を取り出して、城内を制圧しにかかった。
城の将兵達は、まさかの討ち入りに動揺してしまい、城の女衆は渦巻く煙に混乱して逃げ場に迷いパニック状態となった。

城主の塩冶掃部介だけは動じず、城兵達に撃退を呼び掛けるべく鼓舞したが、ついに力尽きて本丸で自害した。
この奇襲攻撃では、男女児童合わせて約700名が討ち取られた。
(陰徳太平記)

尼子家に仕えて月山冨田城を奪回した【鉢屋衆】の働きぶりは、【陰徳太平記】や【雲陽軍実記】に語られている。

108 :名無番長:2015/06/20(土) 03:33:53.78 0.net
■服部半蔵正成
・伊賀忍者
・天正11年(1542)〜慶長元年(1596)

【伊賀の服部、甲賀の望月】というのが、忍の2大流派の宗家と言われる。
その中でも伊賀(三重県)の上忍といえば、徳川家康に仕えた服部半蔵正成が有名である。

槍働き(合戦で武勲)で、所領も遠江(静岡県西部)で八千石となり、豊臣秀吉の命により家康が関東に配置され江戸に入ると、
与力30騎と伊賀同心200人を率いて忍者の頭領となり、その屋敷を江戸城麹町御門に構え、俗にいう【半蔵門】の警護を任された。

その服部家のルーツを辿ると、平安時代に服部平内左衛門家長が伊賀の服部郷を拠点として平家に仕えたと言われる。
服部家長は、壇之浦(山口県下関市)の合戦で戦死したと言われるが、
伝承では生き延びて帰国し、北伊賀の千賀地(伊賀市予野)を本拠にしたと言われる。

【寛政重修諸家譜】によれば、服部連(むらじ)を号とした祖先が伊賀国阿拝郡服部郷を領したことに始まるとも言われる。
また渡来系の職掌・機織部がつまって【服部】という苗字になったとも言われる。

109 :名無番長:2015/06/21(日) 01:18:19.66 0.net
服部家のルーツは伝承に頼るのみで正確な事は分からない。
伊賀忍者の宗家で実在した消息のわかる人物といえば、半蔵正成の父【服部半三保長】が居る。

詳細は不明だが、保長は兄の保元がその宗家を継ぎ、その一子が千賀地を継いだという。
保長は忍者修行をしていたようだが、それを終えてからは伊賀での暮らしを諦め、
天文元年(1532)ごろに伊賀の千賀地を出て、初めは第12代将軍・足利義晴に仕えた。
その後は三河(愛知県東部)に行き、家康の祖父・松平清康、父・松平広忠、家康と3代に仕えた。

服部半蔵正成は、天文11年(1543)に保長の長男として、岡崎(愛知県岡崎市)に生まれた。
この年は、徳川家康が生まれた年でもある。
そうなると、服部半蔵正成は父の故郷の伊賀を知らずに育った事になる。
同時に父の保長から忍術を修得できたかは疑問が出てくる。
服部半蔵正成は、徳川家康の武将として旗本にまで出世するが、どの時期に忍術を修得したのかが分からない。

父・保長が没すると服部半蔵正成は、そのまま徳川家康に仕える事になるが、
正成の初陣は弘治3年(1557)正成が16歳の時とされている。
【寛政重修諸家譜】によれば、この時に伊賀忍者70人を率いて三河の寺部城(愛知県豊田市)を攻略した折、
著しい戦功をあげたので家康から【御持槍】を拝領したとあるが、これも疑わしい。
徳川家康はまだその頃、今川家の人質であり、家康が合戦に挑み、服部半蔵正成に槍を授与するのは、考えにくい。

110 :名無番長:2015/06/21(日) 01:33:47.07 0.net
桶狭間の戦いで、駿河の大名・今川義元が織田信長に討たれ、永禄3年(1560)には、家康は岡崎城に復帰して独立を果たした。

その後、服部半蔵正成は家康に従い、武将として目覚ましい活躍をする事になる。
永禄10〜12年(1568〜1569頃)に、今川氏真との掛川城攻防戦(静岡県掛川市)、
元亀元年(1570)の浅井・朝倉氏との姉川の合戦(滋賀県長浜市)、
元亀3年の武田信玄との三方ヶ原の戦い(静岡県浜松市)に参戦し、多くの戦功を挙げている。

【徳川殿は、よい人持ちよ。服部半蔵鬼半蔵、渡辺半蔵鎗半蔵、渥美源吾は首切り源吾】
服部半蔵正成の戦場での果敢な働きぶりを賞して、そのように口ずさまれた。

松浦鎮信が編んだ【武功雑記】では、
【渡辺半蔵、鎗11度、首九つ
服部半蔵、鎗12度、首11】と記されている。

111 :名無番長:2015/06/21(日) 23:03:53.13 0.net
服部半蔵正成は合戦で戦功をあげる一方で、忍である事を裏付けるような出来事もあった。

天正2年(1547)の秋頃、徳川家康と武田勝頼は、駿河浜松で天竜川を挟んで対峙していた。
この時、家康の陣中の将兵の中に潜入していた武田側の忍者【竹庵】の素性を見破り、鎗で突き刺したと言われる。
この話は別の説もあり、家康の居城・浜松城に潜入した竹庵を正成が見破ったとも言われる。
服部半蔵正成が忍者であれば、その能力の高さを物語る話である。

しかし服部半蔵正成にも苦辛する時があった。
天正7年、織田信長と同盟関係にあった徳川家康に【正室・築山殿】と【嫡男・岡崎信康敵】が、
武田信玄側に内通しているとの疑惑が出て、織田信長から成敗の要求が来た。
当時の勢力では、信長の要求を拒否すれば、家康など簡単に滅ぼされてしまう。

半蔵が38歳の頃であった。

112 :名無番長:2015/06/21(日) 23:20:06.41 0.net
事の発端は、嫡男の岡崎信康の生母である築山殿と、信康の正室・徳姫(五徳姫)との確執にあったと言われる。

徳姫は、織田信長が生駒氏の未亡人・吉之(野)に生ませた子供であった。

築山殿は、家康が人質時代を過ごした今川義元の姪であり、正室となってからも家康を見下す気位の高い女性であった。
家康は妻への愛情は無く遠ざけられた為、一人息子の信康を溺愛していた。

徳姫は父親が織田信長だけあって、おとなしく義母・築山殿や信康の言う事に従う事はなかった。
さらに岡崎信康は性格的に横暴さが目立ち、徳姫の侍女の口を刀で切り裂くような非道さがあったと言う。
それ以外にも原因は多々あると言われるが、とにかく嫁・姑の仲が悪かった。

築山殿は病がちで、減敬という唐人医師を甲斐(山梨県)から呼び寄せていたが、その減敬に武田勝頼宛の密書を託し
岡崎信康ともども武田陣営に味方する事を書き記し、勝頼からも返事を貰っていたとされる。
(改正・三河後風土記)

113 :名無番長:2015/06/21(日) 23:34:10.42 0.net
しかしこの密書のやり取りが、徳姫に見つかってしまい、徳姫は父親である織田信長に内通の一部始終を書き知らせた。
織田信長は、家康の家臣・酒井忠次から罪状の確認を得ると、ただちに築山殿と信康の処刑を命じた。

徳川家康は、天正2年8月29日に富塚の原(静岡県浜松市)で、築山殿を野中重政に殺害させ、
信康の身柄は、二股城(静岡県天竜市)に幽閉した。

9月15日、家康は息子の信康へ切腹を命じたが、その介錯人に服部半蔵正成、検死役として天方道経を派遣した。
信康は幽閉された時から切腹を覚悟していたと言われる。

「武田に内通した覚えは無い。この事だけは父によくよく話してくれ」
と服部半蔵に言い残し、切腹の座についた。
信康は腹を十文字に切り裂き、苦しい息の下から服部半蔵に言った。

「馴染みなれば、早く介錯を」
だが、服部半蔵には涙が溢れ、介錯の刀を振り下ろす事が出来なかったと言われる。
「御苦痛のほども、恐れ入り候」
と見かねた天方が、半蔵の代わりに介錯した。

後にこの切腹の話を聞いた家康は、
「鬼半蔵といわれた正成も、主君の子の首は討てなんだか」
と語ったと言われる。

114 :名無番長:2015/06/25(木) 01:04:11.63 0.net
■風魔小太郎
・風魔忍術・北条忍術の頭目
・北条氏に仕えた

後北条氏初代である北条早雲は、乱世の梟雄というイメージだが、風魔一党はこの時代から早雲の時代から繋がりがあったと言われる。

その後、北条氏は【第二代・氏綱】【第四代・氏政】【第5代・氏直】が天正18年(1590)まで、相模の小田原城に君臨していた。
風魔一党は、相模国足柄下郡風祭村(小田原市)に近い、風間(かざま)という村に住み、忍者として働く場合に【風魔】と称した。
普段は山間の狭い耕地を耕したり、狩猟や杣(そま=きこり)をして暮らしていた。

風魔一党がどのような忍具を使ったかは分からない。
伊賀や甲賀、他の流派でも形に違いはあっても十字手裏剣や蒔き菱などは一般的に使われていたが、風魔は分からない。
さらに風魔一党が鉄砲類を使ったかも分からないが、鉄砲の流通は急速にすすんでいたが、この山間の村にも普及したかは不明。
文献等では、風魔一党の武器は刀や槍がほとんどで、それでゲリラ戦を展開して情け容赦ない残忍な戦いをしていた。

風間という村は山間にあったので、人々は【谷】と呼んでいたそうだ。
風魔一党がいつから【風魔谷】に住み着いたのかは分からない。
一説には、大陸から移住してきた騎馬軍団とも言われるが、一族に関する事は誰も何も話さず、頭目の出自さえも分からない。

普段は長閑な村だが、合戦になったりすると村人達は一変して合戦に向かう。
中には他国へ情報探索に出掛けて、数ヵ月も姿を見せない忍者も居た。

115 :名無番長:2015/06/25(木) 01:19:21.06 0.net
風魔一党の頭目・風魔小太郎は、五代目と言われるが【北条五代記】によると、身長は7尺(約2メートル)を超え、
手足は筋骨隆々で、身体のそこら中にコブがあったと言われる。
また風貌は凄まじく、目は極端に釣り上がり、黒ヒゲのある口は両脇へ広く裂け、牙が4本出ていたとある。
さらに頭は、福禄寿に似て鼻は高く、声を出せば50町(約5km以上)へ届き、低い声を出せば波のように響き渡ったという。
かなりの膨張があるのは、風魔小太郎が奇怪な人物で、その実態がよく分からなかったんであろう。

風魔小太郎は、合戦の無い時は配下の忍者200人を山賊、海賊、強盗、窃盗にわけて、ゲリラ戦で略奪を繰り返していた。

116 :名無番長:2015/06/25(木) 01:44:46.05 0.net
葛西城(東京都葛飾区)をめぐる攻防戦でも風魔一党が出陣していた。

葛西城は利根川支流の最南端にあり、北条氏の関東平定には、必要不可欠な前進基地となる城でもあった。
北条氏綱は天文7年(1538)2月に葛西城を攻略し、10月には安房(千葉県南部)の里見義尭との第一次国府台合戦に勝利する。

所が、永禄3年(1560)越後の上杉謙信が小田原城を攻め、葛西城は上杉方の城となった。

謙信が越後へ引き上げると、氏綱と氏康の親子は、葛西城の奪還に乗りだしたが、永禄5年の攻略は失敗した。
翌年3月、北条氏康は本多正勝に命じて、忍を使って乗っ取りを企てた。
この計画を記した【本多文書】(北条氏康契状)によれば、
曲金(葛飾区高砂)、東と西の小松川(江戸川区)、金町(葛飾区)の四郷村と、銭500貫文の褒美を与える、とある。
北条勢は、4月24日に葛西城を落として、再び葛西城を北条の勢力下に置き、本多正勝や忍者達は恩賞を得た。

この時の葛西城の城主は不明だが、奪還には風魔一党の奇襲や残忍な攻撃もあったと推測される。
しかし忍者だけで落城させた訳ではなく、この攻略には太田道灌の曾孫にあたる太田康資が北条方で指揮をとっていた。

永禄7年1月、太田康資が里見側へ寝返ったため第二次国府台合戦に突入するが、
この合戦も風魔一党が夜陰に乗じて里見勢を急襲して、北条側が勝利している。

117 : ◆Kai/Kimiko :2015/06/27(土) 05:14:24.98 0.net
ここに一人の瞽女がいる。

その名はICHI 市 綾瀬はるか
https://www.youtube.com/watch?v=FLZd1rFnBqQ&feature=player_detailpage#t=110

―瞽女とは―
江戸時代から昭和の初めごろまで、
三味線を手に有縁の村々を流し歩く目の不自由な女性たちの姿が全国のいたるところで見られました。
瞽女と呼ばれる、芸を支えに生きた人々です。

綾瀬はるか Part 1
https://www.youtube.com/watch?v=8vvKE10r-5U&feature=player_detailpage#t=8

井川 遥 Part 2
https://www.youtube.com/watch?v=PLekfp1kXQ4

118 : ◆snowwhites :2015/06/27(土) 16:21:52.78 0.net
http://i006.radikal.ru/0908/97/460cdaf25563.jpg

18→21歳。身長175→178cm。6月9日生まれ。血液型AB型。
木ノ葉隠れの抜け忍で、サスケの兄。黒髪に黒い眼の風貌。
アニメでは、同じく暁に所属しているデイダラから「顔もイケてるし」と称されるほどで、弟サスケと良く似た風貌の美青年。
眼は写輪眼を常時使用しているため、その影響でいつもは赤く見える。

うちは一族の血継限界「写輪眼」の究極形で、過去に数人しか開眼させた者がいないという「万華鏡写輪眼」を持つ。
忍術、体術、幻術全てにおいて秀でており、大蛇丸は「私よりも強い」とカブトに語っており、それは大蛇丸がイタチの肉体を諦めて、暁から脱走せざるを得ない起因にもなっている。

かつての木ノ葉隠れ時代は、7歳でアカデミーを首席で卒業、8歳で写輪眼を開眼させ10歳で中忍に昇格、
まもなく暗部入りを果たすという異例の出世を遂げており、13歳の時には暗部の部隊長を務めていた。

うちは一族滅亡の真実は、実父であるフガクを始めとする一族が里に対して密かにクーデターを企てていた事にあり、
自分達一族の為だけに木の葉で争いを起こそうとする父や一族の有様に、
木の葉でのスパイを任されていたイタチは、木の葉とも密かに連絡を取り、二重スパイという役目を自ら引き受けたイタチが行ったサスケを除く一族の全員抹殺も、
誰よりも自分の故郷である木ノ葉の里の平和を願うイタチに与えられた木ノ葉上層部による極秘任務で、里からの粛清でもあった。

119 : ◆WIZARDS... :2015/06/27(土) 16:26:48.68 0.net
>>118
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1435364583/l50

うちはイタチ
http://i006.radikal.ru/0908/97/460cdaf25563.jpg

120 :名無番長:2015/06/28(日) 10:01:53.37 0.net
葛西城の奪い合いや風魔一党に関しては
【北条5代記】にも詳しい。

天正9年(1581)9月、甲斐の武田勝頼は信濃らの軍勢を率いて、駿河に侵攻、
黄瀬川(静岡県駿東郡長泉町)を挟んで、浮ヶ島(沼津市)に布陣した。

北条氏直は、原三島(三島市)に防御の布陣をとるが、
風魔小太郎は200人の忍者を引き連れ、黄瀬川に陣取る武田勢に、夜闇にまぎれて奇襲をかけた。
手当たり次第に将兵を生け捕りにしてからなぶり殺し、陣馬の綱を切って回り、
辺り構わずに火を放ち、武器や食糧を強奪して、武田勢を大混乱に陥れた。

風魔一党の夜討ち奇襲は毎日のように続いたが、武田勢も反撃を企てて、
甲斐の兵10人ほどが待ち伏せをして、奇襲帰りの風魔一党の中に潜り込んだ。

しかし風魔一党も、それぐらいの事は予想しており、小太郎の合図で一斉に松明を照らしたり、
互いに合い言葉に用いて、サッと立ち上がったり、サッと座るのを繰り返した。

風魔で【立ちすぐり、居すぐり】と言われる敵と味方の識別方法だが、
その符牒や合図を知らない武田の兵は、たちどころに正体を見抜かれて、全員が斬られた。

ゲリラ戦術に長けた風魔一党の統率力は高く、繰り返し奇襲を受け続けた武田勢は、北条勢と一戦も交える事もなく退却した。

121 :名無番長:2015/06/29(月) 06:32:58.58 0.net
■二曲輪猪助(にのくるわ いすけ)
・風魔一党
・北条氏に仕える

風魔一党は、小田原北条氏に、初代・北条早雲の時代から仕えていたと言われる。
二曲輪猪助は、風魔5代目頭目・風魔小太郎が率いる忍者集団の一人で、
河越(埼玉県川越市)の夜戦の時に選抜されて、敵情視察にあたった忍者でもある。

河越の戦いとは、山内上杉憲政と古河公方の足利晴氏と北条氏が、河越城を巡っての攻防戦である。
河越城は、長禄元年(1457)に上杉持朝が太田資清(太田道灌の父親)に命じて築城させたと言われる。
その後は、扇谷上杉氏の拠点となった。

北条氏は、武蔵(埼玉県、東京都、神奈川県東部)を掌握するのに為に、その拠点となる河越城が欲しかった。
しかし、北条氏の勢力をもってしても簡単に攻略できなかった。

ところが、北条氏第二代・北条氏綱の時代に、河越城攻略の絶好の機会が訪れる事になる。

122 :名無番長:2015/06/29(月) 07:10:20.12 0.net
大永4年(1524)に北条氏綱に江戸城を奪われ、河越城まで撤退した上杉朝興が天文6年(1537)4月に病没した。
扇谷上杉家を継いだのは上杉朝定だが、朝定はまだ13歳だった。

北条氏綱がこの機会を逃すはずがなかった。

上杉朝定側は、深大寺城(東京都調布市)を築いて、北条氏の攻撃に備えた。
天文6年7月、朝定は城を出て入間郡三木(埼玉県入間市)で氏綱軍勢と激突するが、大敗して河越城を放棄、
難波田正直(太田三楽とも)の松山城(埼玉県比企郡吉見町)まで退却した。
河越城を奪取した北条氏綱は、三男である為昌に城の防衛を任せた。

しかし、朝定にも河越城を奪い返す機会が訪れた。

天文10年(1541)7月に北条氏綱が病没したのであった。
家督は、まだ26歳の北条氏康が継ぐ事になった。
翌11年には河越城でも北条為昌が死去して、養子であった綱成が河越城の城主になった。
北条氏の相次ぐ代替わりは、上杉朝定の側にとってはチャンスであった。

天文14年10時、古河公方の足利晴氏、関東管領の山内上杉憲政(平井城主・群馬県藤岡市)らが中心となり、
扇谷上杉朝定を支援する形で、8万騎の軍勢で北条綱成の河越城を包囲した。

翌15年まで断続的な攻防が続くが、河越城を守る北条綱成の抵抗は激しく、朝定側は攻めきれずにいた。
そこで攻撃側である上杉勢は作戦を変えて兵糧攻めに切り替えた。

同年4月、北条氏康は8千の軍勢で河越城の救援に駆けつけ、4月20日までには金窪(川越市)に陣を構えた。

123 :名無番長:2015/06/29(月) 07:49:29.98 0.net
しかし金窪に陣取った北条氏康は、上杉軍勢と戦うのでなく、和睦を申し出た。
しかし、それは敵情を視察する為の時間稼ぎの虚偽の和睦であった。
北条氏康は重臣の信為を偵察に出した。

だが北条氏康は、その5ヶ月前から風魔一党に命じて、風魔忍者を上杉朝定の軍勢に潜入させており、
柏原(川越市)の上杉陣地に潜り込んだ風魔忍者は、氏康に逐一敵の情報を送っていたのであった。

その潜入した風魔の忍者こそ【二曲輪猪助】であった。

猪助は仲間の忍者を使い、上杉軍勢や足利軍勢の兵力や布陣、補給などの詳細な情報を送ったが、
氏康が猪助らの報告で最も注目したのは、8万の数に頼った将兵の甘さや油断、配下の士気の弛みであった。

その程度の軍勢では、8万騎いても烏合の衆であり、いくら数が多くても河越城の攻略は難しい。
そのため氏康は、ある程度の余裕を持っていたが、上杉側が作戦を兵糧攻めに変えた事は河越城に不利と考え救援を出したのであった。

【関八州古戦記】には、氏康の命令で風魔が二曲輪猪助を敵陣へ放ったという記述がある。
二曲輪猪助は命令に従い、前線の戦いに加わりながら、敵の内部情報を探り出し、詳細な情報を氏康に伝えていたのだが、
河越城の攻防戦が予想外に長期化してしまったので、ついには猪助の正体も露見する事になった。

どのような経緯で猪助の正体がバレたのかまでの記述は残っていないが、
戦いが長引けば、前線の味方同士でも顔見知りも増えて仲間内の人間を知るようになるが、
そこへ足軽の格好はしていても、戦ってるのか分からず、あまり顔も見せない奴が現れたり消えたりする。
前線だけではなく、大将クラスの情報を得るには大将の近くまで近づかねばならず、
戦いの長期化により、それらの行動も目撃や発見される確率が高まり、怪しまれたのではないかと思われる。

124 :名無番長:2015/06/29(月) 08:04:46.44 0.net
とにかく上杉軍勢に潜入して、詳細な情報を伝えていた猪助の正体はバレてしまい、猪助は上杉の陣地から脱出する必要があった。

風魔の中でも【韋駄天】とい異名を持つ二曲輪猪助は、足が早かった。
とにかく上杉陣地を抜けるため走りに走り、一路小田原を目指して5〜6里(約24キロメートル)も逃げた。

だが上杉勢からも追っ手が出て、太田犬之助という忍者が、猪助の追跡にあたった。
太田犬之助も名前に犬という字がつくぐらいで、こちらも走りは早かった。

二曲輪猪助も走りには自信があったが、小田原まで走りきるには疲労もあり、海辺まで出たあたりで捕捉されそうになるが、
ある農家の庭先に馬が繋いであるのを見つけ、猪助はその馬を盗んで小田原まで逃げ切る事に成功した。

その日、扇谷の陣地の前には落首(狂歌)が張り出された。

「駆り出され逃げし猪助は卑怯者
よくも太田(追った)が犬之助かな」

猪助を笑った落首(狂歌)だが、これはおそらく太田犬之助の仕業であろう。

125 :名無番長:2015/06/29(月) 08:21:58.00 0.net
これには後日談があると言われる。

落首(狂歌)でバカにされたと知った二曲輪猪助は、太田犬之助を捜し出して足比べ(長距離走)を挑んだと言われる。

忍者が敵陣に潜入して情報を盗み出す場合は、まず敵陣の中で生き延びねば情報を盗めない。
万が一捕まって拷問を受けた場合は、絶命寸前に嘘の情報を白状した。
ぎりぎりの状況でようやく白状したと見せ掛けて、その偽情報に信憑性を持たせる意味もある。
その後は助かる場合もあったが、殺される場合もあった。

足では敵わず、馬を使って逃げた事を卑怯者と笑われた二曲輪猪助は、汚名返上の為にも太田犬之助に勝負を挑んだ。
この勝負で勝ったのは、二曲輪猪助の方で、太田犬之助は息が続かずにそのまま死亡したと言われる。
(あるいは、走りが原因でなく、他の理由で殺害された可能性もある)

それはともかく北条氏康は、二曲輪猪助から送らた詳細な情報を元に、
4月21日、8万騎の上杉・足利軍勢に対して、わずか8千の兵力で夜襲をかけ、
上杉連合軍勢を撃ち破り、河越城の防衛にに成功した。

126 :名無番長:2015/06/30(火) 08:38:35.53 0.net
■石川五右衛門

・伊賀忍者
・百地三太夫の配下
・?〜文禄3年(1594)

石川五右衛門を扱った歌舞伎や講談、浄瑠璃は数多くある。

その中でも近松門左衛門の【傾城吉岡染】や鶴屋南北【高麗大和皇白波】、
井原西鶴【本朝二十不考(我が身を焦がす釜ヶ淵)】並木宗輔【釜淵双級巴】、
そして何よりも有名なのが並木五瓶の【金門五三桐】での京都南禅寺の楼門上からの名台詞、
「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千両」であろう。

それらの内容は、盗賊でありながら義賊として登場し、ヒーロー的に扱っている書物が多い。
伝記になると東武残光の【賊禁秘誠談】【真書太閤記】、
五右衛門を忍者に仕立てた武内確斉の【絵本太閤記】などがある。

石川五右衛門は、伊賀石川村(三重県伊賀市阿山町)に生まれたとされる。
先祖は、京都北面の武士であったといわれるが、信憑性に欠ける。
14歳の頃に母を、翌年には父を相次いで亡くした。
17歳の時に、家屋敷や田畑を売り払って伊賀へ行き、
名張の山中で臨寛という異人僧に出会い、弟子になって忍術を1年半修行したと言われる。

その後、上忍・百地三太夫(丹波)の弟子となり【石川文吾】と称して忍法を学んだ。
三太夫には、別の屋敷に式部(お式)という名の妾がいたが、60歳過ぎの三太夫に対して、まだ25歳ぐいらだったと言われる。
その妾の肉体に溺れ、本妻の身体には指一本触れなかった三太夫だが、
伊賀の上忍ともなると名前を変えて最低二軒の屋敷を持ち、
両家の者に気付かれずに掛け持ちで生活し、さらに正反対の性格で暮らしていたと言われる。

まだ20歳前後の【石川文吾】は、同情して三太夫の本妻に近づき、密通を重ねるようになっていた。

127 :名無番長:2015/06/30(火) 09:05:45.03 0.net
ある日、百地三太夫が京都に出掛けて屋敷を留守にした。

石川文吾は、この時とばかりに三太夫の妾の式部を殺して井戸に投げ込み、
妾宅から85両を盗みとると、本妻と伊勢(三重県北西部)へ駆け落ちした。

しかし途中で、本妻も邪魔になって斬り殺し京都へ逃げた。

【慶長見聞集】によれば、京へ逃げた石川文吾は【石川五右衛門】と名を変え、伏見野の傍らに大きな屋敷を構えた。
国持ち大名を真似て、槍、長刀、弓、鉄砲を手下に担がせ、街道を我が物顔で闊歩し、
夜な夜な京や伏見に乱入して盗みを働いて諸人を悩ませた。
石川五右衛門は、修行した忍術を使って金のありそうな屋敷へ押し込む、強盗になりさがっていた。

また【豊臣秀吉譜】によれば、窃盗や強盗を繰り返す五右衛門に、豊臣秀吉は京都所司代らに探索を命じて、
石川五右衛門をはじめ、その母や同類、手下など20人を捕縛したと言われる。

さらに【武徳編年集成】などには、石川五右衛門は大名屋敷や金持ちの民家に押し入り、金銀はもちろん、重代の名刀なども盗み出したとある。

一説には、文禄3年(1593)ごろ、石川五右衛門は秀吉の伏見城へ忍び込み、警護の侍を催眠術で眠らせて寝所に近づき、
武野紹鴎が所持し、豊臣秀吉から徳川家康と伝わる事になる名品【千鳥の香炉】
を盗もうとした時、その香炉が高い音を立てて鳴り出し始めた。

豊臣秀吉は寝所で寝ていたが、騒ぎで駆けつけた千石権兵衛(秀久)に羽交い締めにされ、薄田隼人正兼定に縛り上げられた。

128 :名無番長:2015/07/01(水) 01:56:54.38 0.net
なんなんこのスレ

129 :名無番長:2015/07/01(水) 10:43:55.03 0.net
ともあれ石川五右衛門と母、その一味は豊臣秀吉の命令で厳しい探索の末に捕縛され、三条河原で煮殺しとなった。(豊臣秀吉譜)

そこには母となっているが、五右衛門が14歳の時に死んでいるとされているので、妻か同居の女の可能性が大きい。
【山科言経卿記】では、文禄3年8月24日に
「盗人、すりが10人、子供1人が釜で煮られた。同類19人はハリツケ、三条橋南の河原で成敗された」とある。
盗賊の頭や手下は、油の煮えたぎった釜の中に生きたまま沈められた。

この時代、スペイン人のアビラ・ロランが日本に滞在しており、その報告書【日本王国記】で処刑の様子を記していた。
しかし、頭目などの氏名は載っていない。
後日、この報告書を読んだイエズス会の宣教師ペドロ・モレホンが注釈を加え、
油で煮られたのは【石川五右衛門とその家族19人だった】と記した。
ペドロ・モレホンは、京都の修道院長も務めた人で、石川五右衛門の処刑を見ていた可能性はある。

こうした記述から、石川五右衛門は実在した人物であろう事は確かなようだが、
何故、そのような盗賊が義賊として扱われるようになったかは不明だ。

【石川や浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ】
という有名なセリフを詠んで、煮えたぎる油の釜に沈められて処刑された。

130 :名無番長:2015/07/01(水) 11:03:20.77 0.net
■出浦対馬守盛清
(いでうら・つしまのかみ・もりきよ)

・甲州流
・真田氏に仕える
・天文15(1546)〜元和9年(1623)

【対馬守】と称した【出浦氏】の出自は信濃(長野県)の名族、清和源氏の支流で、
埴科郡坂木(長野県坂城町)の葛尾城を拠点とした村上氏の支族といわれる。

村上氏は、村上義清が武将として活躍した頃が全盛期で、東信濃や北信濃、越後の一部を支配するほど、勢力を拡大させていた。
特に北信濃の攻略を狙う甲斐の武田晴信(信玄)と戦い、天文17年(1548)の2月には上田原(長野県上田市)で、
さらに天文19年には支城の戸石城(上田市)攻撃を撃退し、武田信玄に【戸石崩れ】を起こさせて、武田勢に2度も勝利した。

しかし、天文22年4月、村上義清は信玄方に寝返る同盟武将の離反にあい、
葛尾城を放棄、越後の長尾影虎(上杉謙信)を頼って落ちた。

出浦盛清は、村上義清の越後亡命の前後に、武田信玄に仕えたとされている。

【真田家戦功録】によれば、
「対馬は、更級郡上平の城主(出浦城)」とあり、父親の出浦左衛門尉清種の代から武田信玄に仕えていたと思われる。

131 :名無番長:2015/07/01(水) 11:23:29.73 0.net
出浦盛清は【三ツ者】と呼ばれる、武田信玄の忍者集団を統率する武将であった。

出浦盛清の忍法の流儀を甲州流という。
正しくは、甲賀流の流れをくむ支流になるが、
その特徴は、広範囲に及ぶ情報収集で常勝を誇り【足なが坊主】とアダ名された信玄に仕えた忍者なので、
その忍法も、武田流、甲陽流とも呼ばれ、敵の動向をうかがう斥候としていた。

出浦盛清の情報収集活動は、実に慎重であったと言われる。
敵情視察は、武田信玄の命令で開始する時もあったが、
信玄から突然呼び出されて、他国の情勢を軍議の席上で訊かれる場合も多かった。
その時に即答できないようでは忍者として失格で、また忍者を束ねる頭領も務まらない。
そこで盛清は信玄の軍事行動を予測、察知して、配下の忍者を使って、あらかじめ調べておく必要があった。

例えば、伊那郡の攻略が近いとなれば、高遠城(長野県伊那市)に忍び込ませるべく、
足が速くて身の軽い、天井や納戸への潜伏と持久力のある忍者を選び、偵察命令を出して出発させる。
しかし盛清は、その忍者よりも先に高遠城へ忍び込んで、軍勢や将兵の配置、城の弱点などを、かなり調べ上げてしまう。

後日、その任務から帰った忍者から報告を聞き、もしも配下が嘘の報告などをすれば、
自分で調べ上げた証拠を示して、その忍者を見せしめとして成敗したという。

132 :名無番長:2015/07/02(木) 04:07:47.01 0.net
武田信玄が没した後、天正10年(1582)3月には武田勝頼も自刃して、武田家は滅亡した。

信濃一帯は勝者である織田信長の所領となり、同年4月に高井、水内、更級、埴科の四郡を掌握する海津城(長野県長野市松代町)
の城代として、信長からの命を受けた森長可が赴任し、越後の上杉景勝の侵攻に備えた。

しかし、その6月には信長が【本能寺の変】で倒れると、今まで信長になびいていた信濃の諸将は、こぞって長可に反旗を翻した。
森長可は海津城から動けず、主君・信長の弔い合戦にも参戦できない状態であった。

ところが、武田家滅亡後、信長に仕え海津城で森長可の下にいた出浦盛清1人は、森長可に味方した。
森長可は、本貫地(所領地)である美濃金山城(兼山/岐阜県可児市)に帰還するため、50人の人質を盾にして出発したが、
出浦盛清は護衛を申し出て、猿ヶ番場峠(千曲市東筑摩郡麻績村)まで見送り、長可から謝礼として脇差しを賜った。

出浦盛清は信濃にとどまり、天正11年の中頃に真田昌幸に仕える事になったようである。
この年の9月12日付けで真田昌幸が盛清宛に発給した【小県郡武石之内30貫文進置候】という宛行状が出ているからである。

133 :名無番長:2015/07/02(木) 04:31:07.65 0.net
真田昌幸は、主家・武田の滅亡後に小田原の北条氏直の臣属を打診していたが、
一方で織田信長にも高誼を示し、信長没後は再び北条氏直に接近し、
4度目に主家を徳川家康に臣従する事を決め、家康の庇護を受けてながら父祖の地である上田城(長野県上田市)の築城を開始した。

出浦盛清はこの年に仕官しており、38歳という働き盛りであった。
盛清は、真田昌幸の武将として、また真田氏の忍び集団の頭領にもなり、
さらに忍者を養成統率して岩櫃城(いわびつじょう/群馬県吾妻郡東吾妻町)に居住した。
(盛清は、72歳の元和3年(1617)には吾妻郡奉行を務めている)

天正18年(1590)3月になって、豊臣秀吉は、小田原北条氏征伐を発令した。

真田昌幸、信之(信幸)、幸村(繁信)の親子は、
同月上旬に加賀(石川県南部)の前田利家が率いる北陸軍団に合流して碓氷峠に布陣し、
北条氏の属城である大導寺政繁の守る松井田城(群馬県安中市)を攻略し、
北条方の武州忍城(おしじょう/埼玉県行田市)にまで迫っていた。

134 :名無番長:2015/07/02(木) 05:15:53.68 0.net
武州忍城の城主・成田氏長は、小田原の本城に入っていて、忍城は氏長の妻と娘が守っていたが、
大将・石田三成が率いる豊臣軍勢は、2万3千の兵力で、一気に忍城へ襲いかかった。
しかし守りは堅く、なかなか落ちない。

石田三成は作戦を変えて、6月9日から長さ28キロメートルに及ぶ築堤を開始し、
昼夜兼行の工事で、わずか5日で堤防を完成させ。利根川や荒川から水を引き込み、忍城を水攻めにした。

結果的には、小田原本城が陥落して降伏して忍城も開城する事になるが、
水攻めにあいながらも、28日間持ちこたえて豊臣軍に屈しなかった。
出浦盛清は、城内を攪乱させて落城させるべく、忍者を使って火矢を放ち、
将兵の懐柔や放火も狙ったが、それらの謀略も通じなかったという。

大軍である豊臣勢を迎え撃ち、関東で陥落しなかったのは、忍城だけであった。

低地に築城した忍城が持ちこたえたのは、増水や氾濫に備えて城が浮くからと言われており、
忍城は、【浮き城】として名城のひとつとされている。

135 :名無番長:2015/07/02(木) 05:38:13.92 0.net
■小幡勘兵衛景憲
(おばた・かんべえ・かげのり)

・信玄の三ツ者と言われていた
・徳川方に仕える
・元亀3年(1572)〜寛文3年(1663)

小幡勘兵衛景憲は、甲州流軍学の兵学者とされる。
甲州流軍学は、武田流、信玄流、勘助流とも言われ、その大成者として知られる。

甲州流の甲州とは甲斐の事だが、景憲に学び、甲州流軍学の修得に秀でた学者を【甲州流十一哲】と呼ぶ。
その11人の学者のうち、ただ1人に授けられる【唯授一人】という印可副状がある。
それを授けられた山鹿素行は、小幡勘兵衛景憲を武田家の三ツ者(間諜の忍者)と分析していたと言われる。

しかし小幡勘兵衛景憲は、信玄が病死する天正元年(1573)の前年の生まれとされ、信玄に仕えたの三ツ者ではない。
勝頼の時代だとしても、勝頼の自刃と武田家滅亡は天正10年(1582)の3月11日で、この時はまだ11歳であった。

昔は10代半ばで合戦に初陣する場合もあるが、わずか11歳で情報収集の任務をこなせたかは疑問である。

小幡勘兵衛景憲の行動が間諜として語られるのは、元和元年(1615)の大阪夏の陣においてだが、
かつては武田家に仕えていた事から、三ツ者呼ばわりされた可能性がある。

さらに夏の陣の時には、徳川家康方の間諜役になった事で、疑われ続けたのだろう。

136 :名無番長:2015/07/03(金) 03:05:05.91 0.net
小幡勘兵衛景憲の祖父は【小幡虎盛】といい、
武田信玄の父である【武田信虎】に仕えた武将で
その勇猛ぶりから、信虎の虎の1文字を与えられたほどであった。

武田信玄の時代も「鬼虎」と異名をとり恐れられたが、永禄4年(1561)、
第4次川中島の戦い(長野県長野市)の直前に71歳の生涯を閉じた。

家督は、虎盛の嫡男である【小幡豊後守又兵衛昌盛】が継ぐ事になった。
小幡昌盛も父親に負けない勇猛ぶりを発揮した武将であったが、武田勝頼自害の6日前に49歳の生涯を閉じた。
その昌盛の三男が【小幡景憲】である。

武田家が滅亡したので、景憲は11歳で徳川家康に仕える事になるが、
祖父や父親が勇将である事から、勇士の子として、
徳川家康から、後に第二代将軍になる秀忠の小姓に抜擢された。

この時に、秀忠の小姓として過ごしていれば、景憲はかなりの地位まで出世できていたかも知れない。
しかし景憲は、武田家に居た幼年の頃から剣術や軍学へ興味を持っており、ついにはその思いが高じて文禄4年(1595)、
24歳の景憲は、秀忠の小姓の座を投げうって、剣術と軍学の修行の旅に出てしまった。

【本朝武芸小伝】によると、貝原(益軒)の話として「景憲は玄関で髷を切りおとし、駆け落ちした」と記されている。
例え小姓とはいえ、武士たる者が髷を切り落とすのは、かなりの覚悟が伺えるが、
徳川家康は景憲の決意を哀れみ、景憲の行方を探させてみたが、消息は掴めなかった。

137 :名無番長:2015/07/03(金) 03:27:45.10 0.net
その後の景憲は、小野忠明(御子神典膳/伊東一刀斎の弟子)に、
一刀流の剣術を学んだとされ、その修行期間は不明だが、
小野一刀流の系譜に小幡景憲の名前がある事から、ひとかどの修行はしたようである。

また、信玄ゆかりの古戦場を歩き回り、旧武田の多くの家臣達を訪ねて、かつての信玄の軍略を聞き出して、軍学を研究した。
【甲陽軍鑑】は高坂昌信と、その甥の春日惣次郎が執筆したとされているが、
小幡景憲が旅での調査を基に、高坂の名に仮託して完成させたという説もある。

出奔から5年が経った慶長5年(1600)
関ヶ原の戦いが勃発すると、小幡景憲が突然現れて、
家康の重臣・井伊直政の軍勢に加わり、前線で戦功を挙げた。

慶長19年、家康が豊臣家を打倒する為に【大坂冬の陣】を起こすと、
景憲は加賀藩(石川県南部)の第三代当主・前田利常(利家の4男)の軍勢に加わり、
豊臣方の一角、真田信繁が守る真田丸を攻撃した。

冬の陣の後、和睦が成立して休戦になると、徳川方として戦っていた小幡景憲に対し、
豊臣方の重臣である【大野治長】の実弟・治房から冬の陣での武勇を認められ、大坂の豊臣方へ誘われる事になる。

どうやら大野治房は、小幡勘兵衛景憲を戦功目当ての実利的な武将と見て、
徳川の情報を探り出すべく、豊臣方へ誘いをかけたと思われる。

だが、小幡勘兵衛景憲は豊臣へ寝返る気など毛頭なかったようである。

138 :名無番長:2015/07/03(金) 03:51:37.14 0.net
小幡勘兵衛景憲は、徳川家康の武将で京都所司代を務めていた板倉勝重と会い、
事の成行を話して板倉から大坂入城の許可を貰い、大野治房からの誘いに応じた。
そこで城内の動向や作戦などの諜報活動を行い、その詳細を板倉勝重に報告していた。

翌年である元和元年、景憲は【大坂夏の陣】が始まる前に大坂城を抜け出すが
こうした間諜活動が【三ツ者】といわれた原因であろう。

【難波戦記】によると、小幡景憲は大坂の戦いの後になって、

「城中の軍儀で作戦が籠城に決まったのは、自分がそのように説得したからだ。
真田幸村や後藤又兵衛らが腕をふるえないようにしておいたから、徳川方の被害を最小限に出来たのだ」

と、大名や武将達に自分の手柄だと吹聴して回ったらしいが、
実際の景憲は情報収集をする程度で、軍儀に参加できるほどの身分ではなかった。

とにかく、大坂城が陥落すると小幡景憲は徳川家の帰参が許されて、加増もあって1500石の旗本となった。
さらに【甲陽軍鑑】を基本にした、甲州流軍学の体系を整備した業績もあった。

景憲の軍学は、武田信玄の遺法(故人が残した兵法)を基本にしたものだが、
甲州浪人の早川幸豊、広瀬景房、辻盛昌、小宮山昌久、等から聞いて、体系化したと言われる。

また軍配(陣形や展開、指揮方法)などは、岡本宣就、赤沢太郎右衛門から学んだと言われている。

甲州流軍学は、幕府の兵制の模範とされ、大名や旗本などが学んだので【小幡勘兵衛景憲】の名は高まったとされる。

139 :名無番長:2015/07/03(金) 10:00:45.46 0.net
■果心居士(かしんこじ)

果心居士は忍者という訳ではない。
催眠術をかけて人の目を誤魔化し、催眠術をかけられた者に幻覚を見せる【幻術使い】であった。

果心居士という名前も変わっていて、居士という法名まで付けていて、かなりオカルティックな人物のようであった。
果心居士の出自については【遠碧軒記】に記載がある。
「大和の者で、桑山丹波在所の者、高野に住んでいる。
自分の身体を徳利の中に入れたり、高い塔へ縄を投げて登ったり、方々を術をかけて歩いた」

どうやら幼少時代から幻術の覚えがあったようだが【虚実雑談集】や他の書物に幻術にまつわる話が【演出込み】で書かれている。
奈良興福寺の猿沢池に群衆を集めておいて、持っていた木の葉を池に投げ入れ、手で水面を軽く叩いた。
すると水面に小さな波が立ち、次第に大きな波となって、木の葉が鯉になって泳ぎ始めたという。
群衆が驚きの声をあげると、果心居士は何事もなかったかのように、その場を去った。
この場合は、幻術というより手品に近いかも知れない。

そこには、偶然にも果心居士の幻術を見物していた武士がいた。
永禄3年(1560)に大和(奈良県)を平定し、主君・三好長慶から大和一国を与えられ、
眉間山寺に多聞城(奈良県法蓮町)を築城して、そこを居城とした【松永弾正久秀】であった。

松永久秀は、果心居士の不思議な術に興味を持ち、たびたび多聞城に果心居士を呼び寄せて話に興じていた。

140 :名無番長:2015/07/03(金) 10:18:13.61 0.net
果心居士は、幻術使いとされているが、
実際には催眠術や手品、
あるいは薬物等も利用して、術をかけていたのではないかと思われる。

果心居士は、松永久秀に呼ばれて話をしても幻術の種明かしはしなかったようだが、
松永久秀は、国盗りを狙う大名であり、果心居士の幻術を敵の城や城下で披露させ、情報収集をさせていたのかも知れない。

ある日、松永久秀は多聞城を訪れた果心居士に幻術を見たいと頼んだ。
ちょうど夕暮れ時だったが、果心居士が久秀の前から突然姿を消した。
辺りは一層暗くなって、しばらくすると居間の廊下に細身の女性が現れ、その女性は襖を開けて久秀の傍らに近づくと
「今宵は、ほかの女子の所へ行かれますか?」と、弱い声で呟いた。
松永久秀がその顔を見ると、亡くなった久秀の正室であったという。

果心は明智光秀にも呼ばれて、幻術を披露しているが、明智光秀の前に近江八景を出現させ、
その琵琶湖に小舟を浮かべて、それを漕ぎながらゆっくり消えていったと言われる。

松永久秀も明智光秀も、どうやら催眠術で完全に騙されてしまったようだが、
意識に作用する薬物も併用しての催眠術ではないかと思われる。

141 :名無番長:2015/07/03(金) 10:36:53.07 0.net
さらに果心居士は豊臣秀吉の前でも幻術を披露したと言われる。

これは果心居士の評判を聞き付けた豊臣秀吉が招いたらしいが、秀吉からの願いもあり幻術を披露する事になった。

果心居士は、秀吉の側近を一切近づけず、刀や刃物も遠ざけるように頼んだ。
秀吉は言われるままにして、1人部屋に残って何が起きるのかを待った。

やがて部屋が暗くなり、1人の女性が現れたが、秀吉はその女性を見て驚愕した。
かつて在陣の戯れに犯してから斬り捨てた女性であった。
秀吉が自分の胸に秘めていた事であったが、苦しみながら死んでいったその女性の顔を忘れる事はなく、
今その女性が秀吉の前に現れたので、秀吉は恐ろしさに全身が総毛立った。

一介の幻術使いが秀吉の秘事を知り蘇らせた事は驚愕ではあるが、逆に秀吉から危険と怒りを買ってしまい、
「この世のため」という名分から、果心居士を抹殺する命令を出した。

果心居士は縛られて磔柱に乗せられたが処刑の寸前になると、
役人が見ている中でネズミに変身して、縄をすり抜け磔柱の天辺に駆け登った。
役人は驚きもあって何もできずに、ただ眺めていると、天辺に登った果心居士ネズミは、
そこへ空から舞い降りてきた鳶にさらわれて、刑場から消え去ったと言われる。

142 :名無番長:2015/07/03(金) 11:00:20.79 0.net
■唐沢玄番、二代目玄番
(からさわ・げんば)

・真田流
・真田昌幸に仕えた地侍上がりの忍者
・初代玄番、?〜永禄8年(1565)
・二代目玄番、詳細不明

玄番の家系は、越後(新潟県)の上杉謙信方の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)の城主・斎藤憲広の一族とされる。

近くの岩下城の城主となった斎藤幸連の三男・久幸が沢渡(群馬県中之条町)に移り住み、唐沢の姓を称した事に始まる。

斎藤久幸は杢之助とも称したが【初代・唐沢玄番】であった。
【二代目玄番】は、初名を於猿(おさる)といい、一時は久基と称していた。

【加沢記】によると、武田信玄は信濃先方衆の真田幸隆を総大将として、
永禄6年(1563)の9月中旬、斎藤憲広が守る岩櫃城へ2回目となる攻撃を仕掛けている。
唐沢玄番は、この攻防戦の時はまだ斎藤陣営で、大戸口(東吾妻町)を守備する地侍であった。
そこには、後に真田昌幸(幸隆の3男)の配下として活躍した【割田新兵衛】も居た。

143 :名無番長:2015/07/05(日) 05:57:06.20 0.net
真田昌幸も岩櫃城の攻略戦には参加していたが、この頃は甲斐(山梨県)の武田家にあって名家の養子になっていた。

その時は【武藤喜兵衛】を名乗り、攻略戦では武田信玄から命じられて軍監をつとめていた。

真田幸隆が岩櫃城の属城、中之条折田の内山城(仙蔵の城/中之条町)へ攻撃を開始すると、
城代であった杢之助の一族・富沢加賀が降伏し、真田幸隆はこれを許した。
この時、杢之助も降伏し妻と幼い於猿を連れて、八尺原(中之条町上沢渡)に布陣していた真田昌幸の許へ御礼に出向いた。

岩櫃城の方は、真田幸隆の策謀による和睦がまとまり一時的に休戦となったが、
同年10月中旬に真田幸隆の調略で、岩櫃城の重臣や一族を裏切らせて落城させた。
この時から、杢之助は地侍として真田幸隆に仕え、於猿は杢之助の許で修験の修行に励んだ。

岩櫃城が落城した際、斎藤憲広は越後の上杉謙信を頼って亡命したが、
憲広の末っ子の城虎丸の守る支城・嵩山城(中之条五反田)は、まだ健在だった。
嵩山は、本来修験者の修行の場で、城は峻険な岩山の山頂に築かれていた。
永禄8年、幸隆は信玄の命により嵩山城の攻略にとりかかった。

真田幸隆は得意の策略を巡らし、重臣・池田重安を【山田郷百五十貫】で抱き込んでおいてから、11月11日に総攻撃を加えた。
壮絶な攻防の末、城虎丸は天狗の岩に飛び降りて自害し、子供から婦女子までも自決して果てた。

この嵩山合戦で、最も熾烈を極めたのが大手一ノ木戸口付近で、唐沢杢之助と剛敵・早川源蔵が対決し、奮戦の末に討死した。
武田信玄は翌9年に唐沢杢之助の奮戦を讃え【唐沢於猿殿】としたためた感状を与えている。

144 :名無番長:2015/07/06(月) 11:40:53.68 0.net
その於猿こと【二代目・唐沢玄蕃】は、父の跡を継いだ。

二代目・唐沢玄蕃は地侍として、また修験で体得した技を駆使する忍者として、真田幸隆と真田昌幸に仕えた。
【忍び名人】と呼ばれた玄蕃は、特に跳躍術と火薬術に優れていた。

忍法の【跳び六法】という技術は、助走無しで中腰状態から膝を伸ばして、6尺(1.8m)の高さを飛び上がった。
利き脚から踏み出す幅飛びは12尺(3.6m)を飛び越え、
左右と後方へは、9尺(2.7m)を飛んだ。
さらに、40尺(12m)の高さから飛び降りても、着地の音を立てなかったという。

天正年代の初年頃、中山城(吾妻郡高山村)、尻高城(高山村)、白井城(群馬県渋川市)は、上杉謙信方の長尾氏に属しており、
それらの攻略を考えた真田昌幸は玄蕃を呼び、尻高城を焼き落とすように命令を出した。
玄蕃は、仲間の忍者である堀田新兵衛と謀り尻高城へ潜入すると、そこへ火を放ち敵を撹乱して引き上げた。

その後、玄蕃は中山城を落とすべく一人で忍び込んだが、そこには城主の中山安芸守が鼓を打っていて、城中は酒宴の最中だった。
中山安芸守の鼓は百回打っても1度しか音が出ないので、将兵達は【百ひとつ】とその下手さを揶揄した。
夜も更けて兵達が寝入った頃、玄蕃は寝息に呼吸を合わせて、気付かれる事なく納戸に忍び込んだ。
得意の火薬で火を付けようと準備していりと、金色に輝く鐙(あぶみ)を見つけた。
玄蕃は、その金色に輝く見事な造りの鐙を盗み出して岩櫃城に持ち帰ったが、その馬鐙は中山安芸守が、
平井城(群馬県藤岡市)の関東管領【上杉憲政】に出仕した時に授与された貴重なものであった。
【加沢記】には、そんな真田忍者の話が記されている。

145 :名無番長:2015/07/06(月) 11:53:26.23 0.net
真田忍者は、忍び仕事による知行地も多かった。

天正10年(1582)に真田昌幸から17貫文、
天正14年には、渋河(渋川市)のうち百貫文、
天正18年には58貫760文の知行を受けていたと言われる。

二代目・唐沢玄蕃の妻は、吾妻7騎の一人に数えられた地侍【割田勝重】の娘と言われている。
中之条町横尾の長久保には、二代目唐沢玄蕃の記念碑がのこっているが、これは子孫が建てたと思われる。

その後も二代目・唐沢玄蕃は武将として、時には忍者として真田昌幸に仕え、
天正18年の豊臣秀吉による小田原北条氏征伐では、前田軍団の真田昌幸部隊の武将として、
その前哨戦となった松井田城(群馬県安中市松井田町)の攻撃で活躍して戦功をあげている。

146 : ◆NINJA/5jsTPe :2015/07/16(木) 04:41:26.69 0.net
豊臣秀吉が木下藤吉郎を名乗った最後にあたる文書(1573年5月付)が見つかったと兵庫県豊岡市教育委員会が10日、発表した。

従来の研究では木下姓を記した最後の文書は72年12月のもの、羽柴姓になった最初の文書は73年7月のものだったが、今回の文書により改姓時期が73年5〜7月に絞り込めるとしている。

自領の部下に税の取り立てを促す内容で、木下姓で自らの指示を細々と記した文書は少なく、専門家は「大名になる前の秀吉を知るうえで貴重」とする。

市教委によると、文書は浅井長政を討つため北近江(滋賀県北部)に出陣中の秀吉が、尾張と美濃の境(岐阜県笠松町付近)の自領の部下、篠田伝七郎に宛てたとみられる。

理由は不明だが豊岡市出石町の旧家に伝えられていた。
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1436703601/

147 : ◆Ooishi.Nao :2015/07/18(土) 13:38:17.67 0.net
くノ一忍法 乳時雨(ちちしぐれ)
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=xkXu7OSDETw#t=57

尻忍法 里帰り
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=xkXu7OSDETw#t=147

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