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理不尽すぎる南雲忠一「愚将論」

1 :きつねうどん ★:2018/08/16(木) 21:23:36.23 ID:CAP_USER.net
久野潤(歴史学者、大阪観光大学講師)

 かつてわが国には、若いうちから戦争や軍事のことを語るだけでオタク(右翼?)扱いされる時代があった。筆者も小学生時分から大東亜戦史関係の書籍や雑誌を読みあさり、両親を心配させたものである。そして、千早正隆『連合艦隊始末記』や伊藤正徳『連合艦隊の最後』を読んだ久野少年の率直な感想は、「日本海軍ってスゴい!」である。

 日米開戦から半年間の快進撃、ミッドウェー海戦で大敗した後の奮戦、そして終戦直前に米重巡洋艦「インディアナポリス」撃沈…。なぜ教科書では順当に敗戦したようにしか書いていないのか不可解に思った。同時に、戦った将兵たちに申し訳ない思いが今でもする。

 さて、その中で「日米開戦から半年間の快進撃」と「ミッドウェー海戦後の奮戦」を指揮した提督こそ、南雲忠一中将(戦死後大将)である。昨今大東亜戦争の意義が問い直され、関連ゲームなどの普及で日本海軍が一般にも人気となってきている中でもなお、いわゆる「南雲愚将論」が根強く唱えられている。

 まず、南雲中将の経歴を簡単に見てみよう。明治20(1887)年、現在の米沢市に生まれた南雲中将は、藩校の流れをくむ米沢尋常中学校興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第36期)。191人中5番の成績で卒業し、巡洋艦「宗谷」「日進」「新高」「浅間」「初雲」「霧島」「杉」に乗り組み、第四戦隊参謀、第三特務艦隊参謀、「如月」艦長を務めたのち海軍大学校甲種学生(第18期)を次席卒業した。

 その後も艦隊勤務としては「樅」艦長、第一水雷戦隊参謀、「嵯峨」「宇治」「那珂」艦長、第十一駆逐隊司令、「高雄」「山城」艦長、第一水雷戦隊司令官、第八戦隊司令官、第三戦隊司令官を歴任し、その間軍令部第二課長、海軍水雷学校校長、海軍大学校校長を務めている。

 そして昭和16(1941)年4月、日米開戦を視野に航空戦力の集中運用のため新編された世界史上初の機動部隊である、第一航空艦隊(いわゆる南雲機動部隊)の司令長官となった。

https://ironna.jp/file/w480/h480/3cfb236778b951eb52dc4210e23c0b08.jpg

南雲忠一中将

 ミッドウェー海戦の後も第三艦隊司令長官として引き続き機動部隊を率い、南太平洋海戦で雪辱を果たしたのち佐世保鎮守府司令長官となって開戦後初めて前線を離れた。次いで呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務めたのち昭和19年3月に中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン島に着任し、その陥落に際して同年7月6日に割腹自決を遂げた(享年57)。

 南雲中将が第一航空艦隊司令長官として直接指揮をとった空母機動部隊は、開戦後半年間における主要海空戦(真珠湾攻撃・セイロン沖海戦・ミッドウェー海戦)だけでも敵の戦艦4隻・空母3隻・重巡洋艦2隻をはじめ輸送船その他多数を撃沈した。

 これだけの戦果を挙げた現場指揮官は、後にも先にも日本に存在しない。東はインド洋、南はオーストラリア(ダーウィン空襲)、東はハワイに至るまで縦横無尽、まさに無敵艦隊であったのである。ミッドウェー敗戦後も第三艦隊(再編された機動部隊)司令長官としてガダルカナル島をめぐる南太平洋海戦で勝利し、この時撃沈したアメリカ空母「ホーネット」は、日本空母の艦載機が撃沈した最後の敵軍艦となった。

南雲中将への理不尽な批判
 さて、そんな南雲中将に対する理不尽な批判は政戦両面にわたるが、こと日米戦争の重要局面においては、下記の二つがまず議論になろう。

@ハワイ作戦(昭和16年12月)で真珠湾に対して第二次攻撃(第三波攻撃)を行わなかった
Aミッドウェー海戦(昭和17年6月)という「勝てる戦」で大敗北を喫し、そのせいで戦局が逆転した

 まず@については完全な後知恵に基づいたものであり、奇襲を任務とした作戦についてはあり得ない批判であろう。実際、完全奇襲であった第一波攻撃隊でも9機、敵が体勢を立て直した第二波攻撃では20機の未帰還機を出しており、さらなる強襲を行えばどうなるか。そして真珠湾で攻撃できた相手は戦艦であり、肝心の敵空母が所在不明のまま追加攻撃を行うリスクも高い。

 そもそも日本軍機が敵大型艦を攻撃すること自体が初めてのことであり、浅沈魚雷も徹甲爆弾もこの作戦に合わせて開発された。どれほどの攻撃でどれほど敵艦に対する戦果を挙げられるかも未知数であった。であれば敵戦闘機による反撃を制圧するための飛行場攻撃などを除いては、とにかくまず敵艦攻撃に戦力を振り向けるのが当然であり、ドッグや石油タンクを攻撃しなかったという批判も的外れではないか。

2 :きつねうどん ★:2018/08/16(木) 21:23:57.67 ID:CAP_USER.net
 本来の主目標であった空母が不在であったという誤算を除いては、むしろ南雲機動部隊は予想以上の戦果を挙げたといえる。これは、南雲中将が水雷畑で航空魚雷の攻撃力を重視した結果であると見ることも可能であろう。敵戦艦をほぼすべて撃沈・撃破したという結果を先に立てて逆算するような批判には、悪意さえ感じる。

 後者については、敵空母攻撃のための第二次攻撃隊をミッドウェー島攻撃のために魚雷→爆弾と換装し、その最中に敵空母発見で再びその攻撃のために爆弾→魚雷と換装した二重の兵装転換が焦点となっている。これは@とは逆で、普段は空母6隻で運用されていた南雲機動部隊が、先の珊瑚海海戦に参加した2隻(「瑞鶴」「翔鶴」)を外して4隻(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)でミッドウェー島攻撃(敵戦力無効化)と敵空母撃滅という多重かつ過剰な任務を負わされたという問題がまず存在する。

 一方で皮肉にも、航空兵力の集中運用のため機動部隊を創設した山本五十六連合艦隊司令長官は本海戦では、南雲機動部隊のはるか500キロ後方で戦艦「大和」以下主力艦隊を率いていた。アメリカ側のニミッツ長官も「日本軍が6隻の空母(筆者注:「瑞鶴」「翔鶴」を除いてもなお6隻運用可能であった)、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかった」と回顧している。

 そして双方に共通して、南雲中将と対置されるのが第一航空艦隊で第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)司令官であった山口多聞少将である。ハワイ作戦の際に山口司令官は第二次攻撃を主張し(実際は「第二撃準備完了」と信号を送ったのみ)、ミッドウェー海戦では敵空母発見に際し「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と進言したということをもって、南雲中将ではなく山口少将が機動部隊の指揮官であればミッドウェーは勝てたという議論も盛んである。

 しかしハワイ作戦については前述の通りであり、ミッドウェー海戦については、仮に「直チニ攻撃隊発進」させたとしても直ちに大戦果にはつながらない可能性が高い。

 各空母所属の零戦は同時並行で来襲していた敵機の迎撃に追われていたため、攻撃隊に随伴させる戦闘機がほとんど確保できない状態であったのである。本海戦の直掩(直接掩護)任務の壮絶さについては、拙稿「零戦最後の証言者 原田要の戦争」(『丸』平成28年8月号)を参照されたい。
史実を曲げてまで山口を称賛
 実際、その後「飛龍」より発進した九九艦爆18機/零戦6機の小林隊はそれぞれ13機/3機、九七艦攻10機/零戦6機の友永隊は5機/3機を失っている。アメリカ側のレーダーと、艦載機の半数近くを占める戦闘機による強固な防御に対し、戦闘機の護衛なしの攻撃隊は無力であったであろう。

 極端なものでは、「山口司令官が指揮する『飛龍』『蒼龍』では第二次攻撃隊に、敵空母攻撃のため(兵装転換させずに)魚雷搭載のまま待機させていた」という俗論まで流布されてきた。

 戦後の映画などでもそのように描写されたため誤解されがちだが、実際は「飛龍」「蒼龍」の九七艦攻(魚雷装備可能)は第一次攻撃で出払っており、第二次攻撃用に残っていたのは九九艦爆のみであった。山口司令官が勇将たることに筆者も異存はないが、史実を曲げてまで山口司令官を称賛することには賛同しかねる。そして山口司令官は敵の急降下爆撃による「赤城」「加賀」「蒼龍」3空母炎上を目の当たりにしながら、「飛龍」も同日まったく同様に急降下爆撃を受けて炎上・沈没するのである。

3 :きつねうどん ★:2018/08/16(木) 21:24:02.66 ID:CAP_USER.net
 そして南雲中将が即時出撃よりも各空母格納庫での兵装転換を優先させたため、その最中に第一攻撃隊および直掩戦闘機を飛行甲板から収容できた。そのおかげで、300機以上の艦載機を失いながらも、熟練搭乗員の戦死は「飛龍」72人を別にすれば、「赤城」7人/「加賀」21人「蒼龍」10人で済んだのである(真珠湾攻撃での搭乗員戦死者は54人)。

 もし山口司令官の具申通りに艦載機収容もせずに第二次攻撃隊を発進させていたならば、全機不時着で搭乗員の損失も格段に大きくなっていた可能性が高い。そして、ミッドウェー敗戦後になお敵機動部隊に痛撃を与えるような戦闘は望むべくもなかろう。

 このように、山本長官や山口司令官が高評価を受ける陰で酷評されてきた南雲中将は、自決の直前の訓示の中で「余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす」と述べている(『戦史叢書』)。

 南雲中将の後を継いだ小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊はマリアナ沖海戦でアメリカ機動部隊に一方的な惨敗を喫し、日本の機動部隊は壊滅した。かつて太平洋で無敵を誇った機動部隊の指揮官として、その無念はいかばかりであろうか。少なくとも筆者は後世からの軽率な評論を控え、本年も8月15日に臨んでまずは、連合軍を震撼(しんかん)させた歴戦の指揮官に深甚なる敬意と顕彰の誠を捧げたい。

https://ironna.jp/articles/10463

4 :!omikujiじっぷら15周年ペロペロ仮面type-R :2018/08/17(金) 05:11:36.97 ID:XehCuUB8.net
(@ω@)多聞さんなら
何とかしてくれるお

5 :!omikujiじっぷら15周年ペロペロ仮面type-R :2018/08/17(金) 18:03:05.70 ID:yf9qtgDd.net


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   南雲のせいで
この腰抜けが

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