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法政大学出身の官房長官が怖すぎだろ

1 :名無しなのに合格:2016/07/11(月) 12:21:23.01 ID:xcL4KtTS.net
http://i.imgur.com/UZqg8Ir.png

2 :名無しなのに合格:2016/07/11(月) 12:26:53.08 ID:YstxIaMk.net
よく似たそっくりさんだろ
本人が朝鮮中央テレビに出演はない

3 :名無しなのに合格:2016/07/11(月) 14:47:48.83 ID:fflIJbAK.net
これ金正日だろ

4 :名無しなのに合格:2016/07/11(月) 15:29:23.91 ID:Sp4u/DqV.net
はい無慈悲な鉄槌

5 :名無しなのに合格:2016/07/13(水) 20:46:57.42 ID:Ss0YFS55.net
校歌の由来

法政大学で一応「校歌」とよばれたものは、大正13年、当時予科の英語の教授だった
為光直経の作詞による「お濠に影うつして」であった。その頃応援団が組織されたが、
この校歌では神宮球場で明治の「白雲なびく」や、早稲田の「都の西北」に、どうも
圧倒されがちだというので、学生全体からもっと力強い校歌が要望されていた。

たまたま昭和4年から5年にかけて「法政スピル運動」が起ったとき、その一環として
新しい校歌作成の声が全学生から叫ばれ、学生の中から委員が選出された。
やがて学生教職員から寄付金も集められ、学生の投票によって作詞は
佐藤春夫(当時の講師)、作曲は近衛秀麿に依頼することに決定、
出来上がったのが現在の「法政おゝわが母校」である。折から近衛は欧州へ
演奏旅行に出発したので、作曲はシベリヤ鉄道の車中でなされたという。

5年秋のリーグ戦で初めて神宮スタンドで歌われたが、そのとき法政大学野球部の初優勝が
成ったのだから、この校歌はまことに幸先のよいスタートを切ったわけである。(霞五郎)
(法政大学 『法政大学八十年史』 昭和36年)

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