2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【Ψじっぷら教育部】「逃げろ」叫べる教師を 津波で娘犠牲…(´じ`)「どうすれば未来ある子供たちを救えるのか」

1 :ぽんちきぽんぽんちき ★:2015/08/21(金) 18:29:42.28 ID:???*.net
「逃げろ」叫べる教師を 津波で娘犠牲…教壇去り新天地


東日本大震災の被災地、宮城県でこの春、一人の中学教師が教壇を去った。
あの日、石巻市内の小学校にいた娘は、津波の犠牲になった。自らを省みて考え続けた。
どうすれば学校は子どもの命を守れるか。
社会全体に問いかけるため、新たな歩みを始めた。

 石巻市釜谷。
壁が崩れた校舎の前で、
佐藤敏郎さん(51)は見学者に語る。

 「みなさんが今、立っている場所は、街でした。学校があって家があった」

 かつての体育館のすぐ裏手にある小高い山を指す。

 「授業でも登ったことがあった。震災時、山をよじ登らせた学校もあったのに、大川小では約50分校庭から動かなかったのです」

 釜谷は北上川の川辺。河口からは約4キロだが、標高1メートル余の低地だ。
あの日、校内に教職員11人と児童がいた。地震は午後2時46分。
屋根まで達した津波で止まったとみられる校舎内の時計の針は「3時37分」。逃げる余裕はあった。

 だが先生の引率で移動を始めたのは津波襲来の直前。
向かった先は山ではなく、橋のたもとの交差点。津波が迫る時、川への接近はむしろ危険だった。
移動中に襲われ、学校近辺で助かった児童は4人。全校で児童74人、教職員10人が犠牲に。
6年生だった佐藤さんの次女、みずほさんは級友とともに亡くなった。

 同じ時、佐藤さんは約10キロ離れた勤務先の女川第一中学校(現女川中)にいた。
生徒とともに高台の学校からさらに坂を上がり、校内での犠牲は免れた。

震災後、いくつかの事実がわかった。助かった教諭は山への避難を口にしていた。
迎えに来た親も避難を呼びかけた。子どもたちにも山へ逃げようとの声があった――。
危機感はあったのに学校が危機に取り残された。悩んだ末、ある考えにたどり着いた。
「学校が子どもの命を守る組織になっていなかった」

 地震の後、大川小の先生たちはおびえる子どもを慰め、寒さをしのごうとたき火の用意も始めたという。

そーす
http://www.asahi.com/articles/ASH7S7S3KH7SUTIL06J.html

2 :Ψ:2015/08/21(金) 18:36:46.73 ID:ftz2pmYN0.net
学校は責任回避の組織ですから
なにかあったら逃げ回る
判断しない決断しない
したら責任を問われるからしない

3 :Ψ:2015/08/21(金) 18:40:20.80 ID:NaENtOHT0.net
地震の後は崩れる可能性があるから山には近づくな!
って常識もあるわけで、
マニュアルで定めとかないと海から4キロもあれば判断に迷うだろうな。

4 :Ψ:2015/08/21(金) 18:46:30.99 ID:hR9zcDz60.net
それが原因で問題があれば責任を取らされるからな
このような社会にしたのは今の大人
何でもかんでも責任追及して行く体勢だろう

5 :Ψ:2015/08/21(金) 20:36:54.23 ID:oYah8cvH0.net
一方、今年7月、台風による大雨で、用水路(ほぼ川)が溢れ、膝上迄の道路冠水でも休校にぜず
女子生徒が溺死した埼玉県立高校

何も教訓が生かされていない

6 :Ψ:2015/08/21(金) 21:48:39.33 ID:1uloEX1Z0.net
大川小は田舎だから特に頭の悪い教師が配置されてるんだよ。

総レス数 6
3 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200